ハレーション / SF

Nagara(ながら)

ハレーション

 リュドミラ・トルスターヤの十七年の人生を一言でまとめれば、諦めだった。

 十代という年齢は学問の世界では未だ可能性にありふれた数字だが、バレエの世界ではそうではない。教師に「体が違うのですから」と言い訳してひどく怒られたときから、彼女は持ちうる努力のすべてを閉口することに費やしてきた。その葛藤のなかで、彼女は才覚に対する態度のありようを確立させた。つまり諦めである。

 だから当然の帰結としてリュドミラはガリーナのことが嫌いだった。

 ガリーナはリュドミラの一歳年下だ。バレエの実力はリュドミラより上だったが、かといって傑出してはいなかった。

 二人はバレエ学校でよく話す関係だった。お互いに馴れ初めは忘れてしまったし、どうしてそうなっているのかも分からないが、二人は休憩の時間に足を休めながら他愛もない話をするのであった。

 決まってガリーナが話しはじめ、リュドミラはそれを聴いている。リュドミラがほとんど何もしゃべらないことも珍しくなかった。とても楽しそうに話をする子だな、とリュドミラはいつも思う。どうして話題が尽きないのだろう?

 それとも、下を見て安心しているのだろうか? リュドミラはどうしてもその疑念を捨て去ることができなかった。一度「そうだとしても別に構わない」という結論に達したのに。

 リュドミラが気に入らないのは、ガリーナが「はい」と答えると教師が満足気にするところだ。リュドミラのときはそうではないのに。実際のところ、リュドミラはガリーナの「返事をする」という才能についてひどくコンプレックスを抱えていた。「はい」と答えた後に教師に「返事は!」と返されるとき。リュドミラはこの瞬間に耐え難い屈辱を感じていた。

「もっと大きな声で!」

 この言葉もリュドミラにとっては聞き飽きたものだ。十代前半の彼女はそうした指摘に真摯に向き合っていたが、今やそうではなかった。彼女の諦観は、この数年ですっかり尖ってしまっていた。


 一九三九年、「ロシア」の東西にもくすぶる火種があった時代である。火種は何度も導火線に近づき、だがすんでのところで回避されてきた。風向きひとつ、弾道ひとつ違えばそれは未曽有の世界大戦を引き起こしていたかもしれない。各国は豊かな資源を内政につぎ込んでいた。

 ロシア最西の不凍港で生まれ育ったリュドミラは、海のないこのモスクワで十八度目の冬を迎えようとしていた。


 珍しく教師に呼び出されたリュドミラは、不思議な話をされていた。いわく、あなたに仕事の依頼があったと。

 リュドミラはその話を聞いてまず嘘だと思った。しかし「間違いでしょう」と教師に言うのは憚られたので、「どうしてでしょう」と言った。

「私も分からないわ」

「……そうですか」

「けれど、誰でもいいってわけじゃないみたい」

「私より上手い人はたくさんいると思いますが」

「依頼人は、この前の公演でのあなたの動きを見て決めたと仰ってるの」

 その言葉にリュドミラは驚きのあまり閉口した。

 なにせ彼女にとって、人生で初めて愚直にバレエを褒められた瞬間だったのだ。無知な客に褒められたわけでも、教師に定型句を言われたわけでもない。率直に自分を選んでくれたという事実は、彼女の鋭い諦観では切り落とせないものだった。

「そうですか、ありがとうございます」

 戻ってそのことをガリーナに伝えると、彼女はリュドミラのことをまるで自分のことのように喜んだ。

「すごい! すごいことじゃない!」

「……ありがとう」

 その日ずっとガリーナはリュドミラのことを気にかけていた。けれどそれは決して羨望にまみれたものではなく、まるでリュドミラのする「はい!」という返事のように純真無垢なものだった。

 後日、依頼人が来たというのでリュドミラはにやつく顔を抑えながら会いにいった。やせ細った顔の男がリュドミラを出迎えた。金持ちにしてはえらく風貌が控えめで、しかし庶民というには立ち振る舞いが整っていた。

「アレクセイだ。よろしく」

四十台半ばという男は、襟を整えてそう挨拶した。

「リュドミラです。この度は――」

「ああ、いいんだ。とにかく話をしよう」

 男はどこか焦っているようで、目はリュドミラのことを見ていたが、遠くを見ているようでもあった。リュドミラは一瞬これが噂に聞く少女趣味の金持ちなのではないかと考えたが、それにしては男はあまりにも余裕のない顔ぶりだった。

 男はこの場にいるのが自分とリュドミラの二人であることを改めて確認し、口を開いた。

「率直に言おう、君には自動人形オートマタのふりをしてほしいのだ」

 リュドミラは最初その意味がまったく分からず、しばらく固まっていた。

「自動人形……ですか」

「ああ、自動人形だ。君は見たことがないだろう。」

 アレクセイと名乗った男はそれから自動人形の説明を始めた。自動人形とは人間のようにふるまう機械のことで、たとえば食事を配膳したり、掃除をしたりしてくれる。使用人のように万能とはいかないが、ささいなことならこなしてくれるのだという。

「今度パーティーがある。そのとき君には我が家の自動人形のふりをしてほしい」

 リュドミラは自分がバレエをするのではないということに絶望し、さらには使用人の真似事をするということにもう一度絶望した。確かにリュドミラは以前の公演で使用人の役をやっていたが、だからといってリュドミラ自身が使用人になるのはまっぴらごめんだった。

「ええっと……いや、私は使用人のようなことは」

「決して料理を作ったりするわけじゃない。それに自動人形はそれほど多くのことはできないし、喋らなくていいんだ」

 次いでアレクセイはその対価を提示した。それはリュドミラにとってあまりにも魅力的な金額だった。断ろうと思っていたリュドミラはしかし、家に置いてきた弟のことを思って考え込んだ。

 リュドミラの弟イーゴリには学問の才能があった。その才の向くまま学問の世界に進もうとしていた彼は、今まさしく大きな岐路に立たされていたのだ。名門の学校に行くには金がかかるという端的な事実が彼を阻んでいた。

