第2話 雨の日、再会

 ――四月七日


 新しい人間関係を作るのって、楽しみでもあるんだけどさぁ、同時に緊張する部分もあるわよね? ない? 

 まぁあたしはあるんだよね。

 学校。クラスの中。休み時間。

 あたしは購買で買った焼きそばパンを食べながら、新しいクラスメイトたちとくっちゃべっていた。

 全員面白い人だったし、話しててホントに楽しい。

 きっといずなとか伊沢君のおかげ。彼女らは本当に話を作るのがうまい。それに同調するように、他の子たちが笑みをこぼす。


「でさー、体育館の天井に挟まったボールあんだろぉ! それをあたしはモップを投げて落とそうとしたわけ! そしたらさー、聞いて驚くなよ? モップが顧問の頭に掛かっちゃってさー! いやもうホントカンカンだったよ!」


 あ、あはは。いずなの話は面白いけど、それ顧問の先生大丈夫だったのかな。

 あたしはお母さんと友達は大事にしたかった。

 自分が陽キャだってことは自覚してる。そして望んでその地位を築けてる自信もある。中学の時とは違うんだ。

 中学生の頃はあたしはとっても地味な子だった。それこそ眼鏡掛けて教室の隅でただじっと机を見つめてるだけの、幽霊みたいな存在。もうホント忘れたい。


 信じらんないでしょ? 

 もう笑っちゃうよね?

 あたしだって驚いてるんだから。


 高校生デビューって奴? あたしはそれに成功した。……ひとえにあたしの力だけじゃなかったけど、容姿がよかったからかな、それっぽい恰好して学校に行ったら、みんなから注目されるような存在になれた。

 家に帰って泣くほどに嬉しかった。あたしがやってることはうまくいってるんだって。だから――今の生活を崩されたくなかった。

 頑張ってこの人たちと友達を続けて、そつなく卒業していく。それがあたしの目標なんだ。


「……ちょっとぉ!? ゆりりん聞いてるー?」

「え? なにかしら。ちゃんと聞いてるわよ? モップ投げて顧問の先生に怒られた話でしょー? ちょーウケる!」

「ははっ! 友梨、その話はだいぶ前に終わったけどね」と伊沢君が白い歯を煌めかせながら言う。やばい、神! 隣の席の誰かさんと違って。


 あたしはその笑顔に見とれながら、「あれー、そーなんだ!」と返す。彼らから見て、あたしは割と天然系ギャルに分類されるらしいから、学校ではそれをとことん演じる。

 ううん、学校だけじゃない。私生活でもそれを続けていきたい。

 陰キャから陽キャへ。うまくいったと思うわ。

 だからっていうわけでもないけどさ、今でも陰キャを見るたびに、自分を思い出してイラッとくんだよね。特に隣の誰かさん。

 やがてたのしい時間は過ぎ、チャイムが鳴る。

 しばらくすると、あたしの隣に義兄が座る。

 なんか不思議な感じだよねー。自分と一緒に暮らしてる人が自分と同じクラスにいる感覚ってさ。


「小清水さんどうかしたの?」

「え? いやなんでもないんだけど。こっち見ないでくれる?」

「……ご、ごめんなさい」


 どうしてか、こいつにだけは強く当たってもいいと思い始めている。

 まぁどうでもいい存在だからかな。なんかストレスのはけ口的な役割? ってさすがにそれは可哀相か。

 でも、どことなくあたしがなにか言ったらちゃんと返してくれる、そんな安心感みたいなものも抱き始めていた。


 ……まだ日数もそんなに経ってないのに。


 それだけ一つ屋根の下で暮らすって大きな意味を持つのかもね。



 駅前集合ってことになった。

 十人はいないくらいかしら。まぁこんくらいがちょうどいいわよね。


「やっほー、ゆりりん! 服可愛いねー!」

「ありがと。意外と動きやすさを重視した部分もあるんだけどねー。なんか気合い入っちゃった」


 あたしは春色のブラウスとカーディガン、下は桜色のミニスカートとタイツという組み合わせだった。


「いやぁ燃えますねぇ! 写真に収めて持って帰りたいくらいだよっ! ゆりりんくらい華やかだと、私達がかすんじゃうねぇ!」

「霞まないってー! いずなもすごい可愛いよ」

「えっへへへ、照れるなぁ。あたしなんか運動するときのいつもの恰好さね。シンプルイズベストって奴だね!」


 いずなはパーカーと動きやすそうなズボンという恰好。本当にビックリするくらいシンプルなのにどうしてこうも似合うんだろう。運動部特有のオーラって奴かな。

 全員が揃うと、あたし達は交通系ICカードという超便利アイテムを用いて電車に乗り込む。

 上野東京ラインの車窓から見える景色は曇り模様だったし、心なしか車内にいる人たちの表情も暗いように見えた。

 でも、……けっこー楽しみ。へへ。


「ねぇ、趣味とかってある? あたしねぇ、手芸が得意なんだー」

「ねーねー小清水さんって休日なにしてる感じなのー? もしかしてゲームとかしちゃう系?」


 色々聞かれた。どの質問も適当にこなしていく。一番最後のはチャラそうな男の子からだった。伊沢君曰く彼もサッカー部員らしい。金髪でしかもロングでピアスまでしていた。……こんな恰好して試合に出られるのかなとちょっと苦笑い。


「あ、気になっちゃう感じ? ピアスはもちろん試合ではしないよ。怒られちゃうしー、だいたい監督にも出して貰えなくなっちゃうからさー!」


 そ、そうなんだ……。

 あたしは隣にいた伊沢君に耳打ちする。


「ね、ねぇ伊沢君? なんかうちのクラスってサッカー部多くない」

「ん? まぁ確かに言われてみればそうだなぁ。山岡とかもうちのクラスだし」

「だれそれー?」

「窓際の席に座ってる男子だよ。割とひねくれた奴なんだけど、部内ではレギュラー張ってる」

「へー。そういう人もいるんだねー、なんつーか意外だわ」

「そうかな」

「そーそー。なんかサッカー部のレギュラーってイケメンで爽やか系な人が多いのかなって勝手に思っちゃってたからさ」

「まぁ、基本的にはそうだね」

「あはは、伊沢君自分でそれ言っちゃうんだー。さっすが伊沢君だねー」


 あたしは椅子に座らせてもらってたけど、伊沢君は吊革に掴まっている。なんか申し訳ない気もしたけど、伊沢君だって気ぃつかってくれてんだよね。

 でもこれってあたしの勘違いってこともあり得るわよね。伊沢君だって座りたいかも知れないし、なんであたしなんかが座ってんのとか本当は思ってんのかも知れないし!

