EP03 過去

 日が暮れた。


 わたしたちは応接室で食事をしてから、ソファーで寝ることにした。


 寝ている間は、ずっと生配信を続けるという。


 数時間ぶりに撮影が止まったので、わたしはやっとマスクを外すことができた。


 マスクを着けている時には気づかなかったが、応接室はなんとも言えない妙な匂いがする。


 二階の部屋で効いた妙なラップ音は、応接室に戻ってからは聞こえてこない。明らかに一階から鳴っていると思ったのだけれど。あれはいったいなんだったのだろうか?


 わたしは(心霊なんて信じないけれど薄気味悪い……)と震えていたが、美咲は平気らしい。


 ソファーの上に座って焼きそばパンをかじりながら、「うーん」と伸びをしている。


 もしかして夕食ってこの、コンビニで買い込んだパンとかお惣菜? 雑すぎる。


 とりあえず、母に「今夜は友達の家に泊まります」とLNEで連絡しておこう。即座に「美咲にお泊まり友達なんているの?」と悲しくなる返事が来たが、「いるよ」と返しておいて、あとは放置することにした。


 今、心霊系Youtubeの生配信に出演中で、山奥の事故物件に泊まり込んでいますなんて、とてもじゃないけど親には言えない。


「あー、やっと私語を喋れる! のびのびできるねっ!」


 美咲は配信中も、ずっと私語を喋っていたような気がするけれど?


「……わたしは、メロンパンにしよう……カロリーが欲しいところだし。それに、探索係をやらされて、くたくた」


 諦めてソファーに座った。10年前に謎の動物の血痕を遺して失踪した家族のソファーかもしれない。


 そういえば、結局どの部屋の窓にも段ボールが貼られていたけれど、どの部屋の壁も妙だった。なにかを剥がした痕のようなものが大量に残っていた。


 まさか、あれってお札を剥がした痕……まさかね。


「ねえ美咲、寝室で寝ないの?」


「寝室にダブルベッドがなかったからねー。シングルだと狭いじゃん?」


 ソファーは寝心地は悪いが、ソファーは複数ある。だから二人で同じ部屋で眠れる。配信が目的だから、別の部屋に分散して泊まるのは効率が悪い。そういうことらしい。


「ん? ということは、失踪家族は夫婦別室だったんじゃん? 不仲だったのかな?」


「単に部屋がたくさんあるからでしょ」


「そっか。3人家族で7部屋ってさー、部屋がめっちゃ余ってるよね。その時点でお化け屋敷だよね」


「最初にこの建物を建てたオランダ商人が、大家族だったんじゃないの?」


「ううん。夫婦二人きりだったらしいよ? なんでこんなに部屋が必要だったのかな」


「戦前の話だし、奉公人とか住んでいたのかも」


「おおっ? ほらほら見て見て真理。視聴者から、この物件に関する情報提供の書き込みが続々と! これだよこれ。心霊配信はこのライブ感、一体感だよ!」


 え? 物件が特定されないように配信すると、不動産屋と約束していたのでは?


 まあ、「赤い部屋」がある事故物件という触れ込みだけで、マニアは一瞬で特定できるのだろうけど。


 やっぱり、わたしの個人情報も特定されるんじゃ?


「ふむふむ。常連コテハンの『福笑い女優霊』さんの書き込みによると、オランダ商人夫妻が消えた後、何度も住人が入れ替わっているんだけど、怖い噂だらけだねー。戦後最初にこの屋敷を買い取った但馬家は、GHQのレッドパージで没落して一家失踪。その後は行方知れずだって」