 このお金を弟に渡すべきではないか。それはリュドミラにとって、唯一報われる道のように思えた。

「自動人形の動きには癖がある。それが君――リュドミラさんの動きにそっくりなんだ」

 アレクセイは説明を続けて、とにかく難しいことはしなくていいしただ喋らず人形のようにぎこちなく振舞えばいいのだと繰り返し述べた。リュドミラは説明を聞いているようにふるまいながらも、弟のことと、それから自分のバレエがぎこちなくて機械みたいだという言葉について考えていた。

 リュドミラはしばし考えて、返事をした。

「はい、やります」

「本当に?」

 リュドミラは一瞬だけ顔をゆがめて、それから静かに息を吸い込んで答えた。

「はい!」



 自動人形には顔がない。表情というのはあまりにも複雑で、それがぎこちなかったり動かないくらいならば最初から無いほうがよほど人間に近いからである。リュドミラは自身の愛嬌らしきものに自信があったわけではなかったので、むしろそれがありがたかった。

 アレクセイの家は落ち目で、自動人形を作るだけの金を払えなかったのだという。しかしここ最近の貴族の間では自動人形を持つことが密かにステータスと化しており、それに食いつくために考え出した苦肉の策こそがリュドミラへの依頼だった。その意味でリュドミラはアレクセイの家のまさに「顔」であり、アレクセイはしきりにリュドミラに「本当に大丈夫か」と確認した。アレクセイがそれだけ焦っていたから、リュドミラはむしろ冷静に答えることができた。

「はい、大丈夫です」

「本当にか? 絶対に余計なことをするんじゃないぞ。何があってもだ」

「はい、しかしどうしても手が出てしまうようなことなど起こるのでしょうか?」

「ないとは思うが、何が起こるか。不安で仕方がないんだ」

 アレクセイは心配性なのだとリュドミラはここしばらくの間に確信した。だからこそこれほど報酬も弾んだのだと思えばありがたいことだ。

「もう一度聞くが、本当に――」

「もういいよ! 大丈夫だって言ってるだろ!」

 ついに耐えきれなくなったのか、リュドミラの隣に座った少年がその口を開いた。

「だがユーリ! 私は不安なのだ!」

「僕らは大丈夫さ! リュドミラもそうだろう!」

 ユーリと呼ばれた少年はリュドミラにも強く言うよう促した。

「ええ、大丈夫ですから。安心してくださいアレクセイさん」

 リュドミラは自分がこれほど俯瞰する立場になったのは初めてだ、と思った。ユーリという少年もまたリュドミラと同じくバレエダンサーであり、やはり「自動人形」として雇われていた。二人はこの数日一緒に練習をしただけだったが、いつの間にかリュドミラが姉のような立場になっていた。実際リュドミラはユーリを弟に重ねて、その少し突っ走りがちな性格も愛おしく思っていた。

 リュドミラは小声で隣のユーリにささやいた。

「ユーリ、大丈夫だよ」

「リュドミラは怒らないのか、もう十回目なんだぞ」

「そういうものだから」

「アレクセイは僕らのことをちっとも信用していないじゃないか」

「ユーリ、聞こえちゃう」

「たしかに上手じゃないかもしれないけど、僕らだってバレエダンサーなんだ」

「そんなに言ってたら、アレクセイの心配性がうつっちゃうよ」

 そういうとユーリは落ち着いて、ふてくされた態度をとった。リュドミラが優しく微笑むとユーリは静かに俯いた。


 二人の仕事は、アレクセイの後をひたすら追従することだった。しかし。車を出た瞬間から二人は物言わぬ人形となり、アレクセイとともにパーティ会場へと足を踏み入れた。

 二人とてバレエ学校に通う程度の出身であるから、その様子に驚いたりはしなかった。確かに煌びやかではあったが、パーティ自体は想定の範囲内で美しく整ったものだった。リュドミラが顔を動かさずに周囲を見ると、出席者はみなアレクセイと同じように後ろに自動人形を連れている。その動きみな確かに人形らしく、歩くときも頭が揺れないし立ち姿も呼吸を感じさせないものだった。リュドミラはその姿を見て自身の呼吸が腹や胸を動かさないようにと一層気を遣った。

 リュドミラたちは被り物のせいで会話がよく聞こえなかったが、それでもアレクセイがあまりこの場に歓迎されていないことはわかった。見る限りアレクセイはいつも下手に出て、申し訳なさげに笑い、ほどなくして相手に会話を断ち切られるのであった。そのせいか、彼はほかの参列者よりも早いペースで酒を飲んでいた。酔ったアレクセイは余計相手にされなくなり、ついには話し相手を失ってしまった。

 もしも自分が本当に彼の使用人だったなら、と二人は考えていた。この場においてあまりいい気持ちはしないだろう。アレクセイはこの期に及んで飲み続けていたが、二人は喋れなかったので何も言わなかった。

 ついにアレクセイは眠ってしまい、リュドミラが立ち尽くしているとユーリがリュドミラの服を微かに引っ張った。それは二人が事前に定めていた緊急事態のサインだった。ユーリが聞きたいことはリュドミラにも分かっていた。

「「本物の自動人形ならどう動くのか?」」

 ユーリが再びリュドミラの服を引っ張る。リュドミラは器用に手だけを動かして、ユーリの手を撫でた。そのまま動かないように、と。

 そしてアレクセイのもとへと行こうとした彼女の前を、別の自動人形がさえぎった。その自動人形はぎこちない動きでアレクセイを介抱し、横に寝かせた。

 リュドミラは一連の様子に釘付けになっていた。あの自動人形。間違いなくバレエを知っている。リュドミラは自動人形が体を回すときに頭が同時に追従しなかったのを確かに見た。バレエを習っていれば当然のことだが、普通はそうではない。

