縁算 / SF

Nagara(ながら)

縁算


(引用)

 かつてより豊穣・大漁が祈られてきた歴史の裏には、当然「後ろめたい」祈りも数多あったと思われる。しかしそれらの記録は残されるどころか、むしろ積極的に隠蔽されてきたと考えられる。

 その意味で縁切り神社を謳うものが京都に残存していることは特筆に値する。噂によればこの神社は極めて強く「効用がある」とされているが、これは果たして単なる偶然なのであろうか――つまり、本当に強い効果を持つゆえに存在が抹消されなかったのではないか。



 ユリは家庭内で父母が親しげにする様子を見たことがなかった。だから彼女は父母が本当は離婚したがっているものだとずっと思っていたが、それは半分しか正しくなかった。実際にユリの両親は夫婦という外面のために結婚したのであり、愛しあっているわけではなかった。国鉄の重役であったユリの父にとって家庭は外面に利用するもの以外の何物でもなく、母親もそのことを理解していた。だがそれは信頼しあっていないというわけではなく、ユリの両親は「互いのために無理に親しくなろうとしない」という選択をしていたのであり、その意味では夫婦間でも自分を偽ってしまう夫婦よりもむしろ良好な関係を築いていたともいえる。

 しかし幼いユリはそれを理解できなかったために、自らの両親の関係を最悪に近しいものだと考えていた。ユリは自分の存在が父母に苦労を強いているのではないかとずっと疑っていた。


 時は一九〇三年のことだった。高等女学校に噂は絶えないものであり、ユリもとうぜん噂というものの扱い方――つまり、真剣に扱うにはばからしいが真剣に扱わねば危険であるということ――を識っていた。もともと噂に興味のない彼女がそれらのふらついた言葉に執心することは一度たりともなかったが、しかしある時ばかりは違った。それはユリが十四歳から十五歳になろうとしていた秋のことである。

 縁切りの神社。

 ユリは縁切りという単語を聞いたとたん、自分のなかでまだ未分化だった欲求が結晶化してしまったことを切に感じた。ユリはずっと、自分が父母を留めるくさびになっていることから解放されたかった。父母の破局を願うことははひどく背徳的なことであるが、しかし止めようもなかった。ユリは自らの幼さを認めるやいなや、なりふり構わず噂の詳細を聞き出して翌日にはくだんの神社へと赴いていた。ほとんど突き動かされるようにして祈祷を済ませた彼女が母親が失踪したという報せを聞いたのはその三日後であった。

 ユリはまず、それが自分の行いによるものだと直感した。それから強烈な自責の念に襲われて、思わず父親の前で叫びそうになった。自分が縁切りを願ったばかりに取り返しのつかないことを招いてしまったという事実に打ち震え、ユリはその晩一睡もすることができなかった。

 翌日ユリが学校へと行くと、既にユリの母親が失踪したという噂が広まっていた。噂は真実であることもあるのだとユリは知った。


 ユリは顔も広かったために、彼女はしようと思えば誰にだって相談できた。それに彼女と親しかった友人はユリのことを深く気にかけていた。しかし結論から言えばユリが相談を持ちかけたのはただの同級生にすぎないミツだった。

 ミツの父は数学者で、彼女もその素質を大いに受け継いでいた。ミツは得てして孤立気味であったがそれは決して悪いものではなく、話しかけられれば応じるというだけのことであった。また彼女は顔立ちがどちらかといえば男子っぽく、密かな人気もあった。

 ユリが彼女に相談を持ちかけたのは、ミツが問題を解決してくれそうだったからというのもあるが、何よりも自身の矛盾した心情をありのままに受け止めてくれる人に他に心当たりがなかったからであった。

