R・S・P・T・E
とある老齢の男がピアノを購入した。
彼は若い頃から才能を開花させ事業を展開、成功し財を成し、
更には名声も既に存分に手中に収めている。そんな彼の唯一の趣味が
ピアノだった。あくまでも趣味の領域ながらその演奏技術は低くは無い。
だが今の今まで所謂グランドピアノは購入しなかった。ごくごく家庭用向けの
アップライトピアノに留めていた。それでも特段不満は無くたまに好きな曲を
演奏しては楽しみ、新たな曲に挑戦するのが心地よかったのだが、彼が70歳に
なった時に転機は訪れた。良くない転機と言おうか、、、、
経営している自社の定期健診でソレは知らされた。癌が見つかったのである。
状態は早期発見ともいかず、末期でもなかったのだがその後の体調は
想像以上に芳しくない。手術を行った後はそれなりに辛さは軽減された感は
あるが所詮、専門外の事は医者に頼るしかないのだが、物理的な、論理的な
モノではなく直感的に自身の死期が近いのを何となくだが感じたのである。
さて、そうなると自分に残された時間は多くは無い。
そして初めて自身に問うたのだ。限りある時間を消費するに足る自身の
これからの行動は何なのだ?その時ふと思ったのだ。
今まで特に不満を持っていなかったが自身への集大成として、冥土への土産として
今こそ最上級のグランドピアノを購入し演奏してみたい、そう思ったのだ。
私自身著名な演奏家でもなければ音楽家でもない。が深層心理が訴えかけたのだ。
現在の暮らしと言えば子供たちも、とっくに成人し実家を巣立ち、4年前には
妻に先立たれた今、最期の買い物位余裕を持って出来る財力はある。
それと同時にただグランドピアノを購入して演奏するだけではダメだ。
せっかく高額な金をはたいて買ってもあの世には持ってはいけない。
なので私自身が命尽きる時と同時にピアノも朽ち果てなければ、と考えた。
では方法はどうすればよいのか?
そう彼の自宅の庭の中ほどにピアノを置く。雨ざらしに日々、演奏し、そして
少しずつ朽ちていく様を観察しようではないか?そう決意した。
この事は親族には知らせず、日記などを書き記した上で伝える事でよいだろう。
子供たちも最後のワガママくらいは聞いてくれるだろう。
さっそくピアノの物色に入り一目惚れとも言うべきピアノを見つける事が出来た。
NADASIN BELSTAIN という日本のメーカーのピアノで、マスターグレードの
最上級のグランドピアノだった。一般的なピアノと言えば外装はブラック。
所謂ピアノブラックという塗料で塗られるのが一般的だろうが
ナダシン・ベルスタインの外装は赤みを帯びた漆が塗られ刻印やブランド名の部分は
煌びやかな螺鈿が施されさりげなく日本の和を感じ取る事が出来る。
実に黒とも朱とも言えない絶妙な色合いなのである。
まさに一目で心を奪われたのだ。自分にはかなりの贅沢品であるが三途の川の
船賃としては破格だろうしいいだろう。
かくして彼とナダシンのピアノとの生活が一日、、また一日と過ぎていく。
雨の日も、風の日も、嵐の日も彼は毎日庭に鎮座したピアノを演奏し続けた。
彼が想像した以上にピアノは雨ざらしにも関わらず壊れもせず共に歩んでいった。
流石に漆塗りの外装は痛みもしたが音には影響は無い。
そして二年と少し過ぎた頃、病は落ち着いてはいたが迎えが来たのである。
その朝は前日からの台風で雨風が強く普通に考えると外での演奏などもってのほか
であるが彼は朽ち果ていくピアノに向かい最後の力を振り絞り演奏した。
演奏し終え玄関に向かう所で彼は息を引き取った。
その刹那、雷鳴が轟き空が閃光を放った瞬間、
ピアノに落雷しナダシン・ベルスタインも粉々に砕け散った。
奇しくも彼が最後に演奏した曲名は水たちへの鎮魂歌だった。
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