第7話:不幸な娘 


 彼女——メイの不幸は今に始まったことではなかった。

 メイはコロトラグル領内の中でも北西にあるタンタル町に住んでいた。父親は仕事で領主様が住む遠い町に出ていて家にいない。母親と弟とメイの三人で暮らしていた。

 一つ目の不幸は、最近になって突然母親が病になり、床に臥せがちになってしまったことだった。近所づきあいや家の仕事を弟と二人で回さないといけなくなり、とても忙しくなった。

 二つ目の不幸は、最近遠くで父親がした仕事が評判が良くないものらしく、領主様の命令でしていた仕事とは言えど、少し居心地が悪いこと。

 三つ目は、まさしく今現在、魔物に追いかけられる羽目になっていたことだった。


 メイはたびたび山に入り、薬の材料となるノウトリ草という薬草を採取して売っていた。瘴気がある場所でしか育たず、様々な用途に使われる非常に有用性の高い薬草だ。

 生活の足しでもあるし、母親の命を繋ぐためにお金が必要だった。山に入る危険は良く知っていたし、ハンターに依頼をしようにも依頼料が高すぎてとてもじゃないが払える額ではなかった。

 ……これはメイが知らないことであるが、無知な子供と足元を見られ、悪意のあるハンターから正規料金からかけ離れた金額を要求されただけである。実際にはハンターという職は対魔物専門家であるため、統括する組織があり、統括組織経由で依頼を出せば、目減りはするものの十分な稼ぎを得られる程度で済んでいた。


 とにかく、メイは不幸なことにより誰も入りたがらない山の中、魔物に襲われる羽目になった。

 メイがノウトリ草を採取しに来たのはこれが初めてではなく、一週間ごとに一回のペースで山に入っていた。その最中に魔物のいない安全なルートを構築していたのだが、なぜかもっと山の上方にいるはずの狼型の魔物がどういうわけか山を下りてきていたため、今回は存在を察知されてしまっていた。

 狼型の魔物はメイをすぐには捕まえはしなかった。メイとしては喜んでいいことなのか苦しむ時間が増えて最悪なのか判別がつかなかったけれど、魔物たちはなぜかメイを追って取り囲もうとするだけで飛び掛かってこない。


 メイはとにかく走った。右も左も関係なく走った。逃げて逃げて逃げて、何よりも追いつかれないように。魔物が本気でメイを捕まえようと思えばすぐ捕まえられる事実だなんて関係なく走った。死にたくないという思いだけでどこまでも行ける気さえした。そんなわけはないのに。


「あっ……」


 限界は唐突に訪れた。魔物が大きく吠えたのに驚いてしまったメイはその場で足を引っかけて転んでしまう。


「ひっ……!」


 立ち上がろうと顔を上げれば、目と鼻の先に狼の顔があった。

 漂うよだれと腐臭、吐き気を催す口臭を感じ取れる距離。いっそ気絶できてしまえばどれほどよかったか、不幸なことにメイは意識をはっきりと保てていてしまった。

 少し周りを見ればもう三頭は倒れたメイを取り囲んでいた。メイの体が恐怖で震え、火でも起こすのかと言わんばかりに歯が激しく打ち付けられる。


「嫌だ嫌だ助けて助けて誰か助けてお願いします神様なんでもしますから――っ!」

『なら助けてあげる』

「え……?」


 天から声が降ってきた。同時に、空から先から根本まで全てが黒く染まった剣が魔物たちに降り注ぐ。

 あれほど恐ろしかった魔物たちが成すすべなく剣に貫かれ、逃げる暇もなく死んでいく。

 メイが上を見上げると、半透明の女の子がメイを見下ろすように浮いていた。透けるような、実際に透けている翠の瞳が真っすぐメイを見下ろしている。

 メイは直感で後悔した。その存在のおぞましさを理解してしまった。危険にさらされていたがゆえに研ぎ澄まされた生存本能が、今すぐ彼女から逃げろと叫んでいた。先ほどまで襲ってきていた魔物なんかよりもよっぽど彼女の方がやばい、と――


