第101話 失敗しちゃダメな時
◇◇◇
「ボートに掴まれ!」
秋月くんの大声が辺りに響き渡った。
音もなく船底に大穴が開いた。かと思うと、猛烈な勢いでその場は湖の一部となっていたのだった。
ひゃあ、冷たい! 冷たさのあまり、一瞬だけ思考が凍りついたのが分かった。きっと私の時は止まったに違いない。「ヒョオ!」と、変な音が喉から出た。
「悠里っ!」
私の手を掴んで引き寄せる彼の顔は、必死の形相だった。
――ああ、かっこいいなぁ
胸がキュンとしたのは、水の冷たさによるショックか、それとも乙女心からだろうか。
モヒカンが立ってなくたって、濡れて髪がぺしゃんとなってたって、暗くてオレンジ色が見えなくたって、秋月くんはカッコいい。
「しっかりしろ!」
「大丈夫だよ。ね、大丈夫。ほら、女のほうが皮下脂肪多いから。冷たい水の中でも大丈夫。知らない? 映画の『タイタニック』で、最後ジャックがローズを船の残骸の上に乗せて、自分は海に入ったまま助けを待って死んじゃうんだけどさ……映画の公開当時からジャック役の俳優オタが、『あの時ローズの方が海で待ってたら、ジャックは死ななかったのに!』って文句言ってたんだって……だからね、私は大丈夫。だから」
「何言ってんだ。落ち着け。このままバタ足で岸まで行く」
「私には皮下脂肪があるから、だから、秋月くんは時間球を使って」
ボートの残骸に捕まる手を片方離し、水の中に突っ込むと、秋月くんのズボンのポケットを探りにかかった。目当ての物はすぐに見つかる。しかし巾着袋の口を縛る紐を指にかけて引っ張るつもりだったのに、間違えて口を引っ張って開けてしまったみたいだ。水面に白く光る時間球が、次々にプカプカ浮かんできた。
「あ……いけない。何やってんだろう、私」
こんなに大切な時に。本当に馬鹿だなぁ。一度に二つのことができないばかりか、失敗しちゃダメな時に限って失敗する。
「悠里」
「……秋月くん、これ、全部溶かして。全部秋月くんの時間にして。秋月くんの時間を増やして。そうすれば……」
声が出ない。寒さのせいだろうか。泣いてないのに、しゃくりあげた時のように喉が詰まって、言葉も自由にならなくなってきた。
時間球を溶かして、秋月くんの時間を伸ばして欲しい。彼の時が伸びることによって、良いアイデアをひらめいてくれる希望がある。私じゃだめだ。秋月くんでないと。二人とも助かる方法を見つけられるはずだ……たとえそれがダメでも、秋月くんだけは時間が増える分、助かるかも知れない。私じゃだめなのだ。全滅する確率が上がるだけだ。秋月くんだけでも、絶対に助かってもらわないと困る。
「分かった。分かったから。ほら、近くにあったやつはちゃんと溶かした。悠里、掴まってるだけでいい。ちゃんと進んでるだろ?」
秋月くん、黒メガネかけてないから時間球見えないはずだよ……本当に溶かせたのかな。確かめたいけど、水の中で全身が揺さぶられ、沈む感覚が恐ろしくて首を思うように動かせない。
バタ足したいのに足も動かない。どうなっているんだろう、私の身体は。たった今タイタニック映画の話をしたばかりなのに。皮下脂肪は女の私の方があるんじゃないの? 秋月くんの呼びかけに、頷くのがやっとだ。
――あれ……? マイム・マイムが聞こえる
幻聴かも知れない。楽しげな子供たちの声で、「マーイーム、らっせっせ!」と聞こえる。
――『水、水、水、水、水だ、やったー』だっけ……? 水、水は今はいい……今はもういいよ……十分すぎるよ……冷たいよ……寒いよ……
秋月くんの荒い吐息と、水をかく音。マイム・マイムを歌う子供たちの高い声。バイオリンの旋律に重なる、なぜかハワイアンなウクレレの音色。
「目を閉じるなよ」
うん、と応えたかったけど、できなかったかも。
よく分からない。
細くなる視界に白く輝いているのは、時の結晶だろうか。それとも星を見ているの?
私は今、湖と空、どちらの方を向いているのだろう。
曖昧になっていく意識の中、大好きな声で再び名前を呼ばれた――――そんな気がした。
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