地を這い飲み込め私の怨嗟
パンドラ
Prologue
Prologue:狂乱の起こり
人の群れ、正義による狂乱、嗜虐の愉悦。その広場はあまりにも狂った熱気に包まれていた。
売国奴が死んだのだと。売国奴の家族も殺すのだと、盲目な愛国者たちが処刑場で騒いでいる。
国のためだと正義のためだとお題目を乗せて、哀れな罪人に石が飛ぶ。
本日この場で処刑されるのは母と娘の親子二人組。捕らえられてから散々な目に合ったのか、すでに二人とも正気を保ってはいなかった。虚ろな瞳は石に当たろうとも焦点が合うことはなく、何も起きない安心感と不快感からまた石が飛ぶ。
娘には、なぜこうなったのかわからなかった。聞くには顔も知らぬ父親が国を裏切ったのだと、他国の間者を招き入れたのだと言っていた。知らぬ話だった。父親の事など知らぬ、生まれてこの方、母と二人で暮らしてきた――
悲劇が行われる少し前。
レイヴアイア王国の果てにあるザトラムールと呼ばれる町の外れにある家に彼女たちはいた。
「シンシア」
「なぁにお母さん」
「ちょっとお使いに行ってきてくれないかしら。東門近くのカーラさんのところまで」
「わかった!」
小さな家で親子が慎ましく暮らしていた。母親は日がな些細な仕事により生活の糧を得て、娘は家事を行うなど母を細やかに助けて生きてきた。
父親の姿はどこにもない。見る人が母親の姿を見れば、そのおおよその理由を知ることができるだろう。市井に身を落としたとしても、生まれながらに身に着けてきた気品はそう消せるものではないのだから。
娘の目にも父親の名残がある。娘は母譲りの黄金の髪に、特定の血族が持つ翠色の瞳を持っていた。金の髪は珍しくはないが決してありふれたものでもない、ただ市井に翠の目を持つ人はどこにもいなかった。
そんな親子だったが、町に住む人は彼女たちの穏やかで清らかな気質を知っており、不要な詮索をすることもなく受け入れていた。
——この日までは。
娘がお使いのための籠を受け取り、町中をご機嫌に駆けていく。
きっと何か良いことがあると思わせるような素晴らしい天気の日だった。
娘はお使いの途中、見知らぬ人たちとすれ違ったことすら気づかずに、ご機嫌に道を駆けていった。彼らが向かう先は侘しい住宅ばかりが立ち並ぶ区画、用事がなければ町の人すら近づかない区画、普段町で見ない人たちが向かうはずもないのに。
娘が足を進めるごとに町の騒めきが大きくなる。元から活気がある町だった。けれども、町を行く人々の目にあるのはそのような感情ではなく――焦り、不信、恐怖。幼い純粋な娘子に感じ取れるのは、何かあったのかという思いだけ。それも、母に頼まれたお使いを止めるほどの事には感じていなかった。
騒めきが町中に響き渡る中、娘は目的地にたどり着く。
「カーラさんカーラさん、いますか、カーラさん」
娘は家の戸を叩きながら相手の名前を呼んだ。
やや時間をおいて、勢いよく扉が開かれた。
「シンシアちゃん!? どうしてここに」
「お母さんからお使い頼まれたの。これをカーラさんにって」
驚愕の表情を浮かべたまま応答したカーラに、娘は母親からの頼まれごとを無事に達成したという喜びから笑顔を浮かべたまま籠を手渡した。
籠には布が掛けられており、カーラが布をずらして中身を見てみると、これまたその中身に驚愕させられた。
「……シンシアちゃん、中に入って」
「え? でも、お使いが終わったらお母さんのところに戻らないと」
「持ってきてくれた籠の中にお母さんからの伝言があったのさ。ちょっと忙しくなるから、うちでシンシアちゃんを少し預かってほしいってね」
「うーん……? わかりました」
どうしてお使いに出るときに一緒に言われなかったのかと娘は疑問に思ったが、カーラは親子にとってとてもお世話になっている人だったため、嘘を言っているとは思わなかった。
きっと大変なお母さんが忙しすぎていうのを忘れてしまったのだろうと、娘は思うことにした。
何はともあれ、母親がカーラのところに滞在するように言っていたのなら、娘は反対する気はなかった。カーラの家はいろいろなものがあって面白いし、何よりも味こそ母親の手料理には劣るものの、普段よりも豪華な食べ物をごちそうしてくれることがあるから嫌いじゃなかった。
「シンシアちゃん、おやつを用意するから先に二階のいつもの部屋に行っててくれるかい?」
「わかりましたカーラさん!」
