時のかたち

ぷくぷく、と、

小さくて可愛げのある音が

耳元をよぎったような気がした。

何だか体が浮かんでいるような

そうではないような。

誰かが笑っているような音にも聞こえる。


ぐらり。

ぐらり。

ゆりかごの中に

いるようにも思える。

真っ暗な中、微かな泡音と揺れ。


曖昧な浮遊感に体を預けていると

不意に自分が目を瞑っていることに

気づいてしまった。


こころ「…。」


まだ、もう少しだけ。

もう少しだけこのままで。

そう思う反面、体は勝手に

瞼を開いていたのだった。

真っ暗な空間だった視界は光を取り入れ、

眩しさが故に少しばかり目を細める。

それからゆっくりと

瞼をひらいていった。


そこは、いつだったろう。

つい最近も見た空間だった。

よくよく見てみれば、

どうやら教室らしい。


規則正しく机は並んでおり、

椅子はきちんとしまわれ、

その全てが前を向いている。

…すなわち、僕の方へと向いていた。

机達の背後には

ぴっちりとロッカーが並べられている。

掃除用具入れだってあった。

ただ、新年度早々だからだろうか、

後ろの黒板には何の張り紙もされていない。

それは、前の黒板も同様らしく、

何月何日かも書かれていなければ

文字という文字が全くなかった。


こころ「……成山ヶ丘じゃ…なさそう。」


正直なところ、学校の床の色や

壁の雰囲気といったところまで

正確に思い出すことはできない。

仮に、たった今学校の床を、

または職場の床を思い出して

何色だったかを答えられる人は

一体何人いるだろう。

そもそも僕はあまり学校に

馴染みがないこともあり、

ここが成山ヶ丘高校じゃないと

断定することができない。


左側には廊下が、右側には窓が見える。

手をグーパーとしてみる。

うん、動く。

足。

持ち上げてみる。

うん、やっぱり動く。

しかも、意識はとてもはっきりとしている。

…僕、起きてる間に

ふらっと別の学校に迷い込んだのかな?