「順序が逆で、オランダ商人が特高に拷問されたという話って、その但馬家の件から派生して生まれた都市伝説じゃないの?」


「その次に入居した佐藤家は、都内でホテルを経営していたけれど、そのホテルが火事で全焼してこれまた一家離散」


「ほんとかなあ」


「ほらほら、『福笑い女優霊』さんは当時の新聞記事をアップしているページへのリンクまでつけてくれてるよー」


 ふうん。「太島てる」以外にも、そんなマニアックなサイトがあるんだ。


 それこそ、閉じられないポップアップが出てくる類いの罠サイトじゃなければいいけど。


「そもそも、この『福笑い女優霊』って何者なの。どうしてこんなに事故物件に詳しいの」


 コメントログを見返すと、ぽんぽんと投げ銭も入れてくれている。金額も、他の視聴者より桁がふたつほど多い。


「この人さー、いつも配信中にいろいろ調べて報告してくれる情報通なんだよ。第1回配信の時からのレギュラーでさ。マニアだよねー」


「……ストーカー化されないように距離感を保ったほうがいいよ?」


「だいじょうぶだいじょうぶ。ふむ、50年前の火災事故かあ。古すぎて、ピンと来ないねー。ひえええ、死者30人だって」


「30人?」


「うわ、ちょ、マジでヤバくね? 佐藤家の当主は、ホテルの管理体制を追求され、業務上過失致死罪で有罪判決を受けたんだって。そのまま刑務所で獄中死。ご家族は……以後、消息不明。うわーガチで悲惨じゃん?」


 炎上するホテルの窓から次々と宿泊客が飛び降りている写真が、そのサイトには転載されていた。昔のマスメディアってと、んでもない映像をそのまま流していたのだなあと思う。


 そういえばどこかでうっかり、三島由紀夫の生首の写真を見た記憶が。


「それはホテル経営者の自業自得では? ご家族には同情するけど、この建物とは関係がないよ」


「そうとも言えないじゃん真理。だって50年も前の火災だよ? 当時は消防法とか今よりもザルだったでしょ、たぶん。この程度の雑なホテルはいくらでもあったはずじゃん?」


 それは美咲の思い込みだとは思うけれど。


 記事を見る限り、かなり杜撰な管理体制だったことは確からしい。


 規模の大きな事故って、たいていは経営者が経費削減のために防災対策を怠ったために起きるものだ。


 事故というものは必ず起きるが、大事故に発展する原因はたいてい経営者の私欲。


 それと、今まで平穏無事に生きてきた自分にとんでもない厄災なんて降りかかってくるはずがないという「正常性バイアス」。


 これらが複合すると、事故の規模が大きくなる。助かるはずが助からなくなる。


 ただ、都市伝説風に説明すれば、「住居で不審な怪異現象が続いていたために、当主は精神的にも肉体的にも疲れ果てていて、ホテル経営のほうが杜撰になってしまった」などと解釈できなくもない。


「……急に現実に引き戻されたみたいで、目眩がしてきた。わたしは怪異は信じないけれど、これはほんとうの災害だもの」


「災害つーか人災じゃん? おっ? この火災当日、若い頃のビートたけしがこのホテルに泊まる予定だったんだって!? お金がなくて急遽別の安ホテルに泊まったので、偶然命拾いしたんだってさ! ほんとー? 出来すぎじゃん! 持ってる人って、持ってるよねー!」


 美咲は芸能人に興味があるのだろうか?


 芸能人は仕事柄、ホテルや航空機を多用するから、この種の都市伝説にはよく出てくる。


 40年ほど昔、航空機が墜落して大勢の乗客が亡くなった事件があった。坂本九が、運悪くこの航空機に乗っていて亡くなっている。また、明石家さんまもこの航空機に乗る予定だったのだけれど、なんらかのトラブルがあって急遽、別の便に乗ることになり、運良く命拾いしたとか。