 もしかして。一度そう見えてしまえば腑に落ちることだらけだった。リュドミラは最初から自動人形がやけにバレエダンサーらしい動き方をするなと感じていた。

 その自動人形は二人の前に立つと、小さな声で囁いた。

「大丈夫、動いてもいいよ。リュドミラでしょ?」

 ガリーナの声だった。ユーリは驚いて声をあげたが、リュドミラは我慢した。



 どうやらガリーナは最初からリュドミラの仕事とは自動人形のことだろうと勘づいていたらしかった。

「どうして教えてくれなかったの」

「他の人に絶対言うなって言われてたからね」

「でも私も自動人形だって分かってたんでしょ?」

 二人はひそひそ声で話す。

「もしかしたら本当にバレエを踊るだけかもしれないじゃん? それに……その、少女趣味みたいなものかもしれないし……」

 前者はともかく後者は考えたくないなとリュドミラは思った。

「そうですか」

「まあ、いいじゃん。無事に終わったんだしさ。それより大丈夫だったの? アレクセイさん……だっけ」

「全然。酔った時に介抱しなかったからって報酬下げようとしてきた」

「あはは! それはひどいね~」

 リュドミラの中で、ガリーナに対する印象は少しだけ良くなった。なぜかは分からないが、リュドミラにとって彼女との関係が少しだけ対等なものになった気がしたからだ。

「でもよかったんじゃない? 男の子もいるしさ」

 ガリーナはにやつきながらリュドミラを小突いた。リュドミラは目をそらして、やっぱりガリーナのことは嫌いだと思いなおした。 


 さて、あの場に本物の自動人形は存在したのだろうか? 断言はできないが、ほぼ間違いなくすべての自動人形が嘘だったと言える。そんな嘘がまかり通ったのは、それが時代だったからという他ない。ロシア育ちであるヴィルヘルム・オストヴァルトが創設まもないノーベル賞の物理学賞を取って以来、ロシアは技術において先んじることを一つの大きな目標とした。それは最初こそ排他的な政策だったが、世界大戦が回避されて以降各国の緊張は緩和してゆき、一九二〇年までには活発な国交が行われるようになった。「世界でもっとも傑出した研究機関」と言われるまでになったモスクワ国立総合大学は積極的な支援を受けて拡大を続け、ついにそれも止まったかと思えば雀が丘に新たな敷地を設けて五倍の速度で拡大した。そうして生まれたポストに何十倍もの応募が来ていたことが、「ロシアでは畑から研究者が取れる」という言葉の由来である。

 計算機の黎明は暗号だった。世界が戦火に包まれることはなかったが、ラボはそうではなかった。情報戦は暗号を生み、それは計算機の黎明をもたらした。学部時代をモスクワで過ごしたアラン・チューリングは、金銭の工面のため研究室に雇われて暗号を解いていた。彼はそのうちに「暗号はすべて解かれる」という単純な事実に気が付いた。一九三〇年、彼が十八歳のときのことである。

 可能性は有限通りなのだから、それをすべて試せばよいのだとチューリングは言った。それを聞いた人間が手作業で列挙している間に、彼はコンピューターを作りあげて暗号を解いた。チューリングは良かれと思ってそれを公表したが、モスクワはしばし大混乱に陥った。チューリングが安全のため投獄されたことからも、その当時の混乱ぶりが伺えるだろう。

 しかしこの暗号解読に影響されて進んだ研究は多い。特に風通しの悪かった軍事研究にとってこれは大きな出来事だった。国際社会には多少の亀裂が入ったが、一方で各国の手の内が明かされたことによって一種の完璧な硬直状態が発生した。各国が水面下で進めていた核兵器はまだ現実にはなっていなかった。

 国連は核を用いた兵器についての研究の無期限停止を要請した。これで本当にすべての研究が止まったかといえば怪しいが、他方で多くの研究者が職を失いかけたことは事実である。あぶれた研究者たちが核兵器の基礎理論である量子力学になだれ込んだのは当然の帰結であり、量子力学激動の二十世紀はこの数年後に絶頂を迎えることになる。

 この二つの出来事が奇妙な形で融合したのが一九三八年のことである。計算機のモデルとして「量子計算機」という概念はその数年前から提唱されていたが、それを実現させた者が現れた。ルドルフ・パイエルスである。彼は核兵器開発の命を強制的に解かれた後、故郷であるドイツに戻り量子計算機に没頭した。


 短くまとめれば、一九四〇年前後には量子計算機が注目されていたということである。極東の農民も、海を知らぬ遊牧民でさえも「量子計算機」という言葉を聞いたことのない者はいなかった。いわく、それが実現すればすべての考え事は機械が行ってくれるのだと。

 当然量子計算機はそんなものではないし、現実もそこまで進んでいなかった。誤り訂正や冷却をはじめとして多くの問題が残されていたのが当時の実情である。しかしその誇張されたイメージが流れていたがゆえに、一九四〇年あたりには「何が実現してもおかしくはない」という風潮があったのだ。


 その後もリュドミラとユーリはともに自動人形として働いていた。いつもきまってアレクセイとユーリが言い合いを始めるので、リュドミラはすっかり仲裁役としての動きが染みついてしまった。ある時を境にアレクセイはリュドミラに自動人形を依頼しなくなった。ガリーナが聞いた噂によると、彼はついにそれをする金さえ失ってしまったのだとか。

 ガリーナはいつものように屈託のない笑顔で、リュドミラに同じ仕事を紹介してくれた。ユーリも「リュドミラ姉さんについていく」と言ったので、三人はともに働くことになった。



「リュドミラってユーリの前だとあんな感じなんだね」

「うるさい。黙って」

「つれないじゃんか、ほら私のことも撫でてよ~! あんな感じですりすりって」

 ねえねえ、とガリーナがリュドミラをつつく。

「弟みたいなものだって言ってるでしょ。私ほんとに弟いるし」

「ふーん」

 リュドミラは最初こそユーリに猫を被っていたが、いつしかそれが自然体になっていた。ガリーナはそんなリュドミラ"姉さん"が面白くてたまらないようだったが、リュドミラはその興味に辟易としていた。