 あぁもう! どうしてあたしに心を読む力がないのかしら! 転生できるのであれば、サイコメトラーにでもなりたい。

 ~~~~っ! い、伊沢君怒ってないよね? 本当はあたしと席替わって欲しいとか思ってないわよね?

 ……と、あたしは気づかないうちにもじもじしていたらしく、いずなにそれを見られてしまった。

 いずなはにっこりとこちらに笑顔を向けてくる。向かい側の席に彼女は座っている。

 ……あぁ。そうだったわ。あたしったらなにバカなこと考えてんだろ。いずなだって座ってんじゃん。


「どうかした?」

「う、ううんなんでもない。伊沢君ずっと立ってて辛くないのかなって思ってさ」

「ははは。そんなわけないじゃないか。こっちだって運動部だよ運動部」

「そっか。……うん、ありがと」

「感謝されることはしてないよ」


 伊沢君はいつも笑顔だ。それもあたしみたいにわかりやすそうな作り笑いじゃない。伊沢君の笑顔は、心からの笑顔に見えてしまう。本当は彼だって色んな感情が渦巻いてるんだろうけど、それをうまく隠すことができる。

 すごいな。

 電車が減速する。どうやら目的の駅が近付いてきたらしい。

 到着して扉が開く。ぞろぞろとあたしのクラスメイトたちが降りていく。

 あたしはその背中を見ながら思う。

 ――今日はとことん楽しんでやる!



 ボウリング場についた。

 するといずながこんな提案をした。


「どうせならチーム戦にしようぜっ! 私ゆりりんと同じチームがいいなっ!」

「おっ、いいじゃんいいじゃん、それいけるかんじー?」

「マジやろうやろう! 負けた方が買った方にジュースおごるってことで」

「えぇ、あたしはジュースよりもアイスがいいなー」


 とか何とか賛成の声が上がる。

 あたしは苦笑いしつつ、靴を履き替える。

 しかしボウリングなんて滅多に来ない。もちろん家族できたことなんて一度もなかったなぁ。

 あたし変なフォームとか笑われたりしないかな……? いずなはともかく伊沢君に見られるのはちょっと恥ずかしいかもな。

 なんて思ってたけど、案外ボウリングってみんな下手なもんらしい。あたしはけっこう転がすだけの人だけど、他の女子たちもそんな感じだった。なぁんだ、心配して損したー。


「行けっ、ゆりりん! そこでゴールデンシュートだ!」

「ちょっとぉ! あたしの番でそんな変なワード出さないでよっ」

「あはは。ゆりりん照れちゃってー! でも男子たちがみんなゆりりんの投球を見てますぜ!」


 明らかに変な目で見られてんじゃん! っていうかこれ完全にエロい目じゃん! はぁ!? 世の男子ってみんなこうなの!? 

 ボウリングで投げるときって意外とピンの方向ばっかしみてるから気がつかなかったけどさ、後ろから見たらけっこーお尻とか突き出した恰好になってたのか。

 あたしは赤面する。恥ずかしいです。


「さぁいけー」

「もうっ、ほどほどにね」


 あたしの投球。見られるのが恥ずかしかったので控えめに押し出す感じでやったら、あれ、意外と倒れてんじゃん。


「おーゆりりんやるぅ」

「た、たまたまよ、たまたま」


 あはは。なにこれめちゃくちゃ楽しいじゃん! あたしは後ろからの男子の視線も気にならずに、次の球を投げた。今度は案の定ガーターだったけど、割とよかったんじゃないの?


「今度はあたしの番ですなー。そいやっ! エターナルショットおおおおおおおっ!」


 いずなが変なかけ声とともにボールを投げる。ってええええええっ! すごい。気持ちいいくらいにピンが吹っ飛んだ。もちろんストライク。


「へっへー、どんなもんだいっ!」


 いずなが笑顔でピースを浮かべる。やっぱ運動神経いいんだね。

 すかさずハイタッチを行う。中にはグータッチをする人もいて、いずなは巨人の選手の誰かを真似してさらに盛り上がった。

 たのしい時間はあっという間に過ぎていく。あたしは何回笑ったかわかんない。もうね、いずなったら本当におかしくって、ムードメーカーってこういうのを言うんだなぁって思った。


 結果、あたしはスコア八十六。……あれこれってけっこうすごくない!? かなりチームにも貢献してたみたい。

 いずななんかすごくて、スコア百九十を叩き出した。すごい。ただの女子高生とは思えない。

 向こうのチームに伊沢君がいて、彼のスコアは二百を超えていた。なんでそんなに何でもできちゃうのかな、伊沢君って。勉強もスポーツも完璧。なんだか遠い存在に感じちゃう。


 あたし達のチームの勝ちだったので、あたしはサッカー部の他の男子からオレンジシャーベットをごちそうになった。……ん、おいしいじゃん。

 盛り上がりも最高潮となったところでもう一ゲームしようって話になった。今度はジュースのおごりを賭けてだ。

 今度は負けちゃったけどね。



 へえ。ラウンドテンって久々に来た感じするけど、ちゃんと本格的に遊んだことってあんまないかもしんない。

 あたしはソポッチャの独特な雰囲気に気分が高揚したのか、気づけばみんなを誘っていた。


「ねぇ卓球やりましょうよ、卓球!」

「へぇ、いいよ。なにを賭けるんだい?」


 伊沢君が乗り気だった。あたしは昨日伊沢君に誘われることを期待してたけど、まさかここで自分で誘うことになるとは思ってなかった。

 そして伊沢君が賛同してくれるとも。


「おーいいねいいね、やろうじゃないか!」

「富澤もどうだい? 卓球やらないか?」

「んー、いいよー。おれっち得点係やるからさー」

「そうじゃなくって! なんで最初から得点係やるって決めちゃうのよ!」

「へー、だってめんどっちいしー。なに、ダブルスやる感じ?」

「そうね。あたしは……伊沢君と組もうかなっ。それでいずなとあんたでコンビってのはどうかしら」

「おぉ、あたしを敵に回すとはなかなかの自信ですなぁ! よかろうその勝負受けてやろう!」


 あたし達はそれぞれ上着を脱いでいく。けっきょく富岡君? だっけ? 名前覚えてないけど、彼も参加することに決めてくれた。

 パーカーを脱ぎ始める伊沢君の後ろ姿に声を掛ける。


「ごめんねー伊沢君、あたし勝手に決めちゃった」

「いいっていいって。それに戦力的にこの方がいいだろ? 男女二人で分かれた方がフェアだからね」

「それもそうね。よしっ伊沢君、けちょんけちょんにしちゃおっか」

「はは、やる気満々だな。でもいいよ。やるからには手加減しない」


 

「きゃあっ!」

「なっっはは! 私のスマッシュどーだい? 受け止めるのは並大抵じゃむりだと思うねっ!」


 くぅううううう! あたしは唇を噛む。いくら遊びとは言っても勝負は勝負だよね。悔しくてしょうがない。あーもう! なんでいずなってこんなに運動できんのよ!


「大丈夫かい?」

「あ、ありがと」

「まだ追い上げられるだけのチャンスはあると思う。ここは切り替えよう。打ったあとはすぐ引く。これを心がけよう」

「う、うんそうだよね! まだチャンスはあるわよね! いずな、負けないから!」

「ほーう、勝てると思っているのかい!? 甘い甘い!」

「なー、わりいんだけど、今さっき台の角で手ぇぶつけちゃったみたいでさー、すまんけど佐伯一人でやってくんない? 頼むよー」

「なぁんだい情けないなー! それでも男かい? え?」


 いずながなんかジブリのキャラみたいになってる……。


「ったくしょうがないねぇ。じゃあ私が代わりに全部やっとくからねっ!」

