思い出の...
野宮麻永
第1話 チーズ
俺は試合を終えて、従業員通路をタクシー乗り場に向かって歩いていた。
ロッカールームからタクシー乗り場に向かう通路では、時間帯からなのか、球場のスタッフと会うことはまずない。
それが、その日は珍しく、女の子が歩いていた。
突然、目の前をタイヤが転がるように、30cmくらいの円柱の何かがこちらに向かって転がってきた。
そして、ちょうど俺の目の前で止まった。
拾い上げると、それはチーズだった。
こんなのアルプスの少女ハイジでくらいしか見たことがない。
「すみませーん。」
女の子がこちらに向かって言った。
チーズだし、そこそこ大きいので投げるわけにもいかず、女の子のところに手渡しに行った。
女の子もこちらに向かって来ていた。
ちょうど、広い通路の真ん中あたりで、俺はチーズを女の子に渡した。
そして、どうしても気になったことを聞いた。
「これ、チーズだよね?」
「そうですよ。あ、いります?」
そうじゃない。
なんでこんな大きなチーズを今ここに持っているのか知りたいんだ。
「ちょっと待ってくださいね。」
女の子は、手際よくチーズを覆っていた透明な包装を破ると、カバンの中からチーズナイフを取り出し、大きなチーズを半分に切った。
そして、そしてその半分を、やはり持っていた大きなジップロックに入れて渡してくれた。
「どうぞ。美味しいですよ。」
何となくチーズを受け取ってしまった。
「じゃあ、失礼しまーす。」
女の子は目の前から去って行った。
タクシーで寮に戻ると、自分の部屋でチーズを出してみた。
あの場所は球場関係者しか入れないところだ。
食べても大丈夫、だよな?
好奇心に負けて一口食べてみる。
美味しいチーズだった。
けれども、女の子がパッケージを破いてしまったので、どこの、何のチーズなのか、わからない。
またあの女の子に会ったら、チーズの名前を聞こうと思った。
それから、あの女の子には会うこともなく、遠征が続き、ホーム球場に帰って来たのは、2週間ぶりだった。
屋内練習場を出て、球場に向かう横断歩道を渡っていると、従業員専用の出入り口の前に、あの、チーズを持っていた女の子を見つけた。
急いで横断歩道をわたり、女の子に声をかけた。
「この前は、ありがとう。」
女の子は、最初こちらが誰なのか分からなかったようで、きょとんとしていたが、
「チーズ、美味しかった。それで、あのチーズの…」
と言いかけたところで、
「ああ!あの時の。あれ、美味しいですよねー。でも、今日は持ってないんですよ。」
と、申し訳なさそうに言った。
いや、チーズの名前を教えてくれたら自分で買えるから。
「あのチーズの名前…」
「こっちあげますね。」
女の子はカバンから、またあの大きさのチーズを取り出した。
「ちょっと、ここでは分けれないから…」
と、辺りを見渡す。
周りには、試合を見に来た人や、特定の選手の出待ちをしているらしきフアンが大勢いた。
「どうぞ。あげます。」
女の子は、円柱のままのチーズを俺に渡してきた。
「いや、それじゃあ悪いから。」
そう言うと、
「わたし、ここの球場でビール売り子してるんで、見かけたらビール買ってください。じゃあ、失礼します。」
そう言って、目の前の従業員専用出入り口に向かって走って行ってしまった。
いや…
前回は着替えてたから私服だったけど…
今日は、思いっきりホームのユニフォームを着ている。
何なら、背中のバッグからバッドの先も見えてると思う。
君がビールを売ってる、まさにその時間、俺は試合に出てるんだよ。
絶対ビール買えないから。
全身ユニフォームで観戦に来た、野球フアンだと思われたのか?
俺は大きなチーズを持って、女の子が入って行ったのとは別の、関係者専用出入り口に向かった。
もらったばかりのチーズを見ると、外側のパッケージはなくて、チーズを包むセロファンだけの状態だった。
また、チーズの名前はわからなかった…
「どうぞ。」
妻はカットしたチーズののった皿を俺の目の前に置いた。
「どうしたの?ぼんやりして。」
「チーズ見たら、ちょっと昔のこと思い出した。」
「いい思い出?」
「不思議な思い出かな。」
「明日はCS2位通過がかかった大事な試合でしょ?早めに休んでね。」
妻は笑いながらキッチンに戻って行った。
テレビの方を向いていたので、キッチンで妻が、30cmはある円柱のチーズを棚にしまうのは見えなかった。
思い出の... 野宮麻永 @ruchicape
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