「でもさ。リュドミラ、前より明るくなったよね」

「……」

「練習の時に返事するじゃん? そのとき声が変わったな、って思った」

「……そっか」

「これもやっぱりユーリのおかげ?」

 リュドミラはたっぷり嫌な顔をしてから、ため息をついた。

 卒業が間近に迫っていた。リュドミラはバレエダンサーになるか、それともまったく別の道で生きていくか決めなければならなかった。仮にバレエダンサーになったとしても、リュドミラは長くないバレエ人生を脇役として過ごすことになるだろう。そして早々に引退して誰かに嫁ぐ。リュドミラの目にははっきりと平凡な未来が見えていたし、別にそれでもいいかなと考えていた。他の道を考えようにも、何も思いつかなかった。

「私はね、リュドミラと一緒にバレエしたいな」

「そうなんだ」

「リュドミラはどうなの?」

「私は……わかんないや」

「ユーリと一緒がいいか」

「はあ、もうやめてよそれ」


 何度目かの仕事のときだった。三人はすっかり仲良くなって、共にこの茶番劇を楽しんでいた。リュドミラはいつものようにユーリの前を歩いていた。彼女はこの仕事にすっかり慣れてしまったので、自動人形として振る舞うかたわらこの仕事がいつまで続くのかと考えていた。よく考えれば奇妙な話だ。

「皆様! ご注目を!」

 突然、アレクセイの声が響きわたった。

 皆がその声の方を向くと、アレクセイが一人の自動人形を連れて立っている。かつての暗い表情はどこへやら、彼は満面の作り笑いを浮かべていた。リュドミラは戸惑ったが、主人がそちらの方向へ行ったのでその後ろをついていった。

 やがてざわめきが収まるとアレクセイは高らかに叫んだ。

「今宵わたくしは、皆様に「本物の」自動人形をお見せいたしましょう!」

 会場に緊張が走った。アレクセイはそんなことお構いなしといった様子で続ける。

「早速紹介いたしましょう――しかしその前に、皆様のなかから代表してどなたかに自動人形をお貸しいただきたい!」

 その場に居合わせた者たちは、皆密かに祈っていた。何が起こるにしても、その災禍が自分に降りかからないでくれと。

「そこのお方!」

 アレクセイはたっぷり悩んで――いや、悩むふりをしてからリュドミラたちの主人に呼びかけた。人ごみのなかで、ユーリがリュドミラの服をぎゅっと掴む。リュドミラはユーリの手首をやさしく握った。

「自動人形をお貸しいただけませんかな? そちらの、男性の自動人形です」

 ユーリのことだ。リュドミラはユーリが震えるのがわかった。そのときリュドミラは初めてアレクセイの顔を見た。彼は両目をこれでもかと見開いて、作りもののようなおぞましい笑顔を浮かべていた。

 リュドミラの主人が口を開く前に、彼は続ける。

「それとも、そちらの自動人形には何か事情がおありでしょうか?」

 わざとらしい口調だった。お前だってそうだったじゃないかと誰もが思った。

 主人は少し考えたのちユーリに前に行くよう促した。動き出す直前、ユーリはリュドミラの人差し指をぎゅっと握った。

「さあさあ! みなさまもっと集まって! 今から行うは世紀のパフォーマンスでございます!」

 皆が注目したことを確認すると、アレクセイはこう叫んだ。

「クォル! 私の服を直してくれるかな」

 するとアレクセイの自動人形が動き出し、彼の服を整え始めた。誰もがその様子を見つめていた。リュドミラもその光景から目が離せないでいた。

 人間じゃない。これは人間の動きではありえない。それは誰の目にも明らかだった。

 アレクセイは本当に自動人形を作り上げたのか? いやいやそんなことがあるわけない。ざわめきが広がる。

「皆様! 目を離さないで!」

 それを見て、アレクセイが再び大声で叫ぶ。彼は皆に注目されていたいようだった。

「もうお分かりいただけたでしょう。これは「本物の」自動人形です」

 アレクセイは「本物の」というところを強調して言った。そして自動人形たちを見渡して笑う。おまえたちは偽物だぞと言わんばかりに。

「一応、こちらの自動人形にもやってもらいましょう」

 そう言って彼は服を崩し、今度はユーリに服を直させた。違いは明らかだった。ユーリがどれだけ機械らしく動こうとも、その中身が人間であることを隠せはしない。リュドミラはその時間が苦痛だった。いますぐユーリのもとに行ってアレクセイから引き剝がしてやりたい。その衝動を抑えることに必死だった。

「もう一つ。クォル! 倒れなさい」

 次の瞬間、誰もが目を見張った。クォルと呼ばれた自動人形が前に倒れたのだ。

 一切の受け身を取らず、手すら動かさないままに。

 当然クォルは顔面から床に激突したが、少しして立ち上がり始めた。そして何事もなかったかのようにふたたびアレクセイの横に立った。

 これ以上ない自動人形の証明だった。

 アレクセイがユーリのことをまじまじと見つめる。リュドミラの体は震え、今にでも飛び出してしまいそうだった。実際、ユーリが少しでも倒れるそぶりを見せたら駆け出していただろう。

「まあ、いいでしょう」

 アレクセイは子馬鹿にしたように笑って、ユーリから目を離した。

 ごめんね、ごめんね、とリュドミラは心の中で繰り返しつぶやいた。助けてあげられなくてごめんね、帰ったらいくらでも撫でてあげるからね、と。

「さて皆さま、最後にとっておきをお見せいたしましょう!」

 アレクセイはそう叫んで懐からナイフを取り出した。そこからは一瞬のことだった。クォルと呼ばれた自動人形に向けてそれを振るったのだ。

 まず腹、次に首、腕、そして顔。そしてクォルが倒れると、アレクセイは満足げに鼻を鳴らした。一滴の血すら出ていなかった。

 アレクセイは綺麗なナイフを持ったままユーリを見つめた。

「自動人形ならば壊しても問題ない。皆様、そうでしょう?」

 リュドミラは静かに群集を抜け出し、テーブルナイフを手に取った。その間にもアレクセイはユーリににじり寄る。ユーリのほうが身長が高いはずだが、明らかに気圧されていた。

