或る河童の詫びと錆び

にわかの底力

或る旧友の話

 見渡す限り、灰色で統一された、視覚的にも聴覚的にも物静かな空間に、似つかわしくない河童の嘆きが、本日もアクリル板の向こうで、誰の心に届くことなく、虚しく響いている。


「不幸だ、ああ、実に不幸だ」


 私の友人──名をコックという絵描き──は、拘置所の面会室で、アクリル板に額をこれでもかと打ち付けながら嘆いているが、ここで重要なのは、アクリル板一枚隔てて向かい合っている私ら二匹の内、囚人は私の方であるということである。


「ここまで明確に、お国からの文化的制裁に晒されているのだぞ!ジャック」


「いいか?コック。表現というのはな、目に見えぬ力を、抑圧を可視化して、目に見える形で反抗する唯一の手段だ。これほどにまで息苦しさを感じていながら、最前線で仕事を投げ出すなんて、何を考えている」


「仕事!?仕事だと!この世に給料の入らねえ仕事なんざどこにあるってんだ!お陰様で川の水は止められるは、ガスは止められるは、挙句、家賃の滞納で来週には強制退去ときた。お国からは「真っ当な仕事じゃねえ」なんて理由で失業手当も出やあせん!なあ、俺はどうやって生きりゃあいいんだ?こんな炎天下で外に放り出されちゃ、頭の皿が干上がっちまう!どうすりゃいいんだ!独房のお前がうらやましい!」


 囚人の面会にやってきた友人が、その囚人に向かいうらやましいとほざいている。

 河童は追い詰められると、囚人までもが視界に青く映るらしい。


「あああ、不幸だ!不幸だ!」


 青年コックは、とうとう見かねた看守に首根っこ掴まれ、外に放り出された。




 私はもともと物書きだった。

 文化的活動に対して、政府による締め付けが強くなってから、仕事がめっきり減り、貯金を切り崩す毎日であった。

 このままではいずれ野垂れ死にしてしまう。

 衣食住付きで物静かな環境は無いのだろうか。

 

 ある日のこと、郵便受けに一枚のチラシが入っていた。

 政府が定めるところの非合法団体、水金同盟すいきんどうめいの、水曜集会の案内だった。

 普段の私であれば、このようなチラシに反応することなど無かったであろう。

 だがしかし、このときの私は少し普段とは違った行動に出た。


 翌朝、私はチラシに記載されていた場所へと足を運んだ。

 工業地帯の一角、河童が住んでいるのかどうかもわからぬ、薄暗い職工寮に囲まれた、煤けた中庭には、既に先客が数匹いた。

 やはり、私は確信した。

 この中に、水金同盟の構成員はただの一匹もいなかったのだ。

 これは当局の罠である。

 いわゆる、国家転覆や暴動を引き起こしかねない、危険な思想を持つ河童たちをあらかじめ押さえておく、危険分子予備逮捕である。

 尚、政府は予備逮捕については、知らぬ存ぜぬを貫き通しており、未だ都市伝説の域を彷徨っている。

 もっとも私は、このチラシが投函された時点で、そのことに気づいていた。

 同盟の勧誘の手段は、彼らの機関紙、『革新通信かくしんつうしん』に限られているからだ。


 私は言葉を失った。

 なんとそこには、旧友のコックの姿があったからだ。

 鳥打帽に外套を着こんでいて、背格好は隠しきれているのだが、束ねられた後ろ髪により、瞬時に判別がついた。


「コック、こんなところで何をしている!」


 背後から呼ばれたコックは、左右見回したのち、私の方へ振り向いた。


「おお、ジャックではないか!何十年ぶりだな。そうか、お前も同志になるのか。そうだ!お前は正しい。個人の自律性を無視した臨時政府を望んで、我々は革命を起こしたのではない!真の幸福とは、今の政府が掲げる物資の豊かさではなく、精神の豊かさなのだ」


