第3話 それでもあんたは他人だからっ

 お兄ちゃん。

 兄貴。

 まぁ呼ばれ方は色々あるけど、兄という存在はどうあればいいのかおれには正直よくわからない。

 世に妹がいる兄に問いかけたい。

 妹が風邪を引いたとき、どう接してやるのが正解なのかを。


 

 四月十二日。水曜日である。

 ドキドキしながらおれはおかゆを運んでいく。向かうのはもちろん小清水さんの部屋だ。


「ご飯持ってきたよ。入っていい?」

「どーぞ。好きにすれば?」


 彼女のツンツンした言動にもすでに慣れている。おれは扉を開けた。

 小清水さんの熱はまだ治まってない。


「……ッ!」


 おれは慌てて目を逸らす。小清水さんがパジャマ姿でのっそりと上半身を起こしたからだ。潤んだ瞳でおれを見上げてくる。っていうかボタン一番上まで締めてよ!。

 ごめん。正直彼女の言動には慣れても、この容姿には慣れない。


「どうしたの七条君? あ、あんまし寝起きの恰好見られんのいやなんだけど」

「ご、ごめん。ここに置いとくね」


 小清水さん、寝癖ついてることに気がついてないんだろうか……。

 まぁそんな無防備な姿もかわいい。

 でも本当にこんなんでいいんだろうか。ほんものの兄だったら一体どんな行動をするのだろうかと常々考えてしまう。


 おれの行動は兄として正しいのか?

 けど自分が兄として振る舞おうとすること自体、おこがましいのかもしれないな。

 小清水さんは少なくともおれを他人としてみている。

 おれは彼女との関係性を、どのように保ちたいんだろうか。


「何度あった?」

「んー、七度五分。おかげさまでだいぶ下がってきたよ。けど今日も学校休む」

「そうか、お大事にね」

「うん」


 小清水さんはよっこいしょとベッドに座る。おでこに冷えピタを貼ってる。なんでそんなにサマになってるんだろうか。


「おいしい。あんた本気で料理人目指せんじゃないの? おかゆ専門で!」

「お、おかゆ専門じゃ儲からないって……!」

「あはは。それもそうだねー」


 何気ない会話も増えたと思う。おれはそのこと自体は嬉しいと思っている。

 おれは部屋をあとにした。

 

 早く小清水さんの風邪が治りますように、とおれは祈るばかりだった。



「……」


 おれは思いだしてしまう。小清水さんと五時間も手を繋いでいたことを。

 おれはじっと彼女の寝顔を見ていた。あどけない子どものような寝顔だった。


「……」


 廊下を早歩きする。自分の顔が真っ赤になっているのもわかっている。

 あれ、おれちょっと彼女に惚れてない!?

 ……まぁそんなことはないし、そんなことになってもいけないと思う。彼女がただのクラスメイトであれば話は別だが、今はおれの義妹なのだ。

 金曜日から土曜日にかけて、小清水さんはひどくうなされていた。


「『……いかないで』」


 彼女はおれにそう嘆願した。おれはそれに応えた。断る理由なんてこれっぽっちもなかったし、その言葉の中には彼女の過ごしてきた日々の辛さとかが、含まれていたように思えたから。

 おれが小清水さんを心配する権利なんてあるんだろうか。

 悩みは尽きないけれど、おれはひとまず学校へと向かうことにした。


「よぉ」

「おはよー。山岡早弁してんのかよ? いくら何でも早すぎない?」

「なぁに言ってんだよ。朝練終わりなんだからこれはどっちかって言うと昼飯じゃなくて朝飯に入る。ンで昼は購買で買うってのがおれのセオリーなの。おれはこう見えてもセオリストなんだよ。予定はきっちりと守りたいぜ!」

「そうかよ。お前の目標はよくわかった。せいぜい頑張れよ」

「ちょっ! おまっ! いくら何でも冷たすぎだぜぇ? なんだなんだ? そーいやお前最近ちょっと嬉しそうだなぁ。なんかあったのか? まさか彼女とかできたとか言い出すんじゃないだろうな? 言ったら殺すぜ」

「殺されたくはないな。ただやっぱり高校生には悩みがつきもんなんだなぁ、って偉そうなこと思ってるだけさ」

「ほーう。帰宅部風情がねぇ」

「……おい。お前それ帰宅部差別だぞ」

「けっ。おかしーぜ。なんで放課後に遊んでやがる連中の方が彼女できるんだよォ。世の中理不尽じゃね? まぁお前は帰宅部の中でも彼女いないタイプの人間だから、まぁなんだ、とにかくおれは嬉しいぜ!」

「はいはい。勝手に喜んでやがれ。くだらないこと言ってっと、後世でもそんなグチだらけの人間になっちまうぞ? あれだな。お前転生したらゴブリンになるタイプだな」


 おれの役にも立たないような忠告を山岡は華麗に受け流した。さすがサッカー部レギュラーだ。華麗なスルースキルを持ってるな。


「あ~あー。せめてクラスに小清水さんが来てくれりゃ、おれの部活行く原動力になり得るってのによォ。なんで風邪なんか引いちまうんだよ」


 おれは一瞬ビクッとした。だが山岡は気づいてないらしい。箸を開いたり閉じたりしてから、おれに身を寄せてきた。


「――なぁ、お前ぶっちゃけ小清水のことどう思う?」

「ぬわあああッ!?」


 予想外な奴から恋バナをぶっかけられた! 一番予想してなかった人間だ!


