或る恋煩うメスの心
誰しも心に病を患ったことがあるはず。
恋という名の、難病を。
私の初恋は、何十年前だったか。
初恋の相手と初めて出会ったのは、大学の入学式の時だったかと思う。
頭の皿に真新しい皇大帽を乗せ、馴染まない外套をゆさゆさと、散った桜を再び舞い上がらせながらぎこちなく歩く私の行く先、学校へ向かうバスが通るバス停で、おそらく私が乗る予定の大学前行のバスを待つ女学生が一匹、隣に立つ停留所の標識と見間違いそうなほど細くか弱そうなその彼女は、彼女の何倍も太く強かな幹を有する桜の大木が降らす花弁の雨に溶け込んでしまいそうなほど自然に、たった一匹で立っていたのだ。
大学生でメスというだけでも、なかなか珍しい。
私はそんな彼女とは少し距離を置き、ベンチを挟んで向こう側の街灯に[[rb:凭 > もた]]れ、靴擦れにより傷んだかかとを確認する素振りをみせながら、ちらりと彼女の方を見た。
彼女は本を読んでいた。
表紙はフランス語だった。
タイトルは『ペルシア人の手紙』───シャルル・ド・モンテスキューという、人間界の昔の哲学者が書いた書簡小説だった。
皇政国家である以上、そのような書物を堂々と外で読むなどとは当時の私も思ったことだが、あまりに彼女が自然体でいるので、大した問題でもないかのように錯覚してしまった。
そんな彼女と初めて会話を交わしたのは、入学から一月が経った時くらいであった。
運の悪いことに、私が校門を出た時には、バスは出発する直前であった。
間に合わないと察した私は、バスを見送ることにしたのだが、偶然にも彼女がそのバスに乗り込むところを目撃した。
そして、あろうことか彼女は、バスに乗り込む際に、青年切符を落とし、それに気が付かないままバスは走り去ってしまったのだ。
私は彼女の切符を拾うや否や、近くをたまたま歩いていた同級生から自転車をぶん盗り跨ると、自分が知る限り最短の道のりを、ベルを鳴らしながら全力で漕いだ。
田んぼのあぜ道を走らせていたところ、遠くに彼女が降りるはずのバス停に、一台のバスが近づいているのが目に入った。
「いかん!」
私は気持ち自転車の速度をさらに上げた。
そして何とか、バスが発車する前にはバスに近づくことはできたのだが、呼吸を整える間もなくバスに乗り込んだものの、そこに彼女の姿は無かったのだ。
結局、このバスは彼女が乗っていたバスより一つ後のバスであった。
落胆した私はそのままバスを降りる。
バスが排気ガス交じりの黒い土煙を舞い上げながら発射した直後だった。
「あ、あの…」
背後から、メスの声が聞こえた。
息を切らし、やっとの思いで振り向くと、バスで舞い上がった土煙交じりの桜の吹雪の向こうに、学生かばんを持つ制服姿の彼女の姿があった。
「ああ、探したよ」 言おうと思っても、のどから声が出なかった。
彼女は、無言で青年切符を差し出す私に近づくと一言
「み、水…」
といい、
彼女は法学部の学生であった。
文学部の私とは、学校で会う機会こそなかったものの、行きと帰りはともにした。
景色に溶け込んでしまいそうな彼女でも、ともにいるとき彼女は凛と咲く花の如き存在感があり、花にも春夏秋冬あるように、その時々で様々な表情をみせてくれるのがたまらなく面白かった。
学業の話題、互いの趣味の話題、近所の小洒落た店の話題、様々な話で盛り上がり、初め長椅子一台分の距離があった私たちは、拳一握り分まで近づいた。
あくる日、私はとうとう意を決して、帰りに彼女を誘おうとした。
「今から、もし、もしよかったらでいいのだが……家、くるか?」
彼女もそう受け取ったのであろう。
夕焼け空の様に顔を赤らめる彼女であったが、返ってきた答えは
「…ごめんなさい」
あろうことか、彼女は皇位継承第四位の、皇姫だったのだ。
本来、私は彼女に近づくことさえ許されない。
しかし今、こうして私と同じ学校に通っているのは、彼女にとって、皇室はあまり居心地の良い場所ではなかったからなのだそう。
彼女は元々、今の皇室の在り方に限界を感じていたようで、皇室が崩壊する前に離脱を考えていたそうな。
「その時まで、ジャック君が私のそばにいてくれたら、私…考えようかな」
彼女がそう告げてから、絶対主義からの脱却を目指す商業組合や学生らによる革命が起きるまで、そう時間はかからなかった。
先生。私は三月後には籍を入れなければならない許嫁がいます。
お相手はとある財閥の令息であり、その方と結ぶことにより、昨今の貿易摩擦で冷え込んだ貿易商を営む我が家の冷え込んだ懐が温まるので、両親とも非常に心待ちにしておられます。
しかし私は、我が家が雇っている給仕の方と関係を持ってしまったのです。
私は彼と一晩を共にしてしまい、あろうことか、そのことが父に露見してしまったのです。
父は私の事を足蹴にした後、給仕を解雇し、婚姻の期日を前倒しにしましたが、お相手の方も私と
私としては、将来お家の為になることをしたいと思ってはいるのですが、心に決めた方を今でも忘れられずにいます。
私はどちらをとれば幸せになれるのでしょうか。
私はどちらをとれば幸せになれるのでしょうか?
この相談者は、残念ながらどちらをとろうが幸せにはなれない。
これは世に古来から存在する愛と黄金論の、まさに典型的な例である。
かつて相談者の家は貿易事業で成功を収め、富を得たのにも関わらず、外からの支えを必要とせざるを得なくなってしまったように、外的要因に大きく左右される富によって得られる幸福は一時的なものであり、許嫁と番になったことで家が潤うかと問われれば、そうとも限らない。
前例を見るに、両家繁栄する方が稀有な例といえよう。
しかしながら、その他の低級市民と結ぶには、それなりの富が一時的にでも必要なのではなかろうか。
その富を、彼女の立場を鑑みるに、両親は支援してくれぬだろう。
そう考えると、件のオスと結ばれたことで待ち受ける結末は心中である。
不純な鴎よ。
そなたが幸せになりたければ、一匹で家を出なさい。
家の繁盛や想い河童との婚姻は、そなたの幸せとは一切の関係がない。反対に、そなたが生涯に渡り、大いなる重荷を背負ってゆかねばならぬようになるやもしれぬ。
そなたはメスであるが故、家に留まるならば、そなたの生涯をお家の為に尽くすのが道理だ。しかしそれでは、そなたの求めるそなた自身の幸せには程遠い。だからといい、件のオスに嫁いだとして、多方面から様々な因縁を持ち込まれるのが関の山。
それならばいっそのこと、一匹で広い世界を見に行くのもよいではないか。どうしてもオスのことが忘れられぬというのならば、オスの捜索を旅の目的にしてしまえばよい。
次に会う時まで、そなたの心が変わらなかったのならば、オスを抱いて寝ればよい。
結局悪いのは、メスのそばにいられなかったオスなのだ。
どうしても大学の彼女の事が忘れられなかった私は、迷い込んだ人間と一匹の河童、本来触れ合うはずのない二人の恋愛を描いた作品を応募し、私の処女作となった。
『時と皿によりけり』
私の彼女に対する想い──河童が本来持つべきだった純情として描いた私の恋愛観は、皮肉にも、新たな価値観として世に受け入れられ、ゲーツ文学賞新人賞を受賞してしまったのだった。
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