第5話:いずれの話

 シンシアには自室が与えられた。部屋にあるものは簡素なものばかり――広さはシンシアが住んでいた家よりも広い――だが、一人で使える空間があるのがありがたかった。

 なぜこんなに広いのか聞いてみれば、この部屋は本来セリウスに支給された部屋であるものの、セリウスは研究室で寝泊まりするため一度も使用したことがない。かといって使わないままなのも勿体ないため、今後はシンシアの好きに使ってよいとのことだ。

 本当にそれでいいのだろうかとシンシアは思うのだが、とにかく、今は一人になれるのが助かった。


 よほど使われていないのか、微かに埃を被っている椅子に腰を下ろし、シンシアは脱力した。

 微かに手が震えている。シンシアは先ほどこの手で、復讐相手と言えど殺したのだ。


「……殺した。私が殺した。殺したんだ」


 天井を仰ぎ見て、左手の甲を額に当て、自分に言い聞かせるように繰り返す。

 復讐のためには何人も人を殺すことになる。理解はできていた。理解しているつもりだった。

 一人殺すだけでシンシアは精神的にかなり疲弊してしまっていた。殺した感覚も、肉を切り裂いた感触も、耳に残る悲鳴も、全て覚えている。

 いっそのこと、次から全てあの衝動に身を任せてしまおうかと考えもした。ただ、それは良くないことが起きるとシンシアは確信している。あの感覚に身を任せ続ければ、いずれ戻ってこれなくなる。衝動に支配されたまま、無差別に人を襲い、恐怖の感情を求めて暴れることになるだろう。


「——違う。殺したんじゃなくて、殺せる。私は、人を殺せる。お母さんに酷いことをした人たちを殺せる、殺せるんだ」


 あまりにも多くの出来事が起きすぎていて、シンシアは限界を迎えていた。

 唐突に全てが始まり、拷問され、処刑され、魔物として蘇り、人を殺した。全てが一連の流れでの出来事で、それまでシンシアが送っていた平和な生活とあまりにも隔絶しすぎていた。

 別にシンシアは復讐を諦めたいわけじゃない。きちんと恨んでいる。酷い目に合わせてやりたい。だが、生まれてから培ってきた価値観がシンシアの行動を非難する。

 復讐相手とは言えど一人殺した。少女を救うため? 彼のせいで母親が死んだから? 関係ない、シンシアが殺したという事実は変わらない。人を、殺した。言い訳もできない、自分の意志で殺した。


 シンシアが追い詰められているのは、ただ人を殺したと言うだけではない。

 殺したことに思ったほど何も感じていないこと、むしろ悲鳴を浴びながら殺したことに心地よさを覚えていたことも一因だった。こちらは死霊の本能によるものだ。


「……“これ”も何なのかよくわからないし」


 これと呼ばれたのは、自身を取り巻く瘴気のことだった。

 意識をすれば出さないことも可能だが、気を抜くとどこからか溢れ出てくる黒い靄。シンシアが少し意識を向けてみれば、自由自在に操ることができる黒い靄。触れたものを腐食させるが、意識してやらなければ割と大丈夫なよくわからない物質。


 強く念じれば、物体の形状を取ることもできる。試しに先ほどと同じく剣を作り出してみた。黒く鋭い剣が宙に生成される。触れてみれば非常に軽く、やはり靄から出来たためだろう。指先で弾いてみれば瞬く間に元の靄に戻った。

 気を紛らわせるために、少しだけ瘴気について調べてみることにした。


 まずは剣以外も作ることができるのか。これは普通に作ることができた。黒色の球が空中に生成され、怪しげに浮かんでいる。ふと、ここで唐突に頭の中に浮かんできたアイデアを実験してみることにした。

 ちょうどよいものがないか部屋の中を見回すと、棚に目的の鍵付きの引き出しを見つけた。瘴気を最小限潜りこませ、形を固める。すると、鍵穴を埋めるように硬質化し、即席の鍵が完成した。シンシアが取り込んだ男の経験では、瘴気ではなく蝋などを用いていたようだが、瘴気でも問題なく同じことができそうだった。

 ここまでやって、鍵を開けるだけならば瘴気で鍵を壊した方が早いことに気が付く。無駄な実験だった。


 同時に幾つまで物体化させられるかの実験では、十個ほど球を生み出したところで飽きて止めた。収穫としては、物体化させるのは意識する必要があるが、維持するのにはそこまで意識を割かなくてもよいこと。一度作ってしまえば放置していても勝手には消えなさそうなこと。元々が靄であるからか、シンシアが意識すれば物体化しても宙に浮いたままにさせられることが分かった。

 次は見えないところでも物体化させられるかの実験。これは距離が離れていなければ可能だった。背中側での物体化、目をつぶっての物体化、毛布を被っての物体化、全て出来た。

