第4話 星の夜、川辺にて

第四章    星の夜、川辺にて


 大嫌いな父親――

 あたしはあいつのことを思い出したくもない。本当にうんざりする。

 けどあたしがもしあのときにタイムリープしたとして、そんな『うんざり』だとか言っていられない気がする。


 あの人は何でも壊した。物や人、修復不可能になったものがどれだけあるか。

 家に帰るとあいつがいて、あたしはただじっと黙ってるしかなかった。なにかを言ったら殺される、本気でそう思ったことも何回もある。

 お母さんは、苦労しただろうな。

 けどなんであんな人と結婚しちゃったんだろ。それが不思議で不思議でしょうがなかった。

 でも今ならなんとなくわかる。

 誰にも頼ることができなくなっていくから、誰かからの愛を求めようとしちゃうんだよね。

 だからあたしも似たような目に遭ったんだよね。

 あたしは『家族だから』とか『親だから』とか『きょうだいだから』とか、そんな言葉を使う人が大っ嫌いだ。


 聞いてて虫唾が走るくらいに。


 そういう人たち、決まって『愛情って言うのは見えないところにあるんですよ』って。

 そんなに悲しい言葉ないよ……。だってそんなもんどこにもないんだから。きれい事に決まってんじゃん。……けど、あたしがもしそう主張したら、きっと反論を食らうだろう。

 お前は失礼な奴だ、とか、感謝が足りない、とか。

 何回でも言ってやる!


 あたしは心の中で叫ぶんだ。今までも、きっとこれからも。

 

 かぞくなんかきらいだ



 幼稚園の頃、だったかな。

 あたしは父親同伴のイベントに参加することになった。なったっていうか、基本的に全員参加で、内容は『お父さんと一緒に工作をしよう』というものだった。

 やりたくなかった。

 他の家の子の中にはお父さんがいないような人もいて、そういう子たちは先生とやることになってた。


 あたしそれが羨ましくて羨ましくてさ。今からでもそっちに行きたいって思った。

 けど、できないの。あたしには父親がいたからさ。

 工作って言っても幼稚園児がやるようなもんをお父さんが手伝うような形だった。木の枝を園内から集めてきて、それを紐で縛って作品に仕上げる。

 他の子たちは笑ってお父さんに出来上がった作品を見せびらかしてた。船、車、バイク、パチンコ……。体育館の中は色んな作品で埋まっていった。


 けど、あたしは全然集中できなかった。なんとか先生に迷惑を掛けないために、とりあえず小型の船かなんかを作ったんだと思う。

 何度も言う。やりたくなかった。

 あたしの父親はあたしの服の中に手を入れてくることに精一杯で、全然工作どころじゃなかったから。


 父の指があたしの肌に触れてきた。時には下着の中にまで手が入ってきた。気持ち悪かった。けど助けなんか呼べないって、わかってた。そうしたらきっとこの父親は怒るだろうから。

 あたしはこのことを今もお母さんにだって言ってない。昔のことだったし、自分から掘り返したくもなかったから。

 父はそういう人間だった。

 こんな人に愛を向けられるくらいなら死んだ方がマシだって思えるくらいに。

 だからっ!

 だからだからだからっ!!


 ――これ以上七条君もおじさんも巻き込みたくないんだ。



 あたしの手に合わせるように柴田の手がのっかる。あたしはその手を取った。

 中学時代に何回も握ってきた手だ。大きくて、硬い。あたしを散々痛めつけてくれた手。

 あたしは柴田の方をチラリと見た。彼は満足そうな笑みを浮かべている。唇は乾燥していて、砂漠みたいだった。


 ――お前がおれの言うとおりに従うなら、お前の家族に迷惑を掛けないと約束してやろう。


 柴田があたしに言った言葉を思い出す。

 その言葉が本当かどうかなんて、あたしには判断がつかない。

 けど、すがるしかない。

 どこへ向かってるんだろう。

 あの雨の日、あたしが一人でブランコに乗っていた公園の脇を通り抜けた。

 あたしはゆっくりと目を逸らす。べつになんてことのないただの公園だ。

 柴田はあたしの腰に腕を回してきた。まるですれ違う人たちに見せつけるかのように。

 まぁ、あたしたちは傍から見れば案外お似合いのカップルに見えるのかもね。あたしだって髪染めてるし、チャラい女と言われればチャラい女で、柴田はザ不良だ。


「どこへ行くのよ」

「……ついてからのお楽しみさ」


 白いシャツにジャケット姿の柴田のどぎつい香水の香りが鼻孔をくすぐる。あたしの頬が毛羽立ったジャケットに擦られてすごい痛かった。

 けどこれくらいの痛みなら……何度でも味わってきた。

 ふと思うことがある。

 あたしは一体なにを守りたいんだろう、と。

 いつしか川沿いまで来ていた。河川敷の土手を行く。日も暮れた時間だったからか、人通りはかなり減っている。

 同時にあたしは不安に襲われる。


 ……こわい。


 目的地に近付くにつれて柴田の顔に笑みが刻まれていくような気がした。

 震えていることを悟られたくなかったのに、体は言うことを聞かなくて、柴田にそれがバレてしまう。


「安心しろォ。お前が嫌がることは絶対にしないから。だからそんな震えるなって、なぁ?」


 嘘だ。絶対に嘘だ! 

 あたしは帰りたくなった、猛烈に。今さらだって思うよ。けど元彼に連れられた場所が見知らぬ土地で、これで怖くならない方がおかしかったんだ。

 あたしは奥歯を噛みしめる。

 決めたのよ。

 あたし以外の誰かが傷付けられるのはやっぱりいやだから。

 だからあたしはあたしなりに戦わなくちゃいけない。

 土手を降りる。階段を一歩一歩踏みしめるごとに身の危険を感じていた。


 それでも、はっきりと言ってやらなければならない。

 もうあたしとはかかわらないで、と。

 そして七条家に被害を与えるのはやめて、と。


 甘かった。

 ほんとにさ、相手を言葉だけで説得できると思ってた自分に腹が立つ。

 子どもすぎた。

 連れ込まれた時点で詰みということを、あたしはまだ知らなかった。


 連れてこられたのは高架下だった。上では車が行き交っていて、おそらくここであたしが叫んだところで意味はないと思われた。

 なんでかな。

 あたし、決めたはずなのにさ。

 どうしてこんなに足が震えてるんだろ?

 どうしてこんなに逃げ出したいと思うんだろ?


 ――どうして家に帰りたいと思うんだろ?