「どしたんだよ、お前。まさか小清水のことが好きなのか!?」

「声がでけー! アホか!」


 おれは容赦なく山岡の頭をぶったたく。クラス中の視線がこちらに向く。よかった陰キャで! もしおれが陽キャなら、間違いなくいじられてますよ!

 おれは若干涙目になってることを自覚した。恋する乙女かよ……。


「ってーな!! なにしやがんだ!!」

「っとわりぃわりぃ。だがそんな大声で言うことじゃねーだろ」

「へぇ、そうかなぁ。お前の反応、けっこーうぶだったぞ。それも核心を突かれたときの反応」


 おれはどうしたものかと考える。こんなに反応に出やすいタイプだとは、自分でも思ってなかったな、ちくしょう。

 だがおれは咳払いをする。嘘はつかない程度で否定しに掛かる。


「いいか、山岡。お前佐伯さんのこと好きなんだろ」

「――どぅわああああああっ!」

「ほら見ろ。お前だって似たような反応返すじゃねーか」

「ばっ、バカかテメー。いきなり言われたらそう返すしかねーじゃねーか!」


 おれは指パッチンして、人差し指を山岡に向ける。


「まぁだからそういうことだよ。いきなり『お前誰それのこと好きなんだろ』とか言われたら、誰だって動揺する」

「……ん、まぁそうだな、たしかにそうだ。けっ、悪かったよ。謝る」

「わかりゃいいんだわかりゃ」



 マズいことになった。

 数学の時間にそれは起きたのだ。


「はいじゃー美奈子ちゃんの、たのしーたのしーすうがくのおじかんはここまでにしまぁすっ! あっ、そーだー、美奈子うっかりしてたー。このプリントを、今日休んでる小清水さんに届けてくれる人いませんかー。テスト範囲の問題が入った重要なプリントなのでー、できれば渡しておきたいんだけどー、家近い人とかいるかなっ☆」


 数学担当の女教師は、笑顔でそういった。

 どうしようか。おれは手を挙げるべきなんだろうかと考えていると、おれの前の席の佐伯いずな氏が手を挙げた。


「は~いっ! せんせせんせ、私に任せといてくれよっ! べつに家が近くなくたって、友達のためなら行動を起こすってのが親友ってもんさっ」


 おー、と歓声が上がる。

 ちょっと待て。

 おれは冷や汗を流す。佐伯さん、なにをよけいなことを……。

 っていうか佐伯さん、小清水さんのうちの場所知ってんのかな……。まぁもし知らなかったとしても、担任の教師に聞き出せばいい話だ。

 ってちょっと待て! なに冷静に考えてんだおれは! これ死亡フラグじゃないか? 小清水さんの家っておれんちじゃんかよ! え、なに? つまり佐伯さんが今日うちに来るってこと?

 終わった……。


「うぅ。美奈子ちゃん感動で前が見えないよぉ! 女の子同士の友情って、泣けちゃうよぉ。百合展開サイコーすぎて、美奈子イっちゃうよぉ……!」


 数学担当の変態発言には耳を傾けることはせず、おれはこの事態をどう収拾するべきか考えた。

 ……んや、むりだ。諦めた方がいい。

 だって佐伯さんは自らの優しさからそう言ってのけたのだ。そして小清水さんと佐伯さんは親友同士である。そこに対しておれが干渉していい筋合いなんてないよな。


「……はぁ」

「おっ、どうしたんだい聖徳太子君? お疲れかい?」

「はは、うんまぁ。これから疲れそうだなって」

「若いのになに言ってんだい。ほらしゃきっとしようぜしゃきっと! わははは」


 佐伯さんに肩をポンポン叩かれる。おれはされるがままだった。



 自宅にて。おれは死刑を待つ受刑者のように、テーブルに肘を載せてそのときを今か今かと待ちわびていた。

 ……遅い。

 もしかしたら部活終わってから来るのかも知れない。佐伯さんはバスケットボール部だから、けっこー遅い時間までやっているのかも知れない。


 ……。


 おれは不安になって玄関扉の前まで行った。覗き穴で覗いてみる。

 い、いたああああああああああっ!

 佐伯さんが制服姿でうろちょろしてる、うちの前で。

 どうやら表札を眺めて、首を傾げたり、「あっれー、おっかしいなー」とコナンくんばりの疑問を炸裂させているようだ。助けてアガサ博士!