 ユリから事の一部始終を聞かされたミツはふうんと首を傾げた。

「そんなはずじゃなかった、ねえ」

「はい。私は決して、父母の不幸をお願い申し上げたつもりはなくて、しかし……」 

「不幸は願ったのだろう? だってきみは別れるようにって」

「そうではありますが……決してこのような形ではなく……」

「それはきみが悪い」

 ユリは何も言い返せず、ただ俯いた。

 ミツはそんなユリの姿を見ても動じることなく、普段の調子で言葉をつづけた。

「ひとまず、うぇる、でぃふぁいんど、じゃなかったのはとても悪い」

「うぇる、でい、で……ええと、失礼、なんと仰いまして?」

「うぇる、でぃふぁいんど」

「その、うぇる――が悪い、とは一体?」

「願いごとがあいまいだってことさ、きみが最初からもっと正確に願っていればこんなことにはならなかったかもしれないだろう」

 ユリはてっきり自分が叱責されるのかと思っていたが、どうやらミツにその気はまったくないらしく、代わりにふふんと得意げに鼻を鳴らした。ミツの興味はユリの願いが背徳的かはたまた非倫理的かといったところにはなく、彼女のいう「うぇる、でぃふぁいんど」であるかどうかということに向いているようだった。

「もう一度聞くけれど、絵馬にはなんて書いたのさ」

 ミツが鉛筆とノートを差し出してきた。


 『父と母の縁が切れますように』


 ユリが縁切りの神に願ったことをなめらかな字で書くと、ミツは呆れたような声を出した。

「これじゃあ神様も困るさ」

「そうでしょうか……」

「せめてこうじゃないと」

 ミツはユリの書いた字にぎゅっと傍線を引いて、下に乱雑な字で彼女のいうところの「うぇる、でぃふぁいんど」な祈りを書き始めた。


『父と母が次第に疎遠になりますように。ただし不幸には見まわれず、仲たがいもせず、またその他いかなる非常識的なこともおこらぬままに、父と母が別の場所で幸せになりますように』


「たしかに、不親切な書き方をしたことはそうですわ。しかし……」

「しかしもなにも、きみの文章じゃ不幸を願っているのか幸せを願っているのかわからないだろう」

 しばらくミツの話を聞いていると、ユリはなんだか本当に自分が適当な願いの仕方をしたのが悪かったような気がしてきて、相談が終わるころには「うぇる、でぃふぁいんど」な書き方をしていればもしや、と悔やんでいた。

「わたしは父母にせめてもとに戻ってほしいと思っていますわ。そのために私が少でもできることは何かありまして?」

「縁結びの神に祈ればいいだろう」

「縁結びの神様はその、私はあまり信用しておりませんの……。わたしは幼いころから父母の縁が良くなるよう祈り続けてきたのに、父母はずっと仲違いしたまま変わりませんでしたから」

 そういうもんか、とミツは頷いて、ではこれはどうだろうとユリに提案した。

「縁切りの神様に、縁切りとの縁を切ってください、とお願いするのはどうだろう」

 ユリはミツの機転に感心して、それから試しに願いを紙に書いてみせた。


『父と母と先にした縁切りのお願いの縁を切ってください』


「ミツさんはこれでよいと思いまして?」

「それだと"れふと、あそしえいてぃぶ"なのか"らいと、あそしえいてぃぶ"なのかわからないだろう――えっと、どちらの「と」が先に立つかわからないだろう。だから正しく書くのなら――」


『(父と母)と先にした縁切りのお願いの縁を切ってください』


 ミツはユリの筆を取ってしゅっしゅと少し不格好な括弧をつけた。ユリはその意味を理解するやいなや「確かに、その通りでしてよ」と納得した様子で頷いて、その日のうちにふたたび縁切り神社で願いごとをした。

 それから二日後、母親は突然ユリと父親の前に現れて一言謝ったのちに再び以前と同じ生活に戻った。ユリはそれから父親の顔が少し和らいだのを見て、この一見すると冷たく感じられる態度こそがこの家庭における信頼の形なのだと理解した。



