或る優良青年の謀(はかりごと)

 俺から見たジャックという河童は、どことなくつかみどころのない奴だった。

 下駄にマントといった子供の癖して生意気な格好をしていた彼であったが、むしろそれが彼の歳相応の自然な格好であるかのように俺の目に映った。

 いや、そう映ったのは俺だけではない筈。

 少なくとも、彼には余がこれから経験するであろうあらゆる荒波を既に潜り抜けてきたかのような貫禄があったし、そのことについて周囲の大人どもから指摘を受けていたのは事実である。

 彼に受け継がれた血液が、代々名将を輩出してきた血統書つきのものであるという色眼鏡があったのもまた事実であろうが、彼の貫禄というのは、軍人のそれとはまるで違った、例えば深く透き通った瞳からは哲学者のような知性が感じられたのだ。

 あの日に彼と出会って以来、俺の隣には彼がいた。

 いや、この場合、彼の隣には俺がいた、と言った方が正確であろうか。

 周囲の同級生らは複雑怪奇な国際情勢を己のちんけな感情論で片付けようとする身も蓋もない話題で盛り上がる中、俺は彼を身近な事件や大衆の話題、他愛のない世間話に付き合わせた。


 五年にもなると、流石に方言は無くなり、田舎者と罵られることは無くなった。

 彼はマントをいつの間にか取り外し、皆と同じ背広姿となっていた。

 俺は彼のあのマントを密かに気に入っていたのだが、彼にもさまざまな変化があったのであろう、特に無駄な嘴を挟むことはしなかった。

 ある日の学校の帰り。

 初夏を感じさせる雲の一つない広々とした空の下、ほうき星のように後ろへ流れる黒い煙に牽引されて、鉄のレールの上をゆさゆさ揺れながら走る二等車の相乗り席で、俺とジャックはいつものように向かい合って座っていた。


「なあ、コック」


 珍しいこともあるもんだ。

 なんと、彼の方から話しかけてきたのだ。


「なんだジャック、お前の方から話しかけてくるなんて、珍しいじゃないか」

「いやなに、ふと私の行く先が気になったもので」

「お前の行く先?この線路の続く先がお前の行く先だ」

「それでお前はいいと思うのかね。確かに終着点は皆同じだ。この世で唯一、平等に同じ結末が待っている。大事なのは道筋であると、私はそう思うのだ」


 成程、己の将来についての話か。


「お前はご先祖に倣って皇国軍士として生きるのではないのかね」

「残念ながら、私は軍というものに甚だ興味がないのだ」

「なに!?興味がない!?我が国皇をお護りする大変名誉ある役職であるぞ!何故だ」


 俺は彼を根っからの皇国男児と思っていただけに、今の彼の発言には相当な衝撃を受けた。

 一方の彼は、今の発言がまるで他愛もない汽車の中に飛び交う他愛もない会話の一部であるという認識なのか、長い目をして窓の外に流れる商店街の景色をただぼんやりと眺めていた。


「お前の父も軍隊だそうじゃないか、コック」

「ああ、だから俺は、立派な皇国軍士として父と肩を並べるのを夢見て、父の背中を追いかけている最中だ」


 目の前の彼は、自らの将来について真剣に語る俺の話を聞くより、窓の外の雁を眺めている方が面白いようだ。

 彼のその趣味は今に始まったことでもないが。


「お前はその目で、父の仕事を一度でも見たことがあるのか?」

「あるわけない。民間人の立ち入りは軍の機密規定に抵触する」

「なら何を目指すんだ。お前の父が何をしているかもわからんのに」


 彼に対して腹が立ったのはいつ以来か。

 俺や親父の事を何も知らないくせして、そこまで言われてしまっては反論せざるを得ない。


「何を言うか!俺の父は、我らの国皇をお護りする為に、常にお側に在られなきゃならねえんだ!」

「そうだ、そこなんだ。皇国軍はあくまで国皇を護る組織であって、皇国そのものを護るものではないのだよ。現状皇国を防衛する組織は実質皇国軍だが、あくまでそれは国家の主権たる存在が国皇であるが故、それを守護すること即ち国を守護すること、この理屈の上に成り立つ組織なのだよ」