それとも…。


いや、常識的に考えて、

そんなことはないだろう。

人の気配が一切しない教室、

そして学校全体。

耳を澄ましても、人の話し声どころか

鳥の声すら聞こえてこない。

風の音だってしない。


きっとこれは夢だ。

そうだ。

そうに違いない。

あるじゃんね。

やけに感覚がはっきりしてる夢。

明晰夢っていうんだっけ。

今回に限ってはそれなのだろう。


こころ「…よし。」


1歩踏み出してみる。

すると、この教室で初めての

人工的な音が生まれた。

かつん。

静かな壁一面に響いて、

また僕の耳へと辿り着いた。


踏み出した時、あまりの音の大きさに

少しびっくりしてしまったけれど、

怯えることはないだろう、

慣れたように足を動かした。


教室の前方に立つことなんて

ほとんどない。

僕は発表するようなタチではないし

先生に話しかけに行くような

陽気すぎる人間でもない。

側から見たら、先生に話しかけに

いきそうな雰囲気はあるんだろうけど、

そんな感じじゃないよ。

ほら、先生たちの世代は

いろいろとまた時代が違ったから、

僕みたいなやつは扱いづらいでしょ。

だから、変に気を遣わせることが

目に見えているし、

気まずそうな反応をされることだって

わかりきっているから。

…だから。


こころ「あ、綺麗。」


頭の中をぐるぐる回る

ブルーな気持ちは一旦他所に置いていく。

窓際の方まで向かうと、

外には運動場や別の校舎が

何ひとつないことに気づく。

そして、一面に緑や

ところどころにカラフルな花が

咲き乱れていた。

ここの教室はどうやら

3、4階ぐらいの高さにあるらしい。

下の方で、淡い淡い色が

ぽつりぽつりと顔を出している。

この高さから見えるということは、

近くで見たら思っている以上に

大きいのかもしれないな。


…じゃあ、近くまで

行ってみればいいのか。

…。

…。

そう、だよね。

別にここで諦める理由はないか。

だってあの花は近くで見たら

とてもとても可愛いはず。


こころ「さぁてと。」


何となく独り言をいう。

すると、全ての壁が全面で応えてくれる。

その圧に怖気付きそうになりながら

今度は廊下側へと向かった。


そうだ。

ついでにこの校舎

全体も見て回っちゃおうか。

冒険だ冒険。

探検家になった気分。

そう思えば何だか

楽しくなってきちゃって、

足早に扉の前に立った。


花を見たせいかな。

それとも外にはいろいろと

広がってることに気づいたせいかな。

何故だろう、これから何かが

起こりそうな、

はたまた何か…見つけられそうな。

そんな予感がした。


しかし。

がたんっ。


こころ「えっ…!」


その予感は脆くすぐに壊されることとなる。

教室前方の扉は音を鳴らすだけで

開いてはくれなかった。

鍵があり、かしゃんかしゃんと

上下両方とも動かした上で

扉を開こうとしても

全く開いてくれない。

重く、しかし乾いた音を

教室に響かせるだけだった。


こころ「そんな…。」


慌てて教室後方の扉に向かう。

食いかかるようにがたがたと

扉を鳴らすけれど、

音を立てるだけで開いてくれない。

鍵を開閉してもう1度行ってみても

どうにもならない。


どうしよう。

ここから出られないと

わかった瞬間に、

一気に汗が噴き出してくる。

気持ちの悪い、重く服に

吸い付かないような汗だった。


こころ「…っ!」


今度はもう1度窓側へと走る。

机が邪魔で、からんからんと

時折ぶつかって音を鳴らしながら

何とか辿り着く。


慌てて窓の鍵を開いて

窓に手をかける。

もしここも駄目だったらどうしよう。

でも、所詮夢じゃないか。

出れなくったって特に

困ることなんてないのに。

ただ夢から覚めるまでを

待つだけなのに。

夢。


…。

…夢という単語の度、

将来の不安と、あのトンネルの奥の

景色わ思い浮かべてしまう。

そんなことは今は

どうだっていいのに。

頭を数回振り、窓を一気に

開こうとする。


こころ「わっ…っ!?」


すると、今度は

開かないなんてことはなく、

むしろ最も簡単に開いてしまい、

反動で僕自身が吹っ飛ばされかけた。

数歩よろめきながらも、

窓が開いたことに驚愕する。


恐る恐るそ外に

顔を出してみると、

独特な香りがぶわっと立ち込めた。

甘く、脳が溶けそうなほどの

春の香りだった。

もう秋だってのに、

ここはいつまでの春なのだろうか。


やはり下の方には

花が咲いている。

もっと近くで見てみたかったな。

どんな形をしているのか

確認してみたかった。

落ちそうになるくらいに

前のめりになっていたもので、

慌てて体を元に戻す。

そして、これ以上

下を見ることがないように