「お、おうすまない」

「おっと、ラケットはもらうぜ! 私の二刀流スマッシュが炸裂するときが来たみたいだ!」

「ま、まさかいずな、二本で戦うつもりなの? それって反則じゃ……」

「んー、まぁでもいいんじゃないかな。富澤が離脱したとなっては、どっちにしろハンデは必要だからね」

「そ、そうなのかな……。むしろ強くなったと思うのはあたしの勘違いじゃないわよね?」

「……はは。まぁそうともとれるかな」


 えーっと名前なんだっけ? そうそう! 富山君はあたし達の戦いのために得点板を操作してくれることになった。

 白熱し戦いは続いた。あたしはいずなの球を返すので精一杯だったけど、伊沢君はいとも簡単に打ち返していた。もうこの二人の勝負なんじゃ……ううん、あんまし考えなようにしよう。


「ふー、つかれたねー。あたしなにか飲み物買ってこようと思うんだけど、なんかいる?」

「おっ、私も行くぜゆりりん! ゆりりん一人に行かせたら、どんなナンパ男が襲いかかってくるかわかったもんじゃないからねっ!」

「おお、マジで行ってくれんのー? 助かるわー。ンじゃおれサイダー」

「おれはアイスコーヒーを頼むよ。悪いね二人とも」


 あたしは手をひらひらと振りながら返す。


「全然いいって。女子だからって気を遣われんのもあれだしさ」

「そうか、助かるよ」

「よっしゃあ行こうかゆりりん!」



 ラウンドテンでみんなで遊ぶのは本当に楽しい。あたし夢の中にいるんじゃないのかな、なぁんてガラにもないことを考えちゃう。

 これがあたしの望んだ高校生活なんだよね。だからこの日々を毎日大切にしなくちゃいけないって……思うんだ。


「……どうしたんだいゆりりん、なんかぼーっとしちゃって」

「ううん、なんでもないよ。それより次なにしよっか」

「そだねー。私はビリヤードなんかやりたいかなっ! ばちこーんって奴!」

「ば、ばちこーん?」


 気のせいかしら……。あたしの知ってるビリヤードにそんな効果音は存在しないんだけど。カツッ、とかそんなんじゃないの?


「いずなはすごいよねー。なんでもできちゃう。あたしなんかいずなに勝てるとこないかも」

「そんなことはないさ。だって私よりゆりりんの方がよっぽど可愛いじゃないかっ!」

「えー? なんでそう思うのさ? あ、あたしから見たらいずなの方が可愛いと思うけど」

「ちっちっちっ。甘いぜ。いやまったく以て甘いぜなんじぃ! 女は愛嬌って言うだろ? しかぁし! あたしにはそれがあまりないのだよ! けどゆりりんは持ってるだろ?」

「も、持ってないってぇ! 買いかぶりすぎだって……」

「えい」

「……うひゃぁ!」

「あっはは。ゆりりん可愛い! もういっちょ!」


 あたしはびっくりした。まさかいずながあたしの服の中に手を突っ込んでくるとは思わなかったから。っておいこら!


「ちょ、ちょっとなにすんのいずなっ! くすぐったいって! お腹触られたら……うんっ……ぁ………………あんっ! ちょっとタンマ! …………うっ……だめっ…………いずな本当に………………あっあっあっ」

「……うほお。さすがに感度が高いですなぁ。ほらもっとやっちゃうぜい! ほれほれー!」


 違う違う違う! あたし辞めて欲しいんだ……んっ………………ああっ、や、やばいかも。

 あたしはくすぐられるたびにビクンビクンしていく。あたしこんなの望んでない! 


「ゆ、ゆりりんが悶えてる……さいこうだ」

「なに言ってんのよ! 早くやめなさいよ!」


 あたしはいずなの手を払った。乱れた服を直しながら、呼吸も整える。つ、つかれた……。


「ゆりりんすっごいいい顔してるよ」

「なにが? あたしをもてあそんでそんなに楽しいの!?」


 いずなは一切反省している様子はない。むしろなぜか嬉しそうだ。


「いやー、なんつうかさっ、とっても可愛いからいじりたくなっちゃうみたいな? ごめんごめんっ! ゆりりんが本当にいやだったのなら謝るよっ。けどさー、今のゆりりんの表情、カメラで撮影しておきたかったなぁ!」

「やめてよ! 恥ずかしいから……。つかとっとと行かない? 伊沢君たち待ってるから」

「おっ、もしかしてゆりりん怒っちゃった? 悪い悪い。ついついうぶな反応を見たくってさ」

「……もうっ。金輪際やめてよねっ。あたしくすぐられるの苦手なんだから」


 あたしたちは飲み物を持ってラウンドテンの廊下を移動する。

 もういずなったら。可愛いとか言われるのは素直に嬉しいけどさ、不意打ちを掛けるのはちょっと違うし。

 でもいずなが言いたいことは分かった。要するにあたしってばけっこー単純だってことだ。反応も直接的なものしか返せないし、顔もすぐ赤くなってしまう。……ったく! なんでこんな体質なのかしら! 本当にうんざりするわ。自分で自分がいやになる。

 せめて表情に出なければ、うまく振る舞えるのかな。 

 あたしはプリプリ怒りながら歩く。いずなはその後ろをついてきて「めんごめんご」とひたすらに謝ってくる。あたしはつんと向こう側を向いて聞いてない振りをした。



 ラウンドテンを出たあとは、ショッピングモールで買い物をして帰ろっかって話になった。

 もちろん任意だ。帰りたい人は帰ってもいいルール。あたしは当然買い物してから帰るわよ?

 カフェとかに寄って、タピったりもした。いずなって天真爛漫さを常に振りまいてるもんだから、あたしも怒るに怒れなかった。く、悔し……。今度復讐してやろうかしら。

 気づいたらあたしといずなと伊沢君しか残ってなかった。みんなで会話を楽しみながら、ショッピングした。


「……あ」


 あたしはふいに窓の向こうに広がる空を眺めてしまった。大雨だ。なんか帰りたくないなー。帰ったらあいついるし。もう最悪ったらありゃしないわ! ふざけんじゃないわよ。


「ごめーん、あたしちょっとトイレ行ってきていいかな」


 あたしは言った。トイレ行きたくなると切っていつ来るかわかんないわよね。中学の修学旅行の時のバス移動で泣かされたわよ。っていうかちょっと泣いてたわ。……あぁ思い出したくない。

 なんか雨の日ってさー、陰鬱なことばっかり考えちゃうよね。

 男子トイレの向こう側に女子トイレがある。こんなに距離歩かせて、設計者はなに考えてんのかしら。乙女が途中で漏らしちゃったらどう責任取るつもりなのかしら?

 ……にしても、モール内に人は割と少なめだったな。まぁ雨降ってるしね。

 そんなどうでもいいことを考えながら用を済ます。


 あたしはハンカチで手を拭きながら外に出た。


 そこであたしの体は凍り付いた。全身から血の気が抜けていくようだった。


 外で雷が鳴った。あたしの心臓は今までにないほど高鳴って、この場に立っていたくないと本気で思った。腰が退けて、倒れ込みそうになるのを必死に堪えた。


 さらに雷鳴が鳴った。


 トイレの前には観葉植物と、ベンチが一つ置いてあるだけだった。


 ――なんであんたがこんなとこにいんのよ


 あたしはそう言いたかった。けど言えない。あたしの体に、こいつへのトラウマがいやと言うほど刻み込まれてるから。


「よお」


 そいつは言った。あたしは一歩身を引いた。


 焦るな! 焦るな焦るな焦るな! あたしは自分に言い聞かせる。でもなんでこいつがここにいんの!? まさかつけられてたとか?


 男だ。身長は高い。一メートル八十センチくらいはある。筋肉質で丸刈りで耳にはピアスをつけている。他者を威圧する瞳は細く鋭く輝いている。