 ジメジメとした空間だった。壁にはスプレーで描いた落書きがあった。こう言うのってどうしてこんなにも芸術的センスに長けているのだろう。

 まぁ、そんなことはどうでもいっか。

 あたしは柴田の顔を見た。


「あんた一人なの? この間のお仲間さんたちはいないんだ」


 声の震えを何とか押し殺す。ここでなめられたら一巻の終わりだと思ったから。

 柴田はにぃと唇を三日月のように吊り上げた。


「ほお? ここまで来て周りに気を配れる余裕があるのか? けっ、大したタマだと思うぜ」

「はぐらかさないでよ」


 柴田はくつくつと笑う。粘ついた笑い声だ。ものすごい汚い。

 あたしはその笑い方をされるたびに、鳥肌が立った。今だって真冬のお風呂に入ったときみたいに肌が粟立っている。

 ぞわりと。

 あたしの背筋を撫でるのは、刃のように鋭い恐怖だ。


「あたしを、どうするつもりなの?」

「それはおれが今から教えてやるってんだ」


 柴田はそう言ってタバコに火をつけた。あたしと同い年なわけだからもちろん法律上アウトだ。けどこいつはお構いなし。

 柴田はふぅと、煙をあたしの顔に向けて吹きかけた。クサい。生理的に受け付けないものからあたしはダブルで攻撃を受けている。

 柴田があたしの指を触る。


「震えてるぜ?」

「……だからなに?」


 あぁ。あたしは悟られたくなかったのに。

 けど弱気になってちゃダメだ。

 あたしは決めたんだ。

 決めたのよ。

 こいつに強く言ってやるって。

 負けたくない。


「もうやめて」

「あん?」

「もうあの人たちを困らせることはやめてって言ってんの! かんけーない人だから。あたしにとっては他人だし、他人だからこそ巻き込まないで欲しいのよ」

「ははっ! お情けをおれにかけてほしいってかァ? 冗談じゃねーぜ」


 あたしの顎にこいつの指が添えられた。それからあたしの顔は柴田の顔に近付いて、耳元に息を吹きかけられる。それからねっちょりとした舌があたしの耳たぶを蹂躙した。

 ――耐えろ。

 ここまでなら耐えられるから。

 あたしにとって大切なものが、音を立ててじんわりと壊されていく。けどこれくらいだったらまだいい。

 舌先が、あたしの耳の中にまで入ってくる。

 肌の粟立ちがさらに強くなる。あたしはされるがままになっている。

 柴田があたしの腰の後ろに手を回してきた。


「お前は逃げられないんだよ」

「……あんたが提示した条件ってそれ? あたしを好きなようにしたら、あの人たちを解放してくれるんでしょうね」


 柴田ははっきりと聞き取れる声で言った。


「もちろんさ」

「…………わかったわ」


 あたしは歯を食いしばる。耐えろ。耐えろ耐えろ耐えろ! あたしは自分に自分は人形だと言い聞かせる。ここで泣いたりして、こいつを喜ばせることだけはしたくはない。

 ……そう思ってたのにさ。

 あたしの頬を、つつ、と流れるものがあった。

 柴田があたしから離れると、あたしの顔を見て蔑んだ表情を浮かべた。


「お前もカワイソーな奴だよなァ? 誰からも愛されないで今まで生きてきて」


 あたしの喉がゴクリと鳴った。

 ……やめて。

 それ以上言って欲しくない。

 べつに体を奪うことはされてもいい。

 けど心までは奪って欲しくないから!

 それでも柴田は容赦をしなかった。

 ……あぁ。

 あたしの強気はけっきょくここまでだったんだ! いざとなったら弱気になって、相手の言いなりにされて、好きなようにされて――ッ!

 ばかみたい!

 せめて幸せな家庭に生まれてこられればこんなことにはならなかったのかな。


「――父親から愛されなかった可哀相な女」


 あたしは黙って聞いていた。涙がとくとくと溢れてきた。 


「だからよぉ。おれが散々愛してやるってんだ。はっ、せめて光栄に思って欲しいよなァ。世界中でおれだけがお前を愛してやれるんだからよぉ」


 違う。なぜかあたしは否定していた。心の中で。

 どうして?

 ちがくないじゃん! あたしはこれからはお母さんに迷惑を掛けないように、頑張るって決めたんだ!

 だから学校でもそれなりの友達とつるんで、誰からもなめられないように生きてきたいとそう思った。

 愛されてない?

 誰からも?


「そんなこと、ない」

「ははっ、こりゃあ傑作だぜぇ? お母さんは愛してくれてるってか? しょせんお前のことお荷物くらいにしか思ってねぇよ! 新しくできたお父さんは優しくしてくれるってか? バカなこと言うんじゃねぇよ。けっきょく下心を隠すためにそうしてるだけだってぇんだよ」


 あたしの心はズタボロだった。寂しくて孤独で誰も理解なんかしてくれなくてそんな自分を何度恨んだかわかんないよッ。けど辛くたって誰も助けてくれないんだ。あたしはあたしで一人で背負い込んでいかないのよ。

 もう、本当にやめてよ――ッ!


「――お前の新しくできた兄は、窓からこっそりおれらのやり取りを見てたくせに、てめぇでは何にも動こうとしなかったカスだってのに?」

「……ぇ」


 ……なに、それ?

 なにそれ。

 あたしの心が激しく揺れ動いた瞬間だった。

 あの人は――窓から今日のあたし達のこと見てたって言うの?

 そういえば廊下ですれ違った。けど彼はなにも言っては来なかった。

 それは彼が、あたしのことを他人と思ってるからだ。

 ……あぁ、でもそっか。

 他人ならこれでいいのか。

 あたしは自分の高鳴る胸に問いかける。どうして他人である彼が傍観していただけという事実に驚いているんだろ。なんの不思議もないじゃん。彼には彼の人生がある。


「あたしの事情なんて関係ないから。あの人とは、そういう約束をしたの。お互いにかかわらない、ただのクラスメイト」


 だから、構わない。七条君に迷惑が掛からないんならあたしとしては本望なの。彼の未来を奪う権利なんてあたしにはないんだから。


「そうかよ。まぁ情けない奴ってのはどこにでもいるもんさ。どうせ今ごろお前がレイプされてるところでも妄想してオナってんじゃねぇのか? 陰キャのできることはネットかオナニーしかねぇもんなぁ」


 あたしは叫びたかった。けど叫んだら、心が負ける。

 ……だけど、なんでだろうね。

 

 あたしあいつのことバカにされて、すっごく腹が立つ。

 

 ここまで来てなんで他人のために怒ってんだろうって、ホントに不思議。

 気づいたらあたしは口からなにかを言っていた。ほとんど思考を介さない言葉だったと思う。


「ごめん柴田。やっぱ、むり。あたしあんたの言いなりになんかなりたくない――ッ!」

「――は?」


 あたしは言った傍から柴田の金的を蹴り上げた。これで柴田を倒せるわけはないけど、時間くらいなら稼げる。

 逃げろ! あたしはなんて臆病なんだ。けど逃げれば、きっとおいしい料理が待ってる。逃げた先のことなんてこれっぽっちも考えてないけどさ。やっぱり柴田のものにされるのは、いやだった! あたしはすぐさまその場から駆け出した。