 確か、それが「生きてるだけで丸儲け」という言葉の語源なんだっけ? いや、それはまた別の由来があったんだったか……忘れた。わたしはそれほど芸能界に興味がない。


 芸能界の大御所の二人、ビートたけしと明石家さんまがともに大惨劇での死を間一髪で免れたというのは……偶然の一致だろう。うん。


「佐藤家の次に入居したのが、堀内家。うわ。これはちょっとヤバくて配信じゃ言えないかも」


「今なら配信止めてるからだいじょうぶだよ美咲。なにがあったの?」


「30年前の事件だよ。当時8歳だった娘さんが誘拐されて、首を切断され、この山の裏にある湖に首なし死体を遺棄されたんだって。頭部は最後まで発見できず」


「え? それ、まさか◎◎事件? 犯人が誘拐した子供の死体を遺棄していた湖って、確か◎◎湖だけど、この山の向かいにあるの?」


 ◎◎事件発生当時、わたしはまだ生まれていなかったけれど、母親から聞いたことがある。


 昔は、都内のあちこちをライトバンでうろつきながら、幼い女の子を誘拐して殺し続けていた連続猟奇殺人犯がいて、犯人が逮捕されるまでは子供がいるどこの家も戦々恐々としていたと。


 まさか、この事故物件と直接リンクしてたとは。


 にわかには信じがたい。


「これも、新聞記事があるからガチじゃん! ほら、事故物件サイトじゃなくて、猟奇殺人事件サイトに載ってる。ええー? これってけっこう有名な事件だと思うけど、繋がってたの?」


「……それは、嘘でもほんとうでも、配信しないほうがいいね……」


「やだー真理。急に怖くなってきた! 幼女殺害事件とかダメじゃん! ネタにしたらまずいやつじゃん! わたし、お化けは怖くないけど、これはダメ! ダメダメ! ど、どうしよう?」


 わたしも、こういう事件は生理的にダメだ。


 確か犯人は、精神鑑定の結果「責任能力あり」と判断されて死刑執行されたはずだけれど、だからといって過去の事件がなかったことになるわけではない。


「ねえ美咲。あの事件の犯人は逮捕されたけど、遺された堀内家の人たちはどうなったの?」


「湖に近いこの屋敷を引き払って、ずっと遠くに引っ越した後、結局一家心中したみたい。直接報道されてはいないけれど、ほら、こっちのサイトを見て。伊豆で堀内家の夫婦二人が一家心中。熟年夫婦だけれど、子供はいない。たぶん、同じ人たちだよ。ネットではそういう噂になってる」


 ほんとうに? 名字が同じだけなのでは? どうか別人であってほしい。


「真理。犯人の家族がその後、バッシングを受けて悲惨な運命を辿ったことはたくさん報道されてるけど、さすがに被害者の家族がどうなったかを追跡しているマスコミって見ないよね?」


「そういえば、そうかも。幼女連続殺人事件の犯人の父親は、山奥の吊り橋から投身自殺したと報道されていたけれど、被害者家族のその後ってあんまり聞いたことがない」


「一見無法地帯っぽいマスコミにも、なんらかのタブーみたいなものがあるんじゃない? だから、伊豆で心中した堀内家の夫婦と、◎◎事件は、敢えて結びつけられてないんじゃん? 調べたら簡単に繋がりそう」


「……調べないほうがいいよ美咲。どのみち、この配信ではその話はできないよ。不動産屋に叱られるでしょ? ヘタしたら訴えられるよ。売り物にならなくなるもの」


「そうだねー。告訴はなによりも恐ろしいよねー。イヤだなー、イヤな話だなー。福笑い女優霊さんにも、これ以後、コアな情報はコメント欄には書き込まないでねー直接DMで教えてってお願いしておこうっと。貴重な常連情報提供者が訴えられたら、たいへんだもんね」


 わたしの夢と同じで、「偶然の一致」なのだろうけれど、それにしても気分のいい話ではなかった。


 犠牲者30人を数えるホテル火災に、史上希な連続猟奇殺人事件。その上、最後の居住者一家は全員行方不明。住んだ人間が全員、不幸になっている。


(偶然の一致だとしても、さすがに連鎖しすぎている。もしもわたしが見た悪夢が予知夢なら、美咲が危ない。赤い部屋を見つけちゃダメだ。陽が昇ったらすぐに帰らなきゃ)


 ソファーに仰向けになっていたわたしは、全身から嫌な汗を流していた。


 オランダ商人A氏に関する記録はなかなか集まってこないようだけれど、時代が新しくなればなるほど、詳細な情報が入ってくる。


 この動画チャンネルの視聴者は、ただ「ご褒美だ!」とか「百合だ!」とか騒いでいるだけの面々ではないらしい。


 まあ、「福笑い女優霊」という人が突出して詳しいのだけれど。何者なのだろう?