「何が言いたい」

「この国の河童は皇族が滅びたら国が亡びると本気になって信じている。実際はどうであろうか。皇族が亡びようと国土は国の境までやはり続いているし、第一国が滅びようと翌年には変わらず桜は咲くのだよ。不思議に思えるかもしれんが、それは当たり前の事なのだ。だから我々は、皇を護る前に自らを守らねばならん。遅かれ早かれ民衆はそれに気が付く。その暁には、私らは、自らが真に護るべき者たちに鋼鉄の刃を向けることになろう」

 

 言い終わると同時、汽車はトンネルの中に入った。

 汽車の窓に反射し、彼の虚ろな表情が映し出される。

 こうまで俺が喧嘩腰に語り掛けているというのに、彼はまるでそんなことお構いなし、または気が付かなかったとでも言うように眉一つ動かさず、ただ何をするにも気力が奪われてしまったかのように、幹力な表情で、無気力な声で、無気力なことを言った。

 それを聞き、俺も反論する精神が心から抜け落ちたかのように、心臓を激しく動かした高ぶる感情がみるみるうちに血流に流され、胃の中で消化され、見る影もなくなってしまった。


「ジャック、お前、自分の父親についてはどう思うんだ。ほんとのことを言ってみろ」


 ほんの僅かにだが、普段微動だにしないジャックの眉が、ぴくり動いたのが、窓に反射する彼の顔から見て取れた。

 それは、動く電車の二重反射による悪戯だったのだろうかと今では思う。

 しかし、やはり眉が動いたのは間違いなかったのだろうと思わざるを得ない理由が直後に彼が発した言葉である。


「コック、私は父のことがあまり好きではない。民衆は父を、やれ英雄だの、真の皇国民だの、好き勝手言っているが、私は本当の父の姿を知っている。家に帰れば酒に溺れ、夢と現の見境がなくなる。とうとう強烈な被害妄想に襲われて、母を殴る、物を壊す、ひとしきり暴れ回った後、家を飛び出して路上で腹を出して寝ている。母はそんな父の性格に嫌気がさして、とうとう家族を捨てて夜逃げした。河童たちは母を非皇国民だの無責任なことを口にした。

 だが、父をこんな性格にしてしまった根源はこの血統書付きの一族の血にあるのを私は知っている。父は生まれながらに戦争が好きではなかった。その血筋故に軍へ赴かねばならぬことを、良しとしたくはなかったと、酒に酔った勢いで、大声で叫ぶんだ。私は父親が戦地から帰ってくるたび、このような話を聞かされて、胸が締め付けられる思いだった。軍に対しての愚痴、皇国に対しての愚痴、世間に対しての愚痴、先祖に対しての愚痴、それが一月ほど続いたのち、父は死んだ蛙の目をして、口先だけの「皇国の為に」と定型句を玄関で言い放ち、向こう一年の勤めに出るんだ。父はその血に束縛された生活を続けている。私はそんな父の姿を目の当たりにして、それでも軍に入ろうとは思わない。寧ろ、この呪われた血筋は、今すぐにでも抹消すべきだ」


 汽車がトンネルを抜けた。

 黒い煙が、青々とした空へと霧散していった。


「血筋を捨てたことで、私の生涯は儚いもので終わってしまうであろう。だがしかし、もし私にも子供が出来た暁には、腹の中の子にこう聞くと決めているんだ。『お前の信じたるは、我らの過去か、己の未来か』」