 あたしはこの瞳に、とうとう耐えきれなくなった。その場にへたり込んだ。歯がガチガチ鳴って、体の震えが止まらなかった。


 もう忘れたかったのに! 過去のものにしたかったのに! どうしてそれをこいつは掘り起こすような真似をするの!? 信じらんない! 


 一番会いたくなかったわよ。なのに、どうして……!


「久しぶりだな」


 中学時代の元彼だった。


 どうして! なんで! 

 そんな思いが頭をなんども駆けめぐった。けれど答えは出ない。

 ――恐怖。

 その感情だけがあった。

 手汗がひどい。額からもじんわりと汗が出てきた。唇がパサパサに乾いている。


「あたしに何の用なの?」

「用? あぁそうだな。お前に言いたいことがあったんだ」

「なに? まさかよりを戻そうって言うんじゃないでしょうね?」


 あたしはなるべく強気に出た。弱気に出た瞬間こいつはなにしてくるかわかったもんじゃないから。

 元彼――柴田は唇をペロリとなめた。それから容赦なくあたしを壁際に誘導した。なに、なになになに――ッ!? 

 壁に向かって柴田が手をつける。ドンッ! という激しい音がした。

 柴田の顔がゆっくりと近付いてくる。あたしは顔を逸らした。唇を重ねられるかと思ったからだ。


「……ほぉ。わかってんなら話は早い」

「ふざけないでよっ!」


 あたしは柴田の肩を強く押しのけようとした。だけどびくともしない。なんなの、こいつ――! ゴリラかなんかなの? 

 あぁ違う。あたしの力なんかじゃ――女子の貧弱な力なんかじゃ押しのけられないんだ。

 あたしは絶望した。思い出したからだ。

 こうやって男の人の力でねじ伏せられる感覚を、痛いほどに思い出してしまったからだ。

 目頭が熱くなった。そう思った瞬間に腕を押さえつけられていた。


「ここから逃げようってのか? 可愛いもんじゃねェか? えぇ? なぁお前ら」

「……!」


 あたしの絶望はさらに深くなった。見ればトイレの通路をふさぐようにして、チャラチャラした男子がたむろしていたから。こいつらまさか全員あんたの仲間ってわけ!? 冗談じゃない。


「あたしはあたしの生き方があんの! あんたに邪魔なんかされたくないから! 答えなんて最初からわかってんでしょ!? 学習したらどうなのよ!」

「ほお? 口答えすると」

「うっ! ああああっ!」


 あたしは大声を出した。あたしの首の皮を柴田がつねり上げたからだ。

 痛い。痛い痛い痛い……! 今すぐにでも逃げ出したい! けどこの場所に助けなんか現れない。そもそもモール内にいる人は少数だったから、あたしを助けに来てくれる人なんかいないはずだ。

 しかも相手は――あたしの元彼だ。これはあたしの問題だった。


「やめて……!」

「おーおー。涙目になったお前もなかなかにいけんじゃん? なぁ? おれのことを思い出しただろ? ずいぶんきれいになったな、え?」

「ふざ……っけんなっ! あんたのことなんか好きじゃなかった!」


「へぇ?」柴田の唇がにんまりと吊り上げられる。なんでこの人はあたしをいたぶることにこんな愉悦を覚えるのだろうか。

 首をつねる手により力が入った。あたしは顔をぐしゃぐしゃにしてたに違いない。


「あんなに甘えてきておいて? おれにべったりくっつく以外に能がなかったお前が、今さらそんなことを言うと? はっ、説得力の欠片もねぇ」

「あたしは……あのときは……ッ! わかんなかったのよ……ッ! 男の人と付き合うのにどうしたらいいかとか……どう接したら喜んでくれるのとか……ッ! ……よけいな思い出引っ張り出さないでよっ!」


 瞬間、柴田の掌が横切った。時間が経ってからあたしは頬を打たれたのだと知った。痛みが広がっていく。と同時に、どうしようもない孤独感を覚えた。

 

 あたしはここに一人でいる。

 それだけが何よりも辛かった。

 そして目の前にはあたしに敵対する男がいて。


「てめえいい加減にしろよ? 自分がやって来たことは全部おれに対する嘘だったってことか、あぁ?」

「そうよ。なにか文句ある? あんたなんか好きでも何でもない。ただあたしは騙されてただけ。……はっ、どうせクラスの暗い女の子を助けた気にでもなってたんでしょ? ヒーロー気取り」

「ふざけんな。誰がてめぇを見いだしてやったと思ってんだ。お前を救ってやったのは誰だ? クラスから浮いてるお前を助けてやったのは誰だと思ってんだよ? あぁ!? 答えろよ!!」

「……ひっ…………!!」


 あたしは思わず首を竦めてしまった。反射って奴。それだけ体に染みついたものは消えてくれない。

 なんで……こんな人と付き合っちゃったんだろう。でも声を掛けてくれたときあたしはすごく嬉しくて、喜んで……バカみたい。あたし本当にバカじゃん。

 気がついたら涙がぼろぼろこぼれてた。瞳に膜が張って視界がよくわからない。見てるものが現実なのか空想なのか、それすらもわからない。


 逃げたかった! 悔しかった! 辛かった! 誰かに助けてもらいたかった。


 あたしは唇を噛みしめて――再び柴田を睨み上げた。今度は全身全霊を持って、あたしの力なんか遠く及ばないってことはわかってるけど。

 あたしの瞳に、わずかに一瞬だけ柴田が怯んだように見えた。けど、あたしの勘違いだったかも知れない。柴田は額に青筋を立てて、またあたしの首の後ろに手を回してくる。


 悪寒がした。

 柴田は、笑った。余裕の笑みだった。

 あたしにとってそれが何より怖かった。


「お前の親、再婚したらしいな」


 あたしの肩がビクンと跳ねた瞬間だった。


「……んで、それを……しってんの……?」


 まさか? いや話してない? 誰かあたしの友達が話したとか? ううん、誰にも再婚の話はしてなかった。

 じゃあなぜ?

 結論にたどり着いたとき、あたしはさらにこいつへの嫌悪感を強くした。

 まさか! まさかまさかまさか!

 でもそれなら納得ができる。あたしをこの場で追い詰めたことにも、合点がいく。

 ……ストーカー。

 ファミレスで聞いてたとか? ありえる。


「あんた、あたしのことつけてたわけ?」

「さぁ、どうだろうなぁ? 仮につけてたとして、何か問題があるのか? だってお前はおれの女だろう?」

「違う!」

「なぁ、もういい加減にやめようぜ? お前だっておれに惚れた時期があったんだろう? なら、またおれのことを欲しない理由なんてどこにもないんだぜ?」


 あたしは爪が深く食い込むくらい拳を握りしめた。殴ってやりたかった。けど、あたしなんかじゃこいつに勝てないって知ってる。押しつけられたらもう負け。わかってる!

 でも、でもでもでも!

 あたしはこいつに対してどうしたらいいの? 心と体を差し出せばそれでいいの? いやだ。いやだよ……そんなの。

 あたしはもう立っていられなかった。柴田はニヤニヤしながら、へたり込んだあたしをどういたぶってやろうか考えているようだった。

 そのときだった。あたしに一筋の光明が差し込んだのは。


「――ちょいとお兄さん方ー! あたしの友達においたしないでくれっかなー。さもないと警察でも呼ぶけどぉー!」


 いずなだった。垣を作っていた男たちが、いずなの通り道を作るようにはけていく。さすがに警察という言葉に怖じ気づいたのかも知れなかったけど、今のあたしはそんなことを考えてる余裕はなかった。


