第2話
「……」
レレムは視線を下に落として、自分の姿を確認する。
くすんだ黄緑の上着に黒いズボン。その上に、焦茶色の大ぶりのコートを羽織っている。胡桃色のウェーブがかかった髪は、ゆるく三つ編みにしてまとめている。この辺りは髪の毛が長い男性も、ちらほらと見かける。そこまで珍しくなかった。
一人で知らない土地を移動するのに、女性姿は危険だった。中性的な顔立ちと、高すぎない声を利用しただけ。レレムにとっては、そうだった。
体感では、七、八割の人にはバレていない。一部、指摘されるところまでいかなくても、違和感を持たれていると感じることは何度かあった。それは全員女性だったから、その辺りの勘は、女性の方が鋭いのかもしれない。
レレムは薄笑いを浮かべて、
「……ご心配には及びませんよ」
と告げた。カルロスは一瞬、眉をひそめたが、すぐにもとの独特な雰囲気に戻った。
「まあ、確かに今更か。似合ってんなあ」
カッカッと笑われて、レレムはなんとも言えない気持ちになった。心配されたかったわけじゃないはずなのに、なぜだか気持ちがすっきりしない。
レレムはその気持ちを紛らわすために、話題を変えることにした。
「そうですか……。そういえば、カルロスさんはどうしてこの街に?」
「ああ、ちょっと探し物があってな」
「へえ、どんなものですか」
「薬の材料だよ」
「薬……」
カルロスがそういったものに手を出すような人間だったとは——とレレムは意外に思った。でもカルロスなら、裏でやっていてもおかしくないかもしれない、そう考え、神妙そうな顔をして聞いていると、
「ちょっと足が腫れちゃってさ。それ専用に塗るクリームでも作ってもらおうって——」
「あっ、そちらの方でしたか」
どうやらただの勘違いだったらしい。カルロス陰謀説は、霧の中に消えていった。
「おい、逆に何を想像してたんだ?」
「いいえ? ただ何か、危ないことでもされるのかなと、思っただけですよ」
カルロスの質問に対して、レレムは微笑みを保ち続ける。カルロスもそれに釣られたように、頬を引きつらせた。
「それは、やって欲しそうな顔だな」
「そんなことありません。大変なことになりそうですから」
咄嗟に否定する。やってほしいかと言われれば、やってもやらなくても構わないけれど、巻き込まれたくはないかな、というのが本音になりそうだった。巻き込まれないのなら、何が起きていようが、あまり気にならない。
会話をしながら、足が腫れたのは、何があったんだろうと考え始める。虫に刺されたのか、それとも皮膚に病原菌がまぎれ込んできたのか。
「まあ、いいか。オレはこう見えて忙しいんだ」
「ああ、そうなんですか」
思考から現実に引き戻される。
カルロスはさっきまでとは打って変わって、急に慌ただしくなり始めた。それにしては結構、長い時間、話したような気がする。でもそれを私が気にしても、仕方ないだろうとレレムは思った。
「じゃあな」
と切り上げて、カルロスは歩き始める。みるみると後ろ姿が小さくなっていった。
カルロスが言った通り、道を歩くと、手紙に書かれてあった古本屋を見つけた。
念の為、コンコンと小さくノックをしてからドアノブに手をかける。
ドアノブは抵抗なく、開いた。
薄暗く、本と埃の匂いが立ち込めてくる。棚に入り切らなかった本は山積みにされ、まるで要塞のような空間だった。
「……」
その独特の雰囲気に、レレムは心惹かれた。
「紹介状」
突然、奥からくぐもった男性の声が聞こえ、レレムはそこを注視した。
男性が、臙脂色の安楽椅子に座っている。眼鏡をかけた男性は、おでこが自然光に反射し、後頭部まで白髪が後退していた。着古した上着にベストという姿に、あまり衣服に頓着しない性格かもしれない、とレレムは判断した。
男性の目の前にあるダークブラウンの机にも、本が積み上がっている。椅子の後ろには窓があって、そこから外の明るさが入ってきていた。部屋のベストポジションに机を置いているのだろう。
「紹介状はあるか」
面倒そうに、もう一度聞かれた。
人よりも本が好きなのに、その世界を邪魔されたと感じているようだった。客が来ているというのに、まだ名残惜しそうに背中を丸め込み、本の字面を追っている。
「ございます、只今」
