或る少年の正義観

 コック───俺が生まれた地域は農村部。

 父が皇国軍人であったために、農村部の中でも裕福な家庭で育った俺は、近所の寺子屋ではなく、少し離れた都市部の郊外にある皇国教育学校に通っていた。

 ここにいる奴らは親が資本家であったり、貴族であったりしたために、普段から整った髪の毛に背広、メスの場合はドレスといった、上品な服を着させられていた。

 俺はそいつらが無性にむかついて仕方がなかった。

 なにせ、俺はこの目で農村部の奴らを見て育ったのだ。

 こいつらがナイフとかフォークとか小洒落た食器で肉やらステーキやらを踊りながら食べている中、農村部の奴らは日照りの中汗水たらし、きゅうりを齧りながら畑を耕している。

 そいつらとこいつらで、なんの隔たりがあるというのか。

 幼いながら、俺はこの不公平な社会に対してある種の憎しみを抱いており、その悪を固めたような己の周囲を取り囲む河童関係にも当然、甲羅が焙られるような怒りが込み上げてくるのだった。


 ある日のこと、駅舎の裏の三輪車置き場の影で、なにやらうちの学校の上級生らしき、ませた服で着飾った小僧が、囲いをつくっているのが目についた。

 どうせ何かまたろくでもない企みを立てているのだろうと思い、奴らのまるで何が楽しいのかわからぬ日々の道楽に耳を貸す重要性を見いだせなかった俺は、されどまた迷惑被るのは避けたい思いで駅舎備え付けの便所の小窓から群れを覗くと、その囲いの中心には、おそらく貧民街から迷い込んでしまったのであろう、穴だらけ煤だらけのジャケットとジーパンを着た少年が横たわっていた。

 その光景に、俺はとてつもなく嫌悪感を抱いた。

 大勢の金持ちが、貧乏人によってたかって、まるで汚い社会の縮図であるかのように思えたのだ。

 俺はそのまま窓の隙間から飛び出すと、囲いの小僧の頭を一発お見舞いしてやった。


「てめっ!何しやがる!」

「そりゃこっちゃの台詞だ!おめえらこそ、この子によっちゃたかって、なにしてっだ!」

「黙れ田舎もんが、事情も知らねえくせに。下級生のお前が上級生の俺らに盾突いていいとでも思ってんのか?」


 小僧らの拳が四方八方から一斉に襲ってきた。

 一匹の腕を掴むと、そのまま背負い投げを決める。

 躍起になった奴らは蹴って殴って、頭の皿を叩き割らんと無茶苦茶に襲いかかった。

 父が軍人であったが故に、体術を心得ていた俺には大したことのないものではあったが、数が数だけあって、それ以上の続行は厳しくなってきたそんな時である。


「やれ、すまない」

「なんだ貴様…」


 小僧は俺の胸ぐらを掴んだまま、殴りかかった拳を止める。


「あんたは、元帥のせがれの…」

「どうもそいつは俺の友人のようで」


 乱闘騒ぎに首を突っ込んできたのは、外套を羽織り山高帽子を被った童であった。

 彼はまるでそのまま時が止まったかのように固まった俺らの元に、下駄をカラカラ鳴らしながら近づいてくる。


「父が世話になってる」


 彼がそう言い放つと、小僧らの顔がみるみる青ざめて行くのが目に見えてわかった。


「嘘だろ、こいつの親父、軍人かよ」


 小僧らは、そのまま駅舎の裏通りに逃げ去っていった。

 俺はすかさず、少年の元に駆け寄る。


「おい、大丈夫か?」


 少年は俯いたまま、顔を上げない。


「道に迷っちゃか?家まで送るぞ」


 そう言って手を差し伸べてやるが、少年は俺の手を払いのけた後、アザのついた目で睨みつけて逃げ去った。


「あ、ちょっ、これ!」

「よせ、彼は家出少年だ」


 高山帽の彼は、追いかけようとする俺の左手を掴み寄せた。


「放せ、大体おめえもおめえだ!親父がなんじゃ!この喧嘩にゃ関係ないだろ!」

「そうだな、喧嘩には無関係な父親の社会的地位を喧嘩の仲裁の切り札には使うべきではなかったかもな。済まなかった。だがしかし、お前自身もこの喧嘩には関係なかったんじゃないか?」