 しばらくの時が経ったころ、珍しくミツの方からユリに話しかけてくることがあった。話を聞いてみれば縁切り神社に行きたいというのでユリは驚いて、ミツにも何か言うに言えない事情があるのだろうと慮っていたが、どうやらミツは縁切りの神様が願いを叶えることを利用して問題を解こうとしているようだった。

「もしも正しいならこれの縁を切って、そうでなければあれの縁を切って、と頼めばその問題が正しいのか間違っているのかがわかるはずなんだ」

「けれど縁切りの神様にそんなに難しいことが分かるものでしてよ……?」

「神様なんだろう、ならわかるはずさ。それに縁切りの神様の働きっぷりは君がよく知っているだろう」

 ミツはやってみる価値は十分にあるさと言って、二つの紐を用意した。それからそれぞれの紐を固く結んで、誰にも見つからないように別々に地面に埋めた。


『二つの立方数の和として表される立方数は存在するか、するのなら校舎裏に埋めた紐の縁を、しないのなら花壇に埋めた紐の縁を切ってみせよ』


 ユリはそれが何を意味するのかは分からなかったが、ともかくミツにそういわれるがままにそう書いて奉納した。ミツはこれですごいことがわかるぞと意気込んでいたが、しかし何日経てども紐は二本とも固く結ばれたままだった。

「まあ、そううまい話はないか」

 ミツはそれですっかり縁切り神社に興味を失くしてしまったが、しかし神様に願いを聞き届けてもらったユリとしては釈然としない気持ちが残っていた。ユリは神様を試すから悪いのだと、こんどは何も条件を付けずに紐の縁を切るようにと書いた。そうしたらたちまち地中に埋まっていたはずの紐は解けてしまったのである。

「きみがほどいたんじゃなくて?」

「そんなことありませんわ! ミツさんは神様を試すような真似をするからいけないのですわ」

 ミツはそこまで言うならやってやろう、と次のように願った。


『一と一の和は二か。二なら紐の縁を切ってみせよ』


 ユリもまさか神様が簡単な計算すらできないとは思っていなかったので、これなら紐は解けるだろうと考えていた。しかし意外なことに紐はいつまでたってもほどけなかった。ユリはそんなはずはないともう一度同じ願い事をしたが結果は変わらなかった。ミツもこれは少し予想外だったようで、一体どうなっているんだと算術以外にも有名な文学などから簡単な問題を願いに書いたが、やはり神様は何かしらの問題を出されるとたちまち願いを叶えられなくなってしまうのだった。

 それから二人はいくつもの願いごとをした。ミツは縁切りの神様を利用するために願いごとをしていた一方で、ユリは縁切りの神様が算術すらできない存在だと信じたくないがためにあの手この手を試していた。結果として、ただ単純にこのようにしてほしいと二人が願ったものはことごとく叶えられたし、一方で少しでも考えるべきことが生じたのなら願いは一切叶えられなかった。

 その過程で二人は廃校の危機を救い、警察に犯罪者を捉えさせ、貧困にあえぐ家族に恵みをもたらし、教師に少しのいたずらをした。しかし二人は願いを重ねるたびに、縁切りの神様の行動原理が人間とはまったく異なるものであると痛感せずにはいられなかった。神様は「ならば」という言葉を解さなかったし、願いごとの叶え方は実に乱暴なことが多かった。しかし願いの叶い方は不気味なほど明瞭で、終わってみればつねに最短距離で願いが叶えられているように感じられたのだ。廃校の危機は責任者の死によって解決され、犯罪者は警官に一目惚れし、貧困家庭は資本家にその身を捧げ、生徒に怒鳴る教師は喉を火傷して喋れなくなった。

 神はきまって優しいわけでもなければ意地悪なわけでもなく、人の心も常識も論理も解さなかった。一切の癖も無ければ法則も目的もなく、しかしただ呼吸をするようにして願いを叶えるのである。ユリには願いをするたびに神という存在に巨大な空洞を感じるようになった。

