第15話 涙
朦朧としたまま、クリスマスイブイブの朝が来た。
窓の外も、部屋の中も、空気は重く冷えていたが、胸板に嫌な寝汗をかいていた。
数彦は窓を開け、灰色の街を見下ろした。空は相変わらず鉛色に垂れ込め、ただでさえ陰鬱な数彦の心をいっそう息苦しくさせた。
窓を閉めても、息が白かった。スチーム管の調子を見ると、いつもより蒸気の圧力が低かった。シャワーはいつもどおりに熱めのお湯が出たので、ひと浴びした。
スチーム管でほかほかにしたバスタオルで身体を拭いていると、全身から立ち上がる白い湯気が、天井に上がっていった。
その様子を眺めながら、あの夜のKAKERAを思い出していた。もう二度と、あんな発作が出ないことを祈った。
シャワー室にしゃがみこんだKAKERAは、壊れてしまった人形でしかなかった。誰にも修理できない、糸を無くしたマリオネットだった。
着替えてから、やっと動き始めた数彦の頭が、朝食を探せと命令した。
フランスパンの切れ端と、ショコラの残りを二粒見つけた。さらに脳の活力を呼び覚ますため、熱い飲み物でも淹れようと、お湯を沸かしはじめた時、携帯電話が鳴った。
見慣れない携帯の番号だった。理瑠の顔が脳裏を過ぎったが、KAKERAのこともあったので出た。
「もしもし」
「つながったわね」
理瑠だった。
「くだらない話なら、切る」
「切って後悔するのは、そっちよ」
理瑠の声が、いつもとは違い、低く落ち着いていることが気になった。
「手短に言ってくれ」
「あの子のこと」
KAKERAの顔が浮かんだが、敢えて聞いた。
「あの子じゃあ、わからないな」
「今のあなたのお気に入り。変な名前の子」
「KAKERAのことか」
向こうで、笑ったのがわかった。
「何がおかしい」
「あなたの真剣な声、久しぶりに聞いたから」
数彦は、理瑠が自分を焦らすつもりでいるとわかった。慌てふためく姿を見て、溜飲を下げようというのだろうかと、数彦は唇を噛んだ。
「KAKERAがどうかしたのか」
「あら、呑気なのね。それで、いいのかしらね」
「何の話だ」
「あなた、何も知らないじゃない、あの子のこと」
「どんなことだ」
「いろんなことよ」
埒があかなかった。数彦は、いらつく自分を押さえながら言った。
「どこかでじっくり話をしようか。どこがいい」
「嫌よ。会いたくない」
理瑠の返事は素っ気無かった。
「どうしたい。何がしたい」
向こう側で、また笑い声が聞こえた。それから、また、低く落ち着いた声が聞こえた。
「お葬式があったの」
「誰の葬式の話だ」
「私の、大切な人」
「それがKAKERAと関係あるのか」
「あなたは、大切な人の葬列で、何を考えるのかしら。いつもみたいに、何も考えずに、ただ歩くのかしら」
「何の話だ」
「あなたも知っているはず。見たでしょ、お葬式の列」
数彦は、先日、下の雪道で見た葬列を思い出した。
「あの、赤い花は」
「思い出したのね。お葬式」
「あの葬列に、お前も並んでいたのか」
「そうよ。大切な人の、お葬式だもの」
「KAKERAと関係のある話なんだろうな」
理瑠は、あくまでも自分のペースで話を進めるつもりらしかった。数彦の質問はすべて無視した。
「あなたにも、大切な人はいるのかしら。あの子がそうなのかしら。あの子の棺の後ろを歩きながら、あなたも泣くのかしら」
「やめろ」
「私が死んでも、あなたは一欠けらの涙さえ流さなかったでしょうね。でも、あの子のためなら、泣けると言うのね」
何を言っても、理瑠が興奮するだけだと悟った。返事をせず、ただ、聞くだけにしようと決めた。
「死んだ人は、みんな、無に還るのかしら。愛されていた人も、誰からも愛されなかった人も、死ねば、同じ無にしかなれないのかしら。それって、公平なのかしら。不公平なのかしら」
考えたくもないのに、数彦の脳裏には、KAKERAの葬儀の様子が、映像となって浮かんでいた。
先日見た、あの葬列のように、KAKERAの軽い身体を収めた棺が、多勢に担がれて、雪の街を進んでいく。
「あの子は、死の匂いがするわ。どうしてから。まだあんなに若いのに。どうしてだと思う。あなたには、わかるのかしら」
「あいつは、俺たちより、もっと重いものを背負っている。茶化す話じゃない」
「重い荷物を背負って坂道を歩くのが人生って言ったのは、誰だったかしら」
「確か、徳川家康だ」
「ああ、そんな気がするわ。信じてしまいそう」
理瑠の声が楽しげに弾みだした。
「だとしたら、家康って人、つまらない人生を生きていたのね」
やめようと決めていたのに、思わず、口を挟んでいることに気づいた。とまらなかった。
「家康は天下人になった。天下をとっても、つまらない人生か」
「天下なんて、興味ないわ」
「お前はそうなんだろうけどな」
「私が欲しいのは、愛、だけ」
話が少しもKAKERAに近づかなかった。もう二度と口は挟むまいと決めて、数彦はため息をついた。
「家康って人は、本当の愛を知らなかったのね。知っていれば、重荷なんて、感じないもの。坂道なんて、思わないもの」
KAKERAの人生の、急な坂道のことが思い浮かんだ。華奢な身体を押しつぶしそうな重荷を想像した。
数彦は、自分には耐えられないだろうと思った。ましてKAKERAはまだ、十年ちょっとしか生きていないというのに。
「ネズミの話も聞いたわよね。しかも、あの子のストーリーは、バッドエンドなの。可笑しいわよね」
携帯を持つ手が、じっとりと汗ばんでいるのに気づいていた。理瑠がKAKERAと話をしたことは間違いないと思った。もう、我慢が出来なかった。
「KAKERAに、何を吹き込んだ」
返事はなかった。自分の荒い息と、向こうの含んだ笑い声だけが聞こえていた。
「おい。あの子に何を言った。何をした」
「あの子のことには、そんなに真剣な声が出せるのね。私のためには、一度も出したことのない、声。いい声、だわ。私の愛した声。もっと聞かせて」
「おい、答えろ。あの子は今、どこにいる」
「降りしきる雪の中で、雪の女王に抱かれるのがあの子の夢なのよ。でもそれは、あなたには言えなかったんですって。あなたの存在は、あの子に、死は罪なのだと気づかせてしまった。自ら選ぶ死は特に罪深いものって。
わかるかしら。私の言っていること、どこか、可笑しいでしょう。でも、可笑しくてちょうどいいの。あなたには、永遠に理解できないでしょうけど。あの子のことは、もう、どうでもいいの。
ショッピングまで付き合ってあげたんだし。ふふ、変な子よね。この先、どう育つのか、末恐ろしいわ。そうね、あなたも、これからどうなるのかしらね。考えるだけで、馬鹿馬鹿しくて、たまらないわ」
笑い声が響いてきた。いつまでも、終わらないのではないかと思うほど、異様な高揚感に満ちていた。
「いい加減にしろ。今から話をしよう。どこから携帯をかけているんだ」
突然、笑いが消えた。
「二度と会うことはないわ。さようなら」
「おい。もしもし、もしも」
一方的に、電話は切られた。携帯を握り締めたまま、数彦は断ち続けていることしか出来なかった。
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