 怒鳴り散らす俺をなだめるように、彼は俺の主張をすんなりと受け入れ、さらに自分にも非があったと謝罪した。

 その上で、彼は俺の仲裁こそ不必要だったのではないかと言った。


「何を言っちゃるんだ貴様!弱き者がいじめられているのを、ただ見過ごせと言うのか!」

「少なくとも彼は自分を弱き者だとは思っていなかった。お前の主張は、貧乏人を弱い河童だと心得違こころえたがえていじめ倒すあのお役人のせがれと同じだ」

「じゃあおりゃあ、どうすりゃよかっちゃ?」

「簡単なことさ。庇うようなことはせず、ともに闘えばよかったんだ」


 彼が何を言いたいのか、なんとなく理解した。

 だが、俺にはあの少年をどうにかしてやりたいという気持ちも捨てきれなかったのだ。


「彼の居る場所なら大体の見当はついているぞ」

「本当か?どこにいる」

「スチーム街のチルドレンストリートだ。三番街のスチーム街の高架下に家のない童らが屯している場所がある。家出少年なら必ずそこへ行くさ」

「なぜ彼が家出少年であるとわかっちゃ?」


 彼は深くかぶった高山帽を皿の上に持ち上げ、得意げな表情で語った。


「簡単なことさ。彼の目のあざを見ただろ?あれは奴らに蹴られてできたものではない。もっと前からつけられたものだ」


 俺らは街はずれの蒸気機関士らが集まるスチーム街へとやってきた。

 汽車が走る高架橋の下に広がる、辺り一面熱せられた蒸気が噴き出す配管が張り巡らされたその街は、煌びやかなネオンや電飾で彩られた看板の数々が都市の景観を担っていた。

 しかし、高架橋の真下は外の光が行き届かない、無法者の巣窟としても有名だった。

 おそらく鉄道事業者が連絡通路として用いていたのであろう細い通路に一歩踏み入れれば、日も落ちて肌寒い中段ボールで暖をとる青年の姿が至る所で見られた。

 ここは通称チルドレンストリートと呼ばれる、宿なしのティーンが集まる通路である。

 もう少し奥へ行くと、なにやら危険な薬に手を出したらしい目が虚ろな青年や、当時の俺と同じくらいの年齢にも関わらず、酒瓶を抱えた千鳥足の集団がいた。

 俺らのような部外者が足を踏み入れると、今にも刺してきそうな鋭い目で睨みつけてくるのであった。


「すまない、河童探しをしているのだが」


 高山帽は通路の少し入り組んだ場所で一匹の大人しそうな河童に話しかけた。

 彼の身体は、服の下に肋骨が浮き出ているのが想像できるほど痩せ細っており、虚ろな目からは繁華街の酔っ払いとは異なる、自らを取り巻く周囲の環境から己に干渉したがる要因を全て跳ね除けた末に理会を会得したかのような、言うなれば御歳二百ん十年の何かの生き証人のような風格を宿していた。


「なんだ他所もんが。ただでとはいかねえぞ」

「生憎と手持ちがないもんで」

「冷やかしならけえってくれ」

「そう言わず、最近ここらへやってきた新入りの河童はいないか?」

「誰のことを言っているのかさっぱりだな」

「目のまわりに痣がある、私らより一まわり小さい河童だ」


 目の前の少年はその言葉を聞くや否や、顔の色を変えて黙り込んだ。


「何か知っているようだな」

「…あんたらが部外者だと見込んで話すが、このことは他言無用な。頭にばれた暁にゃ、俺はここにいられなくなっちまう」


 そして、少年は誰にも聞こえないよう小声で語りだした。


 確かにここについ一週間前に、一匹の河童が迷い込んできた。名をロックという。あいつは体躯も小さく、まだ外の世界で生きてきた経験の浅いもんで、頭にすぐに目を付けられた。

 頭ってのは、ここで一番大きな集団のボス。たくさんの子分を引き連れて、都市でスッてきた金やらものやらを貢がせちゃ、気に入らねえ奴を治安維持の名目で叩きのめして無理矢理配下に置いちまう、とんでもねえ暴れん坊だ。