 そうしてミツとユリが出した結論としては、神は思考をしない――つまり神はただそこに在って、これをこうしてくださいという願いをただ叶えるだけの存在であるというものだった。

「神様は本当に考えを、いえ、思考というものを持たないのでしょうか」

 ユリは何度目かもわからない質問をミツにした。

「そうとしか思えないだろう、神様が一と一の和も分からないなんてことがあってたまるか。神様はそろばんをはじくように願いをかなえることしかできないのだろう」

 ミツは手元のそろばんをかたかたと動かしながら言った。ユリが「まさかそんな、そろばんなら私たちもはじけますわ」と言い返すと、ミツは手を止めずに答えた。

「たとえ話だよ、なにも神様が本当にそろばんをはじいているわけじゃないだろう。神様にとって願いをかなえることはそろばんをはじくように簡単なことなのに、何を願うかは決められない。それはそろばんの最初の配置を決めることができないということさ。そろばんの配置を決められなければ、そもそも一と一の和は計算できないだろう?」

 誰も神の御心を知らないのは、実のところそれが欠如しているからではないか。二人の間でそれは確信めいたものになっていたが、それを誰かに説明することはなかった。神の底を見てしまった二人はやがて何かを願うことはなくなり、また以前のように女学校のなかで噂にゆられる生活へと戻っていった。



 高等女学校を卒業した後の女子学生は大きく二つに分かれる。つまり嫁ぐか、嫁ぐための準備をするかである。中には卒業以前に嫁ぐため中退する者もいる。一方で縁談が難航するものもいるが、ユリの場合は目立った障壁もなく話がまとまりつつあった。その点で言えばミツの縁談は問題だらけで、彼女は亡くなった父と同じく数学をするのだと言って聞かなかった。ミツの母親は彼女に振り回されてずいぶんと苦心しているようだった。ユリ、ミツ十七歳のことであった。

 ユリもそのことは噂に聞いていて、しかしミツの前で縁談の話をするのは気が引けたのでいつもは黙っていた。しかしついに強制的に婚約が成されようとするとミツは凄まじい剣幕でそれを拒否し、相手方を怒らせようと口汚く罵って家を飛び出した。ユリはひとまず一晩ミツを家に泊めることにしたが、そこでふと縁切り神社のことを思いついた。

「こうなれば、ミツさんと婚姻の縁を切るようにお願いする、というのは――」

「それだ!」

 二人が最期に縁切りの神様に願いごとをしたのは実に二年以上も前のことだったが、縁切りの神様は相変わらず無機質に願いを叶えた。その無機質さゆえにひどく痛手を負うこともあったが、とにかくミツは満足気だった。しかしそれも束の間、いよいよもってミツが縁談のあてもないまま高等女学校を卒業するとミツの母親は焦ったのか新たな縁談をいくつも見つけてきた。そのたびにミツは縁切りを願って、ということを繰り返すうちにどこかの願いごとによってミツの母親は精神を病んでしまった。四六時中ミツにつきまとう母親に耐えかねたミツはふたたび家を飛び出してユリの家へと転がり込んだ。

「どうしたものか、ぼくはやはり嫁がなければならないのか」

「もちろん、そうすることができれば……しかし……」

 一方のユリは縁談が順調に進んでおり、すでに一週間後に婚姻を控えていた。その手前「婚姻などしない方がよい」とも言いづらいし、しかしミツに向かって花嫁になれとは口が裂けても言えなかった。