窓をピシャリと閉めた。


こころ「…。」


壁に背をつけ、そのまま

ずるずると引きずり

体操座りをする。

膝を抱えていると、

何故か寧々さんとのことを思い出した。


彼女が一晩いなくなって、

後悔ないようにとお姉ちゃんから

助言をもらって、

寧々さんを探しに行ったんだ。

その時、犬をぎゅっと

抱いていた寧々さんのことが

どうしても脳裏から離れなかった。

真っ暗な中,汚れた画面を

2人して眺めた

あの時のことが、どうしても。





°°°°°





寧々「…夢を醒させてください。」





°°°°°





あの時。

…どんな決意をもってして

彼女はそれを口にしたのだろう。


少し前にトンネルから出てきた

経験をもってして、

ようやく少しだけわかる。

わかるけれど、僕は。


こころ「…そう言えたらいいな。」


甘い甘い願望を呟いて、

そっと目を閉じた。

ここから出られないのなら、

出れるその時を待つだけ。

夢は醒めなければ

夢じゃなくなっちゃう。

だから、夢になることを願ってー。





***





「あー、こころちゃん!こっちこっちー!」


ふらっと廊下を歩いていると、

不意にそんな元気な声が聞こえてきて

辺りを見渡す。

すると、僕に向かって

手を振っている影を見つけた。

手を挙げて返事をする。

そちらに向かって歩くと、

どうやら見慣れない姿がひとつ。

僕と同じくらいの目線だったもので、

僕が思うのも変だろうけど

高いなあ、と思った。


湊「やほやほ。」


こころ「何々呼んでくれちゃってー。」


湊「いやあ、見つけたら声かけたくなっちゃうっしょー。」


湊ですら身長は平均以上なのに、

僕たちのせいでなんだか

小さく見えてしまう。

隣にいる人とはあまり面識がなく、

さらさらなミディアムくらいの

長さの髪が彼女の頬を

緩やかに撫でていた。


僕がそちらの彼女のほうを

見ていることに気がついたのか、

湊は改まってその人に手を向けた。


湊「ありゃ、はじめまして?こちらはねー、花奏ちゃんっていうんだよ。」


花奏「小津町花奏です。リボンの色的に…同じ学年なんやね。」


湊「そーそー、うちらみんな同い年だかんね!」


こころ「そうなんだ!じゃあ何気にすれ違ってたのかも?僕は三門こころでーす、よろしくね。」


花奏「三門?」


こころ「うん、そーだよー!こころって呼んでね。」


湊「さっきまでね、もうすぐ試験だねー、やだねーって話してたんだよー。どうしたもんかねぇって!」


こころ「うげ、来週だっけ。」


湊「そーそ!どうするよこころさんはよぅ。」


こころ「今期は僕もマズいかも。今から勉強するっきゃないねー。」


そういえばテストとかいうものも

あったなぁなんて思い出す。

さっさと卒業して

テストなんてものとは

おさらばしたいなと思ったり。

でもあるものあるし

逃れることはできないから、

ひとまずやれることをやるしかない。

とはいえ、まあやりたくないものはある。


学校に頻繁には通っていないせいもあり、

勉強はある一種趣味のような、

やりたい時にやるものになっている。

だからこそ、やらなければならない勉強は

あんまり気が進まなかった。

今回は勉強を始めるのが

遅かったせいもあり、

渋々机に齧り付くも

集中できない事態に陥っていた。


湊「でもねでもね、こころちゃんはこう見えて意外と頭いいんだよ?」


花奏「そうなんや!」


こころ「意外とって失礼なー!」


湊「ちなうちはぜーんぶだめ!」


こころ「まあ留年したしね…。」


湊「ちょいちょい、そんな顔しないでおくれよー!」


花奏「でもな、留年してからめちゃくちゃ成績良くなっとるんよ。」


こころ「え、そうなの!?」


湊「えっへん。大体クラス上位だよん。」


こころ「小テストでってことでしょ?」


湊「違う違う、中間とか期末とかでかいテストでっすよー!」


花奏「ほんま、何で留年したんだか。」


湊「枷を外した湊さんは強いのだー!」


花奏「はいはい。調子がよさそうで何よりやわ。」


こころ「すごい、宝くじ当たるよりすごいよ!」


湊「馬鹿にしてもらっちゃ困りますよーん。」


湊は授業中はいっつも寝ていて

課題も出さず、テストも多くを

白紙で提出していたらしい。

だから留年しているんだけど。

やればできるのに勿体無いなんて

思ってしまうのは

流石にずるいか。


湊はふらふらと左右に

緩やかに揺れながら、

手を後ろに組んだ。

何か企んでいそうな顔つきに

微々ながら構えてしまう。


湊「そこでだね、みんなに提案があるのだよー。」


花奏「提案?」


湊「そ!みんな何かと「やばい!」って思う科目があるわけじゃん?んで、それが得意な人もいると。」


こころ「つまり?」