 表札は七条になっている。しかし小清水さんは、学校では小清水姓を名乗り続けている。

 いつかこんなイベント来るんだと思ってた……。おれは肩を落とす。

 明日から茶化されそうだ。っていうか、学校にどんな顔していけばいいのだろうか。

 おれはため息をついて、扉を開けることにした。


「こんにちは、佐伯さん」

「???」


 佐伯さんは腕組みをして、今度は上半身ごと横に傾けた。


「んー、ここゆりりんちじゃないの? どうして七条君がいんのさ?」


 おれはどう答えようかと考えていたが、けっきょくうまい言葉は思いつかなかった。

 ――と、そこへ。


「おっすー、いずなっちじゃん。どうかしたの?」


 おれの背後から冷えピタをおでこに貼った小清水さん登場。マジでありがたい。このタイミングでの登場は、インチキおじさんよりも遥かに有能と言えるだろう。


「ん? んん? んんんんんー? どういうことが説明願いたいねぇ」


 そこでようやく小清水さんがあっと言う顔をした。どうやら義理の兄妹であることを隠すというルールが破けた瞬間だと気づいたらしい。


「んあー、いずなっちー。……まぁとりあえず上がってよ。来てくれてありがと。その、ちゃんと訳は話すからさ」



――というわけで事情説明。


「ぎりのきょーだいぃぃいいいいいいい!?」


 佐伯さんの絶叫が轟く。テーブルの上に置いてある麦茶まで波立っている。


「イヤーこいつは驚きだっ。まさかフィクションでしか聞かないような場面に遭遇しちまってんだからねぇ」

「……んー、いやいずな。現実にもそういう人たくさんいると思うけど……」

「だけどさっ、考えても見ろよっ。同じクラスでしかも隣同士の席の子と義理の兄妹になったんだぜ? こいつはどう考えても奇跡としか言いようがないよ」


 順序は逆だけど、まぁたしかに。


「そーかな。まぁ、傍から見たらそうなのかも知れないな」

「ほー、で、どっちが年上なんだいっ?」

「おれの方だよ。おれが六月五日生まれで、小清水さんが十二月三十日だから」

「へぇ。ンじゃあ聖徳太子君の方が兄貴ってわけかい? よかったねゆりりん! 兄貴ができたんだろォ? 羨ましい限りだぜ!」

「ちょっ、べつに嬉しくないわよ! ……言っとくけど、うちら同居してるだけのただの他人だから。そこんとこ勘違いされたら困るのよね」

「ほう。とか言っちゃってー。あんなハプニングやこんなハプニングが起こっちゃったりしたんじゃないのかい? 同い年の男女が一緒に暮らしてて、そりゃ最初は色々起こるんじゃないかなぁ? で、どうなんだい? んー?」

「――あ!」「――う!」


 佐伯さんがじと目でこっちを見てくる。う。この子鋭い!


「べ、べつになんもなかったから!」


 おい小清水さん。その反応はやめた方がいいって……。裏返しに何かあったことを言っちゃってるから。


「ほーう、やっぱあったんだ。どんなことどんなこと?」

「教えないから。べつにいずなが想像するようなことじゃないし。とにかく、七条君は七条君だから。兄貴とか一生呼ばないから。……まぁでも、風邪引いたあたしの面倒見てくれたり、料理作ってくれたりするのはちょっと嬉しいけどね」


 おれはちょっとうつむく。よくそんなことを言えるね小清水さん。恥ずかしいじゃないですか……。


「おやぁ、顔真っ赤だよ七条君。もしかして照れてるのかい? 君もうぶだねぇ」


 う、うるさい。おれは照れてなんかない!


「む、麦茶おかわりいる?」

「あ、あたしのお願いねー。なぁんか熱でると喉渇くんだよねー。あ、そいでいずなっちさ、うちらが兄妹ってこと学校のみんなには黙って欲しいんだけど」

「お安いご用さっ! まぁなんとなく隠したがってるってことは予想がついたしねっ。同い年の男女が同居してるってなったら、ゴシップ好きな新聞部員になんて書かれちまうかわかったもんじゃないからねっ!」

「あはは。いずなっちありがとー」


 しばらく歓談の時間は続いた。……けど、おれの方はどうも居心地が悪いんだよな。いや、世話を焼こうとするとなぜか知らないけど佐伯さんに遠慮されてしまうのだ。


「そーだ、すっかり忘れちまってたよー。ほら、数学のプリント。テスト範囲だって先生言ってたよ」

「……えー、数学のプリントかー。あんましいらないんだけどなー」

「なぁに言ってんだい。勉強は学生のうちにしておくべきだよっ。ンじゃないと社会人になったときに困るのは自分だからねっ」


 おれは佐伯さんの言葉に気が引き締まる。たしかにそうである。勉学は今のうちにやっといた方がいい。ちなみにおれは学年三位(去年)。

 もしかしたら佐伯さん頭いいのかも知れないな。


「そーいや七条くんっ。数学の先生に『このプリント誰か小清水さんの家に届けてくれませんか』って聞かれたときも、わざわざ黙ってたってことだよね?」

「ま、まぁそういうことになるかな! さすがにおれが小清水さんの家知ってますとか言ったら、クラス中からどんな目で見られるかわかったもんじゃないから!」

「まぁそうだよねぇ。納得納得。黙ってるのは正解だったねぇ。でもドキドキだっただろう? あたしが家に来るってわかってたってことだからさっ」

「まぁね。まぁ家に来ると決まってしまった以上、覚悟は決めてたけど」

「あっはは。まぁ心配なさんなってっ。あたしは口がカタい女として有名だからねっ。町一番のカタささっ。いいや、日本一かなっ? あたしに掛かればどんな秘密だって守れちゃうからねぇ。KGBもビックリの実力さねっ」


