3話 帰郷

「あ、おはよう、お兄。久しぶりじゃん? 元気?」


「……?」


 昨日は昼過ぎに実家に着いて、久しぶりに母親の作った日本食を食べた。

 渡米した18歳のまま残されていた自分の部屋に戻ってみると、まるで自分が高校生の頃に戻ったみたいな感覚だった。あれ? 俺はWFCチャンピオンになったんだよな? あれは夢だったのか? そう笑って頬をつねってみると確かな痛みを感じ、どうやらこの世界線が俺にとっての唯一の現実のようで安心した。

 懐かしい自室のベッドでいつの間にかそのまま眠ってしまったようだ。低い天井、かびの匂いと線香の匂いの混じり合った実家の匂い。

 気付くと俺はそのまま15時間ほど眠っていたことになる。


 そして2階の自分の部屋から水を飲もうと1階の台所に下りると、若い女が随分と馴れ馴れしく声を掛けてきたというわけだ。

 やや濃いアイメイクに縁取られた勝気な瞳、意志の強そうな口元、ポニーテールにまとめられた明るい色の髪……一瞬誰だかわからず戸惑うが、俺の脳はすぐに答えを弾き出した。

 妹のしずくだった。純朴な田舎娘だったコイツももう20歳の大学生だ。俺が実家を出たのはコイツが高校生の時だったから、それだけ大人になったということなのだろう。


「ああ……。雫は今日は大学か?」


「うん、1限からだからね。……ね、お兄何とかっていう団体でチャンピオンになったんでしょ? スゴイじゃん!」


「ああ……まあな。一段落したから帰ってきたんだ」


 いかにも情報に疎く、兄のやっていることに興味がなさそうなフリをしているが、雫が俺の情報を逐一追っていることは母親から聞いている。ツンデレの妹に俺はニヤケそうになるのを必死で抑えて、何とかそれに平常心を装って答える。


「じゃあ、今日はパーティーだね!」


「おう、そうだな。ありがとな」


 雫はそこで俺を見てニヤリと笑った。


「ね、真奈美まなみ先輩も呼んでみよっか?」


「は?……」


 不意に雫の口から真奈美という名前が出てきたことに俺は衝撃を受けた。

 どんなに強烈なパンチを食らっても、見えていればそれほど致命的なダメージにはならない。見えない角度、予想していなかったタイミングで食らうパンチこそがKOとなるのだ。

 だが受けたダメージを表情に出さないというのは格闘家にとっての初歩の初歩だ。表情でそれを知らせることほど相手を調子付かせる行為はないからだ。……もちろん今の俺にそれが出来ていたかは心許ないが。


「うん、メールで聞いておくね」


 俺を見つめる雫の顔のニヤニヤが増したことは、そのダメージが悟られたことを示していた。


 品川真奈美しながわまなみ。俺の同級生だった人物だ。

 雫にとっては小学校の部活の先輩にあたる関係性だ。5歳も年が離れているにも関わらず2人に未だに交流があるのは、雫のコミュニケーション能力のなせる業なのか、あるいはこの田舎街のコミュニティの狭さを物語っているのか。

 そして俺にとって真奈美は初恋の相手であり、俺を格闘技にのめり込ませた要因の一つでもあるのだ。




 雫が大学に出て行ったのを見送り、朝飯をのんびりと食べ終えると俺はブラブラと街に出かけた。

 平日午前中の街は、俺のような社会のレールから外れた者には居場所を与えないという意志を鮮明にしていた。

 勤勉に働くために急ぐ人々、あるいは学生。

 少し遅い時間になると小さな子供を連れた主婦が多く見られるようになったが、あまりに平和的過ぎるその光景は明らかに俺を疎外する意志を示していた。


 仕方なく夕方になるのを待って俺は道場に顔を出した。

 幼少期から中学生の頃まで通っていたこの伝統派空手の道場が俺の格闘家としての原点だったのだ。

 事前に電話をして来訪することを伝えていたせいか、道場には多くの門下生の子供たちが集まっていた。

 俺が道場の敷居を跨いだ瞬間、万雷の拍手で迎え入れられたのは、日本に帰ってきて初めての良い意味での誤算だった。俺がこの道場の出身者ということをこの子たちは知っているようだった。どの子も俺を見る目が輝いていた。


(そうだよな! 本当に理解してくれる人がわずかでもいれば、俺が成し遂げたことは意味のあることだよな!)


 尊敬の眼差しがいつの間にか大きな遊び相手を見る目に代わり、年少の子たちが俺の周りを取り囲みキャッキャッとはしゃぎ出した様子を見て、幸せのあまり俺は泣きそうになった。

 ……いやいつから俺はこんな涙もろくなったのだろうか? まだまだこれからだろ!


 師匠はもう60歳を超えたはずだがまだまだ元気そうだった。

 子供の頃の俺にとってはただただひたすら怖く、理不尽な存在として映っていたその姿も今は少し違って見えた。いや、この点に関しては流石に師匠も俺に気を遣ったのだと思う。

 それでも2人きりになった時に師匠は「慢心するなよ」という短い言葉を掛けてくれた。そんなことは百も承知のつもりだったが、それでもその言葉は嬉しかった。

 今のチームには何人もコーチがいるが、師匠と弟子という関係とは違う。どちらかというとお互いプロフェッショナルで対等な関係という方が近い。俺の心に本当に踏み込んで来てくれる師匠のような存在は本当に貴重だということだ。

 俺は改めてそのことをしみじみと感じた。




「お兄、おそ~い~! 何してたのよ!」


 伝えられた家の近所の居酒屋に着くと雫が大きな声で迎えてくれた。


「……悪い悪い、ちょっと道場の子供たちと遊んでたら思っていたよりも時間が経ってた」


 師匠と2人で話した後、すぐそのまま道場を出るつもりだったのだが、急速に懐いてきた子どもたちの練習に軽く付き合っているうちに、あっという間に約束の時間になってしまったというわけだ。


「おっしゃ! じゃあ世界チャンピオンの到着を祝ってもういっちょ乾杯といきますか!」


 大袈裟な声を出して俺の肩を掴んできたのは俺の同級生の相田あいだだった。

 その場には雫だけでなく10人ほどの顔馴染みがそろっていた。俺の同級生や、昔から俺のことを応援してくれている友人たちだ。……そして、いた。品川真奈美も端の方の席でちょこんと座っていた。


「あれ? お前酒とか大丈夫なの?」


 陽気な声を出した後で相田は俺の方を向くと急に声のトーンを落とした。トップアスリートだからアルコールなど飲んでも大丈夫なのか? 節制があるのではないか? ということだろう。


「……バカ、お前! 俺はWFCのチャンピオンになったんだぞ? ここで飲めなかったらいつ飲むんだよ?」


「だよな! だよな!」


 もちろん試合が近付いてきた期間にアルコールを摂取するようなWFC選手はいないし、そもそも俺はさして酒が好きでもないのでそれ以外の期間もほぼほぼ飲まないのだが、流石に今日くらいは良いだろう。

 


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