 そしてすぐに絶望したんだ。


 ぞろぞろと、見覚えのある男たちが陰から出てきた。

 ……あぁ、もう最悪。なんであたしっていっつもこうなのかしら。男にたぶらかされて騙されていいようにされてけっきょく泣いて。ふざけんなッ! そう叫びたい。けど誰にも届かないことなんてあたし自身がよくわかってる。受け入れるしかない。


「あは、これがあんたのやり方ってわけ?」


 あたしは自嘲気味に呟いた。男たちはざっと数えるだけでも十人はいた。涙がぶわりと瞳から押し出されるように出てくる。怖い。なにされるんだろうね。

 あたしの逃げ道をふさぐように、高架下の両端に人員が配置されている。つまり囲まれてるってわけ。

 どいつもこいつも、あたしの力じゃ敵わないだろう。ったく柴田って男は臆病方向に計画的だ。さっきの他には誰もいないってのも嘘だったんだ。


「……なんというかさ、やっぱあんたはあんたなのね」


 あたしは投げやりに言う。もうホントに言葉がそれ以外に思いつかないくらいに、諦めの境地に立たされている。

 ぎり、あたしは唇を噛んだ。血が流れる。涙と鼻水とごっちゃになって地面にポタポタと流れ落ちる。

 あたしの肩に腕が回される。

 あぁ、柴田の手だ。

 あたしはそれを振りほどくだけの勇気も力も残されていない。

 ――最初から詰んでたんだ。


「よくもやってくれたな。使いモンにならなくなったらどうしてくれんだよ、アァ?」

「……ッ、知らないわよっ!」


 あたしは壁に押しつけられた。柴田の鬼のような形相が視界に入る。あたしはまったくといっていいほど抵抗できなかった。手首を拘束されて、骨が折れそうだった。

 ……痛い。

 あたしは目を細めた。もう視界がぐっちゃぐちゃで柴田の顔をしっかり見ることができない。

 お母さん、ごめんね

 産んでくれた体……大事にすることできそうにないよ。

 あたしはそれでも必死に抵抗した。

 どれもむだだったし、柴田を興奮させるだけだった。


「落ち着けよ……おらっ!」

「あうっ――!」


 あたしはみぞおちに蹴りを食らう。……ったぁ! 多分肋骨折れたんじゃないかな。


「なんだその目は? アァ!? やっぱりお前はいつもいつもおれにそんな目を向けやがるなぁ? テメーは人に感謝するのもできねーのかよ!?」


 柴田の舌はよく回った。よくもまぁこんなことをしておいて、罪悪感の欠片もないものだと思う。

 それでもあたしは、ここから逃げ出すことはできない。


「……じっくりといたぶってやる」

「――ッ!」


 下腹部にもう一発食らう。今度は拳だった。

 髪の毛を引っ張られて地面に押し倒される。ブチブチといやな音が鳴る。終わったな、あたしの人生。

 もう死ぬかもね、ほんとに。

 体は生き残っても心はもう戻ることはないかも知れない。

 自分で決めたことのうち、人はどれだけのことを達成できるんだろうか。あたしはふとそんなことを考えてしまう。

 あたしは、

 あたしはさ――

 こいつに対して、なにも仕返すことができなかった。

 言葉が届くと思ってたのに、まったく届かない。


「ン――――――ッ!」


 柴田が馬乗りになる。あたしは足を必死にジタバタさせるけど、さっきやられた腹部の痛みでうまくもがくことができない。

 柴田はあたしのブラウスを引き裂いた。見せたくなかったものがあらわになる。指があたしの体を這ってくる。


 やだ! やだやだやだ!


 あたしはこいつに今から心を殺される。精神的にズタボロになるまでヤられるんだと思った。意識が徐々に遠のいてきて街の灯りが涙ににじんでとっても眩しかった。悔しい悔しい悔しいッ! 自分はこんなにも儚い存在なんだって思わされて、理不尽なんて受け入れるのが当たり前だと思わされていることがホントに悔しいッ!


 あぁ。

 あの光の中に、あたし戻れないんだ。

 柴田の指先があたしのブラに触れる。


 見上げる柴田の顔はもう完全に欲望を隠す気はなかった。ただひたすらにあたしの顔だけを見ている。あたしじゃなにもできない。力もなければ言葉もない、ただの小娘。思い返してみればあたしの人生ろくなことなかったかもしれない。


 ――ずっと、ずっと憧れてたの。学校の友達と色んなとこ遊びに行って、優しい彼氏作って、デートして、笑い合って。友達と恋バナして盛り上がって。昼休みにはみんなでバスケしたりして。もうこれ以上ないってくらい青春してみたかったんだ。


 せっかく歩き出したところだったのにさ。

 夢見ちゃダメなの?

 あたしは望んだものを、手に入れられないの……? なんでこんなに望みって簡単に潰えるの? 誰か教えてよ……ッ。


 だから、


 あたしは、自分でこんな感情を抱いてしまうのはみっともないと、今まで思ってた。

 けどもう限界なんだ! 強がれないんだ――ッ! どうしようもなく無力で、悔しくて、泣いて泣いて泣くことしかできない弱っちいただの女子でしかないのさッ! 

 あたしは叫ぶ。心の中では全力で叫んでいると思ってるはずなのに、声にしたらちょっとしか出てこないそんな身勝手で小さな、それでいて本気で願っている言葉。

 

 ――だれか


「……たす、けて…………」


 そのときだった。


 

 ……すぱぁん!!

 


 ものすごい音がした。あたしは最初なにが起こったのかを全然理解できなかった。だってあたしの上に乗ってたはずの柴田が消えて。

 そこに七条君がいたんだから。


「……ぇ?」


 あたしは固まる。七条君が拳を固めてそこに立っている。その指には柴田のものだと思うけど、血がついてる。あたしは茫然としてしまう。

 しちじょうくんが……なんでここにいるの?


「な、んでよ……」


 あたしは理解ができず、ただひたすらに混乱した。

 七条君がここに来る義理なんかないはずなのに。

 ううん、あたしが一番に感じてる疑問はそこじゃない。

 あたしはゆっくりと視線を移動させる。

 柴田が十メートルくらい先で倒れている。すぐに起き上がって顔を押さえていて、殴った相手である七条君を睨みつけていた。


「てんめぇ、どういうつもりだよ」


 柴田の眼光は鋭かった。

 あたしの思ってる、最大の疑問点。

 素人のあたしでもわかる。なんであんなに殴って飛ばせるの? それに七条君は柴田という不良相手に臆した様子もない。なんで! あたしの知らない七条君がそこにいる。あたしが風邪を引いたときに繋いでくれていた手で彼は柴田を殴りつけたのだ。あたしが雨に濡れているときに差しだしてきた傘を持っていた方の手で柴田を殴りつけたのだ。


 あたしの疑問を他所に、七条君がすっと移動を開始する。目指すのはもちろん柴田の方向だ。

 あたしは、ゆっくりと、しだいに、状況を理解し始めていた。


 ――七条君、あたしを助けに来てくれたの?