 どういうことだろう。KGBってなんだっけ? とおれが脳内で検索をかけているうちに、佐伯さんが続けた。


「でぇゆりりん? 熱は今んとこどう? また学校来られそうな感じ?」

「え? あぁうん! 今日朝測ったときは七度五分だったわよ。今はもうちょっと下がってると思う」

「んー、そらよかったよかった。私はゆりりんが心配でしょうがなかったんだよ。でも治りそうならこれ以上のことはないよっ。今日来たのも、半分以上は見舞いってところだからね」

「そーなんだ。いずなってほんとあたしのこと好きだよねー」

「もぉちろんさっ。愛と勇気とゆりりんだけが友達だからねっ」

「もーいずなったら、伊沢君とか忘れてるでしょー」

「あっはは。そりゃそうだね。一本取られちまったぜ」


 などと楽しそうに会話している。なんだろう、女子同士の会話ってどうしてこんなにも尊いのだろうか。


「明日には学校行けそうな感じかな。もー元気有り余ってるくらい」


 そーかいそーかい、と嬉しそうにうなずく佐伯さんだったけど――その表情が急に暗くなり始めた。


「……ん? いずなっち? どうしたの?」

「あん? んにゃ、なんでもないよっ。ただちょっと気になることがあってだねぇ。あたしはどーもこのことを聞き出さないと気が済まないって言うかさ。友人としてこれだけは看過できない話題ってのがあってだね?」


 急に空気がシリアスになり始めた。あぁ、わかった。佐伯さんが言いたいことがなんとなく予想できた。

 それはおれも疑問に感じてたことだと思う。

 

「――ゆりりんさー、金曜日なにがあったんだい?」


 問いかける声音は恐ろしく優しさをたたえていた。

 小清水さんはうつむいてしまう。むりもないと思う。

 おれだって聞き出したかったことだ。

 けど聞く権利なんてないとずっと思っていたし、それは間違いのないことだ。

 なぜだろう、雰囲気全体が暗くなっているはずなのに、佐伯さんの表情はやけに明るかった。


 おれは思う。


 ――あぁ、彼女は本当に小清水さんのことを心配しているのだと。


 小清水さんはひたすら黙っていた。下唇をかんでまるでなにかに耐えているかのようだ。


「いやー、ごめんねー。聞かれたくないことだとは思うけどさっ、ゆりりんがなにかを抱えてるってんなら、力になりたいんだよ」


 本音だろう。その声音はどこまでも優しかった。


「まぁべつに答えづらいことだったら答えなくてもいいけどねっ。そりゃ友達が話したくないことのひとつやふたつはあるってことは理解してるつもりだしねっ。ただ、そのさ、心配なんだよ。ゆりりんが体調を崩したことと、金曜日に起こったことは絶対に無関係じゃないと思うからさ」


 静かな声音だった。聞いていると安心してすべてをぶちまけたくなるような。

 小清水さんは思い詰めた表情だったけど、やがて顔を上げた。バッと振り上げられた長い髪、そしてあらわになった小清水さんの表情。


「……わかった。全部話す。…………けどさ、いずなだけに聞かせたいって言うか。やっぱり七条君には聞かれたくないこと、だから」


 ――義兄妹。

 おれが思っているよりも、彼女はその関係性に対して恐怖を抱いているように見えた。もちろんおれも抱いている。けれど彼女のそれは、どこか他人に対する不安感から来るもののように思えた。


「……、」


 おれは唇を噛みしめる。小清水さんから退場を願われている以上、従うほかないだろうな。


「そっか。じゃあおれは部屋に戻ってるよ」


 佐伯さんがニカッと笑う。


「悪いねー」

「いいっていいって」


 おれはすぐに階段をのぼっていった。


 本当はいけないことだってわかってる。


 それが小清水さんの意に反することだってことも。


 けどわるい。


 おれも小清水さんのこと、ほっとけないんだよ。


 おれはこっそり廊下の壁に張り付いた。ここからなら、小清水さんたちの会話が聞こえてくるはずだ。


 ゆっくりと、小清水さんは語り出した。扉が閉まっているからちょっとくぐもっているが、聞こえる範囲だ。



 ――いずなっちに幻滅されるかも知れないけどさ。


 金曜日にあったのは、あれあたしの元彼なの。中学時代のさ。それでよりもどそーって言ってきて、あたし断ったんだ。そしたら向こうが怒ってきてさ。

 あたし必死に対抗しようとして。けど、やっぱり向こうは男の人だからあたしの抵抗なんか虚しくて、どうにもならなくて。


 これ、首のつねられたあと。今はもうだいぶ治ってると思うけど、あんときあいつにつねられたの。

 あたしね、ずっと終わったことだと思ってたんだよね。

 それもあたしだけが思ってたことなのかしらね。

 柴田って言う奴なんだけどね。

 いずなっちには話したことなかったよね。あたし中学時代地味な子だったのよ。そいでクラスの隅っこで丸くなってたんだけど、そんな時にあいつに声かけてもらって、あのときはすっごく嬉しかったの。


