第一章 私たちの復讐を

第1話:言葉にしてしまえば

『個体A変化なし、引き続き観察します』

『Bも同様、観察継続』

『Cは……反応あります! 主任! 主任を呼べ!』


 どこか遠い場所で話し声が聞こえる気がした。


『反応はどうだ』

『C、半覚醒状態にあります』

『ついに……っ!』

『血筋による影響が高いという仮説は正しかったのですね!』


 うるさい。静かにしてほしいとシンシアは思った。


『その仮説ならばBも――』

『いや、Cと比較しては流石に劣る――』

『優秀な検体を入手できたのは運が良い――』


 もう放っておいてほしい。起こさないでほしい。


『個体C、覚醒します!』


 シンシアは叫んだ。今更何なのか、と。



 ガラスの向こう側から何人もの人がシンシアを見ていた。彼らの服装は見慣れぬもので、シンシアはかろうじて異国の人物の装いがそういう風であることを知っていた。少なくとも近所でこんな格好をしている人物がいれば、頭について二度と離れなかったことだろう。

 シンシアは目覚めたが、意識がまだ朦朧としている。右手で一度目を擦ろうとして初めて、自分がどういう状況なのかを把握した。

 目を擦ろうとあげようとした右腕は鎖に繋がれており、胸の高さまでは上がるがそれ以上動かせない。左腕も両足にも鎖が付いていた。身動きするたびにガシャリと金属音が鳴り響く。


「なに、これ」


 シンシアは咄嗟にあたりを見回した。あまりの辛さにおかしくなってしまったのかと思ったけれど、何かがおかしい。

 捕まった後、冷たい牢屋に入れられた。けれど、ここは違う。あの牢屋じゃない。確かに鎖には繋がれているが、枷の内側に身動きするだけで皮膚を割く棘が付いているわけでもなかった。

 目の前にあるのは鉄の檻ではなく透明な壁。その向こうにいるのは嫌な感じに笑う兵士たちではなく、こちらを見て純粋な喜びに騒ぎまわっている異国の人々。

 透明な壁越しにも彼らの声は聞こえてくる。ただ、シンシアにはその言葉の意味が分からなかった。聞きなれない言葉、知らない単語。喜んでいることだけがわかる。


「あなたたちは誰。ここはどこ、お母さんは……っ!」


 お母さん。その単語でシンシアは思い出す。

 狂った人々、死んだように動かない母親の姿、飛び交う石、罵声、罵声、罵声。

 ちかちかと目の前が点滅する。罵声を浴びせてきた人々と、目の前で騒ぐ人々の姿が重なる。


「なんで、どうして……」


 シンシアの視界がゆがむ。母親最後の姿、優しくて暖かったものが失われ切った眼差しが目の前に浮かぶ。殺される間際になってもなお動かない、心を壊されてしまった母親の姿を。


「なんでっ!」


 感情を処理しきれずに思わず叫んだ。その一声で透明な壁が粉々に弾け飛ぶ。

 シンシアの動きを縛っていた鎖が黒ずみ朽ちていく。余波で何人かが呼吸もままならなくなり地面に崩れ落ちる。

 縛るものがなくなり、シンシアはその場で立ち上がった。

 どうして喜べる? あんなに優しい人だったのに、あんなに暖かい人だったのに。なんであんな酷いことができる? なんで私たちはあんなに苦しかったのに喜べる? どうして? どうして? どうして?