湊「もー、急かさないでよー!まあ、とどのつまり勉強会をしよーよってお誘い!しかも今日の放課後。」


こころ「え、今日!?」


湊「何か予定あった?」


こころ「いや、ないけど…。」


テスト前ということもあり、

前回のバイトを最後に

約2週間お休みをとっていた。

だから、予定という予定は

全くないのだけれど。


湊「じゃあおっけー!花奏ちゃんもいい?」


花奏「うん、ええよ。」


湊「やったね!んじゃあ後で集合場所伝えるねーん!」


予定は全くないけど、

何となく心が引っかかってしまうのは

どうしてなのだろう。

花奏ちゃんっていう

初めましての人がいるからか、

それともただ単に勉強が嫌なのか。

自分の中ではっきりとした

答えが出ないまま、

それでもいいかと息を吐いた。


合法的に早退する理由を

作れなくなってしまい、

面倒な午後の授業は

なんと全部出席した。

その間に雨が降り、

すぐさま止んでいく。


湊からは3人のためだけの、

いえば今日限定であろう

グループに招待され、

集合場所が送られた。

どうやら食堂で勉強するらしい。


ある意味有名な僕と湊に挟まれる

花奏ちゃんの気持ちが知れないな。

よりにもよって人目のつくところだし。

申し訳なさを感じる中、

急いで食堂へと向かった。


食堂に着くと、1番隅の席に

花奏ちゃんが座っているのが見えた。

どうやら時間潰しに

スマホを見るわけでもなく、

ぼうっと近くの大きな窓から

外を見ているよう。

食堂はグラウンドに面しており、

野球部が必死に走って

ボールを追っているのが見えた。

遠くからは吹奏楽部だろう、

ぱー、という楽器の音まで

微かながらに聞こえてくる。


こころ「かーなでっ。」


花奏「わ、びっくりした。」


こころ「あはは、ごめんごめん。早かったんだね。」


花奏「うん。うちのところの先生はいっつも話短いからな。」


こころ「誰セン?」


花奏「八角先生。あの早口な感じの。」


こころ「ああー、わかった。早口は分早いのかなー。」


花奏「あはは、そうかもしれん。」


関西圏の訛りをしているけれど、

性格が穏やかそうだからか

何故かくどくない。

もし湊が関西弁を使っていたら

きっとザ・大阪のおばちゃんといった

こってこて具合になるだろう。

花奏と面と向かうようにして

座ろうかなと考えていた時だった。


湊「ごめそー!」


たたた、と足音が聞こえたと

思った瞬間、

後ろから飛びつかれ

衝撃がとんと走る。

僕がよろめくと、

花奏は反射的に支えようとしたのか

ほんの少しだけ前のめりになって

手を伸ばしかけていた。


花奏「もー、危ないで。」


湊「たははー、急いでたもんでして。」


こころ「いっつも忙しないよねこの子。」


花奏「やっぱりそう思う?」


湊「ちょいちょい、うちだって落ち着いてる時はあるもん!」


こころ「説得力がないんだよーだ!」


湊「酷い!じゃあうち花奏ちゃんの隣もらっちゃうもんねー!」


こころ「あー、ずるーい!」


湊はするすると花奏の隣に座って

せっせと鞄の中を漁りはじめた。

かと思えばすぐに勉強道具を取り出す。

元より対面側に座ろうとしていたのだから

何ら問題はないけれど、

何故か奪われたような微々たる悔しさを

抱えながら正面に座る。


それから教科書を出す間、

湊が自慢げにこっちを見てるのには

ちょっぴりムカつくなあなんて思いながら

机の上に教材を広げた。


湊「今回のテスト範囲広いんだよねー。てんてーの采配ミスだよー。」


こころ「でももう1回1年生してるんだし、結構バフかかってるじゃん!」


湊「まあねん、見たことあるのばっかりだよー。」


花奏「一緒に卒業したかったんやけどな。」


湊「まだまだチャンスはあるよ?」


こころ「ばーか、僕らが留年しない前提で!」


湊「ちぇー。」


こころ「ってか、花奏と湊が仲良いのってなんか意外。」


湊「そ?うちらこう見えて、1年の頃のベストフレンドなんだから!」


こころ「ええー、もっと意外!大丈夫?なんか…こう…餌付けされてない?」


花奏「あはは、湊やないんやし平気や。」


湊「えー、酷いよー心外だよー!」


花奏「でもチョコ渡したらくるやろ?」


湊「もちろん!」


こころ「だめだこりゃ。」


花奏「初めは湊から声かけてくれたんよ。そっからやね。」


湊「だね。高校受験の2時試験…面接だっけ。の時に見かけて、それ以来ずっと追っかけまわしてるの!」


こころ「花奏、迷惑だったらすぐに言ったほうがいいよ…?湊、それでも聞かない時があるくらいだから…。」


湊「ちょ、うちは魔物じゃないよー!」


湊が机を優しく叩く。

とはいえパッと見た感じは

とても力が入っていそうなほど

大振りをかましている。