「美咲。もう取り壊したほうがいいんじゃないの、この物件。少し掘っただけでこれだけの話が出てくるようじゃ、二束三文で投げ売りしない限り買い手は見つからないよ。そもそも、どうして家具を撤去してないの。これ、失踪した家族の家具? それとも後で不動産屋が置いたの?」


「あー。全部、失踪した家族が遺していった家具だよー」


 床で寝たい、とわたしは震えあがった。


「うーん。家具を撤去したり建物を破壊したりしたら、祟られるんじゃない? 将門公の首塚みたいなものでさ。不動産屋さんはなにも言ってなかったけど」


 合理的な理由を思いつかないので、美咲に反論できない。


 わたしはソファーの上で縮こまりながら、早く朝にならないかな、と目を閉じて呟いていた。


 こんなふうに現実の事件の話が芋づる式にどんどん出てくるくらいなら、百物語でもしたほうがまだマシだ。


 美咲も「あー、配信で言えないネタばかりじゃん、どうしよう?」と戸惑っていた。


「わたしってほら、その場のノリでうっかり口を滑らせるからさ。その時は真理が止めてね? そろそろ寝よっか。さあ、生配信を再開するぞー」


「……寝ている間も、配信はやめないんだ……」


「もう告知してるんだから止められないっしょ。寝てる姿を映すだけだし、へーきへーき。なにかヤバいものが映ったとしても、わたしたちは寝てるわけだし?」


「せいぜい音が鳴るくらいで、映ったりはしないでしょ」


「いや、霊感少女の真理が一緒だから、今回はいけるいける!」


「霊感少女じゃないから」


 スマホを操作し終えてソファーに再び仰向けに寝転がった美咲が、「お待たせしました、配信再開です!」と実況モードに切り替わった……いや、これが平常運転だった。


「というわけで皆さん、わたしたちはここで一泊しまーす。ちょっと差し障りがありまくりで全部は紹介できないのですが、この物件に関するいろいろな情報のたれ込みを頂きました! ここは、ガチのマジで超ヤバいです! 想像以上です! 皆さんは決して立ち入らないように! 朝まで動画を監視しておいてくださいねー!」


「……反応はどんな感じ?」


「コメント欄に直接は書かれてないけど、休憩時間の間に、みんなだいたい調べ終えたみたい。裏で情報共有したんじゃね? ネットは超ヤバいね! みんな、マジでビビってるよ」


 ちらりと、モバイルバッテリーで充電中の自分のスマホで、この動画配信画面を開いてみた。


<待ち時間の間にいろいろ知っちゃったけど、そこマジでやばいって。JD二人きりで泊まるのはやめたほうが>


<聞いてねえよ! なんだよ、そこ? どうして解体されずに当時のままの姿で残ってんだよ?>


<俺もあれこれ知っちまった。「赤い部屋」どころじゃねーぞ、これ>


<「赤い部屋」は結局あるのか、ないのか?>


<屋敷全体が「赤い部屋」って落ちじゃないのか?>


<心霊スポットとかそういうのじゃないじゃん。撤退したほうがいいよ>


<あのラップ音、普通に霊の仕業だろ。犠牲者が多すぎて、もはや誰の霊かすらわかんねーよ>


<部屋の窓を全部段ボールで覆ってるのって、結界じゃないの? お札を貼っていた痕みたいなものが壁中にあったよな?>


<10年前に失踪した一家は、今どこにいるんだ? つーかこの物件、掘れば掘るだけヤバい話が出てくるんだけど>


<最初のオランダ商人夫婦についてなにか新情報はないのか? そこがすべてのはじ

まりだよ>


<特高……アカ……レッドパージ……火災の炎……生首切断で流た赤い血……動物の血痕……赤い部屋……まさかな……>


<全部「赤」で繋がってるって……こと?>


<あれ? 福笑い女優霊さんがいないな? どこに消えたんだ?>


 ほんとだ。みんなもう、情報共有している。


 具体的な事件名や関係者の名前を書き込まないあたり、美咲が設けたルールをみんな遵守している。迂闊なことを書いたら自分が困ることになりそうだ、という理由もあるのだろう。