「ユーリ! あなたのおかげですよ! 貴方がこれは全部嘘っぱちだと教えてくれたから!」

 アレクセイがユーリの手首を掴む。その瞬間リュドミラは群集を飛び出して、アレクセイに叫んだ。

「離せ! その手を今すぐ離せ!」

 突然のことに驚いたのか、アレクセイは咄嗟にユーリを盾にしてリュドミラの方を向いた。リュドミラは自動人形のマスクを被っていたが、アレクセイはそれがリュドミラだと分かったようで、はは、と笑いをこぼした。

 次の瞬間、リュドミラはアレクセイに向って駆け出した。あわやという瞬間、アレクセイはユーリの首にナイフをかけて人質の格好をとった。

「待て、待て! 落ち着くんだリュドミラ!」

「ユーリを離せ!」

 リュドミラはもはや自分の制御が効かないことを感じていた。

「おい! 止まれ!」

 勢いのままにリュドミラはアレクセイに掴みかかった。そのまま三人で倒れこみ、リュドミラはナイフのない左手でユーリを引っ張ったがアレクセイも同じように引っ張る。リュドミラは右手のナイフの柄でその手を叩き落とそうとしたが、その跳ね返りのことを考えていなかった。アレクセイの手を叩いた右手は反動で逆に跳ね、そこにアレクセイの首があったのだった。彼はその最期まで運の悪い男だった。


 

 アレクセイの持ち出した自動人形は、紛れもない本物だった。しかしなぜアレクセイただ一人がそれを成し遂げたのだろうか? ここには二つの事情がある。

 一つ目。この時代、貴族は研究者のパトロンとなるのが通例であった。アレクセイも当然一つのラボに出資しており、彼の自動人形はそこで秘密裏に作られたものだった。そのメンバーは後世にも記録が残っているが、特筆すべきは大学院生であったクロード・シャノンが居たことだろう。電気工学と情報学の両方に明るかった彼は、自動人形の実装においてハードウェアとソフトウェアを統合することに大きな役割を果たした。彼の存在がなければこれは成し遂げられなかっただろう。

 二つ目。実際の自動人形は実用に耐えるレベルではなかった。そもそもアレクセイは狂って自動人形を破壊したのではなく、あれ以上衆目にさらせば不出来なことがバレてしまうから狂ったフリをして破壊したのだ。心配性ゆえの策略である。

 アレクセイは本気で狂ってなどいなかった。彼が作り物のような笑顔を浮かべていたのは、本当にその狂気が作り物だったからだ。

 さらに言えば、彼の自動人形は完全に自動ではなかった。実はあの場にはラボの人間がおり、密かに人形を操作していたのだった。アレクセイがわざと皆の注目を集めたのはそのためである。

 アレクセイはなけなしの金を積んで「たった一分のパフォーマンス」を洗練させるように働きかけたのだった。だからアレクセイが狂っていたのはパフォーマンスの一環で、当然彼はユーリを殺すつもりなどなかった。ただ「怖がらせてやろう」とは思っていたようだが。

 リュドミラがその場に立っていさえすれば、事態は丸く収まっていたのだ。

 しかし現実はそうならなかった。


 もっとも最初に声明を発表したのは、アレクセイのラボだった。そもそもラボメンバーにとっては、アレクセイが自動人形を壊すことが想定外だったのだ。彼らはアレクセイから「プロトタイプとして発表する」と聞かされていた。

 彼らは結局、「あれはプロトタイプだったのにアレクセイが無理矢理持ち出して、あたかも完璧なように見せた。完成品はまだ出来ていない」という発表をすることにしたが、それでも自動人形に対する期待は大いに高まった。

 その開発はさらに世界情勢によって大きく加速することになる。それは東アジアから始まった。一九四二年に日本が極東ロシアに侵攻したことをきっかけに、世界を覆っていた開放的な雰囲気は少しずつだが閉ざされていった。特にロシアにとってこの影響は大きく、一時的にではあるがロシアはこれにより東の不凍港を失うことになる。

 ロシアはこのとき明らかに軍備不足であり、一時的にだが前線は大きく後退した。当然各国が警告したが、日本は秘密裏に開発していた核兵器により国際社会を牽制し、戦争を継続した。窮地に立たされたロシア政府が自動人形をはじめとして無人兵器に対して補助金を出したことは当然の判断といえるだろう。しかし即効性に欠けるその政策を補うため、志願兵の募集もなされた。

 殺人罪により投獄されていたリュドミラ・トルスターヤも兵士として前線に送り出されることになる。奇しくもこのとき、姉からの金銭援助によりその才能を開花させた弟イーゴリ・トルスターヤは、ロシア政府による秘密裏の核兵器開発に携わっていた。



 敵を殺して生きて帰ってくれば刑期が短くなる。そう告げられたとき、リュドミラは迷わず兵士に志願した。殺人罪にしては軽く六年の刑期だったが、それでもリュドミラには長すぎた。リュドミラは女性だったがその若さやバレエダンサーとしての経歴、獄中でのトレーニングを評価されて前線へと送り込まれることとなった。

 彼女が前線で生き残れたのは、一人目をすでに殺していたからと言うほかない。戦場では、誰も殺せずに死ぬ人間が大半なのだ。それは単純な期待値よりもよっぽど多い。

「敵は迷わず撃つこと。それができずに死ぬやつがほとんどだ。分かったか!」

「はい!」

 リュドミラの返事は誰よりもまっすぐだったと上官は記憶している。

 彼女にとってその日々は、バレエ学校よりもよっぽど刺激に満ちあふれたものだった。戦場では自分が主役になるしかないのだから、それも当然のことだった。自分で判断が下せなければ死ぬしかない。とにかくリュドミラは人生で初めて、自らの才能を目の当たりにすることになった。