 家でね、あたしの前の父親に、散々暴力振るわれてきて。男の人ってどうせ女の人をおどかして、殴って蹴って、それで優越感に浸ることしかできないんだろうなって思ってたの。

 それでも柴田の笑顔に、あたしは誘われた。恥ずかしい話よね。これでのちのち柴田にもおんなじ目に遭わされるんですもの。

 けどあたしはそれでもいいって思ってた。思っちゃってたのよ! それであいつが喜んでくれるなら、あたしは幸せだって、そう思ってしまったのっ。


 あたしさ……きっと寂しかったんだろうね。誰からも愛されてないって思ってたから、友達もいなかったから。だから柴田って言う人の傍にいられることは、少なくともあたしにとっては正しいことだと感じてた……。

 あたしバカだって、ある日気づいた。そりゃそうよね。暴力振るわれてなお尻尾振ってる女子って、バカじゃん。


 中学三年生の頃、あたしあいつフったんだ。そうしたらものすごく怒って、まるで獣みたいにあたしのこと掴んできたわ。……ほんとに、ほんとにこわかったわよ……。

 けどあたしはなんとか逃げた。話はそれで終わりだ、だからもうかかわらないでっ、て叫んで逃げた。フィクションの中の捨てられる女かよ、って一瞬思ったけど、よくよく考えたらあたしってそういうタイプの人間なんだって、女なんだって、自覚しちゃった。


 高校入ったら、変われると思ったんだー。あたしの知らない世界が広がってるんじゃないかって。だから本当はね? 遠くの学校に行きたかったのよ。どこか誰の手も届かない新天地を求めたかった。

 けどそのときはもう父もお母さんも離婚しててね。お母さんに迷惑掛けたくないと思ったんだ。学費のこともあるし。交通費だって掛かるところに行くわけにもいかないじゃん。


 だからあの高校にしたってわけ。……ザ、地元の公立学校。元彼とはべつの学校だったってとこはほんと幸いだったわ。

 高校デビューって奴? メイクの勉強もおしゃれの勉強もしたし、学校の友達とどうやって仲良くなれるのかとかも一杯研究した。なめられたくなかったから。それで、今のあたしがある。それなりにスクールカーストの上位にも入れて、自分でも陽キャグループには入れてるって自覚はあるのよ。


 でもね、ごめんいずなっち。あれがあたしの自然体じゃないのよ。ときどき不安になるの。自分が本来地味な女の子であるってことがバレたらどうしようとかさ。

 ほんっとにさ、いずなにこんなこと話すなんて思いも寄らなかったわ。


 あたしね、グループにいるときはいつもにこにこしてるように見えるけど……やっぱり怖くってさっ。いつ伊沢君たちから手を放されるんだろうってドキドキして。

 伊沢君たちを振り回してるように見えるけど、あたしさ、ほんとは彼らに嫌われたくないのっ。けどあたしが演じなきゃいけないキャラクターみたいのがあって、あたしはそれを忠実に再現してるだけ。

 どれもこれも、まがいものなのよっ――



 全部聞こえた。

 まっ先に動いたのはおれじゃなくて佐伯さんだった。

 ガタンという音がして、おれはとっさに立ち上がった。廊下を早足で駆けて、その現場を目撃してしまう。


 佐伯さんが小清水さんを抱きしめていた。


 そしておれは小清水さんと目があってしまう。見られたくなかったんだろう。けどその目が彼女の心情を表す鏡になっていて、その鏡は美しく光り輝いて、次の瞬間に小清水さんの瞳からはきれいな涙が流れ落ちていった。


「幻滅するわけないだろ――ッ!!」


 佐伯さんの声が聞こえる。扉越しでもよく通る。


「私はさ……、嬉しいんだよっ。ゆりりんが自分のこと語ってくれて、私の知らないゆりりんを知れて。友達同士なのに、私の知らない所で悩んでるゆりりんが、こうやって私に全部ぶちまけてくれることがさっ!」


 おれは、どうしたらいい? ただ黙って聞いているだけ?


 きっとそれがふさわしいんだと思う。


 佐伯さんが小清水さんの肩を叩く。


「いずな……っ。……………………………………うん」

「辛かったらいくらでも泣いて欲しいんだよっ。私は、あんたのこと宇宙で一番の親友だと思ってるからさっ。あんたが今までどんな人だったとか、一切関係ないんだよっ。今のゆりりんが一番だってことさねっ」

「うっ。……………………ううっ。……あたし、のこと、嫌いじゃない? 離したりしないっ!?」

「しないしないっ。あたしがそんな女に見えるのかい?」

「……ぐすっ。見えない。いつものいずなっちだ」

「だろぉ? ほら、涙拭きなって。可愛い顔が台無しだよ、ったく」

「……うん、いずなっちありがと」


 おれはそのやり取りを聞きながら、勝手に聞いてしまった罪悪感に襲われた。

 自分を自分でグーパンしてやりたい。

 けど、おれは同時に小清水さんのことが聞けてよかったと思ってる。

 だって、その境遇は。

 

