第116話 よかったこと

 八幡ちゃんが口を閉じると、暫くの間その場はシンと静まった。ヨネ子ちゃんは瞼を下げ、ゆっくりと二回うなずき、そして私と秋月くんに向かって手で促した。

 次は、私達の番だった。


「嫌だったこと……突然縛られたことにすげぇムカついた。理由だって一方的だし、到底納得できないことだった」


 秋月くんが喋りだし、彼はヨネ子ちゃんとフサ子さんを見据えながら続けた。


「試験前夜に仕掛けてくるってのも最悪だ。悠里が皮下脂肪がどうのって妙なこと喋りだした時には、本気で焦った…………『俺たち死ぬのか?』そんなこと考えたら……覚えてもないはずの親父のことが頭に浮かんできたり、感情がぐちゃぐちゃになって……辛かった…………あんな思いは、もう沢山だ」


 秋月くんは、表情を固めたまま下を向き、黙り込んでしまった。沈黙が続きそうな空気に押されて、私が発言を開始した。


「あ、えーっと。私はですね……そうだな。嫌だったこと。それはあの寒さと、ぐるぐる巻きにされた手が痺れて痛かったのは、とても嫌だったな。『口だけテープ剥がし』も達成感はあったけど、超絶難しかったし、焦ったし……それからやっぱり…………フサ子さんと折角友達になれたと思ってたけど、そうでもなかったのかなって思って、とても悲しかった。それから……秋月くんと会えない未来が来るかも知れない……そんなの、想像だけで怖かった」


 フサ子さんも俯いたままだ。


「良かった点は? ございませんか?――――ああ、なければそれで構わないのです。お二人は被害者ですしね。被害にあったメリットなんて、思いつかなくても仕方ないですよ」


 和田さんがそう言って、「ではヨネ様、評決は……」と場を結ぼうとした。焦った私が、ころりと一粒時間球を落としながら、口を開こうとした時だった。


「良かったこと。あるけど? そうだな、もっと振り返る時間があれば数挙げることもできるが……少なくとも二つ。裸眼で時間球が見えるようになったこと。もう一つは」


 秋月くんが横を向いた。つられて私も隣を向いたので、私達の視線がぶつかった。モヒカンじゃないオレンジの毛先を揺らして、秋月くんがニヤリと笑った。なにその企み顔は?


「悠里にキスできたこと」

「ブッ!」


 なぜ私がお茶を口に含んだこのタイミングで、こいつはこんな発言をするんだ。しっかり吹きこぼしてしまったじゃないか。


「正直、少し前からやりてーなと思ってたんだ」

「ゲホっ!」

「良いきっかけをもらったと思ってる」

「ゴホゴホゴホ!」


 止めたいのにむせすぎて言葉が出ない! くそう!


「え? 二人はまだ一回もキスしたことなかったの? 僕はてっきりもう何度もしてるものかと……むしろ更に……」

「ジョぉジい!」


 出た! 声出た! 変な引っくり返り方をしたけれど、ジョージくんが更に変なことを口走るのは阻止することはできた。

 

「秋月くん! なんちゅー発言してんのっ!」

「言う必要があったからだ。そうだろ? ヨネ子」

「はい。ありがとうございます。大変重要な発言を頂きました」


 青鬼がニッコリ笑った。


「悠里さんからは、何もございませんか? なければ次に移りますが」


 小首をかしげる可愛いエイリアン。頬の上のぐるぐる渦巻き模様が、ぐるぐる回っているように見える。


「あ、あ、あ、ありますあります! ちょっと待って」


 羞恥心と焦燥感が、頭の上でぐるぐる回っている。らしくもなく時間球をポロポロ排出しながら、私は必死で考えをまとめていった。


 フサ子さんが顔を上げた。少し赤くなった目元。もう涙は溜まっていないけれど、彼女の大きな瞳は光を湛えながら私を見ていた。


「……なきゃないでいいのよ、悠里。あんなに酷いことされたんですもの。最悪の一言で済ませていいのよ」

「違うよ」


 私は首を振ってフサ子さんを遮った。


「良かったこと、ありすぎるんだよ。簡潔にまとめるのが難しいの」

「え?」


 眉間に皺を寄せたフサ子さんの隣では、ヨネ子ちゃんがくすくすと可笑しそうに笑っている。


「思いついたことを思いのまま聞かせてください」

「うん。じゃあ、言ってくね。良かったこと。きれいな星空が見えた。本当は天体観測はもう少し先の予定だったけど、前倒しで見れてラッキーって思ったよ。それから、イカタコ亭のイカ飯とたこ焼き、食べたいなーって思っていたものがこんなにすぐ食べられた。もう、最高! 美味しすぎる! それから、マイム・マイム会合ってどんな様子なんだろうって気になってたから……実際の映像で見れて満足。それから、UFOに乗れちゃったでしょ、きれいなモヒカンも見れたでしょ、テレパシーも使えるようになっちゃったでしょ、エイリアンの知り合いも増えたし、それから……」

「本当に沢山ありますね」


 八幡ちゃんが「あはは」と笑う。


「……えっと、それから…………それから……」

「何だよ? 言えよ」


 秋月くん、その顔。絶対分かってるよね?

 私が何を言いあぐねているのか、絶対にこのオレンジモヒカン……おっと、今はモヒカンヘアじゃなかった、このオレンジ頭は知っている。


「……私も、その、き、き、き、き、き……きす、は、したかったですし……ううう嬉しかった、し……」


 尻すぼみで消えていった私の声の後には、エイリアンたちのペチペチ拍手の音が続いた。


「頑張った! 悠里ちゃん、がんばった!」

「おめでとー」

「お幸せにー」


 ああ、穴に入りたい。テーブルが生えてきたのと同じように、この床に隠れ穴でも生じないだろうか。めちゃくちゃ恥ずかしい。


「分かりました。ありがとう、悠里さん。それでは皆さん、これにて評議は終わります」


 パン、とヨネ子ちゃんが手を打ち鳴らした。

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