 ロックの奴は顔を合わせただけでぶん殴られ、子分に集団でたかられてたよ。今じゃ奴の言いなりになっている。奴が金を持ってこいと言ったら、ここを出て街にスリに行くし、食いもん持ってこいといわれりゃ、市場から盗んでくる。そんであいつはゴミ捨て場の腐ったきゅうりを齧る始末だ。あいつに物を盗られたってんなら、頭に顔を合わせる必要があるな。もっとも、生きては帰れねえだろうが。


「奴ならスリでヘマやらかしたんで、今頃鎖で繋がれてるよ。あそこに見える非常階段を下っていった先だ」


 高山帽は、自らが羽織っていた外套を彼に差し出した。


「こんな気候じゃ寒かろう。これは礼だ」

「ああ、恩に着るよ」


 俺らは、青白く光る非常階段の方へと、静かに歩き出した。


「そういや、まだ名前きいちゃなかった」

「名前か。私はジャックだ。お前は閻魔だったな」

「コ、コックだ。閻魔は皆がそう呼んでいるだけちゃ」

「その訛り、北部の方から来たのだな。父もそちらの方出身なんだ」

「そういや、おめえの親っちゃんは元帥だって話だな」

「ああ、シル・クックだ」

「クック元帥って、あのクック艦隊のか?」


 俺もクック元帥の名は聞いたことがあった。

 代々名高い名将を輩出してきた家の出身で、彼自身も北部遠征で自ら艦隊を束ね、相手戦艦を僅か五隻の哨戒艦で撃破したと知られている。

 シルというのは、国皇から授かる称号である。


「それはすごいでっちゃないか」

「そうかな。私は生まれてくる前の胎児の自分に恨みを覚えるよ」


 国皇からも認められる偉大な父であるはず、しかし彼は、クック元帥の単語を聞いただけで、どうしてか口を利かなくなってしまった。


「明るくなってきたな」


 非常階段を降りた先、蛍光灯の青白い光が階段直ぐの曲がり角を照らしていた。

 曲がり角を曲がると、そこにはまるで、古城の地下のような、金属の錆びの臭い立ち込める、薄暗い部屋があった。


「だれだ貴様ら」

「ここぁ他所もんがきていいとこじゃねぇぜ」


 俺らの足音を聞きつけてか、中から木刀を携えた輩が五、六匹現れ、俺たちの行く先を塞ぎこんだ。


「お前さんたちに盗られたものを返してもらいに来た」


 このような状況下においても、ジャックはいたって冷静だった。


「ああ?俺らが盗ったって証拠でもあるんか?」

「ない。だがな、ここを通ればわかることよ!」


 意外にも、最初に出たのはジャックであった。

 いきなりの彼の行動に、状況整理が追い付かなかったものの、相手の反撃を受けたことにより、俺も反射的に喧嘩に参加せざるを得なかった。

 しかしながら、俺が輩を二匹ばかり引き付けている間、彼は残りの河童からの攻撃を、まるで体の八方に目ん玉が付いているかの如く華麗にすべてを躱し、相手の目を回して封じ込めた。

