第2話『噂』

 朝7時、とあるマンションでいつもように始まる日常風景。オーブントースターで焼いた食パンと炒めたウインナーを手際よくテーブルに並べる。キッチンには自分用と夫用に作ったお弁当箱が既に巾着袋の中へ入っていた。


「お母さん、知ってる?」


「なにっ?」


 慌ただしさに苛立ち、身支度を終え、椅子に座った娘の問い掛けに美由紀みゆきは投げ遣りな返事を返す。


「あのねー」


 小学3年生の娘・梨花りかは話し出すとなかなか朝ごはんに手が伸びないのを美由紀は知っていた。


「梨花! 話はまた帰ってからにしなさい! 早くご飯食べないと遅刻するわよ!」


「はーい」


 母の指摘に、梨花はつまらなさそうに返事をし、程よく焼き目の付いた食パンに手を伸ばす。すると、リビングのドアが開く音と同時に、梨花の表情が直ぐ様変わった。


「おはよう」


「お父さん、おはよう!」


「もう、何時だと思ってるの!? あなたも、ゆっくりしてないで早く食べちゃってよ!」


「はいはいっ」


 夫・隆信たかのぶは美由紀の言葉を気にもとめず、呑気に大欠伸を決め込む。そんな姿に美由紀の表情が先程よりも険しさを増した。


 家事に育児、最近はじめたパートと忙しくなったためか、朝はどうしてもカリカリしてしまう。それはどんな家庭でもよくある光景で、あまり珍しくもない。どちらかと言えば、これを誰もが“平穏”と呼ぶのだろう。


「ねぇ、お父さん。知ってる?」


 隆信が椅子に座るなり、梨花は目を輝かせながら声を掛けた。母にはもう聞いてもらえないと理解したのか、ターゲットは父に向けられる。


「おっ、なんだ?」


 眠い目を擦りながらも、隆信はにこやかな表情で梨花に視線を向けた。


「あのね、学校の近くにある神社知ってる?」


 梨花の発言に、洗い物をしていた美由紀の手が止まる。


「ああー、あのボロい神社か。まだあったんだな」


「その神社にね、すごいのがあるんだよ!」


 美由紀の手が小刻みに震え出す。息遣いも急激に荒くなり、目も限界まで見開いていた。そんな美由紀の異変に気付くこともなく、梨花の明るい声が水音ともに耳へと入り込む。


「夢を叶えてくれる箱があるの!」


「なんだそれっ」


 半笑いを浮かべるも、隆信は娘の話に興味を示す。


「その箱がどう夢を叶えるんだ?」


「箱の側に紙があってね、名前とを書くの! そしたらね、書いたことを夢で見れるんだって!」


「なんだ、そっちの夢か……」


 よくある人寄せのために作った小細工。隆信は少しガッカリしたような顔をした。


「お父さん、聞いて! それだけじゃないんだってば……その夢で見たことが現実にもなるんだよ!」


「へぇー、そりゃ凄いな。梨花はなにか書いたのか?」


「ううん、まだ書いてない。だから、今日唯ちゃん達と」


「駄目よっ!!」


 梨花の言葉を遮るように、美由紀は怒鳴り声を上げる。


「なんだよ、急に……」


 声に驚いた隆信と、不貞腐された顔の娘が同時に美由紀へと向けられた。


「梨花……あの神社には行っちゃ駄目だからね! あそこは危ないんだからっ」


 別に嘘を言ったわけではない。あの神社には外灯もなく、よく変質者が目撃されていた。学校からも子供だけでは立ち入らないようにと手紙が頻繁に届くほど。


 しかし、美由紀はそれ以上に梨花をあの神社に行かせたくない理由があった。


「わかった!?」


「……はーい」


 納得いかない顔をしながら、梨花は小さく返事を返す。急に静まり返ったリビング。隆信は場の雰囲気を変えようと、テレビの電源を入れた。

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