『どう? 助かったでしょ』

「は、はひ。助かりました」


 言葉が通じる。機嫌を損ねたらまずいと咄嗟に判断できたのは褒められるべきことだろう。

 メイはちらりと横目で魔物たちの死骸を見た。突き刺さった剣はそのまま、ずたずたに引き裂かれて無残な姿になっている。

 ふわりと浮遊したまま半透明の彼女はメイの目の前まで下りてきた。


『危ないところだったねぇ。これが魔物? 思ったほどではなかったかな』


 まるで魔物を初めて見て、何となく殺してみたみたいな軽い口ぶりが余計にメイの恐怖を煽る。目の前の半透明な女の子の年齢はメイと同じか少し下ぐらいだろうか、二桁に届くか少し超えたかぐらいに見えた。


「た、助けてくださりありがとうございます」

『うん、ごめんね。実は私も身勝手な理由で助けたんだ』


 邪悪。人としての魂が目の前の存在を拒絶している。逃げることも許されない。蛇に睨まれた蛙どころか、既に口の中に――


『だから、恨んでくれていいから』


 過去未来全てにおいて最悪の不幸がメイを飲み込んだ。



「いや、さっむい! 嘘でしょ!」


 シンシアは難なく少女の体を乗っ取り――憑依に成功した。

 シンシアにとって実際にはそうでないにしても、久しぶりに感じる生きた肉体は容赦なく電気信号を走らせ、体の状態を告げる。差し当たっては疲労と転んだ際の怪我の処置をしろと喚いている。

 疲れは少し休めば何とかなる。怪我は別に少し痛む程度で動くのに何も問題はない。残りの問題を解決するために、シンシアは自分の中へと意識を向ける。


 今シンシアが動かしている体には二つの魂が存在している。片方はシンシアの、もう片方はこの体の持ち主の少女の魂だ。魂自体が意志を持っている死霊とは違い、生きた人間の魂はむき出しにされてしまえばひどく脆く、触れてしまえばそのまま崩れて消えてしまいそうだ。

 そんな砂で出来た玩具のような魂をシンシアは少しだけ齧る。魂全体を喰らうのではなく、部分的に、成り代わるために必要なそうな分だけ。少しずつ、少しずつ魂を削り取り、そこからこの体の本来の持ち主についての情報を抜き取っていく。


「ん、とりあえずこのぐらいかな」


 名前はメイ。お母さんと弟との三人暮らし。父親は不在、コロトラグル領領主の元で働いている。生計はまずく、山の薬草を売って生活している。母が病気。最近町で居心地が悪い。

 町に行って疑われない程度の情報を得ると、シンシアは中々取れない疲労の中でため息をついた。


「悪いことしちゃったなぁ。言い訳のしようがない悪いことだよこれ」


 不幸な境遇だと同情した、シンシアほどではないにしても。たった今、本当の意味でシンシアは己の復讐の為に罪の無い善良な人を犠牲にした。

 瘴気の塊であるシンシアを内部に受け入れた時点で生者の肉体はどうしようもなく穢される。魂も一部とは言え食われ、仮に今すぐシンシアが体から抜け出したとしてももう満足な生活は送ることはできないだろう。

 一息入れる。覚悟は出来ていた、誓いも立てた、やると決めていた。だからやった。


 ―—動揺はなし。瞼の裏にお母さんの姿も映らない。なら問題はない。


 ……ひとまず、この動かない体をどうしたものかと、魔物たちの死体の横でシンシアは横たわった。瘴気の剣で魔物たちを殺したせいで、ここら一体が瘴気まみれになってしまった。シンシアの本体には瘴気の影響はないが、肉体はどうかはわからない。腕が唐突に爛れ落ちたりしたら嫌だ。かといって瘴気を使って移動するのも憑依した意味がなくなる。

 どうしたものかと考えていると、シンシアは遠くから人の気配を感じた。一直線にこちらに向かっている人が三人? いや四人。憑依していても死霊としての感覚器が人の感情をきちんととらえてくれていた。


 人がすぐそこまで近づいてきているのを感じながら、この後どうしようかとシンシアは少し考えることにした。

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