「――ちっ」


 柴田が舌打ちした。その視線はいずなをじっと見つめている。


「何があったか知らないけどさー、ゆりりんをそれ以上泣かせたらあんたら殺すよ?」

「ずらかるぞ。いい度胸だな女。だが顔はしっかりと覚えたぜ、お嬢ちゃん?」

「ほーお。じゃあしっかり覚えといてくれよ。なぁに、あたしはあんたの名前なんか興味ないけどね。佐伯いずなってんだ。よろしく頼むよ。まぁ会うことは金輪際ないかもしんないけどね」

「てめぇら行くぞ」


 あたしは茫然としていた。状況をうまく整理できなかったから。あたしはいずなに助けられた、そして柴田たちはあたしを解放してくれた。


「大丈夫かい? ほら、立てる?」

「……うん、ありがといずな」

「あいつら知り合いかい?」

「まぁ……そんなとこ」

「ほら、ハンカチ。伊沢君のとこには戻れる?」

「……ごめん、いずな。助けてくれて本当にありがと。……でも、一人にしといてくれる? 今日はもう帰るって、伊沢君に伝えておいてくれる?」

「……ん、わかったよ。でもあんま無茶はしないようにね」

「うん、いずなが友達でよかった」

「そうかい? 照れるねぇ。まぁ辛くなったらいつでも連絡していいからねっ」

「うん。……わかった、頼りたくなったら、連絡するから」


 あたしは重くなった体を引きずって、エスカレーターまで向かって言った。その間なにも考えられなかった。いずなに助けてもらった安心感と、柴田から与えられた恐怖で涙が止まんなかった。



 気づけば駅にいた。大勢の人たちが帰りの電車に乗り込んでいく。あたしもそのうちの一人だった。

 電車の揺れは心地よかった。けどあたしの体の震えは止まんない。止まんないよ、こんなの。


 忘れたい忘れたい忘れたい。

 どうしても振り払えない記憶だった。

 あたしはあの人と付き合っていた。肩と肩を寄せ合ってデートしたこともあった。

 思い出したくない!


 けど、付き合って何ヶ月か経つうちにあいつの本性がわかり始めた。最初は本当に優しい人だと思っていたのに、急に態度を変えたのだ。

 殴られたことだってなんどもある。この傷跡のいくつかはあいつにつけられたものだ。擦り傷とか切り傷とかがカサブタとなって、あたしの体に残った。

 そう考えると、また体が勝手に震え出す。なんで、忘れたいものに限って忘れられないんだろ?

 もしあいつがあたし達のことをつけ回しているとすれば、あたしはこれからもまた似たような目に遭うってことだ。

 そんなの……

 

 やだよ。



 駅から降り、あたしは傘を差さずに歩いた。

 家までの道のりはきちんと把握している。だから足が自動的に動く。

 あたしはあの人からどれだけの屈辱を味わっただろう。

 は……はは。あたしって男運ないのかな。あのうざったい父親だって、あたしに対して散々暴力を振るってきた。

 ううん、違うのかも。あたしは暴力を振るわれることに慣れてしまっていたのかも。そうやって恐怖に縛り付けられると従順になると、あの元彼はだんだんと気づき始めてしまったのだ。


 ……それが愛なんだと体に刷り込まれてるんだ。


 ……だから、あたしのせい。


 あいつが調子に乗るのも、全部あたしのせいなのかもね。

 顎の下から垂れ落ちるしずくは涙なのか雨水なのか判別がつかなかった。


「おい、大丈夫か? 傘も差さずに歩いて?」

「……あの子、どうしたのかしら?」


 道を歩いていると色んな人から心配そうな瞳を向けられた。けどあたしはそのほとんどを意識しなかった。ううん、できなかったって言った方が正しい。


「……」


 公園があった。ということは家はすぐ近くだ。

 けど、あたしはすぐに帰る気にはなれなかった。こんな姿を見られたら、あの義理の家族はどう思うだろうか。もしかしたらお母さんも家にいるかも知れない。

 前髪でほとんど前が見えなかったけど、あたしは何とかブランコまでたどり着いた。

 こんな雨の日にブランコ乗ってたら、お母さんに怒られちゃうかもな。

 昔の自分ならそう思ったかも知れない。けど今は、心が、体が、それどころじゃなかった。いっそ心の芯まで凍り付かせてしまえば、なにも考えることもなくなるのにと思う。


「………………ぅ…………………………ああああああああああああああ――ッ!!」


 泣きたいだけ泣きたかった。公園に雨が降ってて本当によかった。だってこんな姿誰にも見られたくなかったから。

 あたしさ……どうしたらいいの?

 顔を上げた。空は暗灰色に染まっている。そこから針のような雨があたしを刺してきた。濡れて濡れて、なのにあたしの心の中はどんどん乾いていく。


「……ッ! あああああああッ! もうやだ…………………………ッ! なんでこうなんのよ――ッ!」


 あたしはうつむいた。柴田からつねられた首の皮膚がまだじんじんと痛んだ。また、こんな目に遭うのかな。辛い目に遭うのかな。

 中学が終わって、高校に入って変われると思った。けどあたしの考え方って甘かったのかな。

 あたしはしばらくそうしていた。



 ……いつの間にか雨が止んでいた。


「……あれ?」


 違う。雨はまだ降っている。雲はまだまだ分厚そうだったし、見るだけで陰鬱になってくるくらいだ。

 あたしにだけ、雨が当たってない。


「……あぁ、あんた」

「帰りが遅いから、心配したよ」

「なに? あんたにかんけーあることなの? べつにあたしがいつ帰宅しようがよくない?」

「そうだけど」


 あたしはその言動にイラッときた。

 あたしの真上で傘を差しているそいつは、あたしの兄だ。ほんものの兄じゃない。親の再婚で成り行き上そうなっただけの赤の他人。

 なんでそんな不安そうな顔をするのかが、よくわからない。あたしの気持ちなんか知らないくせに! どうしてあんたがそんなこと決めんの? 意味分かんないからッ!!


「帰ったらいいじゃん。あたし自分で帰れるから」

「ほっとけない」

「強情すぎない? べつに……あたしは高校生なの。ふつーに一人で帰れるって」


 あたしのセリフにどれだけの説得力があるのかな。わかんないや。とにかくこいつと今はかかわりたくはなかった。ううん、今だけじゃない。ずっと、これからも。

 そう思うとまた腹が立ってきた。わかってる。こいつに怒りをぶつけるのは、お門違いだ。けど感情はどんどん荒ぶっていって、最終的には言葉にしてしまっていた。


「ほっといてよ! あんたの入ってこられるようなことじゃないってば! なんなの本当に! あんたもあいつと一緒よ! あたしのこと心配してるようなフリして恩を売ろうって言うだけなんでしょ!? 大嫌い! ほら、帰ってよ。…………お願いだから帰ってよ……! 一人にさせてよ…………」


 義兄はなにも言わなかった。ただ唇をぎゅっと引き締めたままで、そこに立っている。自分の傘を自分に差して、もう片方の傘はあたしに差して。

 だからあたしの方の傘を押しのけた。


「気遣いなんか、いらないってば……ッ」


 言っといて、なんだよあたし。泣き虫。ウジ虫。あたしはまたぼろぼろと泣いてんじゃんか。バカなの、ほんと。どっちがあたしの感情なのか、全然わかってない。一番あたしのことをわかってないのは、あたしなんじゃないの?

 抑えきれなかった。


 ――ほんとはすごい嬉しかった。


 べつに、誰でもよかった。あたしまるで子どもみたいじゃん。こんなとこで一人で泣いて、けっきょくどうするつもりなのかぜんっぜん考えてなくて。