 俺の方は、二匹とも大したことがなかったので、難なくぶちのめしてやった。


「お前さんもなかなかやりおるな」


 彼はズボンのポケットに手を突っ込みながら、俺の方を見てそう言った。


「ああ、俺の父っちゃんも本当に軍人なんだ。小っちゃいときから仕込まれたよ」


 ジャックはなるほどと口笛を鳴らす。

 俺らは蛍光灯が点滅する薄暗い部屋の中に入ると、奥の方で何やら河童のうなり声が聞こえた。


「くぁ‥‥くぁ‥‥」


 そこには、朦朧とした意識のままわかりやすく衰弱して鎖に繋がれた、一匹の少年がいたのだ。


「ロック、ロック…、起きなさい」


 ジャックが少年の耳元で叫ぶ。

 その甲斐あって、少年はすぐに目を覚ました。

 しかし、


「くわぁ!?ごめんなさい!ゆるして!」


 少年は目を見開き、体をよじりながら叫びだした。


「落ち着け!私だ!奴じゃない」


 ジャックは少年の肩をゆすり、頬を叩いて正気に戻さんとした。

 少年は落ち着きを取り戻し、全身の力が抜けたかのように[[rb:項垂 > うなだ]]れた。


「なぜだ、なぜお前らがここにいる」


 少年は力なく、か細い声で我々に尋ねた。


「そこにいる奴が、どうしてもお前さんに用があると」


 ジャックはいきなり俺の方を指すものだから、少年の視線が向けられると、何と話せばよいかわからず、そのまま双方見つめ合った状態で時が止まってしまった。

 耐えかねたジャックが、何やら転がっている輩の懐を漁ると、左手に光るものを握っていた。


「とりあえず、手枷を外す」


 ジャックが左手に持つそれを手枷の鍵穴に突っ込むと、かちゃりという音とともに手枷が外れ、鎖にぶらぶらとぶら下がったまま壁伝いに垂れていた。


「そうか、お前らはこうしてみじめな奴らがいると手ぇだしたくなる病にでもかかってんだな?なぁ、そうだろう?絶対的な力に成す術なく、服従して、痛めつけられてる奴らを見ると!状況を見たままに判断して、偽善的な心が生み出した助太刀の衝動が!後先を考えずに体を動かして、俺らの置かれた立場も気にせず正義の鉄槌を悪に下し、自らがイデオロギーの頂点に立っているかのように錯覚して優越感に浸る!その先で、俺らがどうなろうと関係がないんだ。

 俺はなぁ、俺はなぁ、‥‥もうここしか居場所が無かったんだ!」


 少年は今にも噛みついてきそうな勢いで、俺らにそう訴えかけた。


「ちがう!俺はただ、お前を救いたいと‥‥」

「それは俺が惨めだったからか?螻蛄おけらだったからか?それとも、貧乏人だからか?」

「それは…」

「確かにお前らから見たらそれはみじめに見えるだろうよ。痩せこけて、ぼろ切れを着て、油まみれの髪の毛を生やして…、だがな、お前ら金持ちには分かんねえ、俺らには俺らの生き方ってのがあんだよ!少なくとも、喧嘩に親を引きずり出してくるようなお前らとは、齧るものが違うんだよ!」


 俺は少年に対して、何も言い返せずにいた。

 ジャックは、座り込んだまま息を切らす少年の前で、腰を屈めた。


「なんだ、どうしたってんだ」

「私はどうやらお前さんを誤解していたようだ。てっきりただの家出少年とばかり思っていた」

「あ?…違ったら何なんだよ」


 何かやましいことでもあるのか、ジャックの如何にも相手の心の中を突き刺しているかのような鋭い目を真正面で受け止める少年の痣だらけの目は、赤く腫れあがった瞼を瞬間ぴくりと動かした。


「お前さん、鍛冶職人だな?」

「…なぜそう思う」


 少年はジャックから目を逸らすが、ジャックは少年の態度に構うことなく続ける。


「簡単だ。手枷を外すときに見えたが、右手が軽度の腱鞘炎だ。ズボンは焦げた跡があるし、特に赤く爛れた左目は、火の粉が目に入った後だとすぐわかる」


 ジャックが次々と少年を鍛冶屋と決めつけるに足る理由となるものを指摘していくと、少年は堪忍したのか、


「ああ、そうだよ」


 あっさり認めた。


「ロックと言ったかな。道中で聞いた。お前さんがここに来た理由は、なんだ?」

「親方と揉めたのか?」

「違う、そうやってすぐに決めつける」


 少年とジャック双方から鋭い視線が送られる。

 何かまずいことを言ってしまったのかもしれない。


「俺の鍛冶場は、官営化によって接収されちまったんだ。親方もろとも追い出されて、綿工場になっちまった。金も碌に貰えず!‥‥親方は、偉大な方だった。その腕は、遠い昔は国一番と言われていた。まだヤマトと交流があった時代にはチョウテイにも納めていたと聞く。

 親方はとんでもねえかみなり親父だ。打つ瞬間がほんの僅かでもずれりゃあ皿ごなしに怒鳴られるし、思い通りにやらなきゃ工場の外まで蹴とばされる。でも、それは仕事の時だけだ。親方ほど俺たちを気遣ってくれる河童はいなかった。記憶に無え時からこの世界にぶち込まれて、右も左もわからん奴にも二食確りパンをくれた河童は、俺の知る限りじゃあ親方しかいねえ。