「ちょ。みんなそんなマジになんなくても……って、なるか。あははー。ヤバいね真理?」


「……とにかく、寝る……徹夜はしたくない」


 コメントを見なければよかった。いよいよ怖くなってきた。もう少し賑やかしてくれるかもと期待したけど、さすがに不謹慎すぎるので、誰も茶化せなくなっている。


「……ねえ、美咲。どうして心霊系なんてやってるの? 普通にアイドル路線でやったほうが稼げるんじゃないの?」


 あ。眠気が襲ってくると同時に、口を滑らせてしまった。


 今は配信中なんだから、こういう個人的な質問は……。


「うーん。わたしって怪異とかに耐性があるから、どこにでも突撃できるじゃん? だから向いてるんだよね。美咲も怪異を絶対信じない物理学者キャラだから、向いてるよ!」


「……信じない上に、興味もないよ……美咲にも怖いものとかあるの?」


「現実の猟奇事件、特に子供絡みは生理的にダメだね」


「それは誰だってそうでしょ。本能的に。そうじゃなくて、他の人はそうでもないのに、美咲だけがなぜか怖いものとかあるの? なにもなさそうに見えるけど」


 なにを質問しているのだろうか、わたしは。もう眠くて思考が定まらない。


「あははー。諸君、ちょっとだけ配信を止めるので、しばらくお待ちくださーい。ほいっ」


 止めた? 配信を? どうして?


「あー。地平線とか水平線が怖いかな。わたし、ある種の巨大空間恐怖症らしくて。この屋敷みたいに、裏に山があったりすると安心できるんだけどさ。果てしなく続く広大な地平線とかさ、水平線ってさ、見ているとゾワッとするんだよねー」


 聞いたことがない恐怖症だった。美咲は謎だらけだ。


「……なにそれ。それじゃ、都心とか怖すぎない? 奥多摩はともかく、東京の都心部ってそれなりに坂もあるけれど、大部分が平地でしょ」


「いやー。東京は高層ビルだらけだから、地平線も水平線もちらっとしか見えないじゃん。高層建築物が乱立してるのを見ると、とっても安心する!」


「なにそれ。意味わかんない……わたしはスカイツリーとか巨大すぎて苦手……」


 時折、突然ぽきっと折れたらどうなるんだろう、とか妄想してしまう。


「そんな簡単に折れないよー。今時の高層建築物って、免震構造きっちりしてるからさー。いざとなったら避難場所に使えるしさー。地平線と水平線はとにかくダメ。怖い。クトゥルー的な、宇宙的恐怖ってやつを感じるんだよね。房総半島とかさあ」


 房総半島の海を眺めてクトゥルーを感じられるのは美咲だけだよ。やっぱりヘンな女だ。


「……ふわあ……それじゃ、埼玉には住めないね……居住地域は関東平野のまっただ中で、ひたすら地平線だから……湘南エリアとかも無理かな……ひたすら水平線だもの」


「あー無理無理。鎌倉なんて、大仏殿が津波に押し流されてるんだよ? ほんとうは鎌倉の大仏って、大仏殿に収まってたんだよ? どんだけだよ津波の威力って思わない? あそこ、そんなに海沿いでもないしさー」


 なんでそんなことに詳しいのだろう。なにか事情があるような気がする。


「その点、東京湾は湾だから、巨大津波とかまず来ないじゃん? 地震以外はまず安全な土地だよね。地震だって、震度6くらいなら乗り切れるくらいバッチリ耐震対策やってるしさー」


「……そうなんだ……美咲って、もしかして地震に遭遇したことあるの?」


 わたしは思わず、不意に浮かんだ疑問を口にしていた。距離感がバグっている。美咲に影響されているのかも。


「うん。10年前の震災でね、わたしが住んでいた港町、津波に呑まれて壊滅しちゃったんだ」


 え?