 あたしは大きく息を吸って、吐いた。ぼわっと、涙があふれ出てきた。ダメだ止まんないよ……。なんであたしなんかのために助けに来てくれんのさッ! 不良なんか相手にするのさッ! たかだか他人なんだよあたしたち?


 七条君はいつもの七条君じゃなかった。それはまるで虎のようで、オオカミのようで、獲物を睨みつけていた。ねぇ、もしかしてあたしのために怒ってくれてるの?


 だとしたら、

 だとしたらさっ、


 …………そんなに嬉しいことないよ…………ッ!!


 こんなとこで現れてくれるなんて思わなかったわよ。

 七条君は一歩ずつ近付いていく。これが敵だったらものすごい怖いけど今は彼は味方だった。その背中は大きくて頼りがいがあって、ほんとにかっこいい。

 助けてくれる義理なんてないはずなのに。助けられる義理なんてあたしから拒否したはずなのに――ッ!!


「おい、おい、来るんじゃねーよ。なんなんだよ、その目は」

「てめぇに言いたいことがある」

「……ちっ、んだよ」


 

「おれの妹に手ぇ出してんじゃねぇよっ!! 泣かせてんじゃねぇよっ!!」


 

 響いたのよ。その言葉がさ。高架下の空間にもあたしの心にも。あたしは肩をふるわせた。どうしてそこまで言ってくれるのかが分かんないよ。だけどわからなくても、その言葉は本当にあたしの心に染みてきた。


「あは、はは。バカかてめぇは! 単身で乗り込んできて勝てると思うなよ? てめぇが勝てるほどおれたちは甘くねぇんだよっ! てめぇら、やっちまうぞ」

「どこにいんだよ」

「……あ」


 あたしはようやく気づいた。あたしは目を丸くする。あんだけ息を荒くしていた不良集団が十人全員倒れてる。

 いいや、倒されたのか。

 ……嘘でしょ? 

 七条君が全部のしたの……? 本当に? あたしが柴田に押し倒されてる間に起こったの? こんな短時間で? 嘘だよね七条君? 

 あんたってほんとにさっ、どうして肝心なときに来てくれんのッ!? あたしが雨に濡れてるときも来てくれた。

 なんでそんなに優しくてかっこいいの? いっつもへなへな笑ってるくせに、いざとなったら男らしい顔してさッ! あたしの心ざわつかせてさッ! 今だってそうだよ……。


「おい、おいおいおい、どういうことだよっ! てめぇらなにやってんだよっ! そんな奴にくたばってんじゃねぇよっ! くそったれ――!」


 柴田の拳が七条君に飛んだ。彼は鮮やかにそれを避けて、お返しとばかりに右ストレートを柴田の頬に打ち込む。それからさらに左フック。柴田は驚いている様子でダメージを受ける。


 あたしはあんぐりと口を開けていた。

 柴田の拳はあっさりいなされて、七条君がそれを蝶のように避けて、カウンターを見舞う。完全に素人じゃなかった。


『あぁうん。ちょっと前にジム通ってたんだよ。もうやめちゃったけど』


 そっか。なんだよ……。あたし勘違いしてたじゃんか……。

七条君の手が止まる。彼の目は相当怒っていた。ねぇ、あたしのためなの? あたしは視界が涙でぐちゃぐちゃだったし、肩もなんども震わせていたけど、ことの成り行きを見守ることはできた。


「……ふん、お前はさっきから偉そうなことを言っているが、たかが偽物の兄貴じゃぇか。そんな奴にこいつのことがわかるのか? ア?」

「だから?」

「だから、じゃねーんだよ。お前はこいつのなにを知って喋ってやがるんだ? おれの妹に手を出すなとか偉そうなこと言っておいて、実はこいつのこと全然知らないことなんざバレバレなんだよ!」

「……」

「ほらな、図星なのな。お前の思っている小清水友梨って言う存在は、お前が勝手に作り上げた妄想なんだよ」

「……」

「七条、だったか? お前知らねぇだろ? こいつの中学時代のこと。いっつも席に座って、トイレに行くときもソワソワして、地味な奴だってこと知らねぇだろ!」

「……」

「それをおれが見つけてやったんだよ! 手を伸ばして救ってやったんだよ! それをお前にできるのか? お前にこいつの本心がわかるのか?」

「……」

「わかんねぇよなぁ。根暗なんだよ、そいつはよぉ! 今じゃそれらしい恰好して、それらしく振る舞ってるみてぇだが、けっきょく人間の中身自体は変わらない。違うか?」

「……」

「お前はあいつのことなぁんもわかってねぇんだよ、義理のお兄さんよ。それともあれか? お前友梨に気があって、それで助けてやってあわよくば友梨をてめぇのもんにしようってか? いい加減にして欲しいぜ。友梨はおれの女だ」

「……だまれ」


 ギリっと音がした。ここからでもはっきり聞こえた。


「あぁ? 聞こえねぇんだよ。もうちょっとはっきり喋ってくれねぇと――」


 あたしはそれを見た。体中に戦慄が走った。

 ――ライター。

 それが柴田の手に握られている。

 マズい。マズいマズいマズい!

 あたしは叫んだ。


「七条君柴田の手ッ! ライター持ってる――っ!」


 けど七条君はうつむいたままなにも答えてくれない。ねぇもしかしてあたしの言葉届いてないの!? そんなはずはない! この距離なら届いてるはずよ!

 じゃあ、なんで――!?

 カチッと、ライターに柴田が火をつけた。


「……ぇ」


 あたしは目を見張った。

 七条君の服の裾にライターの火が広がっていく。

 彼がなにを考えているのかが全然わからない。

 あたしにはただ焦りだけがあった。

 なに、してんのよ――ッ! 早く逃げないと炎が広がってあんた焼けちゃうじゃんッ! なに考えてんの? あんた死ぬってば! バカ! バカバカバカッ! 早くどうにかしなさいよッ!


「七条君ッ!」

「あはは、てめぇ見てわかんねぇのかよッ! 体に火ついてんだぞ? バカなんじゃねぇの? なんで……逃げたりしねぇんだよッ!」


 七条君はかっと目を見開いた。あたしはたしかにそこにペンライトで描いたような眼光を見た。

 それに柴田が怯んだ。

 七条君は言った。


「――お前になにがわかるだとッ? ふざけんじゃねぇよッ! さっきからごちゃごちゃとうるせェことばっか言いやがって! なんにも心に響かねーんだよッ!

 ――小清水さんは、学校で友達作ろうと努力してんだよッ! てめぇみたいな奴が軽々しく嗤っていいことじゃねぇんだよッ!」

「はん、何を言い出すかと思えば! 所詮は建前だけのお友達じゃねぇか! 友達ごっこにすぎねェってこと分かんねぇのか!?」


 あたしは違う、と思った。

 いずなも、伊沢君も、他のみんなも、あたしにとって大切な友達だ! みんなで笑い合って遊んでつるんでバカやって一日過ごす。あたしがとっても大切にしてきたものだ。柴田に笑われる筋合いなんてないから――――!