どうやら叩く前に

力を弱めているようだ。


こころ「そういえば花奏ってどこ出身?」


湊「っぱ気になるよね。方言かわいくって。」


こころ「そうなの!」


花奏「大阪の方に少しおってん。」


こころ「そうなんだ!え、僕も少しだけ住んだことあるよ!実は転勤族でさ。」


湊「おおー、みんな結構引越して生きてきてんだ!」


花奏「いうて2回だけやで。神奈川と大阪を往復しただけやし。」


湊「じゃあこころちゃんは?」


こころ「僕は何回も越したよ。4、5回くらいかな。結構転々としてきた感じ。湊はそういうのないの?」


湊「うちは上京で1回だけ。」


こころ「あれ、湊って上京してたんだ!?」


湊「そうだよーん。あれ、言ってなかったっけ?」


こころ「初耳だよ!留年のイメージが強すぎてさ。どこからきたの?」


湊「それがねー、何とびっくらこいたことにうちも大阪なんだよね。くそがつくほどど田舎だったけど!」


花奏「そうやったんや。」


湊「そー。」


なんだか昔から

仲が良かったみたいに

すいすいと会話が進んでいく。

初めは何か話さなきゃと

話題を探すこともしたけれど、

どうやら湊がいる間は

そこにリソースを割かなくてもいいみたい。


それ以前に、何故か心地がいい。

気を張らなくていいんだって

何となく直感的にわかる。

波長が合うといえばいいのか。

花奏も湊とも長く一緒に

いるわけじゃないから

2人の詳しい性格や特徴までは

把握していない。

でも、湊がいい人だから

自然と花奏もいい人では

あるんだろうなって思う。

他の人が悪いって聞こえてしまうかな。


でも、教室内で

仲良くしてくれる人たちとは

また違った感触があることは

確かだった。


湊「あそーだ、鳩時計って知ってる?」


こころ「えぇ?馬鹿にしてるー?」


湊「じゃあ砂時計は?」


花奏「もちろん知ってんで。」


湊「よしきた。じゃあ泡時計は?」


こころ「何それ、泡時計?」


湊「そうそう、バブルよバブル。」


花奏「弾けるん?」


こころ「え、崩壊しちゃうの?」


湊「のんのん、って言っても詳しくは知らないから何ともいえないんだけど、多分そんなことはないよ。」


こころ「へえー。」


湊「巷ではぽこぽこーって音が鳴るんだと噂されてるんだと……。」


花奏「そんなんがあるんやね。」


こころ「ぽこぽこー…か。」


あれ。

なんだか聞き覚えのあるような。

どこで聞いたんだっけ。

どこかのお店かな。

それとも、理科室にありそうな

水槽の音…とか。


一瞬手を止めた花奏は

またすぐに問題集へと目を向けていて、

湊はペンを手にしたまま

肘をついていた。


湊「これが今の1番の悩み。」


こころ「え?泡時計が存在するってこと?」


湊「んじゃなくてね、泡時計を買おうか迷ってるんだけどさー…。」


花奏「貯金がないとか?」


湊「んーん。なんかね、泡時計って時間がズレるらしいんだよね。」


こころ「あーね。」


湊「3分間測っても、気温や湿度によって変わるみたいでさ、どーしたもんかなーって思って。」


花奏「そんな3分きっちり測りたい時あるかいや。」


湊「うーん…あれ、なくね?」


こころ「あはは、解決しちゃったー。」


湊「まあ、適当でいいよね。細かいところまで気にしすぎちまったよー!」


花奏「うん。適当でええよ。前に湊、世界は広いよーって言ってたやん。」


こころ「世界は広い?」


花奏「そう。世界は広いし、人間の器も大きいみたいな。」


湊「何じゃそりゃ。」


こころ「ちょいちょい本人。」


湊「多分、フィーリング的な話じゃない?海見てたら悩みなんてちっぽけに思える的な?」


こころ「何ひとつわかんないや…。」


湊「へへ、こころくんはまだまだじゃのう、ふぉっふぉっ。…ってか、うちそんなこと言ってたんだ?」


花奏「うん。いっとったで。湊は色んな人と話してるからすぐ忘れちゃうんよ。私、ちゃんと覚えてるもん。」


湊「誰が鶏じゃー!」


こころ「はーいはいはい、勉強するよー。」


湊「はあーい。」


それからも湊はふと思ったことを

口にしてはこの場を

明るくしてくれた。

周りが静かじゃないこともあって、

声を上げて笑っても

あんまり気にならない。

いつからか、食堂という

人の目がつくことだということも

気にならなくなっていった。


それはきっと、この2人のおかげだろう。

これからもこの緩やかな関係が

続けばいいななんて思ってしまう。


ペンを回してみる。

長袖のセーターが目に入る。

どうやらもう秋らしい。


雨が降った後のやや湿気った

グラウンドでは、かこんといい音が

空高く響いていた。

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