レレムは手に持っていた封筒を渡そうと、本にぶつからないように気をつけながら、奥の机に近づいた。
「こちらです」
「ダーネスのどこ出身だ?」
発音の癖で、ダーネス人だとわかったのだろう。
下町言葉より、貴族や知識階級の言葉の方が、ダーネス語に近かった。だからこの店主の言葉は聞き取りやすい。
「北東部の田舎ですよ。手紙のリストにある本がございましたら、いただきたいと思いまして」
レレムはいつものように微笑をたたえながら伝える。
店主はしばらく黙り込み、厳しい顔で読んでいた。
その間に、周囲をそれとなく観察する。外国語の本もそこそこあるらしい。そして店主なりの基準でカテゴリー別に分けているようだ。見慣れている言語の本がたくさん入った棚を見つけると、どこか安心感を覚えた。
「ノーヴ、か」
視線を落としたまま、店主はつぶやく。
「あの女は元気か」
事前に聞かされていなかったが、どうやら過去に交流があったらしい。そのことを飲み込むと、レレムはすぐに答えた。
「お元気でいらっしゃると思いますよ。私も3、4年は会っておりませんが」
「私は十年前だ。手紙しかよこさないがな。人をよこしてきたのは今回が初めてだ」
そういった癖なのか、ひきつり気味に笑っている。
知っている名前が出てきたからか、店主の警戒が薄らいだようだった。顔を上げるとレレムを見て、会話する意思を見せた。店主は手紙を持ち上げながら、
「明日だ。リストの本を探すから、明日、また来て欲しい」
と言いながら立ち上がる。それから棚の前に立つと、さっそく一冊を引き抜いた。
「かしこまりました」
また来る必要があるらしい。要件は済ませたし、そろそろお暇しようか……とレレムは思った。
一歩動きかけた瞬間、
「ノーヴとはどういった関係だ?」
と聞かれた。
レレムは事前に決めておいた、一番当たりさわりのない説明を選んだ。
「今度、王都での働き口を紹介されたので、受けることにしたんですよ、たまたまこの町の近くに滞在していたので、ここに立ち寄るよう言われて……長い付き合いです」
そして彼女にとっては、私も駒なのかもしれませんが。そう心の中で付け加える。
そう思いながら仕事を請け負ったことも、部外者には対面的に用意した説明をしていることも、全部予想されているのでは?という疑念が頭をもたげてくる。ノーヴの前には、自由意志などあってないようなもので、全てが彼女の思いのままなのではないのか——。
そこまで思ってから、レレムは「そんなことを考えても仕方がない」と打ち消した。ノーヴの指示はいつも的確だ。だからそれに抗うことは不適切なことになる。
それに従う限り、大きな失敗はない。
「そちらはどのようなご関係で、お知り合いに?」
レレムはそれとなく話題をそらそうとした。店主はその質問を聞くと、過去を思い出すような遠い目をして、苦笑をこぼした。
「紹介状なしできよった」
古書店は、客も店主も、お互いの信用で成り立っている。客は自分の信用している知り合いを紹介する。一見さんはお断りだということだろう。
「一見はお断りだと言ったら、じゃあもう一度来るとおっしゃる」
絶対、そういう問題じゃない……。店主が過去に思っただろうことをレレムも思って、頭を抱えたくなった。
「で、次の日、本が買えないなら、自分の本を見て欲しいときた。気が進まないが、本は本だ。だから受け取って、見てみたら古文書だった」
「……」
「しかもだ、言語が読み取れない。悪いが値段を決めきれないから、うちじゃなくて研究所に売ってくれと伝えといたよ。あんな経験は初めてだ」
「そうだったんですか」
何をどう思ったら、そういう行動に出れるのだろう。彼女は常人よりも頭が切れる代わりに、平気で常識を踏みにじる。そういうところが好きになれないと、レレムは思ってしまう。
「だけどまあ、支払いと情報は確実だから。それにもう十年も前のことだ」
十年も昔なのに、いまだに店主に覚えられるほど、強烈な印象を与えたらしい。結局、売買ができるようになったからいいことなのか……。釈然としないものをレレムは感じた。
話していると、軽快なノック音が外から聞こえた。
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