 ――自分と似たようなものだと思えたから。



「入ってきなさいよ。どうせ全部聞いてたんでしょう?」

「――ごめん」


 おれは扉を開けて中に入る。佐伯さんが驚いて目を丸くする。


「はいやー、聞いてたのかい? お兄ちゃんもやっぱり心配だったってことかな?」

「違う! そいつは兄貴なんかじゃないからっ! そもそもあたしの家族でもないから!」 


 佐伯さんは今度は小清水さんの方を見て驚いている。むりもないだろう。彼女からすればわけがわからないと思う。


「……あ、いずなっちごめん。けどやっぱりそいつには関係のないことだから、さ」

「そぉんなことないような気もすっけどなー。けどゆりりんは七条君に聞かれたくなかったってことなんだろ?」

「そうよ。……だってそいつに弱み見せたら、なにしてくるかわかんないじゃんっ!」

「わ、わるかった。絶対にそんなことしない。けどおれも佐伯さんの言ったように、小清水さんのことが気になって――」


 机がバンと叩かれた。そのままきっと、小清水さんはおれを睨み上げる。


「なにも聞かなかったし、なにも知らない。あんたはあたしの家族なんかじゃないっ! かかわって欲しくないのっ!! どうしてわかんないのっ!? あたしがこれだけ悩んでるってのに、あんたは妹の弱った部分を見て満足するタイプの人間なの? 何度も言っておくけど、あんたは赤の他人だから! あたしの人間関係に踏み込んでこないでよ、……おねがいだから」


 ――おれは、なにをしたらいいんだろうか。


 違う。


 ――バカか。なにもされないことを小清水さんは望んでいる。

 だったら答えはひとつしかないじゃないか。

 きっとこれが一番正しいんだ! 間違ってなんかない! 間違っているかどうかなんて考えることすらもおこがましいことだ。常に答えはひとつで、おれはそれを選ぶしかないんだ!

 自分にそう言い聞かせて。それが嘘なんじゃないかと疑うこともせずに。ただ愚直に選び取る。

 おれは口を開く。


「わかった。もうかかわらない」


 わざと突き放すように言ってやる。チクリと罪悪感が湧いてくるけど、この方法しか残されてない。

 おれには何の権利もない。

 だからこそ、冷たく言ってやらないとダメなんだ。

 小清水さんが望んだとおりに。

 おれは強く言い放つ。


「おれと君は他人だ。だから、干渉しない。もちろんおれはなにも聞いてないし知らないよ。あとは小清水さんの好きにしたらいい」

「――ッ」


 小清水さんが一瞬怯んだようだった。おれはそれだけ目に力を、言葉に力を込めていったから。


「……わかったなら、それでいい」


 小清水さんは肘を掴みながら明後日の方向を向いて言う。

 おれは彼女の顔を見ないように振り返る。

 振り返りざま佐伯さんがうろたえているところが見えたけど、ごめん、あとで謝る。

 おれは強く、強く強く――下唇をかんだ。


 おれと小清水さんの間には巨大な壁が立ちはだかっている。


 正直な話、後悔していた。けれどおれが後悔するかどうかなんてどうでもいい話だ。


 ……なんで泣いてんだろ、おれ。


 最後に蘇ってきた記憶は――熱を出してうなされている小清水さんの『いかないで』という声だけだった。



 翌日以降、小清水さんとはほぼほぼかかわらなくなった。

 食事の時間も違えば、もちろん登校する時間も違う。

 廊下ですれ違ったって会話なんてあるわけもない。

 学校でも。


 おれたちは挨拶すら交わさない。まぁふつう隣の席の人には挨拶しないのかも知れないけど、小清水さんの態度もおれの態度も露骨だったと思う。

 佐伯さんには謝罪した。小清水さんが教室にいないときに。あんな剣呑なムードに巻き込んでしまって、申し訳ないと。


 彼女はいつものように笑って返してくれた。それどころか「ゆりりん意地張っちゃってるだけだからさ、まぁ七条君ができる限り見張ってて欲しいなっ」と屈託のない笑顔で言われた。……いや嘘。『屈託のない』という部分が嘘だな。


 佐伯さんの笑顔には、どこか翳りがあった。

 それでもおれはその言葉に対して、応じなければならないと思ってた。

 べつに見張るまではしなくても、見守るくらいはできるかも知れない。

 意地を張ってること。それはおれも同じだ。

 素直じゃない。それもおれと同じ。

 けど彼女とおれとでは、天と地ほどの差があった。その差が具体的になにを示しているのかわからないけれど、とにかく差がある。


 これでいいんだよな。


 いつも通り山岡とバカな話をして、家に帰ったら家族分の食事を作って、マンガや小説を読んで眠る。

 素晴らしいことだと思う。

 ……素晴らしい、か。

 本当にそう思ってるのか? 思いたがってるだけなんじゃないのか? 