「もし結婚もやぶさかでないというのでしたら、良い人との縁を願うことくらいはしてもよいと思いますわ」

 ミツはひらひらと手を振ってこたえた。

「母上があまりにも可哀そうでね、いちど縁切り神社で願ったんだ。"(良い人と私)と縁が切れていることの縁を切ってください"、と」

「あら、もう願っておられましたのね」

「最初は優しいお婆さんと知り合いになった。だから"男""結婚"ということばを付け足したら次の縁談が舞い込んできて、けれどその男とぼくは相性が悪かった。どんどん条件を加えていったが、やっぱりどうしても上手くいかない。すごく変な話だろう? たぶんぼくが思うに、書いた条件を満たす人間を用意すると、そのぶん合わないところも多くなっていくんだ。神様は書かれなかったことは気にしないみたいだからね」

 ミツはぐったりとうなだれた。

「縁切りの神様もいじわるなものだな、直接教えてくれればいいものを」

「縁切りと縁を切る、と願ったときのように何かないものでしょうか……」

「無理さ。"くろーずど、くえすちょん"と"おーぷん、くえすちょん"の間には大きな壁があるのだから」

 ミツに無理と言われてしまうと、ユリは黙りこくるしかなかった。ミツが無理というときは決まって、それは文字通り不可能なことなのだ。

 ついに困り果てたミツは、きみを見ていれば自分も嫁ぐ気になるかもしれないといって、婚約の場に忍び込みたいと申し出た。その申し訳なさそうな顔を見てはユリも断ることができなかった。


 一週間が経ち、ユリの婚約は予定通り行われた。しかしその場で何気なく発せられた一言がミツに衝撃を与えることとなった。それはユリがしばし離席したときに、花婿がふと独り言のようにつぶやいた言葉だった。

「――本当にいいのでしょうか、なんだか怖いのです。そろばんのように、まるでみたいに、何もかもが進んでしまって、そこに偶然なんてないように」

 それはミツの脳内にあったひとつの構想を貫くようにして突き刺さった。給仕の恰好をして忍び込まされていたミツは自分の役割も忘れて立ち尽くし、ただ自らの頭のなかに訪れたものについて考えていた。

 そのときミツが考えていたのは婚約相手や結婚生活といった言葉では収まりきらないほど大きなもの、それらよりもはるかに大きくて、かつそれらすべてを包括する「すべて」を解決する方法だった。


 そろばんの動作はふたつ。珠をはじくか、それとも全体を傾けるかである。その一動作一動作はすべて当たり前であって、それを積み重ねることによって計算が完成する。ミツはここに極めて非自明な跳躍を見出したのである。

「そろばんの手順の"種類"は数えるくらいしかないだろう、けれどそろばんが行える計算はそんなのよりはるかに多い。無限さ、無限なんだよ!」

 婚約を終えたユリを出迎えたのは、興奮を抑えきれない様子のミツだった。

「だからできるはずなんだ。"くろーずど、くえすちょん"だけを使って"おーぷん、くえすちょん"を解くことだって!」

 ユリにもそろばんの心得は多少だがあった。ミツに言われるままに手を動かしてみると、確かにとても少ない種類の行動だけで計算をしていることに気づいた。とても大きな数の計算においてもユリの手がするべき行動は常に自動的に決まっていて、それはとてもとても小さい範囲の珠によって導き出される。ユリがどれだけ大きな数を扱おうとも、覚える必要があるのはいくつかの簡単な条件とそれに対応した手の動きだけなのだ。確認するべき列の周囲だけを見て、もしもそれが条件を満たすのなら珠を動かす。そうでないのなら、また次の列を確認する。これはどれだけ計算が複雑になったって変わらない。逆にそれを可能にするのがそろばんなのだとミツは主張する。ユリにはそこまでしか分からなかったが、ミツは何かそれ以上のことを考えているようだった。

「これはぜんぜん当たり前なんかじゃない。ぼくらが信じられないくらい大きな計算をするために必要なのは、たった少しの規則だけなんだ! 今まで、そろばんを弾くのはぼくたち人間だった。だからそろばんを弾くことが計算をすることだと思い込んでいた――けどそうじゃない! どうして誰も気が付かなかったのか、今となってはとても簡単なことに思えるのに。つまりだ、つまりだよ、和でも差でも積であっても、計算をすることは規則を決めることであって実際に手を動かすことじゃないんだ! そろばんをはじくことは計算でもなんでもないってことさ!」