 彼女の名誉のために補足すれば、この頃の前線に「飽き」などという概念はそもそもなかった。戦場はもっぱら新兵器の実験場と化しており、日々ロシア西部から送られる謎の兵器が投入され続けた。玉石混交の兵器のなかから使えるものを選ぶ方法は単純だった。説明が一番短いやつだ。それに「量子」という言葉が入っていないほうが良い。兵士の間では常識だった。

 実際に有用だったかはさておいて、あらゆる学術研究の最先端がそこにあった。新兵器を投入したのは日本側も同じだったが、やがて国際社会の後ろ盾をつけたロシアの方が上回るようになった。

 一九四四年の七月のことだった。リュドミラは雪解けから実に三カ月を生き残ったが、約一ヵ月前に吸い込んだ化学兵器の後遺症により肺活量が大幅に低下し、それに伴い後方に移されていた。一方で前線が日本側に進んだため、結果としてリュドミラは同じ地域にとどまり続けていた。

 バイカル湖がなければ日本軍はさらに西方に進んでいただろう。一九四三年の冬に侵攻が止まって以来、日本軍は後退を強いられていた。誰もが薄々この戦争の終わりを感じ始めていた。

 イルクーツクから北東に約八十キロほど進んだキャンプに佇んでいたリュドミラは、通信士としてロシア軍の一端を担っていた。多国籍軍における公用語はフランス語とロシア語であり、彼女は幸運にもその両方を使うことができた。

「クイーニー、報告を」

「こちらクイーニー、緯度五四、五二……」

 前線から報告するその声に、リュドミラは聞き覚えがあった。若い男の声で、すこし早口だが落ち着いた雰囲気の声だ。

「ユーリ、ユーリなの? 私リュドミラ、リュドミラだよ」

 リュドミラは反射的に叫んでいた。

「うそだ、リュドミラ姉さん、姉さんなのか!」

 それから二人はしばらくの間お互いの名前を呼びあって、明日も同じように通信することを約束した。リュドミラにとってこれ以上ない幸せだった。それから自分の後遺症のことを思い出して、それをユーリに伝えるかどうかしばらく思い悩んだ。

 ユーリは志願兵としてここに来たらしかった。

「姉さん、姉さんがここにいるって聞いてきたんだ」

「そんな……どうして」

「姉さんのことが心配だったんだ! それに姉さんは僕の命を救ってくれたんだから、僕だって姉さんのことを助けに行きたかったんだ」

 リュドミラはそのユーリの言葉に涙せずにはいられなかった。

「ありがとう、ユーリ」

 ユーリのことを愛おしく思う気持ちもあったが、自分のためにユーリが戦場に身をさらしているのだと思うとリュドミラは苦しくて仕方がなかった。けれどそれは、ユーリが今まで抱えていたものなのかもしれない。そう思うとリュドミラは何も言えなかった。

「姉さんは大丈夫なのかい」

「……ええ、もちろん」

「本当かい?」

 リュドミラは心がきゅっと縮まるのを感じた。

「ええ」

「なら良かった。姉さん、帰ったら一緒にバレエをしようよ」

「もちろん。約束よ」

「ああ! 約束さ」

 二人はその後、他愛もない話をした。

 通信を切って、リュドミラは小さく息を吐いた。返事が上手くなったものだなと思う。誰に教えられたわけでもなかったが、リュドミラは少なくとも対人的な面において以前とはまったく異なっていた。

 日々はつつがなく続いた。リュドミラは時折ガリーナや弟のイーゴリと手紙のやりとりをしながら、通信士としての責務を全うしていた。後遺症のことはまだ誰にも伝えていなかった。すべてを書き記した手紙は用意していたが、もし自分が死んだらと同僚に託していた。

 リュドミラにとっては毎日ユーリと話す時間が少しの楽しみで、ユーリもそのようだった。リュドミラは彼の突っ走りがちな性格が前線に向いていないことを見抜いていたので、何度も繰り返し慎重になるようにと警告した。「あわよくば命に関わらない怪我をしてモスクワに戻ってほしい」という言葉は飲み込んだ。

 彼女にとってこの場所での仕事はそれなりに悪くなかった。少し遠くに望むバイカル湖は静かに凍りはじめ、一歩外に出れば芯まで凍えるような寒さに襲われた。彼女はほとんど自由にすることは叶わなかったが、時折外に出てはただ無言でモスクワの方向を眺めていた。なだらかな山脈に朝霧がかかるときがリュドミラのお気に入りだ。まばゆい光芒に肥沃な大地の空気が照らされるとき、きまって他の兵士もその白くぼやけた朝ハレーションを眺めているのだった。

 ある日を境に前線の報告係がユーリから別の人間に変わった。それが何を意味しているのかリュドミラはよくわかっていたし、質素な報告を受けて取り乱すこともなかった。ユーリは重傷を負って前線から離脱し、野戦病院に送られた。リュドミラは即刻上官に配属の変更を求めたが、彼女は自身が犯罪者であることを思い出させられた。最後に右脚を撃ちぬかれるまで彼女は止まらなかった。

 そのまま刑務所に移送されるのだと思っていたリュドミラはしかし、西方から送られてきた一つの兵器によってふたたび前線に舞い戻ることになる。それはかつてアレクセイのラボのメンバーだった者たちが作った無人兵器だった。彼らがアレクセイのために作っていた自動人形は、実のところ無線通信という点においても非常に優れたものだった。それが応用された結果、遠隔操作で偵察から攻撃までを行う飛行兵器が開発された。

 リュドミラはそこで目覚ましい成果をあげた。姿勢制御が上手だったのだ。この無人兵器の有無は戦況を大きく変えた。日本軍は以降防戦一方となり、前線は瞬く間に東方へと押しやられた。

