2話 帰国

 自宅に帰って時間が経つほどに勝利の実感がアドレナリンと共に込み上げてきて、その夜は一睡も出来なかった。


 俺は日本人が誰一人として成し得なかったWFCチャンピオンになったのだ!

 それも日本人には絶対無理だと言われているライト級という階級でだ。もちろん俺がそれを成し得たのは幸運も多分にあるだろう。突き詰めれば才能ほど理不尽なものはない、とも言える。

 だけどそれはそれとして俺も血の滲むような努力を続けてきたのだ。「世界最強の格闘家になる!」そう決めた15歳の時からその決意が揺らぐことは一時もなかった。

 そして俺はそれを実際にやってのけたのである。


 ベッドに潜り込んでからも15歳の俺に誇ってやりたい気持ちが溢れてきた。感動と多幸と苦労の道のりが綯い交ぜないまぜになって溢れてきて、俺は1人ベッドの中で泣いた。

 今までどんな苦しみを味わっても涙を流したことなどなかったけれど……今日くらいは良いだろう? それだけのことを俺は成し遂げたのだ。




 翌朝、俺は一睡も出来ないままロスの空港に向かっていた。

 もちろん眠気など少しも感じなかった。


 搭乗手続きをしてくれた若い女性の空港スタッフが俺のことに気付いたようで、ウインクを送ってくれた。彼女は周囲に俺の存在をアピールしたわけではなく、なるべく目立たないようにそうしたわけだが、目敏い客がそれに気付き人がワラワラと集まってきてはちょっとした騒動になってしまった。

 俺もあまりに普段使いのジャージ姿で、もう少し変装なり何なりしてこれば良かったと後悔したものだ。何せ新聞でも空港のデジタル掲示板でも「新たなWFCチャンピオンは日本人!」という記事が沢山見られたのだ。


 しかしフライト前にそうした軽い騒動があって以降、飛行機内に入ってからは実に静かなものだった。当然俺の存在に気付いている乗客も多少はいただろうが、彼らも機内においては機内のマナーを守ることを優先したのだ。

 おかげで離陸して間もなく俺は久しぶりの深い眠りに落ちていった。自宅のベッドよりも飛行機のシートの方がなぜか落ち着ける気がした。




(……懐かしいな……)


 2年ぶりの日本、そして羽田空港だった。

 去年は連戦のためキャンプ(合宿のような集中した練習の期間のこと)続きで、日本に帰ることなど頭にも浮かばなかった。


(……あれ?)


 空港のゲートを出てすぐ俺は肩透かしを食らったような感覚を覚えた。

 向こうを出国する時は新たなWFCチャンピオンとして気付かれて騒ぎになったし、声を掛けて来ない人間からも好奇と尊敬に似た視線を多く浴びてきた。

 だけど日本の空港はまるで違う。単に他人にほとんど興味がない人間が多いだけなのかもしれないが、俺のことに目を留める人間が1人もいないのだ。

 トイレから出た狭い通路でぶつかりそうになった若い男も、俺の顔を見て舌打ちを一つしていっただけである。

 

(マジか……)


 最初は純粋に驚きが強かったが、次第に状況を受け入れ始めると俺はむしろ楽しくなってきた。アメリカではチャンピオンになる前もWFCファイターということで何かと見られている感覚が強く、当然それは名誉なことでもあるのだが、少し息苦しく感じていたのも事実だからだ。


 だが一瞬の楽しさもすぐに憂慮に変わっていった。

 良いか? 俺はWFCチャンピオンだぞ? 格闘技ファンからすれば大スターだぞ? しかもここは俺の祖国日本だぞ? それなのに俺のことを知っている人間が皆無だというのか? このままでは日本の格闘技の未来はあまりに暗いものではないか? 俺は一体何を成し遂げたというのだろうか?


「あ、あの! 鷹輪ゲイト選手ですよね!?」


 そんな風に気持ちが怒りに傾きかけていた頃、不意に後ろから声を掛けられた。

 大学生くらいの少年だった。メガネをかけ170センチ、50キロといった体格のいかにも大人しそうな少年だった。


「おめでとうございます!! あ、あの……サインもらっても良いですか!?」


 少年は声も手も震えていた。そしてその目には確かな感動が宿っていた。俺が何者であるかを知っている目だ。


「……ああ、もちろん! 写真でも握手でも、何なら肩パンでもチョークでも何でもするよ? ……正直言ってあまりに誰からも声を掛けられなくてね、ちょっと凹んでたんだよ」


「あ、ありがとうございます!……じゃあ、握手もお願いします!」


 少し話をすると少年は一昨日(アメリカからのフライトはもう何週間も前だったかのような感覚だったが)の俺の試合もPPVを買って見ていたとのことだ。少年は5年ほど前から、つまり俺が日本のマイナー団体でデビューした時から俺の試合を追ってくれている、相当な格オタだということだった。


 だが俺と少年との交流を目にしても、空港を通り過ぎる多数の人間どもは誰もそれ以上俺たちに興味を示すことはなかった。

 わかっている。

 薄々気付いていはいたが、それでもどこか日本に戻ってくれば俺は大スターの扱いを受けるのではないか……と希望的観測を抱いていた。そのことを認めないわけにはいかない。

 だがそうではなかった。WFCチャンピオンという世界最高峰に至ったとしても、一般的日本人は俺のことなど知りはしないということだ。MMAというものが日本ではいかにマイナーな競技かということだ。

 ……まあ良い。そんなことで俺の成してきたことの価値が下がるわけではないのだ。




「この街も変わんねぇな……」


 羽田空港から1時間半ほど。慣れ親しんだ駅に降り立つと思わずそう口に出していた。

 それは自分に対する一種のギャグのようなつもりだったが、口に出した瞬間にその言葉は俺を離れて意味を持ってしまったような感覚を覚えた。

 東京の外れ、東京都には属しているが23区内ではない田舎町。……いや、田舎といえば田舎だが、4~50分もあれば都内中心地まで行けるのだからそれほどド田舎ではないのかもしれない。

 ただ俺はこれ以外に比較対象となるような場所で生活した経験が他にない。

 今のアメリカの拠点とは風景が似ている。それほど田舎でもなく、人が多いというほど都会でもない。練習以外特に遊ぶ場所もないような、格闘技に集中するしかない場所だ。こんな場所で育ったから俺も格闘技に専念するしかなかったのかもしれない。


 その日はすぐに実家に帰った。

 25歳になった今もこの家に帰ると俺は子供に戻る。母親は俺の部屋を渡米した18歳当時のまま残してくれていた。

 父親は俺が子供の頃に死んでいる。嫌がる俺を格闘技の道に引きずり込み、のめり込ませ、沼に沈めると一早くこの世から去っていった父親である。


「最強の漢になれ!」


 最後に残したその言葉を素直に受け取ったてしまったがゆえに、俺はここまで生き方を決められてしまったのだ。もちろん今となってはそこに何の後悔もない。



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