 金切り声を上げて汽車が止まると、彼は河童の群れに流され、改札口の向こうに姿を消した。


「己の一生は誰が為か」


 これが俺が、腹の中で問われた設問であったと記憶している。



 俺とジャックの仲にも、とうとう別れの時がやってきた。

 お互い父親がいない中で迎えた卒業の儀で、我らは己の将来を壇上に登り述べねばならなかった。


「務めに出て、立派に責務を果たした暁には、母校カ・クラ皇国教育学校生として恥じぬよう、懸命に勤めてまいります」


 俺はこの時には既に、軍隊への夢を語らなくなっていた。

 自身の中に、軍隊に対する疑問を持ち始めたのも、このときだったと思う。

 果たして、俺の軍隊入隊への動機は、皇国軍に入隊する動機として純真であるのか、そもそもにして、軍隊であることに動機付けは必要なのであろうか。

 俺にはその答えを見つけられるだけの頭が無かった。

 そうこう考えている内に、とうとうジャックの番になった。


「我は、皇国の将来を担う新たな世代として、次世代に未来を残せるような、そのような社会の実現に向けて努力することをここに誓う」


 彼は、壇上で右手を高々に掲げ、そう宣言した。

 その瞬間、間十歩離れた河童の鼻息をも耳に届ける静寂が覆り、ざわざわと個々の聞き取れない耳打ちが巨大なさざ波となって、式場を轟かせた。

 波の発生源である彼は、例に倣い一礼した後、何事もなかったかのように壇上を降りてしまった。


「静粛に!学籍番号4612…」


 学長の一声が式場をもとの静寂に戻すと、式は予定通り進行した。


 校門の外に、後数日持つか持たぬかの、薄紅色の花弁を散らす緑がかった木々が立ち並ぶ並木通りを闊歩する卒業生の群れが形成されていた。

 この並木通りを真直ぐ進めば、通いなれた駅舎へ出る。

 そこで俺たちは、互いに別々の道へと進むのだ。

 その最後を飾る会話には、他愛もない話題の方が良いのだろうか、はたまた、この国の将来について、まだ語り切れていない箇所を後腐れなく語りつくすべきであるか。

 いろいろ考えを巡らせている内に、とうとう道半ばまで来てしまった。


「ジャック、俺は、ほんの少しばかり、芸術路線に走ろうと思う」

「ほう、それはまた唐突だな。確かにお前には絵の心得がある。だが、それを職業にするというからには、何か相応の覚悟があっての事ではないか?」

「ジャック、弱きを助けるには、何も彼らと無理に分かり合おうとすることもない。自分も決して強い河童ではないことに気が付いたのだ。だから、彼らと分かり合うきっかけとなりうる、共通の何かが必要なわけだ」

「お前はそれを自らの絵と心得た」

「その通りだ。言語がなくとも大勢の河童に伝わる、芸術は我らが河童である限り、誰にでも理解できるものであると信じている」

「そうだな。お前らしい。お前のやり方でやっていけ」


 この時語った俺の夢とやらが、話題作りのための口から出まかせであったかは覚えていない。

 しかし、この時の発言が、俺の将来の方向を明確にしたというのは疑いようのない事実である。


「ところで、ジャック。お前の将来の夢も気になるところではあるな。あれだけ式場を騒がせたんだ、さぞ立派な目標であろう」

「生憎と、俺の将来は漠然としたままだ」


 俺の問いかけに、彼は意外にもそう答えた。


「私はどうやら、この世界を今一度見つめなおす必要があるようだ。気づきはしないか、この世界は徐々に、各々の価値観が多様化してきていることに。おそらく、今後この社会には、現在世に蔓延る古からの因習から脱却する流れができるだろうと思われる。そうなったとき、古来からの考えに囚われていては話にならんのだ。物事を様々な角度から見つめなおす必要があるのだよ。私は暫く旅に出る。行く先々で目にしたものを、様々な角度から観察し、論理的に考え、社会の本質を見抜くんだ」


