或る童の抱く疑問

我々の血の色によく似た、澄んだ川底に墨汁を垂らしたようなグロテスクな法衣に身を包んだ裁判官は、これから己を苦しめる業火を罪人に見せつけているかのように、天井から吊り下げられたシャンデリアの蝋燭ろうそくの炎を反射し白々しく染められた黒縁メガネのその奥で、今しがた私を睨みつけた、そう感じた。

 刹那、ガベルがサウンドブロックを打ち付ける音が、法廷に響き渡った。

「静粛に!静粛に!」

 検事側、弁護側は、互いに睨み合ったまま、後ろへと一歩引き下がる。

 まるで、壁から壁へ、天井から天井へ、タコ糸が張り巡らされているような緊張感と圧迫感が漂う中、実に十五匹の裁判官を代表し、裁判長の判決文を読み上げる野太い声が響き渡った。

「判決を下す。被告は法の定める危険組織の違法集会には参加したものの、組織に関与しているという確証がなく、また今後も関わる意志が見られないことから、国家転覆罪の適用は認めず。しかし、被告の社会的地位とそれに付随する影響力を鑑みて、禁固二十五年とする。これにて閉廷」


 私は手錠を掛けられ、役人に両腕を掴まれたまま法廷を出た。

 法廷の外には、まるで法廷が柵で囲われているのではないかと錯覚してしまうほど、多くの見物で溢れかえっており、私が法廷のロビーから出てくると同時、急ぎ過ぎた報道関係者が鉄砲水のように押し寄せ、裁判所の関係者に押し戻される一幕があった。

 私は彼らが投げかける質問に一切答えるようなことはせず、写真機が放つ閃光を頭の皿に反射させながら、堅牢な造りの護送車に乗り込んだ。

 護送車の扉がガチャンと勢いよく閉められると、エンジンがかかり、汽笛を鳴らしながら発進した。

 街の中央の滑らかな大通りを、滑るように移動する護送車の中は、汽車と比べて頭が揺れず快適であった。

 検非違使の一匹が、懐から一封の封筒を取り出すと、私の前に差し出した。

「はい、何でございましょう」

「前の拘置所の所長がお前にと寄越した」

 そう言って渡された手紙は、一見何の変哲もない、ややれて四隅にしわが寄った茶封筒。

 封筒には消印の代わりに、(検閲)済という印が押されているが、封に開けられた形跡がない。

「開けても良いか」

「好きにしろ」

 私はその手紙の封をびりびりと破った。

 その手紙は、今までとは違い、子供が書くような不安定な字で書き記してあった。




 おじさんへ

 

 わたしには人げんのお友だちがいました。その人げんはわたしのいえにあそびにきて、あそんでくれたりおかしをくれたりしました。だけど、そのお友だちはいなくなっちゃいました。わたしはわからなかったです。そのまえにお友だちが、ひょっとしたら、おれ、しぬかも、ていっていなくなっちゃったのです。お友だちはどこへいっちゃったのですか。だって、いつしぬかなんてわからないじゃないですか。でも、あのお友だちはほんとにしんじゃったの。じぶんで川におちて、上ってこなかった。お友だち、なぜしんじゃったの。




 私は思うに、人間はもはや、他者の中でしか生きられない生き物になってしまったのではないか。人間は我々の思うように、最早高度な精神を持ち合わせてはいないのかもしれない。

 つまるところ、他者から認められない世界において、自分の存在は無いものに等しい。人間が作り上げた高度な文明が、人間同士の結束をより広く、強固なものとし、その繋がりから外れた人間は死人と同等の扱いを受ける、または、自分自身でそう感じざるを得ないような、精神的に貧しい世界を作り上げてしまったのではないかということを言いたいのだ。