 けっきょく誰かに迎えに来て欲しかったんじゃないの? 違う? あたしは自問してみた。……ちがくないよね。


 あたしは肩を揺らしながらうずくまった。そのまま掌を口元に持って行く。涙が信じられないくらいにあふれ出てきた。もうダメだ。

 ブランコの鎖を強く握りしめていた。その手が痛くて痛くてたまらなかった。凍えるような寒さの中を、あたしは一人でずっといたんだってことに気づかされた。

 できれば、一人にして欲しかった。


 けど、本当は帰りたかったんじゃないの? どうなのよ、あたし。

 あたしの心を見透かしたかのように、義兄は笑顔で言ってのけた。

 

「――帰ろう」


 逆らえない魔力だった。帰りたくない――なんて嘘だ。


「……なんで…………来たの?」

「だから言っただろ。帰りが遅いって。心配でしょうがなかったんだよ」

「あんたに心配される筋合いなんてないんだけど」

「帰ってきて欲しいんだよ――ッ!」


 いきなりだった。だからあたしは面食らったのかも知れない。まさかこの人がこんなに声を荒らげるとは思ってもみなかったから。


「ごめん。いきなり怒鳴ったりして。けど、こんなとこで雨に打たれて、放っておけるわけないだろ――!? 見捨てて帰れるわけなんかないじゃんかよ――ッ!!」

「……けど」


 あたしは言葉に詰まってしまった。

 

 なんで、

 

 なんであんたが泣いてんの?


「小清水さん、一つ、言わせてもらっていいかな」

「なに?」

「べつに小清水さんがおれのことを他人だって思うのは構わない。けどさ、おれは少なくとも、小清水さんとは家族でいたいんだよ。……ダメ?」

「……ぇ」


 あたしはうまく答えられない。想定してなかったから。だからなんと言えばいいかわかんない。


「小清水さんがおれのことどう思ってくれるかは、小清水さんが決めてくれていいよ」


 だからさ、と、こいつは続けた。


「ご飯作ってあるから、一緒に食べようよ」


 あぁ。


 あたしってほんとバカだ。もうその言葉しか出てこなかった。


 変に期待して、空回りしてたのは、最初からあたし一人だったんじゃないかって。


 義理の兄妹なんかクソ食らえとか思ってた。ふざけんなとも思った。こんななよなよしてる奴と、誰が喜んで同居してやるかと、思ってたのに。


 なんでかな。


 彼の言葉のひとつひとつが、温かくて、あたしの心を溶かしてくれて。


 嬉しくて。今まで悩んできたことが、ほんの少しだけ和らいだ気がして。


 気づいたらあたしは鎖を離していた。降りたブランコがちょっとだけ揺れた。


「……傘」

「え?」

「鈍いわね。あたしの傘、自分で持つから」

「そ、そう? はい」

「あんがと。……いこ」


 自分勝手なのはわかってる。けど彼の先を歩いてないと、自分の表情が見られてしまうんじゃないかって、不安だった。怖かったから。だからあたしは彼の前を歩いたんだと思う。

 なんだろう。ほんとに、なんなんだろう。雨に打たれて凍えるような寒さだった体が、今じゃほんのり火照ってる。体の芯がお風呂上がりみたいだった。

 ……あぁ。

 こいつのくれた、温もりなのかな。


 それから無言で、二人して自宅へと戻った。

 あたしにとっては異質だったはずのその家は、今日は本当に自分の家のように思えた。



「冷めちゃったね」

「……うん」


 あたしは味噌汁をすすりながらうなずいた。

 シャワーを浴びて、今はスッキリした気分だ。……嘘。スッキリとまではいかないけど、ちょっと心は安らかになった。


「……おいしい」


 ぽろりとこぼれたその言葉があたしの口から出たものだと実感するのに時間が掛かった。

 ……相当弱ってるらしい。っていうか今すぐにでも泣き出したい気分だ。


「……そう、よかった」


 義兄が笑顔を見せた。不思議とその顔は驚いているように見えた。

 あぁ、そっか。そうだった。あたしってば、前に「不味くはないんじゃない」的な発言をしたばかりなんだ。

 不味くはない、という言葉と、おいしい、という言葉の間には大きな隔たりがある。

 あたしはまた体が熱くなってくるのを感じた。四月だというのに、この義兄は電気ストーブを出してくれた。

 あったかいな。

 冷めたご飯なのに、ものすごくおいしく感じられた。ハンバーグってこんなにおいしかったんだ。ファミレスで食べるのよりも百倍はうまいじゃん。


「ごちそさま」

「はい、お粗末様」

「……ねぇ」

「ん?」

「なにがあったのか、聞かないの?」


 なに言ってんだ、あたし。あたしの生活に介入しないでとこいつに前に伝えたばかりじゃんか。それなのにこの質問はおかしいじゃん。

 自分でも矛盾に気づいていて――けれど義兄はそんなに気にしたふうでも無かった。


「聞いて欲しくないことだって、人にはあるだろ」

「……そか。あんたってそういうタイプの人間なんだ。他人の事情に深く踏み込まないタイプなの」

「……んー、まぁ正確に言うとそうじゃないような気もするけど、小清水さんは少なくとも知られたくないと思ってるんじゃないの?」


 そう、だ。あたしはブランコに乗りながら、自分から「あんたには関係ない」と告げたのだ。

 なんてずるい女なんだろうね、あたしって。


「そう、よね。……ごめんなんでもない。忘れて、今の」


 義兄はお皿を洗いながら、にっこりとこちらに頷き返す。……あ、気づいた。それあたしの仕事じゃん。


「あたし、やるよ」

「いいって。べつに絶対守らなきゃいけないってもんじゃないだろ?」

「……そお? じゃあお言葉に甘えさせてもらおっかな」


 正直な話、あたしはとことん疲れてた。そしてこの義兄はしっかりと見抜いてるんだよね。

 ……なんでそこまでしてくれるのかな。

 やがて義兄が皿洗いを終わる頃になっても、あたしはずっとテーブルに着いたままだった。なにもすることなく、ただぼーっとしていた。

 義兄があたしの前に座る。ちゃんと名前は覚えてる。……七条洋太。容姿にだって、性格にだって特徴はない。

 けどその特徴のなさが、あたしの心地よさに繋がってた。


 ……あぁ、


 あたし頼りたがってる。

 この義兄に。あたしから突き放したこいつに、すべてをぶちまけたがってるんだ。


「はい、ココア」

「……あんがと」


 あたしの前に温かいココアが置かれる。一口すすると、口の中に甘い香りが広がった。


「……さっきおれの言ったこと覚えてる? 小清水さんがどう思うかは小清水さんが決めていい、って話」

「……え? あぁうん。まぁ覚えてるわよ」

「それと同じように、小清水さんのペースにおれが合わせることにするよ。なんにもできないかも知れないけど、それでもおれにできることがあったら力になるよ」


 ――あたしはまた泣きそうになる。


 こいつはお人好しなんだよね。だからこんなこと言えるんだよね。

 そうやってあたしの中の悪魔がささやく。

 けど、もしその悪魔の言っていることが正しいとするのなら、さ。

 なんでこんなに優しい笑みを浮かべられるんだろう。

 あたしは「……うん」とだけ応えた。あたしこれしか言えないのかよ。もはやどう返したらいいのか、全然わからないし、ほとんど頭も回らなくなってた。


「じゃあおれ、もう寝るね。……にしても翌日が土曜日ってなんかいいよなー。寝過ごしても全然罪悪感ないからね」