 この時、俺は確信した。

 ああ、彼は、俺よりも自らの将来について考えている河童だなと。


 駅舎には卒業生へ向けた、黒百合の花が数多く添えられていた。

 駅舎は我が学校の生徒だけでなく、この駅周辺の寺小屋の生徒なんかも卒業生の見送りで押し寄せ、乗り場に収まりきらないほどひしめき合っていた。


「しゅっぱーっつ!」


 聞きなれた駅長の嗄れ声が、この時ばかりは体の奥底へと響き渡っていった。


「ジャック、達者でな!」


 俺は汽車の窓から、ジャックに手を振った。

 俺だけではない、汽車のほとんどの窓から、卒業生たちが身を乗り出し、向こうの線路にまで溢れ出た駅舎の学友の群れに向けて手を振っていた。

 河童の鳴き声が飛び交う駅舎を、汽車は普段より長い汽笛を鳴らし、レールを軋ませ、ゆっくりと動き出した。



 俺は卒業後、父のように士官学校へは通わず、高校へも行かなかった。

 貴族でもない俺は、十七で兵役に就いた。

 父がいる戦場ではなく、国内の駐屯地で訓練が続く毎日であった。

 宿舎の中に、一匹妙な河童がいた。

 彼の名をチャックという。

 識別番号が俺と近く、蛸部屋に敷き詰められた二段ベッドの、双方とも上の段で隣同士、奴の足に頭を向けて寝ていた。

 何が妙であったかを端的に話せば、彼は自由な考えを持つ河童であったこと。

 起床の合図である法螺貝が聞こえると同時、他の隊員は重い瞼をこじ開け、ベッドから転げ落ちながら服装を改め、宿舎の前に整列するものだったが、彼に限ってはその気はまるでない。

 起床の合図の十分前には既に身支度を整え、外で呑気に乾布摩擦などしていた。

 無論、これは無許可の放浪、立派な軍規違反である。

 上官に注意されようと、行動を改めなかったため、行動自体に特に問題は無かろうという判断の下、条件付きで全員に早朝の準備行動が許される結果となった。

 つまりは面倒に思った上官によって咎められることは無くなったのだ。

 無論、いくら面倒くさがりな上官とて彼を手放しに無罪放免としたわけではなく、彼の役務態度が優秀であるが故、帳消しにされただけである。

 とは言いつつも、「お言葉ですが」が口癖の彼は、副隊長には良く思われてはいなかった。

 隊長は、彼の意見具申に唯一聞き耳を立ててくれる上官であったが、返答は決まって「隊長命令に従え」だった。


 訓練と言えば基本的には、基礎体力向上の為の、古来より形を変えていない走り込み、腕立て腹筋、平泳ぎ、それらを日々難しくなっていく目標に到達するまでやらされるだけであった。

 実戦訓練は、自身の背丈ほどの盾と竹槍を支給され、ひたすら竹槍で空を突くものと、盾で瞬時に陣形を築く訓練をするものに分かれて行われた。

 腰が引けている河童は、巡回している上官によって腰をひっ叩かれていた。




 休憩がてら、きゅうりの塩漬けを齧っていたところ、チャックが瓢箪を持って現れた。


「なあ、コック。隣いいか?」

「あ、ああ。構わないさ」


 二匹で宿舎裏の草むらに腰掛け、いつか鳴る法螺貝に怯えながらも静かなひと時を過ごそうとしていた。


「お前は疑問に思わぬか?この訓練」


 隣の河童が語り掛けてきたこの話題を、先の訓練で疲弊しきった俺の頭は小鳥の囀りと認識した。


「疑問?なんの変哲もないじゃないか」


 特に何を考えるわけでもなく、思ったことを率直に述べる。


「確かにな、何の変哲もないように見える。盾や竹槍を手段として用いることには我々は何の抵抗も覚えない」

「何を小難しいことを」

「問題は、この訓練で得られた技術を、なんのために使用するかだ」

「なんのためって、ここは皇国軍だぞ?国皇を護るための他に何があるんだ?」

「そうだ、国皇を護るためだ。何から護る?」

「それは…国皇を脅かす者どもから」

「それは誰だ?」

「…」

「お前が、俺が、竹槍で突いているものはなんだ?盾で押さえつけているものはなんだ?少なくとも、銃火器で武装した河童ではなかろう」

「…」


 俺はその時、友の言葉が頭に浮かんだ。

「私らは、自らが真に護るべき者たちに鋼鉄の刃を向けることになろう」


「まあいい。今の事は忘れてくれ、同志」


 法螺貝が訓練場に鳴り響くと、俺らは駆け足でグラウンドへ戻った。


 翌朝、起床の合図の前に目が覚めた俺は、宿舎の外へ出た。

 宿舎の外は、私と彼以外に河童の姿はない。


「おはよう」

「おはよう同志、今日は早起きだな」


 彼は日課である乾布摩擦の最中であった。

 訓練所の束子のようなタオルで身体を擦って、痛くないのであろうか。


「お前もどうだ?」


と彼は乾布摩擦を薦めてきたが、丁重に断った。

 俺は、何故毎日乾布摩擦などするのかと彼に問うた。


「乾布摩擦などというのは、早起きをするための口実に過ぎん。早起きをすることにこそ意味がある。河童は朝に弱い。一度体を休めれば、再び起き上がるのに苦労する。精神的にまだ未熟な種族なのさ」

