第3話

 およねは、この春、十六になった。

 さなぎが蝶に変わったようで、縁づくにはふさわしい。


 「あの子は女だてらに男みたいな気性やろ。どこまでも自分の思いをつらぬこうとしよる。街中に出たらひとの目を引くような年頃になってしもた。わるい虫がつかないうちにどこぞ良縁でもあれば、はように嫁がせたいものや」

 おようの父、この屋の主人吉兵衛から、嘉兵衛はそんなふうに、本音を聞かされたことがあった。


 嘉兵衛が腕を組んでの思案中、小番頭の与助が、ふいに声をかけてきて、

 「どないしましょ。大番頭はん、上ものの小袖が欲しいって、あちらのごりょんさんが言うてはりますけど」

 「ああ、そうか」


 嘉兵衛は暖簾をそっと左手で上げ、ちらりと客の品定めをした。

 「わかった……。おかみさん、ほなら、またあとで」

 「あいよ。いっとくれ」

 嘉兵衛はおようのほうを向いて、小さくかぶりを振った。

 彼は腰を低くし、ハエが食べ物に群がっては両足をすり合わせるごとく、両手をこすり合わせ、足ばやに客の女のもとへと向かった。


 ふいに、おかみの人差し指が、鋭く痛んだ。

 「あちちっ、なんやのこの猫。なんでかむのよ」

 おようはそう言うなり彼女の手にじゃれつき、あまがみしていた、たまの頭をぴしゃりとぶった。

 負けじと、たまは両脚の爪をたて、盛んに蹴った。


 たまを抱いた両腕に、おようは我知らず力を込めていたらしい。

 「おまえまでわての言うこと聞かへんのかいな。おお痛い。もう食べるものお前にはやらん。自分でさがしといで」

 たまは畳の上にそろっと放り出された。


 およねの姉きぬがトントントンとかろやかに二階から降りてきた。

 「お母ちゃん、なんやの。上にいても、よう声聞こえるよ。お客さんの手前もあるし、もう騒がんで」

 「あのな、およねがな」

 「どないしたん」

 「まだ帰ってきいひんねん」


 「へえっ、なんやろな。いま時分まで……。せやけどあの子ももう、子どもやあらへんのやから、ほっといたらええ。じきに帰ってきよる。それよりお母ちゃんの手、それなんやの、紅くなっとるやないの」

 おようの手の甲にできたみみずばれ。

 その傷口から赤い液体がにじみだしていた。


 「あれっ、いつまでも痛いと思うたら、血が出てきょったわ。猫までわたしのこと、こけにしよって……」

 おようの声がしだいに大きくなる。

 いきなり、おきぬがおようの着物の袖口をつかんだ。

 「お母ちゃん、こっちへおいでんか。はよ、手当せんと」

 「ああ……」

 「よっぽどになったら、わたしがおよねをさがしに行くから」


 おきぬは妹とはちがって、何事にも考えがいきとどく。

 おようを畳の上にすわらせ、生のよもぎの葉っぱを手でもんでから、洗いざらしの白絹の切れはしをぐるりと巻いた。

 「さあ、これで血止めになるし」

 

 階段がぎしぎし音を立てていたかと思ったら、腕組みして暗い顔の吉兵衛がふたりの前に顔を出した。

 

 おようが吉兵衛をみとめて、

 「あれっ、あんた。よう帰っておいでで。いままでどこぞに行っておいやした」

 「どこへって、なんぞこうてくれはるとこやったらどこへでもいくのが、あきんどいうもんや。なあ、おきぬ」

 おきぬが長い首を振る。


 「あんた、およねがな……」

 「下で聞いた。あんまり心配せんでええ」

 「ちょっと行って来るて、そう言うて出て行ってそのままや。ほんまあの子はどこぞに行ってしもたんやろ。道に迷うてうす暗い露地をうろうろしたり、ひょっとして誰かにかどわかされたりしてへんかと思うと……」


 客の相手を終えたのだろう。

 嘉兵衛が階段の踊り場に顔を出した。

 「旦さんにまでご心配かけましてすみません。いま、他のもんに、こいさん探させてます」

 「そうか。お前にまで心配かけてな、うちうちのことで。あれは見かけによらず、しっかりしとる。そのうち平気な顔して帰ってきよる」


 おようはいつの間にか正体をなくしていた。

 「せやろか。だったらええのんやけど……。なんやこんなもん。こうやってとってしもうたる」

 誰に向けての怒りだろう。

 せっかくのおきぬの手当の白絹が、畳の上で、ひらひらと舞った。

 おようの両目にみるみるうちに涙の粒がたまりだした。 


 

 



 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

巴波川・恋の舟歌  菜美史郎 @kmxyzco

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る