 口を開いた七条君はあたしの知ってる七条君だった。


「上っ面かどうかなんか関係ねぇよ。おれは小清水さんのことについて言ってんだよ。彼女がどれだけの思いで友達を作ろうとしてるかって言ってんだよッ! 建前だけの関係性? おれは違うと思う。けど、もしそれがお前の言うとおり建前だけの上っ面な友達だったとしてだ!」


 七条君の服が燃えていく。絶対に肌まで届いてるはずだ。それでも彼は怯まずに続ける。


「すげぇことだろうが! お前が思ってるよりも何倍もすごいことだろうがッ! 建前使って上っ面だけでも、それは小清水さんの大切な人ってことになるだろうがよ!」


 炎がじわじわと広がっていく。嘘? あんた早く逃げなさいよ――! 


「お、おい、てめぇなに言ってやがんだよッ! 燃えてんだぞ? なに考えてんだ!?」

「考え? 笑わせんな。おれはッ、おれはな――ッ」


 七条君が息を吸う。彼の周りの空気は相当熱くなっているはずだけど、それでも彼は止まらない。


「小清水さんの兄になりたいんだよッ! 彼女が心配して肩を預けられるような人間になりたいんだよッ! そのためには、おれは彼女と同じように痛みを味わいたい。共有したい」


 だからな、と続ける。


「体が燃えてるくらい屁でもねぇんだよッ! 彼女が味わってきた苦痛に比べればこんなもん余裕で耐えられるモンなんだよッ!」


 ――あたしは言われたとき、掌で頬を押さえた。涙がぼろぼろこぼれた。こすってもこすってもぬぐいきれない。体が熱くってあたしのぽっかり穴の空いた部分にその言葉が入り込んできたんだ。熱い思いのはずなのに、なぜか柔らかくあたしを包んできて。うれしくってさぁ。それでちょっと笑みがこぼれた。

 誰か、味方が欲しかったんだよ。あたしは、本当に弱っちいあたしは、誰かに助けてもらいたかったんだよ。


 ………………あんた、バカなんじゃないの?


「なに言ってやがんだっつってんだよっ。おいっ、こっち来るんじゃねぇよ! お前が来たらおれまで燃えるだろうが!」

「それがなんだよ! お前が与えた小清水さんへの痛みは、これよりももっと重いんだよ! 覚悟くらいしやがれ」

「ふっざけんな――! わかった、謝る! この通りだ! だから許してくれ! な? 頼むよ七条!」


 七条君は一歩踏み込んだ。間合いが一気に詰まって、全身全霊の拳が柴田に直撃した。


「ぐっ!」


 柴田は吹き飛んだ。鈍い音。そのまま土手の斜面をバウンドする。

 柴田の方には火はついてなかった。幸と言うべきか不幸と言うべきか。

 けどあたしが心配してたのは、本当に心配してたのは七条君の方だ。


 なんて無茶なことすんのよバカ――ッ! あとで散々叱りつけてやる。バカッ! バカバカバカッ! 大バカもんよあんたはッ!


「七条君ッ!」

「ごめん小清水さん離れて――」


 高架下が明るく照らされる。火は七条君を蝕むように広がっていく。全身を包み込むほどのものじゃないけど、それでも肌は焼かれるだろう。急いで川に飛び込めば何とか――


 ――なんであたしのためにそこまでするの?


 七条君は一気に駆け出した。狙いはもちろんすぐそこに流れている川だ。

 どっぱーん! という音を響かせて、七条君がダイブする。あたしはおそるおそる岸の縁まで走って行って、七条君の姿を探した。暗くてよく見えないけど、すぐに七条君が顔を出した。

 だけどこのままじゃ流されちゃう――ッ!


 満天の星空の下だった。あたしは精一杯腕を伸ばした。七条君に届くように。

 ううん、あたしを助けてくれた、兄貴を助けるために――ッ!


「掴まって!」


 七条君はクロールでこっちまで近付いてくる。けど流れがけっこうあるのか、こっちには近付いてくるけど、確実に下流へと流されている。

 あたしは場所を変えた。七条君を救出しやすい場所へと。

 そしてまた手を伸ばした。

 七条君の目が、あたしを捉えた。彼は徐々に流されていくけどちゃんとあがいている。岸にたどり着くまで決して諦めないのよね。


 ドキッとした。

 かっこよかった。

 けど今はそんなこと考えてる場合じゃない。あたしの指先に、七条君の指が触れる。まだ、まだ足りない。あたしは全力で手を伸ばす。痛い。肩が裂けちゃうかも知れない。

 でもそれでも構わない。ええ構うもんですか!

 七条君を助けたい。

 がしっと。

 手と手が重なり合った。

 重い。重い重いッ。流れと七条君の体重を引っ張り上げるのに、相当な労力を要する。


 ――神さま。

 ――どうかあたしに力を下さい。


「……とううううううううううううううりゃああああああああああああああああっ!」


 あたしは力一杯に、体重を後ろに乗せて七条君を引っ張り上げた。七条君は途中で岸の縁を掴んで体を押し上げた。ばしゃりとあたしにまで水がおっかぶさってくる。冷たい。

 あたしが目を戻したとき七条君は護岸の縁に手を突いて息を切らしていた。

 再び、彼と目が合う。

 今度のドキドキは抑えられなかったな。

 だって七条君が、満面の笑みを浮かべてるんだもん。

 あたしは涙をぬぐってへたり込んでいる。

 七条君はゆっくりと体を持ち上げて岸にまで乗り上げた。彼もまた息を切らしていた。


「小清水さん……その、さ」

「……ふふ、なに?」

「遅れてごめんね」

「……そんなのいいよばか! ……助けに来てくれただけでも嬉しいわよ。それより体の方が心配なんだけど」

「あぁ、これ。まぁ多分何とかなると思うよ。おれのよりも小清水さんの方が心配だよ」


 あぁ。

 あたしはこの人の妹……なんだ。

 なったんだ。

 二人して、濡れネズミになった姿を笑い合う。

 高らかな笑い声が河川敷にこだました。誰かに聞かれてるかなとかそんなことは一切考えなかった。頭の中には七条君だけがいて、あたしの目には七条君しか映ってなかった。

 あたし、素直に思う。

 この人が兄貴で、嬉しいって。



 戻ると柴田たちはいなくなってた。多分もうこれに懲りただろうから、家にイタズラしてくることもないと思う。ほんとに解放されたんだ。

 それにしてもあたしすごい恰好だ。はだけたブラウス、その下に下着。は、恥ずかしいわよ。七条君に見られたくなかったので、とりあえず胸元で右左を合わせる。


「見ないでよ」

「見ないって……」


 あたしは七条君に釘を刺しておく。

 すると彼はいきなり脱ぎ始めた。ちょっ、なにしてんのっ! あんたなんでこんなとこで脱ぐのッ!