「……へぇ、何か意外。あんたもとことん寝坊したいとか思うことあるんだ」

「そりゃあるって。人間誰しもあるんじゃないかな」

「なにそれ。……まぁでも、あたしもその気持ちわかる」

「だよね」

「うん」

「寝よっか」

「そーする」



 ――あんなに甘えてきておいて? おれにべったりくっつく以外に能がなかったお前が、今さらそんなことを言うと? はっ、説得力の欠片もねぇ。

 

 けっきょくのとこ、全然眠れなかった。なんども目を閉じたけど、思い浮かんでくるのは元彼の顔ばっかだった。

 いやになってくる。


「……」


 朝だ。カーテンのすき間から光が差し込んでくる。

 あぁ、うつになりそ。マジで夜から朝にかけてが一番落ち込むんですけど……。

 あたしはゆっくりと体を起こす。

 ……ううん、起こそうとした。

 あれ?

 あたしはバタンとベッドの上に倒れてしまう。

 そのまま天井を見上げる。ものすごい景色が歪んで見える。


「……あー」


 やっちゃったかな。風邪引いた。

 それでもなんとか体を起こす。トイレくらいは行かないとマズいから。


「あ」

「おはよ」


 扉を開けると、義兄に遭遇した。あたしはアホみたいに口を開けてしまう。

 途端、体がさらに熱さを増した。


「おはよう。今朝もやっぱり早起きしてんじゃん」


 壁に手を突きたかったけど我慢する。悟られたくはなかった。雨の中でずっとブランコに座ってたあたしが悪いから。

 それにこいつに心配掛けるのは、申し訳なかったから。


「……はは。なんでだろうね、昨日はあんま眠れなかったんだよ」

「へー、そうなんだ。あたしも実はあんまし寝付けなかった」

「ねぇ小清水さん……」

「なに?」

「めちゃくちゃ顔赤いんだけど」

「……。」


 悟られたくなかった。でもそういえばいずなにも言われたっけ。あたしは顔に出やすいタイプだと。表情だけでなく顔色でもわかられちゃう。

 自分の単純さを呪いたくなるよ、ほんとにさ。

 あたしは諦めて壁に手を突くことにした。あぁ、ダメだ。目が回るわ。


「小清水さん!? 平気!?」

「うん、へーきへーき。……ごめんやっぱダメかも」


 あたしは耐えきれずにその場にへたり込んでしまう。呼吸が荒くなっている。体のありとあらゆるところで寒気がした。なんで? 今日ってこんなに寒い日なのかな? 外は温かそうだったのに。


「……はぁ…………はぁ、………………トイレにだけ行ってくる」

「肩、貸そうか?」

「……ハァ? …………あんたになんか、…………ごめん貸して」


 なんかあたしはすごく今恥ずかしいことを言っている気がした。けどもうむりだ。あたしの力じゃどうにもなんないわよ。頭を働かせようってのに、まったく動いてくんないんだもん。


「はい。これで歩ける? ちょっとごめん」


 義兄はあたしのおでこに掌を当てた。いつものあたしなら振り払っていたはずなのに、今はまったく抵抗できない。


「うわ、すごい熱じゃないか。……やっぱ昨日の雨?」

「うん、そうみたい」


 あたしは義兄に引きずられるように歩いた。心臓がドキドキする。耳の裏で脈の打つ音が激しく聞こえてくる。……近くにいる義兄の心音まで聞こえてきそうだった。

 義兄の肩はすごく大きくて、たくましくて……あぁそうか、こいつも高校生の男子なんだよね、と再確認させられる。


「ちょっと離れたとこで待ってて!」


 あたしは強く言ってから、トイレに入る。

 ほんと恥ずかしい。



「よけいな妄想してたんじゃないでしょうね?」

「し、してないってば」

「あっそ。ならいいわ」


 あたしはトイレをすませてまた義兄の肩に掴まる。ゴツゴツしたその感触を味わうたびに、あたしの体がさらに熱を増していく。

 しょ、しょうがないじゃん……。男の人にこっちから触ったことなんて滅多にないんだから。


「あ、あんたってさ、なんかスポーツとかやってたの? ほら、けっこー腕とかすごいじゃん」

「あぁうん。ちょっと前にジム通ってたんだよ。もう辞めちゃったけど」

「ふうん」


 そうなんだ。何か意外だな。この義兄かなりの陰キャだと思ってたから。

 へー、ジムか。ってことはベンチプレスとか、ランニングマシーンとかその辺よね。

 まぁ陰キャだからこそやってたのかもしんないけどさ。

 筋肉量が多い人って発熱量も多いってなんかの本で読んだことがある。七条君もなんかぬくんくしてて、す、すごい居心地がいいな――とか考えてるあたしってバカなんじゃないの?


「小清水さん、熱、上がってない?」

「上がってない! あんたよけいなこと口走ってないで、ちゃんとあたしのこと運んでよ!」

「な、なんてわがままな……」


 あれ? あたしものすごい失礼なこと喋ってない? なんか自分でもきちんと言葉選びができなくなってるっていう実感がある。


「ご、ごめん……。あんたに迷惑掛けてんのあたしなんだよね」

「そんなことないって。風邪引いたら辛いのって、誰しもが経験あることだからさ」

「ふーん」

「なにかな」

「優しいね」


 なに言っちゃってんのよおおおおおおおおっ!! バカじゃないの!? ふだんのあたしだったら絶対こんなこと言わないのに!! 

 もしかしたら病気で心が弱ってんのかもしんない。じゃ、じゃああたしも言動に責任が持てないのは、しょうがないってことだよね。


「……はぁ………………う……………………はぁ……………………はぁ」


 顔が熱い。あー、目が回る。なんか気持ち悪いし。


「なにか食べれる?」

「……え? あぁうん、まぁおかゆくらいなら」

「わかったおかゆだね。あとで作って持って行くよ」

「……部屋に入んないでよ」

「じゃ、じゃあ扉の前に置いとくよ」

「うん……」


 あたしは息も切れ切れだった。おばあちゃんみたいになってるし。

義兄の吐息があたしの首なり頬に当たってくすぐったい。あたしはそのたびに、こう、なんかもぞもぞする。

 っていうか、なんでこの義兄まで顔赤くしてんのさ。……ば、ばかじゃないの?

 そこであたしはよーやっと気づいちゃった。あたしの胸、七条君に当たってんじゃん! はぁなにこれ! 最悪!


「は、離れてよっ!」

「えぇ!?」

「あんたあたしの胸当たってること黙ってたでしょ! 最っ低ね。だから童貞なんじゃないの?」

「お、おれが童貞だってことどうして知って――じゃないって! 肩貸してって言ったのはそっちじゃないの!?」

「そ、そうだけど……。でも、そのさ……あぁもう! うっさい! うっさいうっさいうっさい! とにかく寝るから! あたし今日の朝ずっと寝てなくて寝不足なの! 早くおかゆ作って! それじゃ!」

「……あ」


 あたしは扉をバタンと閉めた。そのままずるずると座り込む。そして額を押さえた。

 素直にありがとうって言えばいいじゃん、バカかあたしは。



 ちっっきしょおー。

 咳が出てきた。


「……ごほっ………………けほっけほっ……あーーーー」


 のドが痛い。あーのど飴が欲しい。っていうか熱測ったら八度八分もあったんですけど。どうなってんのよもう。

 なんてくだらないことを考えてたら頭痛くなってきたわ。もー、頭働かせただけで痛くなってくるとか、あたしの体どうなっちゃってんの?