「あっという間に真っ黒い水の壁が、海からごーって町に襲いかかってきてさあ。なにこれ? 現実? って足がすくんじゃった。逃げる暇もなく、部屋の窓からその黒い水がどーっと入ってきて。で、気がついたら家ごと水に流されてたの」


「苦学生で、Youtubeで稼いでいるのは、それじゃ」


「うん、家族は全員、家ごと水に呑まれて行方不明。どういうわけか、わたしだけは運良く生き残ったんだけどねー。大学に進学したらもう生活がカツカツでさ。今さら怪異とか心霊なんてぜんぜん怖くないし、適職かなーって。仮に祟られたって、生きてるだけで丸儲けじゃん?」


 そんな経験をしていたんだ……。


 わたしは安易に他人の精神分析みたいな真似はしない主義だけれど、広大な地平線や水平線が怖いだなんて、人間の本能にはない感覚だ。高所恐怖症などとはわけがちがう。まさか、あの震災で被災していただなんて。しかも、ご家族は全員……。


 その座右の銘にも、意味があったんだね。本来なら死ぬはずの人間だったのに、なぜか死なずに生きている。だから、航空機事故で死ぬはずだったのに偶然生き延びた芸能人の「死ぬべき運命だったのに、死の運命を回避できた」逸話に共感するんだ。 


「あーでも、関係ない美咲を巻き込んじゃってごめんね? わたし、ちょーっと金に目が眩んでたみたいで」


「……関係ないことはないよ。わたし、予知夢を見る女だって学内で噂されてるでしょう」


「うん。それで誘ったんじゃん。今夜あたり、赤い部屋の場所をばっちり夢で見てね?」


 眠いからか、それとも美咲との距離感が妙に近いからか、わたしは口を塞ぐことができない。


「わたしの夢には意味がないの。見てしまった夢は、必ず現実に起こる。それがわかっているのに、わたしは現実を変えられたことが一度もないの。ただ忌まわしいだけ」


「いやいやいや、見えるだけで凄くね?」


「あの震災の日の朝、わたし、震災の夢を見たの。知らない部屋にいたら、突然襲ってきた津波に家ごと呑み込まれる夢」


「えっ? すごっ? マジでっ!?」


「……でも、その場所がどこか、いつ起こるのか、具体的なことはなにもわからなかった。後になって、あそこは東北◎◎県の◎◎市だったってわかったけれど、そんなのもう手遅れ。津波で町が呑まれていく動画をテレビで観て、はじめて気づいたんだから」


「えー? そこ、わたしの町じゃん! 美咲すごっ!? ガチで予知能力者じゃん!」


「だから、能力なんかじゃない! だって、わかってても止められないんだよ? だから『偶然の一致』だって言い張らないと、やっていけなかったの。誰も救えなかったという罪悪感を抱えていたら、生きていけないから」