「あんたバカなの? なんでこんなとこで脱ぎ始めてんのよ」

「いや、ごめん……。けどおれも濡れてるからさ……」

「あっ、そっか。ごめんごめん。けどもうちょっとなんか言ってからやってよ。め、目のやり場に困るじゃん…………」

「それはほんとにごめん」


 あたしは目を逸らす。二人で歩く星空の下、なんだか不思議と高揚感があった。


「あそこ、座ろっか」

「うん」


 七条君が指さした先は土手の斜面だ。いかにも青春っぽいなって思っちゃう。あんな場所に男の子と二人きりだなんて、今まで何回想像したことだろうか。あたしって乙女。

 あたしは急に胸が熱くなってきた。あれ、なんでだろう。

 ふと七条君の顔を見上げた。見ないって約束したはずなのに、どうしても彼の方に目が言ってしまう。たくましい腕に、ちょっとやそっとじゃ動じなさそうな上半身。


 っ。~~~~~~~~~ッ!

 あたしったらなに意識しちゃってんだろう。ほんと……バカみたい。

 あたしはふっと笑った。

 けど、

 今日くらいはいいかも。


 あたしはすっと、七条君の方に手を伸ばした。そのまま指を、七条君の指に絡め合わせる。すっごくドキドキしてたけど、あたしが七条君の目を見たとき、彼もすごい優しそうな目であたしを見てくれた。

 拒絶、されてないよね……。


「小清水さん、指冷たい」

「は、いやなわけ? あたしと手を繋ぐのいやなわけ?」

「いやそんなことはないけどね。ただ冷たすぎて壊死しちゃうと困るから」


 七条君、目そらさないでよ……。あたしまで動揺しちゃうじゃん。

 じゃ、じゃああんたが温めてよ。なぁんてくちが裂けても言えるわけない。

 って、これあたしから仕掛けたことか。あたしが望んで七条君と手を繋いだんだよね。


「七条君の手は、温かいね……。泳いできたはずなのに」

「はは。そうだね。なんでか知らないけど、おれの手基本温かいんだ」


 ふふ、とあたしまで釣られて笑っちゃう。よく手の温かい人は心の冷たい人なんて言うけど、そんなの嘘っぱちだよね。

 あたし達は揃って斜面に腰掛ける。見上げる星空はどこまでもきれいで、あたしの心に焼き付いた。

 湿った草の上に、あたしたちの重ね合わせた手があった。ってヤバい……どうしよう! やってしまった手前、すごい心臓の高鳴りが止められなくなってるんですけど。

 あたしは恥ずかしさをごまかすように口を開いた。


「ねぇ、七条君」

「ん?」

「かっこよかったよ」

「……ッ。そお? まぁ、うん、ありがと……。小清水さんがぶじでよかったと思う、ほんとにね」


 どうしてここまでこの人は奥手なんだろうな。あたしに対しても、もうちょっと踏み込んでくれた方が今は嬉しいのに。

 なんて、こんなのあたしの勝手なわがままだよねー。


「けどね、説教しなくちゃいけないわよ」

「え、どうして?」

「どうしてじゃないわよっ! あんたなに考えてんのよッ! 自分から火だるまにでもなるつもりなのッ!?」

「……あははっ。いやだって、妹が傷ついた分、兄も傷ついた方がいいかもって思ったからさ!」


 笑いながら言うことじゃないわよ……。こいつあれだわ、ほんとド天然野郎だわ。

 けどちょっと嬉しいわよね。

『妹に手ぇ出してんじゃねぇよッ!』

 あのときもあたしのことを妹と呼んでくれた。

 今までのあたしだったら、絶対にそんな呼び方すんなって怒ってたはずなのに。

 今はすごく嬉しくて、さ。

 あたしの目はどこまでも潤んでしまう。


「それよりも、小清水さんの傷の方が心配なんだけど」

「ッ! あたしの心配なんかしなくていいのッ! あんたはあんただけの心配してくれればそれでいいから」


 そのときだった。

 がばっと、七条君がなだれるようにあたしを抱きしめてくれたのは。

 彼はあたしの頭に優しく手を乗せてくれる。男の人の香りが鼻の奥にまで届いてくる。嫌いじゃなかった。むしろ好きかも。兄の匂い。あたしの頼れる兄の匂い。けど、びっくりすんじゃん!


「――もう強がらなくていいから」


 そんな言葉掛けてくれると思わなかったから、あたしの瞳に水膜が張って滝のように涙が頬を伝っていく。泣いていいんだよね? あたしは自分に言い聞かせる。なんで、あんたはそこまで優しくできるの。

 男の人の体ってこんなにもおっきいんだ。


「……ぐっ」


 あたしは七条君の顔を見た。ここからだと横顔しか見えないけど、それでもすごく優しい表情を浮かべてくれているとわかった。

 気づいたら言葉があふれ出てきた。


「あんたって奴はさっ! どこまでしてくれれば気が済むのよッ!」


 あたしが叫ぶのはお門違いなはずなのに、彼の温かい手はあたしの頭に乗せられていて。あやすように、ここにいていいんだって教えてくれているように、あたしを包み込んでくれて。

 もうダメだ。

 あたし限界だ。辛くて苦くて吐き出したくて吐き出せなかったものが、ドバッとあふれ出てきた。七条君はそれをすべて受け止めてくれると思えたから。

 七条君の肩の上であたしは顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。


「……うっ……………………あぁああああああああああっ!! こわかったっ! あたし途中でなんども逃げ出したいと思ったわよっ! けど誰も来なくて……心が死ぬんだって思って……ぐすっ……けっきょく自分でけじめつけようとしたって、自分がものすごい無力な人間だって実感させられるだけでッ!」


 あぁ。あたしの顔もうぐっちゃぐちゃよ。涙も鼻水も、嗄れるくらいに流してる。それでも七条君は温もりの塊みたいな存在で。あたしが息を吸い込むたびに、あたしの頭撫でてくれて。これが家族なんだって思えてきて。


「……ぐすん……助けてくれて……ありがと」


 七条君はにっかと笑った。その笑顔はあたしの心の中にものすごく焼き付いて、一生離れないんだろうなと思った。いつもいつもつまんなさそうな顔してるのに、こんな時だけ笑顔を浮かべてくれて。

 どこまでもかっこよくて。

 どこまでも頼りがいがあって。

 それでもちょっとやり過ぎなところがあって。

 まったくもう、どこの世界に妹のために物理的に燃える人がいんのよっ。あたしは七条君の太ももをペチペチと叩く。


「小清水さんは、こんなこと言われて迷惑かも知れないけど――」


 七条君が口を開く。


「おれ、理想の兄貴になりたいんだ。どこまでも妹のためを思って、守ってやれるときは守ってやって、辛そうになってるときは手を差し伸べて――できればさ、一緒に心の底から笑い合えるような関係性になりたいんだ」