 シンシアは感情の溢れるままに一歩前に踏み出した。それだけで倒れる人が増える。また一歩踏み出した。また倒れる。倒れている人たちから恐怖と困惑が伝わってくる。


「シンシア嬢、そこまでにしてくださいませんか」

「誰……?」

「そこにいるのは私の部下、替えの効かぬ大事な人材なのです。貴女の今後にも必ずや役に立つことでしょう、どうか殺さず見逃してください」


 シンシアに声をかけたのは白衣に身を包んだ老紳士だった。

 倒れている人々が老紳士を見て、シンシアにはわからぬ言葉を放つ。


「私はセリウス。あなた方が帝国と呼ぶ、大ガルドルディア帝国の特殊兵団開発部門の主任研究員です」

「てい、こく?」

「ええ。まことに勝手ながら貴女様の死体をかの国より持ち去り、使わせていただきました」


 帝国、それはまさしく知りもしない父親が内通したと言われていた敵国だった。


「あなたたちのせいで……っ!」

「お怒りになるのはもっともかと、しかし、どうか我々の話を聞いてください。話を聞いたうえで私を殺したければ、ええ、どうぞ。この老骨の首でよければ差し上げましょう」


 シンシアは真正面からセリウスの顔を見る。セリウスは何も表情を変えていない。

 ——嘘じゃない。直感なのかなぜなのか、シンシアにはわかってしまった。

 目の前のセリウスという人物はシンシアに対して何も思っていない。騙すつもりもなければ、口では庇ってる倒れている人々に対しても特に何か思っていない。こういえばシンシアに好印象だろうという言葉を、その意図を隠すこと言っているだけ。


「……わかった」


 ちょっと足元の人たちが可哀そうになり、シンシアは少しだけ冷静になった。

 不思議なことに、シンシアが怒るのをやめた途端に足元の人たちが苦しまなくなった。それまでは首を絞められていたのが、唐突に開放されたかのような動きをしている。

 シンシアはどこに行こうか少し周りを見渡し、付近の乱雑さに居心地が悪くなり、最終的に元々いた透明な板で区切られていた牢屋の区画に座りこんだ。

 そっと首元に指本を這わせる。微かに凹凸があるのがわかる。それが何なのかも。


「私、死んだんじゃないの。なんでここにいるの」

「それは我々の研究内容の説明が必要になりますね。我々は帝国における新兵種を開発しているチームでして。つきましては、シンシア嬢は戦争、というものについてどこまでご存じですか?」

「いっぱいの人と人が戦う」

「その認識があれば大丈夫でしょう。戦争とは所詮大量の人と人による殺し合い。戦争の本質は物量戦です。多くの人のために食料と水がいる、衣服も住む場所もいる。それらの物資を運ぶための駄載獣もいる。その駄載獣を動かすための食料と水がいる。戦いで人が死ねばその都度遺族に見舞金。わかっていただけますか? 戦争とは一個人では考えもつかないほどの浪費家で、兵とは金食い虫の温床なわけです」


 シンシアはただただ目の前の人物セリウスが気味悪く感じていた。

 言葉の節々が劇場的で大げさなのに、本人は通りすがりの挨拶を交わすかのような精神で語っている。人が死ぬ話を当然のように語っている。


「そこで、水も食料も必要とせず、全てを自給自足で賄える兵士がいれば、と考えるわけです。補給の手間、倒された後の処理、そもそもの量の調達方法にも悩まないで済む夢のような兵士がいるとすれば何なのか。その答えが――貴女ですよ、シンシア嬢」


 唐突に指名されてシンシアは体がビクついてしまう。怖いとかではなく、単純に気味が悪い。


「死体から生まれ、敵兵を殺すことで動作維持できる兵がいれば? 殺せば殺すほど増殖し、殺されても損失がない。夢のようではないですか! もしそんな兵が存在すれば、無限の兵が地表を埋め尽くし、全ての敵を薙ぎ払い、やがてこの地全てを統べることすら可能となるでしょう! いいや、そのようなことができる者こそが統べるにふさわしい!」

