ウェスタリアの種が芽吹くまで

武内ゆり

第1章 人見知りの心優しい少女

第1話

 花は咲くこと自体で喜びを噛みしめているのに、なぜ人間は自分そのものを素直に喜べないのだろう。


 いや、人間全てがそうだと言うには、そうでない人に申し訳ない。


 なぜ私はそうなのか。


 考えてもわからない。まだ答えを出すには早いのかもしれない。


 道端に咲いているスミレの花を見て、レレムはホッとするものがあった。馴染みのある花が咲いている。自分の住んでいた町とこの場所は、陸続きになってどこかで繋がっている。


 レレムは今、異国の地に足を踏み入れていた。


 人々の喋り声、歩き方、服装。何かが少しずつ違う。


 街並みも違う。家と家の間に隙間はなく、壁を共有してみっしりと家が建っている。


 少し小腹が空いてきたと感じながら、歩き続ける。すぐに、パンの売っている屋台を見つけると、レレムはそこに近づいた。


「あの、すみません」


 声をかけるとエプロン姿の中年の女性が「あ?」と聞いてきた。悪意はないのだろうけれど、ビクッと震えてしまった。


「ここのパンを一ついただけませんか?」


 身振り手振りも交えて説明すると、一応伝わったらしい。女性は早口で金額を告げた。


「ゴマイダヨ」


 その後も何か喋り続けていたけれど、速すぎて聞き取れない。レレムは困ったように笑いかけながら、巾着の財布から銅貨を5枚取り出して渡した。


 女性はそれを見るなり、


「チガウチガウ、これチガウヨあなた」


 屋台の囲みから出てきて、このお金はダメだよ使えない、使いたいんだったらあそこの両替商で交換してもらわないと、という意味のことを言った。


 言われてから始めて、自分が取り出したのがダーネス王国の通貨だったことに気がついた。


「ごめんなさい、間違えましたが持っています」


 形に注意しながら、あまり触り慣れない方の硬貨をすくい上げる。それを手渡すと、ようやくパンが買えた。


 まだ温かみのあるパンの切れ目に、チーズと羊の肉が挟まっていた。近くの座れそうな石垣に腰掛けると、かじりつく。マスタードが入っているとは思わず、ピリリとした辛さにむせかけた。せきこんでいると、通り過ぎる住人が無遠慮にジロジロと見てくる。


 ここに座るのはまずかったかな? でも近くに椅子は見当たらないし、とそれとなく周りを見ながら考えていると、


「あ〜らあ、久しぶりレーサン」


 突然、大声で名前を呼ばれた気がして、ピクッと視線を動かす。けれどもその女性は目の前で通り過ぎていった。呼びかけた女性は、すぐに同年代の女友達と親しげに話し始めた。元気にしてた? 最近どう? 最近はねぇ……。


「……」


 レレムは少し背中を丸めながらパンを食べ切る。最近空耳が多い。


 そしてリュックをしっかり握ると、少しだけ目をつむった。人違いなのに反応しかけたことが、まだ恥ずかしい。


 自分の存在なんか知っている人は少ないというのに。


 こんな知らない街で。しかも自分の名前なんて。


「レレムさん」


ほら、また聞こえてきた。


「レレムさん、おーい、……やっぱり人違いか、ごめんネ」


30代くらいの男性の声だった。クリアな母国語に、とっさに顔を上げる。


「あ、カルロスさん」


 レレムは相手の名前を呼んだ。目の前にいるのが信じられなかった。


「どぅもっ、久しぶり」


 気さくに手をあげて、嬉しそうに歯を見せて笑う。


 日焼けした肌がほんのり赤い。髪の毛は黒く、顔のパーツではエラ張ったあごと、太めの眉毛が目立っている。寝不足なのか目の下にクマが見えた。


 この街の住民と似たような服装をしているけれど、どこかふざけているような、真面目じゃないような雰囲気は、あまり隠せていなかった。


「……幻じゃないですよね?」


 レレムは思わず、そう尋ねてしまった。


「オイオイ、俺を幽霊にしないでくれよ」


 カルロスは親しげにカッカっと笑う。輪郭はぼやけていない。変な色彩も見られない。きちんと影もある。どうやら本物のカルロス・アバスカルのようだった。


 レレムは立ち上がってすぐに、深々と礼をした。


「お見苦しいところをお見せして失礼いたしました」

「いやいやいや、そういうのいいって。ここは異国の地だよな? もっと気楽に行こうよ気楽ぅに」


 照れ隠しなのか、頭をかきながらカルロスは訴える。


 周りと同じようなラフな格好をしているが、見かけに騙されてはいけない。カルロスはダーネス王国アバスカル領の領主の弟だ。どういうわけか、すごくフランクで、「俺、どうもおかたいのが苦手なんだよねぇ〜」とよく言っては脱力している。