 実験の途中で瘴気を浴びた毛布が黒く変色してしまったのが残念だった。シンシアがこれまでの人生で見たことがないような高級品が、部分的にとはいえ無様に朽ちてしまった。


「これ凄い高そうだけど、べ、弁償とか必要なのかな」


 シンシアは当然一文無しである。弁償などできるはずもない。

 現在のシンシアの所属は人間扱いではなく兵器扱いであり、仮に弁償義務が発生したとして管理者責任になるだけではあるがそんなこと当人が知るはずもない。必要とあらばセリウスが研究費と称して幾らでも金銭をかき集めるのだが、シンシアはただ焦るばかりだ。


 実験の最中に破損させた部屋に慌てて二転三転。混乱していた気持ちが少し落ち着いたあと、シンシアは部屋の中に用意されていたベッドに思いっきり横たわった。

 精神の疲弊具合に反し眠気は一切ない。アンデッドとなった肉体は休息を必要としない。精神構造が人間のままのシンシアは酷く歪な存在だった。

 柔らかな寝具に包まれていると、優しい母親の腕の中を思い出す。

 嫌なことがあると受け入れてくれた暖かな腕の中。何にも比べられるほどのない心地よさがあった抱擁の思い出に、シンシアは黒い涙をこぼした。——涙が寝具に垂れると、瘴気に触れたのと同様に触れた部分が朽ち果てる。


 シンシアは考える。あの優しいお母さんは何を考えていたのだろうと。処刑の直前には既に心が壊され瞳に光はなかった。何もかもが空っぽになってしまったような姿が痛ましかった。

 シンシアは復讐をすると決めた。理不尽には理不尽だと怒る権利があるのだと教えてもらったから。心の奥底で渦巻いていた感情がそうしろと叫んでいたから。

 けれども、果たしてお母さんはシンシアが復讐することを望むのだろうか? 本当に優しい人だった。復讐を遂げたとして、よくやったと褒めてくれるとは思えなかった。


 シンシアがやってはいけないことをしてしまった時にしてくれた、悲しそうな顔をしながらそっと抱きしめてくれるだけだろう。何があったのか聞いても答えてくれず、ただただ静かに抱きしめてくれるだけ。

 シンシアはそうされると何をしていいかわからないほど悲しくなり、だからお母さんが嫌がることは二度としないとその都度誓うようになっていた。


 ―—瞼を閉じ、考える。瞼の裏に映るお母さんの姿は悲しげに笑う。どうしたのと聞いてみても、困って眉を下げるだけ。こうなるとシンシアが何をしても困らせてしまうだけ。どうするべきかわからず、まごつくばかり。

 そうしていると、今度は仕方がないとばかりにお母さんが腕を開いてシンシアを招き入れてくれるのだ。いつものことだった。行き場をなくしたシンシアを優しく抱きしめて、行き場のない感情を吐き出させてくれる。何が悪かったのかわかっているでしょと、責めることなく受け入れてくれる。

 シンシアは母の腕の中に飛び込まなかった。瞼の裏の幻影は不思議そうに首をかしげる。


「……ごめんね、お母さん。私、やっぱり許せそうにないや」


 悪いことをしたら優しく教えてくれる。悪いことをしたとわかっているのだと自覚させてくれる。それがシンシアの大好きなお母さんの姿だった。

 今回は違う。シンシアは最初から悪事をすると決めて悪事を働く。興味本位のいたずらではすまない、憎むべき誰かを不幸どころでは済まないところまで引きずり落とす。その過程で関係のない人、シンシアたちみたいに何の罪もなく暮らしていただけの人も不幸にするかもしれない。


 ―—これは覚悟。復讐のために、全てを顧みない覚悟。私のせいで誰も彼もが不幸になる。誰も幸せになんかなれやしない。復讐を終えてもお母さんは変えってこない。それでもやらずにはいられない。

 シンシアははっきりと瞼の裏側にいる母親に誓う。


「私はそっちには行けない。これから悪いことをするの」


 瞼の裏のお母さんは心の底から不思議そうな表情を浮かべている。そんなことをできる子じゃない――心の底からそう信じてくれている表情だ。


「私は人を殺すよ。お母さんと私を殺した奴らに復讐するよ。きっとお母さんは嫌がるだろうけれど、どうしても胸の奥が収まらないの。収め方が他にわからないの」


 疑問から心配へと瞳に宿した色が変わる。本当に大丈夫なのか、無理していないのか案じてくれている。


「さようなら、お母さん。いつかきっと最後まで終われば、お母さんのお墓を作って、その前でまた報告させてもらうね」


 瞼の裏のお母さんが静かに薄れて消えていく。その顔は最後まで――

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