「……」

「おおっと! そんな蔑むような眼で見ないでください。私は極めて真面目な話をしてますので。貴女にとっても無関係ではないのですよシンシア嬢」


 シンシアは『変な人について行っては駄目』という母親の言葉を噛みしめていた。きっとこういう人のことを変な人として言っていたんだろうなとセリウスのことを見ていた。

 流石にそこまで露骨に変な人として見られるのは気に障ったのか、セリウスは大きく咳ばらいをし、誤魔化すように他の人へ指示を出してから、再びシンシアと向き合った。


「シンシア嬢、貴女の境遇には同情致しますとも。全く関係のない、それどころか、大本から偽りの罪であそこまでの悲劇を被ったのですから」

「あなた達が私のお父さんを手伝ったからでしょ」

「違いますよ、シンシア嬢。それは違う」


 それは違う? 何が違うのかシンシアにはわからない。顔も名前も知らない父親があなた達に手を貸したから、私とお母さんはあんな目にあったんじゃないのかと

 セリウスは勝ち誇ったように歪に笑う。


「貴女の御父上は我々と共謀などしておりませんでした。むしろ、我々の諜報網を幾つも潰してくれた強敵だったのですよ。どうやって暗殺しようか、我らが帝国で話題が尽きたことはないほどに祖国思いの優れた男でした」

「なに、それ……」


 セリウスの笑みが深くなる。

 だってそうだ。シンシアはその言葉を聞いてはいけなかった。その意味が分からないほど、シンシアは愚鈍ではいられなかった。


「全くの無実無根。貴女と母君、父君は全て無実の罪にて殺されたのです」

「嘘、そんなのは嘘っ!」

「申し訳ありませんが、本当ですよ。何せ、私のところまで諜報部門の怒りと歓喜の声が聞こえてきましたからね。我々からすれば、敵国が勝手に弱くなってくれたのですから万々歳、面子を潰されたまま終わってしまって怒髪天と言ったところでしょうか」

「そんなわけない、だって、なら、だって」


 シンシアは頭を抱え、その場で小さく蹲る。シンシアはとても苦しかったのだ。とても酷い目に合わされたのだ。痛かったし暑かったし苦しかったし思い出すのも嫌な思いを考えたくないほど多くされたのだ。それらが全て……間違いだった? あり得ていい話ではないだろう。

 シンシアの母親もひどい目に合った。シンシアはあの虚ろな瞳なら幾らでも思い出せる。あの綺麗な目が、あの暖かな目が、あそこまで冷たい目になってしまった。


「——同じ目に合わせてやりたくはないですか」

「……えっ?」

「貴女と母君を酷い目に合わせた人々に、貴女たちを陥れた元凶に、仕返しをしたくはありませんか? ずるいとは思いませんか、貴女たちはあんなに酷い目に合ったのに、酷いことをした側は幸せそうに暮らしているのですよ」


 我が意を得たりとセリウスが笑っている。悪魔のような残酷で、けれどもシンシアからすれば救いの手を差し伸べる天使のような――


「お母さんは、やられても同じことをやり返しては駄目だって――」

「そのお母さんはどうなりました? 彼女は確かに心優しく清らかな人物だったのでしょう。素晴らしい人物だったに違いありません。私はお会いしたことはありませんが、シンシア嬢を見ていればわかる。慈愛に溢れた方だったと断言できます。……それで、彼女はどうなりましたか? 救われていましたか?」

「ちがっ! だってそれは――」

「何も違うことはありませんよ。ええ、彼女は正しいことを言ってました。ですが、正しさは彼女を救ってはくれなかったみたいですね」


 今度は一転して冷たく見下ろすような視線。

 シンシアはそれが『お前が間違えたから母親は死んだ』と責められているように感じ、視線から逃げるように壁沿いにセリウスから遠ざかろうとずり動く。当然セリウスはシンシアから視線を外すことはない。どこまでも冷たく視線が追いかけていく。


「ちがっ、違うの。ああ、ああああっ!」


 どうすれば良かったのか。何かできることがあったのか。本当は助けられたんじゃないのか。シンシアの頭の中では様々な考えが浮かんでは、シンシア自身を突き刺していく。


「許せますか? 貴女から、貴女達から幸せを全て何もかも根こそぎ奪った輩が、もしここで貴女にごめんなさいと謝ったとして貴女は本当に許せますか? 貴女の母君によれば、許すべきということになりますがね?」