おやつと聞いて、一早く娘は駆けだした。
残されたカーラは、娘には見せないようにしていた籠を机の上において、中身を改めた。
そこには藁に包まれている状態でカーラに宛てられた手紙と、娘シンシアの身分を証明するための指輪が入れられていた。手紙はシンシアの母親が二度と使わないと誓ったはずの家紋で封蝋がなされていた。
カーラは数少ない親子の身元を知っている人物だった。カーラは過去、シンシアの母の屋敷で下働きをしていたことがあったのだ。結婚し仕事を辞めた後、二度と会うことがないと思っていたお嬢様が再び現れた時には顎が外れて戻らなくなるかと思ったほどだ。
シンシアの母親もカーラのことを覚えていた。だから自分たちだけでは立ち居かなくなったときなどに、申し訳なさそうにカーラのことを頼っていた。
シンシアの母親からの手紙は非常に簡潔な内容だった。
主題としてはシンシアの出自、誰が父親でどうして自分たちがこの町に身分を隠して流れてきたのかの経緯。そして、どうか、娘をよろしく頼む、と締めくくられていた。
空が赤く染まっていく。町の騒めきは収まるどころか大きくなっていく。夜がやってきてもなお収まらない。むしろこれからどんどん広がっていくだろう。
娘は窓を開けはなち、そこから通りを見ていた。娘はそうやって何気ない景色を眺めることが好きだった。町を行く人たちは一人ひとり違う表情をし、何かを思って町中を行きかっている。娘はその光景を眺めることで、自分もそのうちの一人なのだと感じるのが好きだった。
娘は通り行く人々の話を聞くのが好きだった。
中には下世話だったり物騒だったりする話を耳にすることもあったが、娘は母親からそういう人には近づいてはいけないと言われていたため、関わろうとすることはなかった。悪いことをしている人がいるのに何故と思ったこともあったが、母親がこれまた悲しそうな顔をするから娘はそれ以上何も言えなくなるのだ。
通りには普段見知らぬ人たちが外から入ってくるのが見えた。鎧を着て、武器を持って、これから戦争でもするのかというほどに張り詰めていた。
娘は興味を持ってしまった。町が騒々しいのと関係があるのだろうか。みんなが不安がっているのと関係あるのだろうか。娘も流石にいつもの町と様子が異なることには気が付いていた。もしかしたら母親が忙しい理由に関係あるかもしれない。理由を知れば助けられるかもしれない。
無理に首を突っ込めば母親を困らせてしまうかもしれないかもという思いと、助けになりたいという思いが交差し、助けになりたい思いが勝った。
それは、町に入ってきた兵士たちを見た町の人たちの会話だった。
「何で王都から兵士が――」
「町に大罪人が――」
「町の外れの――」
「リアとかいう――」
その中の一つを、娘は聞いてしまった。
「……お母さん?」
リア、というのは娘の母親の名だった。
嫌な予感がした。何か取り返しがつかないことが起きてるんじゃないかという気がした。もう二度とあの心地よい場所が帰ってこないんじゃないかという予感がした。
「ううん、そんなことないよね」
嫌な予感のままでいて欲しいと、幼さから願ってしまった。
王族が今回の騒動の中心にいた。
現王の王弟、王宮にて王の相談役として活躍している人物が敵国と内通していたというのが事の発端だった。
王弟は国の重鎮で、貴族からも民衆からも厚く信頼を置かれていた人物だった。本人が望まなかったというのだけが、彼が国王にならなかった理由といわれてるほどの人物だった。現国王が国王の地位につけたのは王弟が王位継承争いにて手助けしたからだと言われるほどの人物だった。
そんな人物が国を裏切った。その重大事件はあまりにも大きく国を揺らしていた。
「つまり、あの二人を捕まえに来たってことかい?」
―—娘の父親は、その王弟であった。
王弟が敵国と内通していた、ならばもはや殺すしかない。王弟には密かに繋がった女性がいた。なら殺すしかない。王弟とその女性には子供がいたらしい。——なら殺すしかない。
王弟が持っていた信頼が、裏切られたことによる絶望に反転し、国中を揺るがす憤怒の狂乱が巻き起こっていた。
「そういう事になる。」
「でも、またどうして……」
空が暗くなってきたころ、居間にて夫婦が向かい合って座っていた。
カーラの夫は守衛の仕事についており、町を守るのが仕事だった。だからこそ、夕方に町にやってきた兵士たちの正体を知っていた。