 コック、お前は一番の幸せ者だよ。



 定刻の三十分を過ぎた。

 集会は一向に始まる気配がない。


「なあ、ジャック。俺は、なんか嫌な予感がしてならないんだが」


 お前の予感は、おそらく間違ってはいない。


パシュッ


 雨雲に覆われた灰色の空を、一筋の赤い煙玉が横切った。


検非違使けびいしの信煙弾だ!」


 誰かが叫ぶ。


「ジャック!まずい、逃げるぞ!」


 私の友人が腕を掴み、一本しかない道を引き返そうとした。

 当然、棍棒を持った検非違使によって、既に退路は断たれた後であった。

 それを目にするや否や、友人は私の腕を掴んだまま、膝から崩れ落ちたのだった。




「畜生!なんでこうなっちまったんだ…。己の不幸を呪わずにはいられない」


 結局私たち二匹は、仲良く同じ独房の中だ。

 私の隣では、一匹の成人河童が、大粒の涙と共に、恨みつらみを垂れ流している。

 こうなることが嫌なのであれば、最初から参加しなけりゃいいものを。

 しかしまあ、こいつの性格上、それが難しいのはわかっている。

 昔から曲がったことは大嫌い、まるで閻魔のような言動に、周りの奴らは尻子玉を引っこ抜かれぬようにとこいつが通るたびに尻の穴を隠していた。

 目を離すと、また何をしでかすかわかったものではない。

 今回は私と一緒だっただけ、むしろ良かったのかもしれない。


「うるさいぞ!静かにしろ!」


 見回りの看守が注意しに来た。


「いや、これはどうも。申し訳ない。どうも本人は混乱のあまり我を忘れているようで」

「まったく、廊下にまで響いているよ。他の囚人にも迷惑だから、夜だけはやめてくれ」

「ええ、よく言い聞かせます。それはそれとして、丁度いいところに。ちょうど頼み事でもしようかと思っていたところでして」


 看守は格子の前まで近づき、小声で言い放った。


「要件はわからんが、言うだけ言ってみろ」

「へい、我が家に届いているはずの封書の数々を、定期的にとりに行って欲しいんですが」

「それなら、通信社に手続きすれば、一年間は拘置所ここに転送依頼をすることができる」

「…いえ、それでは、ダメなんです」


 通信社では、全ての郵便物は至極当然のように封を開けられ、検閲が掛けられる。

 それ故、今では郵便物は直接送り相手の家の郵便受けに投函するか、それが叶わぬようであるならば、多少高額であれど、非合法の郵便社を通してやり取りが行われる。


「…わかった。よかろう。ただし、三週間にいっぺん。これでいいな?」

「はい、ありがとうございます」


 看守ももちろんこの事情を知っている。

 その上で、やはり断られるものとばかり思っていたのだが、案外あっさりと承諾してくれた。


「…泣きつかれて眠るとか、お前はいつになっても子供だな」


 わざわざ布団を敷くのも面倒なので、薄い座布団を彼の甲羅にかけてやった。



「407号室」


 独房に入れられ早三週が経とうとしていた時であった。

 まだ裁判も始まらないはずであるにも関わらず、早朝鉄の扉が叩かれたので、何事かと起き上がり、格子の隙間から覗いてみれば、不機嫌そうな看守が、大量の封書を両手で抱え、立っていた。


「一体どういうことだね説明したまえ!こんなに大量だとは想像もつかなかったぞ!」

「いや、申し訳ありません。あらかじめどの程度の郵便が来るのか、お伝えしておけばよかったですね。それにしても、今回はいつも以上にたくさん来ていますが」


 扉の格子の下にある、差し入れ口のわずかな隙間から、封書が次々と送り込まれた。

 全ての封書を流し終えると、看守はやれやれといった表情で、その場を後にした。


「へえ、たくさん来ているじゃねえか」

「ああ、参ったよ」


 てっきり看守に検閲されたものとばかり思っていた封書だが、開封された跡は無く、私が最初の閲覧者となった。


「なになに?拝啓 先日刊行されました、革新通信にて、先生が当局に身柄を取り押さえられたとする見出しがあり、こちらに一報させていただいたしだいであります。この話が仮に本当であるとして…」


 私が拘束されたことは、既に一部の河童には認知されているようだ。

 もっとも、この革新通信なるものは、件の団体、水金同盟が発刊する中央機関紙であるために、世間からはまだ四方山話よもやまばなし程度にしか思われていないのであろう。

 しかし、こうして手紙をよこしてくれる読者もいるということ。

 安定した環境を求めていたとはいえ、自ら捕まりに行くなどという行動は、いささか軽率であったかもしれない。


──────────────────────────────────────


 近代文学の先駆けの異名で知られる、小説家、文学評論家のジャック氏が、二日ほど前職工寮近辺にて、他数匹の河童と共に当局に身柄を拘束された。当社取材の結果、当日朝、現場周辺に数十匹にも及ぶ検非違使が集い、物々しい雰囲気であった等の目迎証言が多数得られたことから、当局による自由至上主義者の乱獲であることはほぼ間違いないと言える。

 なお、当局の発表によれば、当日事件の現場とされる場所に集っていた検非違使は、猿の目撃情報を受けて出動した捕獲部隊であるとしており、ジャック氏の拘束についてはその事実を確認できないとのこと。


────『革新通信』より一部抜粋

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