或る看守の情け

 或る日の明朝、皆が寝静まった拘置所に、底の堅い革靴を石畳に打ち付ける音が廊下で鳴り響いていた。

 普段の看守の見回りだと思っていた私は、開くはずのない鉄扉が、摩擦音をたてながらゆっくり開いていく様子を寝ぼけ眼で眺め、途端に目が覚めた。


「番号2018番、釈放だ」


 呼ばれた当の本人は、よだれを枕に垂らし、甲羅を搔きながらうつぶせに寝ている。


「おい、起きろコック!看守に呼ばれてるぞ」


 ようやく起き上がったコックは、四方八方散らばった髪を掻き、だらしなくたるんだ目を擦りながら、その目を徐々に見開いた。


「ど、どうしましたんで?」

「コック、お前は釈放らしい」

「しゃ、釈放?どういうことだ?ジャック!」

「早くしろ、2018番」


 猿に石を投げつけられたような顔をしたまま、牢の外へ連れ出される友人を、閉ざされた鉄扉の格子から見送った。


「コック、達者でな」



 友人が面会室から追い出されてから数週間が経過した。


「おい、407号室。手紙だ」


 毎度のことながら、両手に溢れんばかりの手紙を抱えた看守が、鉄扉を叩いた。


「ご苦労様です」


 差し入れ口や格子の隙間からなだれ込む大量の手紙を回収し、一つ一つ丁寧に束ねる。


「お前、小説家らしいじゃねえか」


 囚人との会話が禁止されているはずの看守が、唐突に話しかけてきたので、「くぁ!?」と河童独特の驚嘆の声を上げた。


「え、ええ。なかなか冴えないものです」

「”冴えないもの”これは謙遜で言っているのか?だとしたらお前は自分の立ち位置を今一度見直した方がいい」


 看守はそう言うと、独房の畳の上で正座している私を見下ろすように、格子から独房を覗き込んだ。


「国家すべての人員を動員し、共和国 の経済と軍事力を強化しようという中で、お前はそのような取るに足らぬ御伽噺で現を抜かしておる場合なのか!」


 おそらくこの看守の発言が、昨今の世間の小説家に対する見解なのであろうと思う。


「それでは、今は貴方は何のためにこうして汗水垂らし働いているのですか?」

「当たり前なことを訊くな。水と食料を得る為であろう」

「そう、それは私も同じ。生きとし生ける者全て水と食料を欲す。我々はそれを、労働から得る、ただそれだけ。決して共和国の為でもない」

「それでは、誰が水と食料を与えてくださるのだ?お前らを監視したり、書類にハンコを押すだけでは麦もきゅうりも生えてはこない。我々にそれらを与えてくださるのは、他でもないお国だろう。我々はお国の為に働く、お国は我々の為に働く。お前らの様に、道楽で金を稼いでいるわけではないのだ」


 どうも彼は、芸術不要論者のようだ。

 軍事力、経済力強化によって国力を増強し、周辺の軍事大国に対抗しようという中で、大学を卒業していながら小説なんかを書きやがると、身内からはよく文句を言われたものだ。

 特に芸術などの娯楽は勤勉な国民性を怠惰なものにする悪しき文化だと主張する芸術不要論者が、ここ最近で増加傾向にある。

 政府からは文化的活動は認められてはいるものの、個展、大会の規模の縮小、検閲、娯楽税の徴収など、制裁ともいえる当局からの文化的活動に対する締め付けが強くなった。

 世の中全体が、娯楽を必要としない風潮になりつつあるのだ。


「生憎と、私の意見とは随分と異なりますね。少なくとも私は、皇政制度が崩壊した現代では、国家は我々河童が属する社会的集団の最高単位であり、個々の尊厳を保証するものであると考えているのだが」

「違う!国家は我々が一丸となって支えてゆかねばならぬ共同体であり、我々国民に与えられた使命は国家にこそ存在するのだ!」


 看守は囚人に関与してはならないという決まりを忘れてか、看守は声を荒げて怒鳴った。


「我々の役割は共和国から与えられており、それを果たすことで共和国の同一性が促されると」

「その通りだ」

「皇政打倒の動機は、河童本来の精神復古ではないか。それを国家に委ねてどうする」

「国家が無ければ生きては行けぬ。だから国家に尽くす。かつて我々が抱いていた幻想より、もっと単純で、現実的だ」

「よろしい、ならば、貴方がたは我々囚人がいなければ生きては行けぬ。よって、我々に尽くすのが道理である。どうだ、これと同じことだぞ」


 私の主張に「くぁ」の音も出なかったのか、看守は黙りこくってしまった。

 しかし、彼は引き結んだ嘴をゆっくり広げ、先ほどの威勢はどこ吹く風やらか細い声を鳴らした。


「少なくとも私は、お前たちにはできるだけ尽くしてきたと自負していたのだが、やれやれ、まだ不十分であったか」


 看守は悲しそうな表情を浮かべたまま、私の前から離れていった。

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