 人間は少なくともまだ猿人だった時代から、その冷酷さを露わにしていた。

 自分たちとは少しでも異なる性質を持つ人類、劣るとみなす人類、それらを危険と判断し、騙し、殺して回った果てに生き残ったのが今我々と共に生きている人間だ。仲間を尊重し、助け合う裏で、異なる存在を徹底的に排除してきた生き物。そのような人間特有の同族意識、裏を返せば他者に対して排他的な性質は、他者の承認を基盤とする社会を形成した。

 我々のように群れを成す生き物にとって、社会とは己が存在することができる唯一の空間であり、空間には基盤となるものが存在する。我々の場合、それは河童である。河童であるだけで、我々はどんな河童であろうと、河童の社会に属することができる。私はそれが、人間の場合、承認となっているのではないかと思う。

 相手から己を認めてもらえなければ、己は存在しない。自分らのテリトリーに入り込んだ異物を取り除くといった感覚なのだとしたら、ある程度理に適っていることとはいえ、これでは人間たちは己の欲求や欲望を、過剰に押し込みながら生活していることになる。これでは、人間は河童より、あまりに不幸ではないか。

 ただ、それらは単なる憶測にすぎない。が、しかし、やはり最近河童の国に訪れる人間を見ていると、やはり他人の皿を気にする様子が伺えるし、私はこれがやがて我々にも大きな影響を与えるのではないかと懸念している。

 さて、この手紙に対する答えだが、人間の死因は決して一つではない。例え麻疹が世界的流行している状況下であっても、交通事故で死ぬ輩もいれば、家事で死ぬ輩もいるわけで、とりわけ自殺とか言った極々最近のトレンド一つとっても、それが今となっては時代遅れの武士道精神に則った美徳精神によるものかもわからない。

 だが、考えてみると、彼の中で本当の自分を見つけてくれた河童は、果たしていたのだろうか。

 我々河童は、他者を河童であるとしか認識できない。それは人間に対しても同様であり、我々は人間を人間であるとしか認識できない。それが、彼らの元居た世界の尺度に当てはめると、いったいどのような度量なのだろうか。彼らは誰一人、己を己として認めてはくれない。己は人間である。人間であると、言われ続けることは、彼らにとっては己の中には何もないと言われ続けることと同義なのではないか。

 果たしてそれが、命を絶つほどの重大な事柄であるか否かはわからないが、彼を自殺へと仕向けた一つの原因であるのかもしれないと、私は思う。



迷える子羊よ。

 もし明日に世界が終わるとしたら、貴方はどうする?大切な人に別れを告げる時間を確保したり、趣味の世界に最期まで没頭したり、とにかく生きているうちにできることをしようとする筈だ。

 それは己の生存本能に従った行動であって、河童の世界にも存在しうる自然な現象だ。しかし、自ら世界を終わらすという不自然な行動をとる人間が現代では少なくない。なんたって最近、人間関係、責任、これら自分にしかどうにもならない問題が目の前に立ちはだかった時、限界を感じ、逃れるために自らを手にかける人間が後を絶たない。

 しかしそれは、一般的にはそう言われているだけであって、実際は少し異なる。一つの障害を乗り越え、その先にまたいくつ障害があるかわからない。そんな将来への、唯ぼんやりとした不安、いつ終わるかわからない世界に、嫌気がさしてしまうからなのだ。

 人間の心理を理解することは我々には難しい。しかし、これだけは覚えていて欲しい。河童というのは、他者から認められ、かつ己の中で生きていく種族である。これだけは、決して忘れてはならない。          』




 このようなことをよわいいくつの童に向けても、首を傾げるだけであろう。ただ、我々も他者を理解することの必要性を認めることが必要なのかもしれない。




『我々の生存権は我々が握るものである。よって、他者の干渉を我々は断じて許さない。他者によって財産が侵されることも、他国によって領土が侵されることも、あるまじき行為なのだ。だから我々は、永く生き過ぎた河童を養っていく道理もないわけだ』

__金曜集会、筆頭書記長演説より一部抜粋

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