 この関係性は続けたっていい。小清水さんの意志だから。

 けど――おれはあんな言い方しなくてもよかったんじゃないか。


『おれと君は他人だ。だから、干渉しない。もちろんおれはなにも聞いてないし知らないよ。あとは小清水さんの好きにしたらいい』


 ひどいことを言った。小清水さん、気にしすぎてはないだろうか。

 改めて、距離が広がったからこそ、気になってしまうことだ。

 ふつうの兄妹ってこんなものなのだろうか?

 わからない。おれには。さっぱりだよ。


 ――しかしおれの悩みは今度は別方向にシフトすることになる。


 おれの悩み、というより、家族の悩みだろう。



 ――郵便受けが破壊された。


 四月十五日土曜日のできごと。

 朝起きて父さんが配達物を確認しに行ったところ、べっこんべっこんに凹まされた銀色の箱が地面に落ちていた、とのことだった。

 明らかにバットのようなもので殴られていたそれは、見るも無惨な姿だった、


「ひどいことする人もいたもんだなぁ。『スタンドバイミー』のエースを思い出すな。……ごめんごめん、洋太たちの世代じゃわかんないか」

「父さん、それよりこれ、どうすんの?」

「どうするもなにも、まぁしばらく郵便物はべつの箱に入れてもらうしかないだろうな。イタズラだろう。不良どもが夜中に遊び半分でやったんだろうね」


 おれは押し黙る。

 ちらりと、庭の方でうつむいている小清水さんの姿を見る。

 彼女は絶望した表情でその郵便受けを見ていた。

 ――まだ犯人が決まったわけじゃないよ。だから心配しなくてもいいんじゃない?

 みたいなことをこの前のおれだったら言っていただろうな。けど今のおれと彼女はやっぱり他人で、それをお互いに容認しているのだ。


「ん? どうしたんだい友梨ちゃん? 顔が青ざめてるけど……まぁそうだね、むりもないか。家の私有物が壊されたってんだから、そりゃ怖くもなるよね」

「……ち、が」


 小清水さんは何かを言いかけたようだったが、その真っ白く乾いた唇はそれっきり閉じられてしまう。


「……ぁ」

「……ぁ」


 おれと小清水さんの目が合う。彼女の瞳は潤んでいるようも見える。

 それからまたうつむいてしまった。


「あたし、部屋戻る」

「そうかい。……あ、そうだ。言い忘れてたことがあった」


 おれも小清水さんも「なに」という表情で父さんの顔を見る。


「……もし怪しい人を見かけても、不用意に注意しないようにね。どんな目に遭わされるかわかったもんじゃないからさ。それにやったのは一人じゃなくてグループだって可能性も大いにあるからね。とにかく自分の身の危険を第一に考えなさい」


 あぁ、そういうことか。


「大丈夫だよ父さん。もし見かけたら、こっそり写真か映像に残す、だよね」

「そうだ。……警察もこれくらいの被害じゃ動いてくれないだろうし……、困ったもんだな」


 父さんもおれも小清水さんも、けっきょくその日はいつものように食事を取った。父さんにとっては休日だったはずだけど、多分心の部分は休めなかっただろう。



 毎日が上滑りするように過ぎていく。

 小清水さんは部屋の中にこもりがちになった。んや、元からかな。彼女は部屋の中で佐伯さんと電話したりしていた。声がここまで聞こえてくるからだ。

 小清水さんの傷跡は彼氏と父親につけられたものだ。おれは最初アザだと勘違いしていたけど。傷は消えることはないだろう。もちろん心の傷も、である。


 辛いものを背負って生きていかなければいけない。

 おれは内心、小清水さんに憧れてる部分があった。

 学校で自分を偽って、それで友達関係を築き上げていく。

 作り笑いがうまくなっちゃって。小清水さんはそう言った。

 ……すごいことなんだよ。

 それでも小清水さんは佐伯さんたちにに嫌われることを恐れた。

 きっと彼女の心の傷が、そうさせているんだと思う。

 おれは、彼女にどうして欲しいんだろうか。

 べつにおれはパッとしているタイプじゃない。小清水さんとかかわりを持つのにふさわしい人間かというと首を傾げざるをえない。

 気づけばずっと、彼女のことを考えてんだ。

 

 ――心の底からの笑顔を、見せて欲しい。


 