「朝の起床の合図じゃあだめなのか」

「だめだ。それでは他の連中と変わらんであろう。連中に背中を見せるには、連中より一歩前にでるか、あるいは連中とは反対方向に進むかだ」

「なぜ連中に背中を見せる必要がある」


 そう俺が彼に問うと、彼は甲羅を擦る手を止め、何か遠くのものを睨むような目をしてこう言った。


「決まっているだろ。リーダーになるためだ」


 その瞬間、朝礼を知らせる法螺貝が鳴り響き、周囲が途端に慌ただしくなった。



 朝食、食堂に河童が集い、壁際に並べられた朝食を皿に盛りつけていた。

 俺もそれに倣い、トングでパンやら肉やらを移していると、食堂の奥の窓際の席に形成された数匹の群れの中から、一匹の河童がこちらに手招きをしているのが目についた。

 俺はお盆を持ちながら、その席へと向かった。

 四角い長机の一角に、俺を含めて三対三で座り込む河童たちは、なぜか神妙な面持ちで俺を迎え入れた。


「さて、役者は揃ったわけか」

「…なに、何を始めようってんだ?」


 どうやら皆、自分がなぜここに座っているのか把握していないらしく、向かいの席の一番窓側に座るチャックに熱い視線が注がれる。


「諸君に集まってもらったのは他でもない。皆に、蜂起を呼びかける」

「「なんだって!?」」


 声を荒げようと席を立ちかけた俺に、隣の河童が手で静止を呼びかける。

 そしてそのまま、彼はゆっくり口を開いた。


「なぜ、蜂起を起こそうと思い至ったのか」


 その問いかけに、チャックはそっくりこう返した。


「なぜ、蜂起を起こそうとしなかったのか」


 それから、チャックは長く話し込んだ。


「うんざりするだろう。貴族とは何だ。我々の血肉を貪り食らう奴らはなんだ。奴らはこの国の発展に何一つ貢献をしていないじゃあないか。それどころか、我々に保障されたはずの自由な経済活動すらも彼らの手によって制限され、山童殲滅を掲げた侵略戦争の武器供与に深く関わり、自国民の生活に関わる日用品の生産にすら手が回らない状況。金があるのに使いどころがない、豊かであるのに貧しい。この矛盾した状況を生み出しているのは、他ならぬ封建制ではないか。そもそも奴らはどこから湧いた。彼らの地位を確約するものは何一つ残されていない。皆も思い出してほしい。河童の何たるかを。我々が河童として生きる権利は己の地縁と血縁に支えられてきたということを。沢があればそこへ飛び込み、川から上がれば人と交わり、人間の想像力と畏怖の念によって形作られてきたのが我々の血肉だ。決して奴らに食らわれるために作られたものではないはずだ。公に口にせぬが、皆も心のどこかでそう感じているのであろう。この燻った火種は近く大火となる。そうなれば、皇族の足許の我々は善良な市民の敵となる。そうなる前に、我々の手で大火事を起こすのだよ」


 彼は我が国の身分制度について、以前から気に入らないことを常々漏らしていた。

 今となってはそれは周知の事実であるが、俺がそれを初めて彼から聞かされた時は、そのようなことをいとも容易く嘴に出す彼の正気を疑ったが、彼の主張それ自体は、賛同できるものではあった。

 しかしながら、俺には彼のように、その自らの主張を前面に押し出す勇気が無かったのだ。


「我に賛同する者はいるのか」


 彼の呼びかけに、一同沈黙を貫く。

 とうとう彼は、ため息をこぼし、席を立とうとした、その時、


「チャック、おいらは賛同するぜ」


 一匹の河童が手を挙げた。


「おお、そうか、他にはおらぬか」

「俺も、あんたの意見には賛成だ」


 気づけば俺も、彼につられて手を挙げていた。


「そうかそうか、やはりお前も来てくれると信じていた」


 結局、手を挙げたのは、チャック除く五匹の内の、俺を含め三匹だった。


「ここでの会話は誰にも言わん。だから、俺らは何も知らんことにしてくれ」


 残りの河童はそう告げて、席を離れていった。

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