 話してしまった。この夢の話だけは、死ぬまで誰にも言うまいと決めていたのに。


「夢で見た出来事を変えられないって、それは法則なの? 美咲?」


「ううん、経験則。でも、生まれてからずっと同じ経験を繰り返しているから、もはや法則だよ」


「なんで? 99度失敗したってさー、一度でも変えられたら、法則じゃないって証明できるじゃん! 美咲ならできるって!」


「……そうか……そうだね……たぶん明日、『赤い部屋』は見つかる……でも決して入らないで、美咲」


「それも、予知夢? 現実世界でわたしと出会う前から、もう夢でわたしと会ってたんだ? すごっ!?」


「……別に、会ってない……顔は見えなかった……でも、夢で見たその女は、奇妙な部屋に入ろうとする時、手にバットを持ってた……」


「そんな女、わたししかいないじゃん! 美咲? あれ、美咲? 寝ちゃった?」


 ……

 ……

 ……

 いつの間にか、わたしは完全に眠りに落ちていた。





 ……

 ……

 ……

 闇の中に浮かび上がる、赤い天井。


 まただ。また、赤い建物の夢を見ている。


 いや、天井が赤いのではない。わたしの視界が赤く染まっているのだ。


 ここは、応接間だ。わたしはソファーの上で寝ている。室内は暗い。まだ夜明け前だ。


 ガンッ!!


 背後で、いきなり凄まじい音がした。なにかが落ちた。


 絵だ。壁に飾られていた北斎の絵が、額ごと床に落ちたのだ。


 その額が、真下の壁に打ち付けられていたベニヤ板に衝突して、ベニヤ板が真っ二つに割れた。


 ベニヤ板が割れた隙間から、なにかが出て来た――暖炉を埋め尽くしている赤い土だ。


 なんだか、とても嫌な色だ。まるで血が混じったかのような……それに、妙な匂いがする。


 この応接室の独特の匂いは、この土から出ていたものらしい。珍しい細菌の類いが繁殖しているのだろうか。


 赤い土は、暖炉を完全に塞いでいた。


 なにしろ、窓を段ボールで塞ぐような雑な管理をされている物件だ。このベニヤ板も、てっきり壁に開いた穴を隠しているのかと思っていたけれど、実は暖炉を隠していたのだ。


 見つかった暖炉は、応接間のサイズと比べればあまり大きなものではない。ちょうど人間一人が潜れるくらいの幅と高さ。


 これは、実用的な暖炉と言うよりも――隠し通路への入り口に見える。


「あれーっ? 暖炉、あったんじゃん! ねえねえ真理。これってさあ、隠し部屋に通じてる秘密の入り口ってやつじゃない?」


 今回は、わたしと一緒にいる人間の顔がはっきりと見えた。真理だ。真理が、向かいのソファーから飛び起きてきた。


「配信できてる? できてるねー? よーし、オーディエンスの諸君も盛り上がってるぞ!」


 視界を塞いでいた「赤色」が、徐々に薄らいできた。夢の世界が、通常の現実と変わらない色彩空間になっていく。


「え。ちょっと。土を掘り返すとか言わないよね? もう帰ろうよ、美咲」


「掘り返そう! 倉庫部屋にシャベルがあったじゃん? あれを使えば小一時間でいけるいける! だいじょうぶだって。骨とか出て来たりしないからさ。ちゃんと警察が調べ終えた屋敷なんだから。土の向こうの空間も調査済みっしょ」


「じゃあ、どうして再び埋められてるの? この土も、窓の段ボールも、なにかを封印している気がする。この土の向こうには将門公の首塚みたいな空間があって、誰も手を着けられずにずっと封じられてきたんじゃないの?」


「真理は怪異を信じないんでしょ? 掘ろう掘ろう! 今から掘れば、お昼には帰れるって!」


「んもう。真面目に聞いてよ美咲!」


「視聴者の皆さん、ここが『赤い部屋』への入り口かもしれません! 同接10万も夢じゃない! さあ、掘るぞー!」


「あ。ちょっと。真理?」


 たぶん夢の中での時間軸が逆行している。この夢は、今朝見た夢より少し前の時間なのだろう。これが「予知夢」だとすれば、だが。


 だとすれば、真理は「赤い部屋」への入り口を掘り当ててしまうことになる。


 恐らく暖炉の向こう側に、隠し通路と隠し部屋があるのだろう。


 そう、「赤い部屋」が――。


(でも、間取り図を見る限り、そんなスペースはどこにもなかったけれど)


 この夢がどうか現実化しませんように、とわたしは祈ることしかできなかった。

 夢の中では、わたしはなにも変えられない。それは、現実でも同じなのだが――。

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