 とはいえ誰がいくらどんなことに悩んでいようと、被害は減ることはなかった。

 イタズラは止まることを知らなかった。それよりもむしろエスカレートしていった。

 誰も家の者の監視がない状況下で、犯人は犯行に及んでいるらしい。おかげで全然気づかない。

 朝起きたら花壇のレンガが大量に崩れている、植木鉢がひっくり返されている、柵の一部が破損している等々。

 もちろん一日でこれらが起こったわけじゃない。

 何日か間隔を開けて、それが行われているのだ。

 正直な話心労は溜まっていく一方だ。

 犯人がわからないという漠然とした不安じゃない。

 小清水さんがこの件で罪悪感を溜めていかないかどうかが心配なんだ。


「……大丈夫かな」


 おれは呟く。意味のないことだと思う。

 父さんが朝の食事の時にこんな話を切り出した。


「防犯カメラの設置も考えた方がいいな」


 おれはチラリと小清水さんをうかがい、そして彼女の目がうつろになっていくのを見た。

 ばん、と机が叩かれた。なにかと思ったら、小清水さんが勢いよく立ち上がったらしい。


「ごちそうさま」


 おれは間違いなく悟っていた。


 小清水さん一人の問題じゃなくて、家族の問題になっているという事実に。


 そして小清水さんは思い詰めているということに。


 ……カレンダーは無慈悲にめくれていく。時間は最良の薬と誰かは言っていたけれど、おれたちの中ではむしろ毒でしかない。

 そして五月一日がやってきた。


 おれは家に帰ってくるといつものようにぐーたらしていた。

 最近緊張気味な日々が続くけど、この時間帯くらいは緊張を解してもいいだろう。

 それにしても雲が速いな、と外を見ながら思った。


 もう五月か。


 義妹ができると言われ、さらにその女の子がクラスカースト上位の女の子で、とても美人で、しかもおれの隣の席で――とわけのわかんないイベントが起きたのも先月のことなのだ。

 このまま、なのだろうか。

 おれは壁にもたれながら、なんとはなしに考える。

 いやだ、という子どもみたいな気持ちは実はまだ持っている。小清水さんに謝りたかった。けれど今さら謝るのもおかしいような気がして、けっきょくうやむやにしている。

 あー、ダメな男の典型例だよな。

 だから小清水さんに童貞だって見抜かれてしまうのだ。

 おれは廊下に出た。

 ちょうど小清水さんが部屋から出てきた。


「やぁ」


 おれはなにを言ってるんだ? なにがやぁだよ。おれはなんか自分の言動が情けなくなってしまう。


「……」


 どいて、とも、じゃま、とも言わなかった。彼女は相変わらず素っ気ない態度を取っていて、もうおれの言葉なんて届かないんだなと言うことを実感させられた。

 けど、なんでだろう。

 おれの目には、小清水さんの目は意を決したようなものに見えたのだ。

 おれの勘違いかも知れない。なんたっておれはいっつも勘違いばかりする。

 

 去って行く小清水さんの背中は、とても小さくて。

 震えているようにも見えて。

 なにかに縋ることができなくなってしまっているように見えた。


 ――その理由がわかったのは、おれが自分の部屋に戻ってからだ。


「……小清水さん?」


 おれは窓の外を見る。カーテンがうなじに掛かってくるのも気にせず、道路にいる小清水さんの姿を発見した。


「……?」


 小清水さんの目の前にいるのは、坊主頭の男だった。いかにも不良っぽい恰好をしている。刈られた頭には十字のそり込みが入っており、耳には金ぴかに輝くピアスをつけている。身長は百八十センチほどで、かなりガタイがいい部類に入るだろう。

 おれはすぐに悟った。

 あれが小清水さんの元彼なのだ。

 小清水さんには小清水さんなりの生き方があって、その中で出会ったのがあの男なのだ。

 おれは今すぐに出て行こうかとためらった。けどやめておく。


『いい加減にしてよっ! わかってんだからっ! あんたなんでしょ全部! この家のもの壊したりしてんの全部あんたらの仕業なんでしょっ!』

『ふん。こうでもしないとお前は出てこないだろ?』

『やめて。あの人たちはかんけーないじゃん! どうして手出しなんかすんのよっ。下手したら警察沙汰になるのよっ!?』

『へぇ。じゃあ連絡でもなんなりすりゃいいじゃねぇか。したらどうなるかわかってんだろォ? べつに逮捕なんかされねぇよ。それよかもっと過激になるだけだぜ』


 どうやら口論になっているらしかった。


 おれは拳を握りしめる。

 唇を噛みしめる。


 小清水さんは、他人だ。彼女がそれを望んで、おれもそれを受け入れている。


 おれが見ている先で、男の方――柴田だったか――がなにやら小清水さんに耳打ちした。小清水さんはその言葉を聞くとビクッと体を震わせて、


 わかった


 聞こえはしなかった。だがここからでも見えた。そう唇を動かしたのだ。


 わかりゃいいんだよ


 柴田の唇が動く。そのまま彼は小清水さんの髪の毛に触り、その小さな体を引き寄せた。

 小清水さんはただ耳打ちされる言葉に注意を向けていた。


 ついてこい


 おれは読唇術についてあまり詳しく勉強したことはないが、柴田がそのような言動をしたことは間違いないだろう。

 彼は小清水さんの肩に腕を回して、そのまま道路の向こうへと消えていく。


 おれはゆっくりと息を吐いて、暗い部屋を見渡した。あちこちに文庫本が散乱していた。汚い部屋だ。


 わかってるよ、小清水さん。


 おれは最低な男だと思う。


 けどそれが君のけじめだって言うのなら、やっぱり他人のおれは尊重すべきだと思うのだ。


 だったらおれがやるべきことはただひとつじゃないか?


 小清水さんが帰ってきたときに、おいしいご飯を食べられるようにしてやるだけだ。


「下準備するか」


 あるもので間に合わせよう。カレーくらいならできるはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る