 相手の警戒を解くためなのか、単に脱力しているだけなのかはわからないけれど、もしそれが本音だとしたら、多分生まれる場所を間違えてしまったのだろう。


「……かしこまりました」

「いや、そういうのだよ、キミ」


と生身の代わりに空気をひじで小突く。


 そんなこと言われましても、と思いながら、レレムは左右を見渡し始めた。周りにカルロスの家来がいる気配はない。いや、いるのかもしれない。もし関係者がいたら、態度を崩して悪印象を買うのは自分の方だ。


 その反応に、何を探しているのかわかったのか、カルロスは言った。


「あぁ、連れなら今はいないんだ、脱走してきたから」

「えっ……?」


 この人、本気で言っているのだろうか?


 喧嘩沙汰、強盗、誘拐——カルロスぐらいの身分のレベルだったら、身代金を取るだけでも相当な額がつく——という内容を、体感して零コンマ秒で考え終わってから、一体自分は何ということを考えているんだ、と打ち消そうとした。


「そんな、何かあったら……」

「何かあったら部下の命が巻き込まれるだろ? 死ぬ時は俺一人だけでゴメンだぜ」

「ダメです。護衛は必要ですよ。命の値段は人によって違うんです」


 仮に自分が窮地に陥っても——レレムは考える——溝の中に捨てられるのがオチだ。それに比べたら、たとえ本人が望んでいなかったとしても、社会的価値が見込まれる人間というのは存在する。


「オイオイ、夢のないこと言うなあ」


 カルロスは半分笑いながら、明らかに呆れていた。それに少し、申し訳ないかなと思いかけて、そういえば——そもそも脱走しているのはカルロスの方だったという事実を思い出した。


 何があったか知らないけれども、三十にもなって外出理由が脱走なんて、少年の心はいつまで長持ちするものなのだろう。


「ふふ」


 それに、夢のない、と低く評価されているのに、この言葉は悪く感じなかった。


「待て、今のに笑う要素あったか?」

「どうでしょうか。そういえば、行きたいところがあるのですが、カルロスさんはご存知ですか?」


 あったともなかったとも答えず、レレムはリュックから木箱を取り出すと、その蓋を開けた。そこには封筒が何通か入っている。その一つを取り出すと、中を広げて手渡す。


「ここなんですけども……」

「北通り三丁目のY字路の先にある古本屋……知らないけど多分、あそこだろ?」


 カルロスの中ではイメージがついたらしい。すぐに説明を始めた。


「ここから真っ直ぐいって、突き当たりを左に曲がるとY字路に着くんだ。そのまま上を目指せば、つくと思うよ」

「ありがとうございます」


 レレムはにこやかに礼を述べる。


「いいってことよ。あれか? ノーヴの手伝いだとか?」

「そのようなものでしょうか。どちらかというと宿題ですね」


 古本屋から指定図書を購入し、王都ダーネスに到着するまでに読み切ること、と書かれているのだから、宿題と表現してもさしつかえないだろう。


「宿題? へーっ、そんなのがあるのか、大変だな。俺だったらその家庭教師、クビにするか脱走してたな」

「……おそらくそれを実行すると、クビを切られるのは私の方になります」


 冷静なコメントをボソリと添える。


「そんときは雇ってやるよ。脱走仲間なら多い方が楽しいだろ、絶対」


 ふざけているのか本気なのか、どう受け取ればいいのか、いまいちわからなかった。


 行くあてが増えると考えれば、嬉しく思ってもいいのかもしれない。けれど、口約束はあまりあてにならない。少なくともレレムは、あまり当てにしないタイプだった。


「検討させていただきます」


と答えると、カルロスは驚いて目を開いた。それからすぐ笑った。


「今のは冗談で言ったんだぞ」

「ああ、そうでしたか。それは失礼いたしました」


 やっぱり、と心の中で思いながら微笑む。けれども言わなければ、誤解は解決されない。それでもレレムは説明するのが面倒だと思って、この誤解はスルーすることにした。


 けれども、やっぱりそれはよくなかったのかもしれない。カルロスは心配そうな表情を含ませて、


「そんなに真に受けてちゃあ、お嬢ちゃん一人でうろついて大丈夫か?」


少し声を落として語った。


 カルロスの言葉が胸に刺さる。確かに安全かどうかで言えば、人のことは言えないかもしれない。レレムが返す言葉に迷っていると、


「男装しているけど」


 紛れもない事実を、カルロスは付け加えた。

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