 ユリは初めこそ「そろばんをはじくことは計算ではない」という言葉の意味が理解できなかったが、ふとユリは自分がそろばんを弾き終わったあとに「どのようにそろばんを弾いたのか」を覚えていないことに気付いた。その代わりに思い出せるのはそろばんの規則と、それから何を計算したのかということの二つだけ。ユリはその時、ミツが何を言わんとしたのかについて確かな理解を――つまり計算に必要なものは規則と最初の配置だけであって、残りはそれから自然に定まる作業でしかないという納得を――得た。


 ミツはそれから縁切りの神様のもとを訪れてはいくつかの願いをし、家に戻っては何本もの紐からなる巨大な網のようなものを作るということの繰り返しに明け暮れた。その網のあまりの巨大さは街中の噂を呼び、人々はいよいよ親子そろって精神がおかしくなったのだと揶揄していたが、ミツはつゆほども気に掛けていなかった。

 一方のユリは来たる独り立ちの準備をしながらも、時折手が空いた時はミツの手伝いをしていた。その網――ミツはそれを神網ネットワークと呼んでいた――はいわば神様のための巨大なそろばんであり、網目を結うことと解くことにより計算が行われるものだった。

 ユリが東京へ旅立った後もミツは神網ネットワークを作り続け、それは間もなく完成した。完成した神網ネットワークは端的に言えば立体的な編み物であり、広げるとおおよそ一辺がミツの身長の十倍ほどもある大きさであった。内部までびっしりと紐が結われており、絡まった網目はさながらひとつの生命体を彷彿とさせた。

 ミツはそれを家に張り巡らせ、それから縁切りの神社で神様に手続きを提示した。神網ネットワークの行った最初の計算は単純な足し算で、ミツは結び目を確認して正しい答えが得られていることを確認すると、次にもっと煩雑な手続きを必要とする問題を試した。商、素因数分解も上手く行っていることを確認すると、ミツはこの"そろばん"を用いて数学のいくつかの未解決問題を解決した。

 計算をしている最中の神網ネットワークの様子はさながら脈動しているようであった。結び目が解けたと思えば隣の結び目へとそれが連鎖し、それら個々の変化により全体がうねるように変化していく。あちらこちらが結ばれるようにして縮こまったと思えば途端にすべてがバラバラの糸になって崩れ落ちたり、ミツはその動きにすっかり魅入られ、計算をしている最中はずっとその動きを眺めていた。

 しかしこの神網ネットワークですらも、ミツが当初考えていた「花婿探し」のような抽象的なシミュレーションことをするにはあまりにも小さすぎた。神網≪ネットワーク≫の結び目は高々一万個程度であり、ミツが望む計算をしようと思えばざっと一兆を超える結び目が必要であった。それは物理的に不可能だったが、ミツにはとある構想があった。

 


 ユリは花嫁として申し分ない生活を送っており、ユリ自身もそれに満足していた。それは花婿も同じであったし、二人の結婚生活は波風の立たないものであった。一年また一年と時を重ねる中で、しかしユリには時折不安になるときがあった。それはかつて縁切りの神に願いをしていたころから燻っていた、悩みというにはあまりにも馬鹿げた考えだった。神が思考をもたない空虚な存在であるのに、どうして自分がまったく空虚でないと言えるのだろうか?