「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」

「許せないですよね? そうですよね? そうですとも! 何を許す必要があるというのか、幸せを奪っておきながら幸せを謳歌している盗人風情が何をぬけぬけとほざくものか!」


 セリウスはシンシアの頭を掴み、無理やり顔を上げさせる。

 少し動けばぶつかってしまいそうなほどの近距離でセリウスの歪んだ瞳がシンシアの瞳を正面から射貫く。


「——その感情を、恨みというのです。その怒りを憎悪というのです」

「うら、み……」

「ええ、ええ! その感情は、その憎しみは、抱いて当然のものだ。理不尽に理不尽だと憤る権利が貴女にはある。世界は間違っていたと叫ぶ権利が貴女にはある」

「とう、ぜん?」

「ええ、ええ! 貴女は間違っていない。間違っているのは――」


 ——世界の方だ。

 その時、シンシアの中で何かが綺麗に当てはまった音がした。これまでの優しい母の元で培った価値観が邪魔をしていた、胸の奥底でわかだまっていた感情の名前を知ってしまった。胸の奥で燻っていた怒りを形にされてしまった。決してやってはいけないことだと理解していたことを肯定されてしまった。

 憎しみを、誰かを恨むことを、肯定されてしまった。


「人道に反する!? 大変結構! もはや貴女は人ですらない! ならば、どうして人の世の道理にその意を左右される必要があるというのか!?」


 セリウスは既にシンシアの頭から手を放し、シンシアは重力に従うままにその場に膝をつく。


「その憎しみを、その憤怒を、その無念を、晴らすことをなんと呼ぶかもご存じですか、シンシア嬢」

「……それは、なに」

「人はそれを“復讐”と呼ぶのです」


 シンシアの心に、感情に、名前が生じてしまった瞬間だった。

 シンシアがふらりと力なく立ち上がる。


「そっか。そうなんだ。そういうことなんだ」


 シンシアはそのまま視線だけで周囲の様子を確認する。

 満足そうに笑っているセリウス、恐怖の表情でこちらの様子を伺っている誰か、散らばったままになっている透明な欠片、余波で砕けた机や椅子。


「許せるかって? そんなの許せない、許せるはずがないよ……っ!」


 シンシアの足元から黒い靄が湧き出る。その靄は徐々に広がり、触れたものを朽ちさせていく。


「お母さんは優しい人だった、そのお母さんをあんな目に合わせて、あんな風にして! どうしてそれでも許せって言うの。苦しい、苦しいよ、つらいよ」


 シンシアはこれまで一切したこともないような鋭い視線でセリウスをにらみつける。今度は自分から、そして正面から。その圧は既に人知のものではなく、セリウスの周囲にいただけの人々が威圧されよろめき後ろに引いた。

 セリウスの笑みは変わらない。黒い靄は既に彼らの足元まで届き、焼けるような臭いが漂い始めていた。


「もし、もし復讐が終われば、この痛みが、この辛さが和らぐの?」

「約束はできませんね。私は復讐をしたことはないので、実際にどうなるかを語ることはできません」

「なら、復讐には何の意味があるの」

「これは一般論ですが――死者へのはなむけにすることが多いそうですよ」


 セリウスの回答に、思わずシンシアは笑ってしまった。


「お母さんが自分を殺した人たちを供えられて喜ぶはずないよ」

「そうでしたか。ならば、自らの間違いを突き付けてやるという題目ならば如何でしか?」

「あぁ……そっか。そう、だよね。間違ってるんだ、間違いなんだ」


 ゆっくりと、朝の陽ざしを受けて花開くように、シンシアは一瞬だけ微笑んだ。


「その体で、この苦しみで! お母さんを殺したことを間違いだって刻み付けてやる!」


 もはや動いていない心臓を抑え、シンシアは世界に吠えた。

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