 そしてロシアが一九四五年に日本に投下した原子爆弾によって戦争は終結を迎える。日本は核による反撃を試みたが、各国の迎撃能力はその遥か上を行っていた。

 ユーリは終戦を待たず息を引き取った。多量の出血と寒さが最後まで尾を引いた。彼は死の直前までうわごとのようにリュドミラの名前を呟いていたという。

 リュドミラの処遇についてはいくつか議論があったが、ユーリが既に死亡していることやその功績を鑑みて約束通り刑期を帳消しにすることとなった。



 モスクワに戻ったリュドミラを出迎えたのはガリーナだった。

「リュドミラ!」

 ガリーナはリュドミラを見ると抱きついて、しばらくすすり泣いた。

「ぜんぶ聞いたの、リュドミラがもう、その、踊れないって、それにユーリのことも、その……」

 ガリーナは矢継ぎ早に言葉を発していたが、リュドミラが頭を撫でると静かになった。五年もあれば人はこんなに変わるのだな、とリュドミラは思った。

 一九四〇年に投獄されて以来、約五年ぶりの再会だった。ガリーナ二十二歳、リュドミラは二十三歳のことである。

 ガリーナの声色は昔よりも落ち着いている。二人はバレエ学校の周りを歩きながら、昔話に花を咲かせていた。バレエ学校は変わらず少年少女の元気な声に包まれていた。外壁がきらきらと太陽を反射して真っ白に輝く。

「もう会えないかもって、思ってた」

「そうだね、私もそう」

「私ね、ずっとリュドミラのこと考えてたの」

「そう……」

 一度ガリーナが話し始めると止まらなかった。同級生のこと、うわさ話、この数年間に何があったか。リュドミラから比べれば平穏な日々だったが、それでもガリーナがたくさんの抑揚をつけて話すものだからリュドミラは飽きずに聞いていた。昔みたいだなとリュドミラは思う。ガリーナがずっと喋って、リュドミラはほとんど黙っている。変わったのはリュドミラの心情だった。ガリーナに対するもやもやとした想いはぜんぶ消え去って、代わりに平穏だけがあった。

「私、いつまでバレエやるんだろうね」

 と言ってから、ガリーナははっと口を閉ざした。後遺症でもう踊れないリュドミラを気遣ったのだ。

「いいよ、別に」

 リュドミラは優しく笑った。

「いいの、もう全部なにもかも」

 モスクワにも夏が訪れようとしている。爽やかな風が通り抜け、白樺の葉が揺れていた。


 リュドミラは軍人ではなかったから、戦争が終わると何の援助もなしに放り出された。ほかに行くあてもない彼女は弟のイーゴリのもとを訪ねてしばらくそこに居候することになった。イーゴリの妻はちょうど身ごもっており、間もなくしてリュドミラは子守兼使用人として家の仕事を任され、そこで普通の暮らしを送った。

 弟のイーゴリは繰り返しリュドミラに仕事を紹介した。それは彼女を家から追い出したかったのではなく、途方もない借りがある姉にどうしても恩返しがしたかったからだ。

 そのたびにリュドミラは断って、このままの生活を望んだ。

「僕は姉さんに幸せになってほしいんだ」

 はじめリュドミラはユーリに弟の姿を重ねていたはずだったが、今は逆になっていた。リュドミラはイーゴリに様々なことを話したが、そのことだけはひた隠しにしていた。けれど弟の健気な姿はどうしても彼女にユーリを思い起こさせた。

「大丈夫。私は今とっても幸せだから」

 その言葉に嘘はなかった。

「どうしてさ! 昔の姉さんはそんなんじゃなかったよ」

 イーゴリは少し悲しそうにそう言った。

「私には才能がないって分かったからかな」

「そんなことないさ、そんなことない」

「どうして? 五体満足でも、私はそんなに上手にバレエを踊れないよ」

 リュドミラにしては珍しく攻撃的な物言いだった。リュドミラ自身もそのことに驚いていた。自分の抱えていた諦観はまだこんなに尖っていたのだと。それを聞いてイーゴリは黙ってその場を去った。


 数か月後のことだった。

「自動人形になりませんか」

 突然そんなことを言われて、リュドミラは心の底から戸惑った。

 リュドミラ二十六歳の夏だった。そう言ってきた女はどうやら数カ月前からリュドミラのことを探しており、ガリーナやイーゴリの知り合いを辿ってついにリュドミラにたどり着いたのだという。

「どこから聞いたんですか? 私の話を」

「有名な話ですよ、少なくとも我々の間では」

「そうですか。お断りします。私はもう家を出ることすらままならないですから」

 そう言ってリュドミラは車いすを指さした。彼女は今や一人で外出することも控えるようになっていた。

「ええ、知っています。ですから自動人形になりませんかと言っているのです」

 リュドミラは目の前の女をじっと見据えた。数年前にアレクセイと話したときは目すら合わせられなかったが、今や彼女は目線だけで相手を威嚇できた。

「少々不快でしたか」

「ええ、もう人は殺したくありません」

 テーブルナイフに目をやってリュドミラは笑った。苺の跡がついていた。さすがに女もその様子が怖かったのか、真面目な話を始めた。

「ロボトミー手術ですよ。あなたの手足を機械に置き換えるのです。そうすればあなたは再び以前のように動けるようになる」

 女はさらりと言ってのけた。ロボトミー手術というのはリュドミラも初耳だった。あまりにも衝撃的な発想だとリュドミラは思う。体を機械に置き換えるなんて。すこしだけそれを想像してみたが、アレクセイの自動人形が頭によぎってやめた。

「どうです? 興味がありませんか」

「いえ、別に」

「本当に?」

 リュドミラはまっすぐ前を見据えて笑顔で言い返した。

「本当に、ですよ」

「ロボトミー手術自体の危険性については説明いたします。そのうえで判断――」

「私は別に以前のようになりたいとは思いませんよ」

「ふむ……」

 女はしばらく紅茶をすすって、それからまた話しはじめた。

「我々はあなたの才能に期待しているのですよ」

「私にはバレエの才能などありませんが」

「違います。あなたには生死の境に立つ才能がある。普通の人間は生にもっと縋るものです。少なくとも一歩間違えて人を殺せるような状況にならないはずだ。そうでしょう? ガリーナさんはあなたのことを自動人形の振る舞いがとてつもなく上手だったと評していました。それにあなたは戦場でも非常に優秀な成績を残したとか」