 ユリは自分でも知らないうちに、縁切りの神に祈った経験がどうしようもなく自分を変容させてしまっているのだと気が付いた。ユリは自分自身とそろばんがどうして異なるのかをもはや説明できなくなっていた。義母や姑に小言を言われるときでさえ、ユリは周囲の人たちが空虚な存在でないとどこかで安心していた。

 ある日ユリは、自分が言いようのない衝動に襲われることを感じた。目的さえ定かでないのに今のままではいけないような気がして、家へと向かう足は気が付けばまったく知らない土地へと向かっていた。しかしユリの足取りは確かなままで、食べるべきものも、話すべき内容も、泊まるべき場所も自明の理に思えた。ユリは自分が縁切りの神様に願われたのだと直感した。

 これはユリに限ったことではなく、このとき同時に世界中の人間がまったく同様の衝動に襲われてまるで別人になったかのようにさまよい始めた。しかし世界は何一つ混乱をきたすことなく、完璧な調和をもって歪な動的平衡へと落ち着いた。

 人々はあたかもそうであったかのように動き始め、その中でユリは自分自身に何が起こっているのかを観察しようともがいていた。そうして二日が立った後、突如としてその秩序だった大混乱は収束した。そうするとこんどは「目覚め」た人々によって新たな大混乱が発生した。誰もが自分の身に何が起こったのか理解できず、ただただ途方に暮れていた。誰しもが二日間の記憶を曖昧にしか持っていなかったし、何をしようとしたのかも思い出せなかった。

 ユリは自分の意思が自由になるやいなや生まれ育った京都へと向かい、ミツのもとへと駆け出していた。ミツの家へとたどり着くと、その変わりように圧倒された。ミツの家からは、外に向けていくつもの紐や棒が突き出ていた。それは内部の神網ネットワークに直接つながっており、神網ネットワークは今まさしく脈動のさなかにあった。

 ミツはその中心部に佇み、ひたすらに網目を観察しては記録し続けていた。周囲を伸び縮みする神網ネットワークに囲まれたその空間は、幽世のように不安定で、しかし世界で唯一この神網ネットワークがもたらす計算の波から逃れうる場所のようにも見えた。

「何をしたのですか」

 ユリが問いかけると、ミツは作業を止めずに答えた。

「計算をしたのさ、とても大きな計算を。ぼくたちがそろばんになってね。一人ひとりが珠となって、そのかかわりあいに規則を定めた。人と人との関係をあやつるのは縁切りの神様の本領だろう?」

「ではそれで何を計算したのですか」

「ぼくの未来さ」

 ユリははっと息を呑んだ。その間にもミツは記録を続けている。ミツはいままさに自分の未来を知っているのだと思うと、言いようのない感情に襲われた。沈黙のあいだにも神網ネットワークの脈動と記録は続いていたが、次第にその動きは弱まってついには完全に停止した。

「どうやら、ぼくは計算の一部になるみたいだ」

 ミツは立ち上がってユリに向き直った。

「他の人々と一緒に、ぼくは何か途方もない計算の一部となって動き続けるみたいだ。もちろんそれでも世界は普通に回っていく。ただそれが計算の過程となって、人々は計算に支配されて動くことになるだけで」

 それは暗にユリの未来もそうであると告げていることに等しかった。遠くない将来、ユリはこの二日間と同じように、意思のないままに意思をもって自明の裡に行動をするようになる。今回は二日で終わったが、次はいつ終わるか分からない。普通に考えれば恐ろしいはずなのに、ユリはどこか安心している節があった。もしも人々がみな計算の徒になれば、もはやユリが自分について悩む理由はなくなるのだから。ユリだけがそろばんであって、他の人々はみないきいきとした人間であるという根源的な恐怖も抱かなくてよくなるのだから。

「そうですか」

「そうなりたくないのなら、ユリはそのままにしておくことだってできる」

「いえ、必要ありませんわ」

「そうか」

 二人はそのあとしばらく語らい、そして別れを告げた。次に二人が会えるかどうかは誰もわからない。縁切りの神様だって知らないはずだ。なぜなら神様は意思を持たないのだから。

 ミツもユリもそのあとの記憶を持たない。誰しもがどうやってそろばんをはじいたのかを覚えていないように。

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