 あたしの視界の先には、滲んだ街の灯りがあった。あたしはあの光の世界に戻れるんだ。

 七条君って言う大切な兄がいるから。


「だから、おれのこと、兄と思ってもらってもいいかな。自分じゃちょっとまだまだ自信がないけどさ、おれ頑張るから。君のために頑張るから。だからどうか――」


 七条君が体を離す。そしてあたしに手を伸ばして、言った。


「おれの妹になって下さい」


 頭を下げた。

 ったく、そんな告白初めて聞いたわよ。

 もう答えなんか、とうに決まってんのよ。

 七条君。あんたの目を見て言うわよ。


「……わかった、兄貴」


 あたしも、うまく笑えてるかなぁ? 兄貴みたいに強い人間になれるかなぁ。

 けど頼ってもいいよね。これからも、ずっとさ。


「よろしくねっ!!」


 硬い固い握手を交わした。七条君は照れくさそうに笑って、あたしの顔をじっと見つめて、可愛いくらい耳まで真っ赤にして、目まで潤ませて、やがて覚悟を決めて口を開いた。


「こちらこそ、友梨さん」


 世界一の兄貴は、反対の手であたしの目元に浮かんでいた涙をそっとぬぐってくれた。


 あたし達は二人して夜空を見上げていた。もちろん指と指はまだ絡まり合って、しばらく離したくなかった。ね、ねぇ、ちょっと恥ずかしいかも。


「星がきれいね」

「ほんとだね」

「ちょっとー、そこは君の方がきれいだね、じゃないのー?」

「あはは、ごめん。それって妹に言うのも変じゃない? っていうか星と人間じゃ比べられなくないか?」

「……へーそう。あんたってそうやってはぐらかすんだ」

「べつにそんなわけじゃないけどふつうに照れくさくない!?」


 なぁんだ、ふうん。あっそ。

 えへへ。


「なに笑ってんの?」

「べつにぃ。兄貴も素直じゃないなぁって思ってさ。べつにきれいだと思うんなら、妹に対して言っても罪じゃないんじゃない?」

「そ、だけど。……あーもう、調子狂う! なんか名前呼び慣れないから、小清水さん続行でよくない!?」

「あははっ! ダメに決まってんじゃ~ん! 兄貴の困った顔久々に見たかも。学校ではいっつもそんな顔してるよね。冴えない顔なんだな、うちの兄貴って。眠いの?」

「違う。断じて眠くない。いや眠そうな顔してるけどべつに眠いわけじゃない」

「ははっ! ねぇ、それにしても珍しいと思わない? こんなに星がきれいに見えるのって」

「ん、まぁ言われてみればそうかもな。この街上空ってあんまきれいなイメージないから」

「ちょっとー、それ色んな人に怒られちゃわない?」

「べつにいいんじゃないのかな。ここにはおれらしかいないんだし。そ、それに星よりも友梨さんの方がきれいなんじゃなかったっけ?」


 は、ハァ!? ちょっとあんたなに顔赤らめてんの!? あたし惚れさせる気なの!? 


「~~~~ッ! だから反則だってのッ!」


 あたしはペチンと兄貴の腕を叩く。こうしている時間がホントに楽しくて、ドキドキして、一生ここにいたいって気持ちも芽生えてしまう。

 あぁでもそうだよね。兄貴とあたしって、これからもずっとなんだよね。

 そうやって想像してると、嬉しくってたまんないや。兄貴、あたしだけの兄貴。あたしのことを困ったら抱きしめてくれて、慰めてくれるたった一人の兄貴。

 義理の、なんてついてるけど、けっきょくそれがなんだってはなしよ。

 それにしてもなぁ。

 こんなに笑ったのって何年ぶりくらいかしら? ずっと笑ってなかったせいか、お腹がすごい痛いや……ってそれは殴られたからか。


「……えへへ、兄貴とあたしって今すごい恰好してるよねー。人に見られたらたいへんじゃん」

「そうかもなぁ。けど誰も見てないから、い、いいんじゃない?」

「兄貴があたしのことエロい目で見てる!」

「見てないっ! 断じて見てないッ! いやエロいけどさっ!」


 兄貴は面白いくらいにこういう話題に対してうぶだ。あ、あたしだってうぶな反応しちゃうかもだけど、兄貴の反応はいかにも男の子らしくって面白い。


「さ、寒くないの? あんたさ、そんな上半身裸で」

「それなら友梨さんだっておんなじだろ? 痛み分けじゃないのかな」

「そ、そんなの兄貴の方が寒いに決まってんじゃん。平等じゃなくない?」

「け、けど、じゃあどうしろってんだよ。友梨さんに上着脱げって言えばいいのか?」

「バッ、バカじゃないのッ? あんたそれってあたしの下着姿見たいだけなんじゃないの? きんもっ」

「ちっ、違うって! ほれもう、この話題終わりにしようよ!」

「……じゃ、なんの話する?」


 兄貴はここで『えー帰らないの?』とか言ってくる人じゃなかった。それどころか、さらにあたしの手を強く包み込んでくれる。っていうかあたしもっとここにいたいんだけど。


「あっ、そうだ。兄貴すっごく強かったじゃん。あれ、なんで? ボクシングやってたの? あたし風邪引いたときにジム行ってたって聞いたから、てっきりトレーニングジムのことかと思ってたんだけど」

「あぁそれか」


 兄貴はゆっくりと顔を上げた。その首筋、その瞳、風にふわりと持ち上げられるその髪を見て、あたしは一瞬息を呑んだ。こんなに透き通った顔立ちの人が今まであたしのすぐ傍にいたなんて、まったく気づかなかったことが不思議なくらいに。

 兄貴はそれから、言葉を選ぶように語ってくれた。あたしは話を聞けることが嬉しくてしょうがない。兄貴のことは、今はどこまでも理解したいと思ったから。

 兄貴はゆっくりと語り始める……


 ――小学校の頃いじめにあってたんだ。あれは四年生くらいまで続いてたかな。とにかくおれは上履きとか隠されたり、机に落書きされたり父さんに買ってもらったキーホルダー壊されたりされてたんだ。


 すっごい悔しかった。けどやり返す勇気がなくってさ。いっつも泣きながら家に帰ってたんだ。もうなんで学校なんて存在すんだろうなって常々思ってた。

 それでも不登校にならなかったのはやっぱり父さんのおかげだと思うんだ。父さんはいつも帰って来るなりおれを慰めてくれた。ホントに嬉しかった。自分の味方はここにいるんだって安心した。


 父さんはあるときおれをジムに連れてってくれたんだ。最初おれはここが何の施設なのかってわからなかった。とにかく汗を掻いているおじさんが一杯いる場所としか思わなかったんだ。

 父さんね、ああ見えて昔はプロのボクサーだったんだよ。今はあんなに優しい顔してるけど昔はやんちゃばっかりしてて、それこそ暴走族みたいな団体に入ってたこともあるみたい。


 すっごくケンカが強くて、その成り行きでボクシング始めたらしいんだ。

 父さんはおれにジムに通うように勧めた。子どもだったからかすっごい飲み込みが早いって言われて、けっきょく何週間かするくらいにはサマになってった。……これおれができる数少ない自慢だな。