 リュドミラはとてつもない不快感に襲われた。自分の過去を踏みにじられた気分で、もしここが戦場なら迷わず目の前の頭を撃ちぬいていたはずだと思う。しかし女の話にはどうしようもない説得力があることを、リュドミラは認めざるを得なかった。リュドミラは確かに戦場で輝いていたし、アレクセイも人形らしい振る舞いを評価していたのだ。

「ロボトミー手術自体はすでに行われてきたのですが、その能力を発揮できるかには大きな差があるのですよ。それは遺伝的なものもありますが、患者自身が機械的な身体にどれだけ寄り添えるかにかかっている部分が大きい」

 女は立ち上がると、こう言い残した。

「いつでも連絡をください。私たちは待っています」


 ロボトミー手術。これは核兵器と同じく戦時ロシアで秘密裏に行われていた研究の一つである。負傷兵という天然の被検体が多く発生したこの時期だからこそ進んだこの研究は、リュドミラの事件以降注目を浴びていた自動人形に乗っかる形で実現された。とはいっても人体と機械がなめらかに融合するようなものではなく、実装のレベルでみればあくまで別個体だった。その意味では操作ができる義足や義足といったほうが正しいだろう。

 瞳や内臓を置き換えることは当然厳しいが、手足はそうではない。適切な操作ができるのなら、生身の人間をはるかに凌駕することも可能だった。

 加えて、量子計算機がついにここで実を結ぶことになる。終戦直前に巨大な量子計算機がモスクワ大学に置かれて以来、各国はこぞってそれを模倣した。量子計算によって高速になされる「統計推測Artificial Induction」は多くの分野にゆっくりと影響をもたらした。統計推測による効率化が様々な基礎を押し上げると同時に、データ保持の必要性から電子機器の小型化に拍車がかかった。軽量で、人間の動きを補助し、ある程度の神経情報処理を行う。それはロボトミー手術のすべてに追い風だった。



 ガリーナの最後の公演があると聞いて、リュドミラは一年ぶりに外に出ることにした。ガリーナは結婚を期にバレエダンサーをやめることにしたそうだ。リュドミラがガリーナのバレエを見るのは数年ぶりのことだった。

 リュドミラがイーゴリに車いすを押すよう頼むと、彼は当然だと言ってすぐさま予定をキャンセルした。

「姉さん、ガリーナさんはどういう人だったの?」

「明るくて、とても良い人だったよ」

「その人と友達だったんだよね?」

「そう、友達だった」

「意外だな、姉さんはあまりそういう人と友達にならないように思ってたよ」

 図星を突かれたリュドミラは何も答えないことにした。少なくとも今の彼女にとってガリーナはかけがえのない友人であった。かつてガリーナのことを嫌っていたのは、他でもないリュドミラが未熟だったからだ。

 舞台の空気も何もかもがリュドミラにとって懐かしかった。観客席からの景色はあまり馴染みがなかったが、それでも彼女が当時を思い出すには十分だった。

 目まぐるしい技術発展によって社会は大きく変わったが、バレエの舞台に変化はなかった。強いて言えば演出技術が向上しているぐらいだろうか。ガリーナは当然脇役で、それもさほど目立つ役ではなかったがリュドミラは彼女をすぐさま見つけることができた。かつては自動人形のなかから動きだけでガリーナとユーリを見分けていたのだから、これくらいわけもなかった。

 彼女の踊り方は昔と変わらなかったが、昔よりも滑らかになっていた。それは主役の動きとの対比なのだとリュドミラは思った。実際、ガリーナは卒業してから脇役に徹するということをよく学んでいた。リュドミラは戦後にモスクワで会った時のガリーナのことを思い出していた。彼女もきっと諦めたのだ、と思う。だがそれはリュドミラのように刺々しい自己防衛の諦観ではなく、もっと前向きな諦めだった。

 ガリーナも長い時を過ごしたのだと、リュドミラは改めて気が付いた。それはもしかすれば、リュドミラよりもよっぽど長かったのかもしれない。


「リュドミラ!」

 公演が終わってしばらくたつと、ガリーナが出てきた。リュドミラが車いすに乗っていることは知っていたはずだが、それでもガリーナは少し悲しげな顔をした。

「ありがとう。イーゴリさんも」

 三人はゆっくりと歩き出す。車いすはガリーナが押した。最初に口を開いたのは彼女だった。

「どうだった?」

「よかったよ」「よかったです」

「ありがとう、それはなにより」

「ガリーナはずっとバレエやってたんだな、って思ってたよ」

「そりゃそうだよ。……リュドミラが居なくなって寂しかったんだから!」

 ガリーナは笑いながらそう言った。




 確かに息は上がるけど、前ほどじゃない。ここ最近のトレーニングと投薬でずいぶん肺活量も回復した。骨格が剥き出しになった手足はとうてい人のものではないけれど、私には似合っているのかもしれない。さすがにグロテスクだから、本番では一応隠すけれど。

 ステップを踏む。左足、右足、それから大きく飛ぶ。簡単に体を回せるようになるまでに、数カ月かかった。胴体に負荷がかからないように、なめらかに荷重を調整する。脚がずいぶん軽くなったから、とても高く跳べる。

 手術を受けたことはガリーナにはまだ伝えていない。まだ満足に動けない私を見たらきっと悲しんでしまうと思ったから。ユーリには今日伝えてきた。彼の十字架の前で上手に踊れたかは分からないけれど、きっと喜んでくれたと思う。一緒に踊ろうという約束は果たせなかったけれど、私はいつまでも覚えている。

 バレエの練習をするのは気分がいい。跳ねて踊って、開いて閉じて。本番は一ヵ月後だ。ステージといっても、私が踊ってガリーナが観るだけのものだけど。

 振り付けもタイトルも私が考えた。朝霧の隙間から照らされて、白くぼやけてしまう朝の空気。あのキャンプで見たハレーション。きっと、いつまでも忘れないだろう。


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ハレーション / SF Nagara(ながら) @b_6k_

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