「——引き渡すしかないだろう」
「でもお嬢様の娘さんだよ?」
「昔の話だろう。今となってはただの市民。協力すれば褒章も多少は期待できるだろう。うちだって決して余裕があるわけでもないんだ」
「それは、そうだけどねぇ……」
「とにかく、二人を引き渡せば他の住民には何もしないとお触れが出ている。俺は兵士に伝えに行くから、お前は逃がさないように見張っててくれ」
二人は明らかに娘をどうにかする話をしている。
「……お母さん」
当事者となるその娘は、不幸にも母と自分が置かれている状況を知ってしまった。盗み聞きをしようと思ってしていたわけではなく、いつになったら家に帰っていいのか聞きに行こうとした結果、扉一枚隔てて二人の話を聞いてしまっていた。
「助けなきゃ」
娘はこのままでは自分たちが大変な目に合うことを理解した。けれども、事態の大きさは理解しきれていなかった。
普通に逃げたのではすぐに気づかれると思った娘は、二階に戻り目的の部屋を目指した。
高いところから落ちるのは怖かった。怪我をするかもしれない。怪我では済まないかもしれない。
「……お母さん、お母さんっ!」
弱気を吹き飛ばしたのは優しい母親の笑顔。暖かなあの温もりを失うことが何よりも怖かった。二回から飛び降りる程度の怖さ、比べるまでもない。
飛び降りた先にあったと箱が軋み部分的に砕ける。娘のバランスが崩れて前のめりに地面に倒れる。
落下の衝撃自体は箱が砕けた分で和らいでいて、幸いにも大きな怪我にはつながらなかった。倒れた拍子に手の皮をすりむき、砕けた箱の木っ端が足に刺さった程度で済んでいた。
娘は痛みで泣きそうになった。すりむけた皮膚が熱を持っているし、刺さった木っ端に血がにじんでいる。でも走れないほどではない。
娘はふらつきながら立ち上がり、最初の何歩かだけは確かめるように歩き、走り出した。
「お母さん、お母さん、お母さんっ……」
夜の寒さに震える歯を噛みしめ、道行く人など目にもくれず走る。娘の目に浮かぶのは母の事だけ。どこか遠い町で暮らそう、きっと二人なら逃げられる、そんな希望を頭の中で反芻していた。
娘はただひたすらに走った。周りの様子も気にせず優しい母が待っている家の方へと。家の扉を開ければ、言いつけを守らなかった娘のことを少しだけ困った表情で叱ってくれる母がそこにいると信じて。
「お母さん、おかあ、さん……?」
少し離れた場所から娘を追う足音が聞こえてくる。足音は複数だ。擦れる金属の音がする。
娘は追われてるのだと思った。きっと、夕方町に入ってきた兵士がいるのだと思った。それすらこの瞬間にはどうでもよかった。
娘の目の前にあったのは、朝には健在だった我が家。今となっては無残な廃墟。荒れ果てたその姿だった。
何があったのか想像するのは難しい。酷いことがあったのだということだけがわかる。
扉を開けなくてももはや中の様子がよくわかる。扉なんてなくなっていたからだ。家の奥までよく見通せる。破壊されつくされていたからだ。
「ああっ、あああぁ。ああああああああああああああああ!」
叫び声がむなしく町中を響き渡る。
人影が娘に覆いかぶさった。
―—正義を語る人々から、見たことも聞いたこともない人物が国を裏切り、見たことも聞いたこともない人物が裏切った証拠を渡せと言われた。知らないと答えると殴られた、蹴られた、刺された、沈められた、焼かれた、削られた。
父親のことを母親に聞いたことも娘にはあった。そうすると母は悲しそうな顔をして何も言わなくなる。だから聞いてはいけないことなのだと理解をした。それから関わろうと思ったこともなかった。
関わったこともない、関わろうと思ったこともない人のせいで母と自分がひどい目に合っている。娘はそう聞かされた。恨むなら国を裏切った父親を恨めと言われた。
娘は恨むということがよくわからなかった。ただ苦痛への恐怖と、母親も同じような酷い目に合っていることの悲しみだけがあった。
哀れな親子が処刑台に上げられる。罵声がひと際大きくなる。民衆の怒りが最高潮まで昇り詰める。
断頭台に乗せられた親子の頭上に処刑人が斧を振り上げる。
娘は今わの際に隣で虚ろな目をした母を見た。母は今わの際にも虚空を見ていて、娘の方を見なかった。
斧が、振り下ろされた。
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