 ちょっと寝よ。そう思って布団に潜る。うーん、やっぱ気持ちいいな。眠れるって最高だわ――なんてことは思えなかった。横になるとさらに咳が出てくる。

 それでもなんとか眠らなくちゃと思って寝た。

 ……七条君がおかゆ持ってきてくれるってこと、すっかり忘れてた。



 起きたらおかゆと、解熱剤、それからスポーツドリンクが机の上に置いてあった。


「はぁ、あいつ入りやがったのね。…………まぁいいけど」


 ありがたくそれらをいただく。

 扉が軽くノックされた。嘘でしょ、このタイミング?


「あーい」

「ごめん起こしちゃった?」

「ううん、あたしも今起きたとこ。っていうかあんたあたしの部屋入ってくるなって言ったのに」

「う、悪かったよ。それでも食べる物外に置いておくの、やっぱり衛生的によくないかなって思ってさ。入らせてもらった」

「まぁべつにそこまで怒ってないから」


 あたしは涙目になっていることを自覚する。ついでに鼻声だな。


「回収してもいいかな。ついでにタオル変えるけど」

「タオル?」


 あたしは言われて初めて気づいたわよ。あたしの掛け布団の上に濡れタオルが落ちていることに。多分これ、七条君があたしの額に掛けてくれたってことよね。


「……ん」

「ありがとね」


 それはこっちのセリフだし。けど恥ずかしいから言えない! なんであたしったらこんな性格なのかしら。


 ――風邪なんかで学校休むんじゃねぇよ


 うっ。

 あたしは実父のセリフを思い出してしまう。小学校の頃、あたしが風邪を引いたときに聞いた言葉。

 思い出したくなかったのにさ。頭って言うのは、意外と自分にとって不都合にできてるわよね。自分が思い出したくないことに限って思い出すんだ。ほんっと最悪。


 ……あたし、そんときどうしたんだっけ。あっそうか。けっきょくお母さんの説得があって休ませて貰えることになって。頑張って眠ろうとしたんだ。風邪を引いたら休んでなくちゃいけないからって。

 さみし、かったな。

 孤独があたしを蝕んで、ひたすらにうずくまってたんだ。寒気がする中、たった一人で。 思い出したらまた涙出てきた。やだ、あたしったら泣きむしじゃん。


「…………いかないで」

「え?」


 あたしは気づいたら義兄の裾を引っ張っていた。お盆を持ったまま、呆けた顔でこちらを見ている。その瞳には困惑が浮かんでるけど、あたしの言葉は止まらなかった。

 いっしょにいてよ。


「……ねぇ………………ひとりにしないでよ……」


 あたしなに言ってんだろう。まただ。また自分の意に反して言葉が出てきちゃう。やだ、なにこれ! ほんとあたしってどうしちゃったのよ!


「…………さみしいよ」


 まるで幼い子どものようだと、義兄は思ったことだろう。しかもこっちは風邪を引いているって言うのに、向こうからすればただで病気をうつされるリスクを背負うようなもんだよね。


「…………ぁ……………………ごめん、めいわくだったわよね。……うそ、わすれて」


 すると彼はお盆を置いて、あたしの手を握ってきた。

 その瞬間、ものすごい温もりが伝わってきた。熱が出ているのはあたしの方なのに。


「わかったよ。ずっとここにいる」


 あたしはどんな顔してたんだろ? 笑ってた? 泣いてた?

 でもこの感情は知ってる。


 あたしはこの人に、安心してるってこと。



「……おはよ」


 あたしは何時間寝てたんだろうか。もう空はすっかり暗くなってた。


「……ッ!」


 あたしは慌てて手を引っ込めた。義兄と手を繋いだままだったことがめちゃくちゃ恥ずかしかったから! っていうかこいつまさかずっと手繋いでてくれたの!? 信じらんないわよ……。


「手汗掻いちゃった。……つうかずっと握り続けてくる奴がある?」

「小清水さんが離してくれなかったからさ。ざっと五時間くらい?」


 へー五時間ね。なぁんだあたしったら案外寝てないわね――って五時間!?


「うううううそでしょ!? あんたとあたしそんな長い時間繋がってたってこと!? ~~~~ッ! 死ねっ!」

「な、なんでだよ……。さっきも言ったとおり、おれが解こうとしてもすごい力で握り返してきたんだって!」

「……あたしが?」

「うん」


 へ、へぇ? あたしがずっとこいつの手を握り続けてたと。あぁそうですか。

 …………。


「ほんとに?」

「ほんとだって。嘘はつかないよ」

「でも、あたしの手くらい解くことできたんじゃないの?」

「できたけど、な、なんか寝言で『はなしたくない』とか呟いてたから……」


 ……うぐっ。あたしそんなこと言った覚えないんですけど! こいつのデタラメじゃないの!?


「デタラメじゃないって!」

「はーそう。……あたしがそんなにあんたのこと求めてたとでも言いたいわけ? んなわけないわよ」


 ――あるくせに。

 だ、だって心細かったんだもん。なんでこんな気持ちにならなくちゃいけないのってくらい、弱ってたんだもの。しょ、しょうがないわよね? ね?


「とにかくお腹減った。なんか食べたい」

「っと、たしかにそうだね。なにか食べたい物ある?」

「はぁ? あんたが考えてよ。あんたの担当忘れたの? しょ く じ と う ば ん! 献立もあんたが考えてんじゃないいっつも」

「そうだけど……病人の小清水さんが食べられる物って小清水さんに聞かないとまずいかなって」

「そ、そうなの? あんた優しいじゃない」


 あたしはうつむく。なんで顔赤くしてんだろうあたし。まぁ、異性と同じ部屋で五時間も過ごしたとなるとそりゃドキドキもするか。


「そ、そうね。リンゴのすりおろしたやつ……たべたい」

「何個分食べられそう?」

「一個に決まってんじゃない。あ、でもそうか。家にリンゴあんのかわかんないのか。なかったらおかゆでいいわ」

「飲み物はなににしましょうか?」

「なんでいきなり敬語なの? っていうかなんであんたクスクスさっきから笑ってんのよ」

「ごめんばれた? でも小清水さんが風邪引いたときの顔って、なんかクラスにいるときとは全然違うからさ」

「……は、ハァ!? そんなわけないじゃん! あたしいっつもこの顔で貫き通してるんですけど。勝手な妄想じゃない? もうそう! あんたの想像力が高くて羨ましいわねっ!」

「そこまで言われるとは……。でもこうなんというか――むりしてないっていうか。……ごめん失言だったかも」

「むり……ってどういうこと? あたしが常にギリギリを生きてるようにでも見えるわけ?」


 さすがにあたしはカチンときた。なんでこいつにそんなこと言われなきゃなんないの?


「あんたさ、テレパシーって言うもんがないわけ?」

「て、テレパシー? あぁもしかしてデリカシーのこと?」

「うぐっ! なに? 人の間違いただして楽しいわけ? あぁいるわよねそんな奴! 授業中に対して手も上げないくせに、先生の板書中に誤字を見つけるとすかさず指摘して喜んでる生徒、うわーいるいる。あんたもその口ってわけね!」

「ち、違うとも言い切れないくらいあるあるだな」

「まぁとにかく、あたしお腹空いたから、ごはん。それ食べたら寝るから」


 あたしは再び横になる。義兄が立ち上がる気配がする。

 扉が閉まって、あたしはその扉を見た。


「……あぁ」


 あたしは頭を抱えて悶絶する。

 またやっちゃったよ……。

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