 工場長からは一段と可愛がられた。なんでも、第三のチャクラが他より敏感だから、温度変化に鋭いんだ。まあ、他の連中にしてみりゃ面白くなかったんだろう。かなりの頻度で吊るし上げられた。こう、足を縛られて天井につるされて、木偶で殴られるんだ。ふと親方の方を見ると、あんだけ騒いでんのにこっちには見向きもせず、呑気に缶コーヒーを飲んでるんだ。思わず笑っちまったよ。あんたの可愛い弟子が痛めつけてるっつうのに、まるでそれにゃ興味ないように、炉の火を眺めてる。俺はそんな親方との距離が、最高に心地よかった。俺の職場での扱いは他の連中と同じ。仕事ができるかできないかで決まる職人の世界を具現化したかのような、そんな親方に他の連中と同じ扱いを受けるのは己の中で名誉以外の何物でもなかった。職人気質つうかなんつうか、義理堅い河童だった。親方にゃ…大変世話になった」


 少年は、ぽろぽろと大粒の涙を流した。


「その親方さんは、今いずこへ?」


 ジャックの質問に、少年は途切れ途切れのぐずり声で、されどはっきり通る声で答えた。


「死んじ…まった!屠殺法だよ!河原に屯していた弟子もろとも、連れていかれて今頃は肥えた貴族連中の豚の餌にでもなってるだろうよ!」

「それで子供のお前さんだけ逃げてこられたと」

「そうだ、俺が職工なんて知られた暁にゃ、なにされんかわかりゃしねえ!…そうだ、あれは、仕方がなかった。俺のせいじゃねえ。俺の、せいじゃ、親方ああ!」


 少年は声を上げて泣き出した。

 顔をしわくちゃにし、皮膚を変色させるまで、この通り全体に響くのではないかというほど泣き喚いた。


 私は果たして、この少年の何を助けようとしていたのか。

 私は彼より恵まれていると勝手に決めつけ、恵まれている者は恵まれない者に富を分け与えるのが常と考え、彼が本当に欲しているものが何なのかについてはまるで考えなかった。


「すまぬ、少年よ。俺はどうやら、間違っていたようだ。しかしどうか、俺にも何とかさせてくれ。なんでもいい。食い物に困ったら頼ってくれて構わない。寝床に困ったらいつだって来るといい。それが俺の、唯一少年にできる償いなのだ」


 当時の俺には、少年に向けて、川で冷やした胡瓜より冷たく頭の皿より硬い床に、額を打ち付けるように平伏し、許しを請う他に選択肢がなかった。

 額に感じた冷たさがコンクリートによるものか、はたまた汗によるものか判別がつかなかったが、あの時感じた冷たさを、今でも覚えている。

 暫しの沈黙の後少年は、その傷だらけの身体を壁に押し付けながら立ち上がると、上体死体の歩くようにふらつきながらも、確実な一歩を踏みしめて、私の元に近づいた。


「やはり何もわかっていないではないか!きたねえ皿をこっちに向けるな!…大体、てめえも俺と同じガキじゃねえか。過ごしてきた年月の違わぬ相手に、何故頭を下げられねばならぬ!貴様はその歳にして、俺が、いや、俺らが被ってきた理不尽全てにおいて罪を負い十字架にかけられるほどの聖人君主で在られるのか!ならば、頭を下げるべきは俺の方だ。喜んで頭を下げよう。そうでないなら、俺がお前を今ここで殺したる。貴様のケツから手を突っ込んで嘘をつくそのぜつを声帯ごとぶっこ抜いてやる。そうでなくとも、その聖人もどきの真っ白けな心に漬け込もうとする輩に毒を飲まされて遅かれ早かれ貴様は死ぬであろう」


 頭髪を掴まれて、無理矢理地面から顔面を引きはがされた私の歪んだ瞳に、少年の今にも殴りかかって来そうな赤い双眸が突き刺さる。

 私は蛇に睨まれた蛙のように、顔面から足の指先までの筋肉が硬直して動けなくなってしまった。

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