 いじめに対する対処法も教わった。曰く父さんは『いいか洋太。誰かになんか言われたときはまずは目で威圧しろ。こうやるんだ』って。父さんはおれのことにらんでくるんだ。すっげー怖かった。さっきまでの優しい表情は嘘みたいに思えたよ。

 それ以外にも父さんからは人になめられない方法ってのを教わった。父さんは不器用な人だったから、方法論を語るよりもむしろ自分でやって見せて、それをおれに真似させることにしてたんだ。


 だからほとんど父さんの真似事なんだよ。おれは気が弱いけど、いざとなったらあの人の姿思い浮かべて、あとはそれを真似してるだけなんだ。

 中学校の頃もずっと続けててけっきょく三年生の時まで通ってたかな。父さんがボクシング辞めてからけっこう経ってたし、なにより母さんがその頃出て行ったから。


 おれにとっては父さんは太陽みたいな存在なんだ。それで父さんもよく言ってる。『男なら太陽になれ』って。きっと誰かの希望になれって意味だと思う。その言葉がおれにとっては眩しくてさ。他にも『孤独を愛せ』とかね。遙かな高みを目指していれば勝手に軽い目標はクリアできるんだぜって、教えてくれたんだ。


 そんな父さんでも勝てない存在ってのがあったんだ。

 今はもう離婚してしまった母さん。

 あの人の行動にだけは勝てなかったんだ。


 中学三年生のとき。おれの母さんが不倫してることを、父さんが知っちゃってね。それで家族会議が開かれてすっごいことになった。母さん逆ギレして父さんの胸ぐらに掴み掛かったんだよ。自分が悪いってことなんて認めようともしなかった。多分ヒステリーになってたんだと思う。


 あたしだって散々子育てしてきたんだからちょっとくらいいいじゃない、みたいな言葉も出てきて、おれそんときはすげぇショックでさぁ。泣いた泣いた。その現場に俺も居たんだけど、おれが泣いたって母さんおれの方見向きもしなかったんだ。


 それが一番父さんの逆鱗に触れたんだと思う。子を愛せないなら出てけって、はっきりと言った。文字通り母さんは飛び出ていったよ。今どこにいてなにしてんのかは、少なくともおれはまったく知らない。


 悲し、かったよ……。三日三晩寝られないくらいにはショックだった。父さんは家の中で気丈に振る舞ってくれたけど、これから先どうなっちゃうんだろうって不安だった。

 父さんのために、おれは家事を覚えた。家事っていってもこなす程度のものだけどね。


 なんだかんだで高校にも通えて、友達は少ないけどそれなりの生活を送れるもんだなぁって、今になって思うよね。……人間地に足着けていれば、そして歩いてれば、必ずどこかへ行けるんだって。


 はは、ごめんごめん。ちょっと長く話過ぎちゃったかも。

 けどこれだけは言っときたいんだよ。

 父さんは優しい人だから。それはおれがずっと見てきたことだから。


 

 そうなんだ……。

 兄貴いじめられてたんだ。でもなんかそんな雰囲気もなくはないわよね。いじめられそうな顔してるしさ。


「あんたも色々あったんだ……。なんかごめんね、最初会ったとき色々ひどいこと言っちゃってさ。ほんと……ごめん。それとお父さんにも、あとで謝らなくちゃいけないわよね。そんなスゴイ人だったなんてあたし知らなかったわよ」

「まぁ父さん自慢したがるタイプじゃないから。それに友梨さんが言ってたことも、あんまし気にしてないと思うよ」


 っ。また友梨さんって言われた。自分で言ってっていったのに、やっぱまだ恥ずかしいわ……。


「あ、あんたさ、そのさ、お母さんのこと恨んでないわけ? 言い方悪いけどさ、家族裏切ったわけじゃん? 怒ったりとかしなかったの?」

「んーさぁ? まぁ今思えば母さんだってたいへんだったと思うしさ、それまでに築き上げてきた母さんとの思い出だってあったから。当時よりかはよっぽど傷は癒えてるよ。恨んでるってほどでもないかな」

「ふぅん、そうなんだ。なんか兄貴ってさ…………人間がよくできてるわよね。ごめん変な言い方。やっぱ忘れて!」


 あたしなに言っちゃってんだろうね。マジでこれあとで恥ずかしくなる奴だと思う。まぁ今くらいはいっか。兄貴だって上半身裸で恥ずかしい思いしてるわけだし、あたしだって下着見られてんだから。

 川面には月の光が反射してた。すっごいきれい。なんていうか、幻想的、っていうか……ろ、ロマンティックて言うかさ。

 ぴゅううと風が吹き抜けていった。


「寒いわね」

「そうだね」

「……もっとそっち行っていい?」

「……うん」


 あたしは兄貴にすり寄った。体がぴったり密着するほどに近く。お互いの心臓の鼓動が聞こえてきそう。


「ね、ねぇ」


 あたしはうつむきがちに口を開く。ほんと今日のあたしどうかしてるんじゃないかしら。


「あんた、もっかいあたしのこと名前で呼んでくれないかな」

「……え?」


 もちろん兄貴は驚いた顔。あたしはかーっと体が熱くなるのを感じた。

 けど、あたしの心はすでにオーバーヒートしてる。戻らなくていいから。だからあたしのわがままを、兄貴に伝えたい。

 ちょっとだけ甘えてもいいわよね?

 今まで頑張ってきたって兄貴認めてくれたからさ。

 風がさらに強くなって、あたしたちの肌を撫でていった。肌がプツプツと粟立ってしまう。


「あ、あたしの耳元で、ゆりって囁いて欲しいんだけど…………ダメ?」


 あぁあああああああ!

 もう理性なんてどこ吹く風だった。ならどこまででも飛んで言ってしまった方がいいんじゃないか。

 兄貴のつややかな唇が動いた。「いいよ」って。

 それからゆっくりとその唇をあたしの顔の横に近づけて、


「――ゆり」


 悶絶しちゃうわよ……。なにやってんだろう。バカバカ! あたしのバカッ!

 けど、これすごく嬉しい。あたしのことちゃんと見ててくれるって、そう思って安心できるからさ。あ、あたしってちょっとキモいかな……!?


「い、一日一回さ、そうやってよ!」

「ええ!? 一日一回!? こっちも恥ずかしいんだけど!?」


 あたしは指先をもじもじさせながら、それでも押し通すことにする。


「いいじゃん」


 兄貴はしばらくうろたえてたけど、しばらくしてまた笑顔に戻った。ちょっとぎこちないけど、やってくれるってことらしい。

 兄貴は照れを隠すように頬を指でカリカリ掻いた。

 そうよね。

 あたしは今の兄貴の心が手に取るようにわかる気がした。寒いから温かいおうちに帰ろう。そう言おうとしてるんだ。


「帰ろっか」


 兄貴が言う。


「うん」


 あたしが言う。そっと兄貴の手を取って。

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