忘れられた被害者
三鹿ショート
忘れられた被害者
すれ違った相手が落とした手巾を拾い、それが切っ掛けで恋人関係に至るという話を思い出した。
だが、現実は大きく異なっている。
私が手巾を手渡した相手は、かつて私のことを虐げていた人間だったからだ。
過去を忘れるために地元から離れた場所で生活をしていたにも関わらず、このような場所で再会することになるとは、想像もしていなかった。
震えながら手巾を差し出している私に対して、相手の男性は笑みを浮かべながら、感謝の言葉を口にした。
その態度に、私は違和感を覚えた。
私のことを憶えているのならば、多少は反応を見せるだろうが、眼前の男性にはそのような兆候が全く見られなかったのだ。
学校を中途退学するに至るまで虐げ続けた相手のことを、憶えていないかのようである。
私は、その場に立ち尽くした。
私の態度に疑問を抱くことなく、男性は恋人に手を振ると、改札口の奥へと姿を消した。
未だに現実を信ずることができない私に向かって声をかけてきたのは、意外にも男性の恋人だった。
「どうかしましたか」
眼前の彼女は、先ほどの男性のように顔立ちが整っている。
私のような苦労を経験したことがない人間に話したところで、薄い同情を見せられるだけだろう。
私は彼女に言葉を吐くことなく、その場を後にした。
虐げられていた記憶が蘇ってしまった影響か、自宅に戻ると、即座に嘔吐した。
***
私が改札口を抜けると、彼女が笑みを浮かべながら近付いてきた。
何故私がこの駅を利用していることを知っているのかと問うと、
「私が働いている喫茶店を利用してくれているではありませんか。休日も来店されていたほどでしたから、近所の人間であり、それゆえに、この駅を使っているのだと考えたのです」
確かに、私はこの近くの喫茶店を頻繁に利用しているが、彼女が働いていたのかどうかなど、憶えていない。
もしかすると、彼女は裏方の人間なのだろうか。
思い出そうとしていると、不意に彼女は私の腕に自身の腕を絡ませながら、
「少しばかり、話をしましょうか」
そう告げると、歩き始めた。
突然の出来事に混乱していた私は、彼女に従うことしかできなかった。
***
他の従業員とのやり取りを見ていると、確かに彼女はこの喫茶店で働いているようだった。
常のように珈琲を頼み、それを口にしていると、彼女は笑みを浮かべながら問うてきた。
「私の恋人と、因縁があるのですか」
その言葉に、私の心臓は跳ねた。
思わず彼女に目を向けると、彼女は余裕の表情を崩すことなく、
「どうやら、図星のようですね。話を聞かせてくれませんか。恋人のことは、何でも知りたいのです」
私は首を横に振った。
「面白い話ではない。きみにとって恋人が素晴らしい人間ならば、聞くべきではないだろう」
「それでも、構いません。良いところも悪いところも知ることで、今後の付き合い方を考えることができるのですから」
正直に話すべきか悩んだが、結局、私は彼女の恋人による仕打ちを語った。
全裸で椅子にされ、便器に顔を押しつけられ、地を這う虫を食わされ、金銭を奪われるなど、私は彼女の恋人の悪事を余すところなく伝えた。
当初は笑みを浮かべていた彼女だったが、段々とその表情が変化していき、私が語り終えた頃には、沈んだ表情と化していた。
彼女の恋人は、今では善良なる人間なのかもしれないが、私にとっては悪人のままだった。
それを知ったことが、彼女にとって辛いことだったのだろう。
しかし、彼女から返ってきた言葉は、私が想像もしていなかったものだった。
「まさか、かつて私を苦しめたような人間を愛していたとは、信じられません」
***
いわく、彼女もまた、私と同じように虐げられた側の人間だったらしい。
今でこそ美しい外貌をしているが、それは過去の自分と決別するために、手を加えたことの結果だと語った。
彼女は私の手を握りしめると、真剣な眼差しを向けながら、
「あなたに、報復の機会を与えましょう」
「それは、どういう意味だ」
「私が呼び出せば、恋人は疑うことなく現われます。油断しているところを、あなたが襲えば良いのです」
「何を言っている。きみが愛した人間ではないか。それを失うことになってしまっても良いのか」
その言葉に、彼女は口元をわずかに緩めた。
「このような状況でも他者を案ずるなど、あなたは心から優しい人間なのですね。数時間前までの私ならば、恋人を売るような真似をすることはなかったでしょうが、今では事情が異なります。たとえ私が苦しめられたわけではなかったとしても、同じような傷を刻まれた人間として、看過することはできないのです」
彼女は神妙な面持ちへと変化すると、
「報復すれば、あなたは過去と決別することができるでしょう。それを実行しなければ、あなたは今後の長い人生においても、同じように苦しめられ続けることになるのです。それでも良いのですか」
そのようなことは、問われるまでもなく、良いわけがない。
私を苦しめた人間がのうのうと生きていることなど、許すことはできないのだ。
彼女に問われたことで、燻っていた私の復讐心が燃え上がり始めた。
私は、恋人を呼び出すことを彼女に依頼することにした。
***
押し入れに潜んでいた私は、彼女の恋人が一人と化した瞬間、飛び出した。
手にしていた金槌で殴り、相手が床に倒れると同時に、膝に向かって思い切り金槌を振り下ろした。
相手は叫び声を上げるが、用意していた猿轡を噛ませ、両手足を拘束していった。
ここからが、私の望んでいた時間の始まりである。
指を一本ずつ丁寧に折っていき、乳首を切り落とし、鼻と耳を削ぎ、肛門に熱した鉄の棒を突き刺してから、切除した一物を眼窩に突き込んだ。
次に腹部を切開し、取り出した臓器を部屋中にばらまこうとしたところで、突然、室内に制服姿の人間たちが入ってきた。
何故私の行為が露見したのかと考えている中で、口元を歪めている彼女の姿が目に入った。
其処で、自分が騙されていたことに気が付いた。
弱った恋人を介抱する良い人間を演ずるためか、邪魔になった恋人を私に始末させようとしたのかは不明だが、私は彼女の掌で踊っていたのだ。
彼女に向かって何度も叫んだが、彼女が余裕の表情を崩すことはなかった。
***
「あなたの恋人が襲われた理由について、心当たりはありますか」
「聞いた話によると、かつて虐げていた人間が存在していたそうです。その相手が、捕まった人間だったのかもしれません。もしくは、浮気をしていた相手の恋人だった可能性も存在していますね。何にしろ、良い薬になったことでしょう」
忘れられた被害者 三鹿ショート @mijikashort
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