第14話 烙印
数彦のクラスメイトたちは、クリスマス・イヴの前日のことをクリスマスイブイブ、その前日をクリスマスイブイブイブなどという、わけのわからない呼び方をした。
どう呼ぼうと、数彦にとっては今年最後のキャンパスで過ごす日、でしかなかった。それがイブイブイブであっても。
あれきり、理瑠の姿をキャンパス内で見かけなくなっていた。それが却って、不気味だった。何気なく、瑠璃の友人に消息を探ってみたが、誰も知らなかった。
数彦はクラスメイトと、形ばかりの別れをかわし、キャンパスを後にした。
彼らはクリスマスの翌日の便で、故郷へ帰ると言っていた。学生の多いこの街は、クリスマスを境に、人口が半減するのではないかと思った。
学生がいなくなると、「天球儀」も冬期休暇に入るのが毎年のことだった。今年の冬を、この街で越すことに決めた数彦は、最後の最後まで「天球儀」を活用しようと決めていた。
キャンパスからの帰りに「天球儀」に寄って、その話をマスターにした。
「年末は、クリスマスの翌日から店は閉めて、運行儀の大掃除と整備だ。それを手伝ってくれるんなら、バイト代替わりに昼飯をおごるが、どうだ」
渡りに船と、数彦は、二つ返事で引き受けた。
午後のケーキセットを堪能しながら、空模様を見た。ここ数日、低く黒い雪雲が上空を通り過ぎてゆく。それなのに、雪は一片さえも降らさなかった。
まるで、雲か、もしくはその上の雪の女王が、何かのタイミングを待って、じっと我慢しているような気さえした。
雲の流れを眼で追いながら、KAKERAのことを考えた。
パパはもう戻ってきているのだろうか。KAKERAから聞いた予定では、昨日には戻ってきているはずだった。
パパはもう、ネズミに操られてはいないだろうか。それが一番の気がかりだった。
すっかり治り、元の優しいパパに戻って、KAKERAに優しい笑顔を見せているのだろうか。そうであって欲しかった。
KAKERAの背中の烙印が増えることだけは、絶対にあってはならなかった。
もし、そんなことが起きてしまったらどうしたらいいのだろうと、ぼんやり考えた。そんなことを考えてもいけないとは思いながらも、まさかに備えて考えずにはいられなかった。
部屋に戻る遊歩道でも、そのことを考え続けていた。
いい考えが浮かぶどころか、同じ発想がぐるぐる回るだけで、何も考えていない方がましだった。考えすぎて、道端に残っている雪に足を四度もとられた。
この間の積雪は、気温の低さと薄暗い天気のために、融けずに今も残っていた。今回の雪の女王は、思いのほかしつこい性格のようだと思った。
部屋の鍵を開けた時も、コートを脱いで着替えた時も、お湯を沸かした時も、まだ同じ考えを続けていたので、テーブルに置かれた手紙に気づくまで、一時間近くかかった。
署名のKAKERAの文字に気づき、慌てて手にとった。留守の間に、部屋に入って、この手紙を置いていったらしかった。素早く視線を走らせた。
『今、僕はパパと二人で暮らしています。パパはすっかりよくなって、とても元気です。昨日の夕食は、さっそく、教えてもらったスープを作りました。大好評でした。そのことを伝えたくて、ここまで来ました。でも、留守だったので、この手紙を置いておきます。
KAKERA』
それだけだった。それだけのことだったが、数彦は、深く安堵した。
何度も手紙を読み返した。
その時、改めて、数彦は、自分がKAKERAの住所を知らないことを思い出した。今度、KAKERAがここに来た時には、必ず聞いておこうと決めた。
しかし同時に、自分が今まで、何度も聞く機会がありながら、なぜ聞かずに来たのかも、わかっていた。
心のどこかに、面倒ごとに巻き込まれたくはないという思いがあったのだ。KAKERAに深くかかわってはいけないというブレーキが、無意識のうちにかかっていたのだ。
今までの数彦は、常にそういうバリアを周囲に張り巡らしながら生きてきたのだと、あらためて気づかされた。
数彦は、KAKERAと会うまでは、それがこの世の中を過ごしていく最も重要な手法だと信じていた。誰にも干渉せず、誰からも干渉されない、それが結果的に楽だと信じていた。
そういう生き方が、自分の望んでいるものだと、疑いもしなかった。
ガールフレンドも、来るものは拒まなかった。干渉され始めると、会わないようにして、関係を自然に断つようにした。
理瑠も、数彦に干渉をはじめたため、会わないようにしているのだ。
ところが、そのすべてが、KAKERAと出会ってから崩れ始めた。
自分の知らなかった自分、知らなかった生き方が、そこに広がっていた。
数彦は手紙を折らずに、机の引き出しに仕舞った。文面を思い出すだけで、胸が温かくなるような気がした。
夕食も「天球儀」でとろうと、ドアベルを鳴らした。マスターは、困ったような顔で出迎えた。
「何かあった?」
「うぅん。取り越し苦労かもしれないんだけどなあ」
マスターの話によると、KAKERAが店の前を、何度か往復して姿を消したらしかった。
「いつもは、ひょっこりと入ってきて、お前さんの特等席に腰掛けて、またひょっこりと姿を消すんだが、今日は、中に入ってこようとしなかったんでね。何か変だなってさ」
「それって何時ごろの話」
「お前さんがここを出て、三十分後くらいかな」
数彦には思い当たることは何もなかった。KAKERAが、店に入ろうとして躊躇するような理由は、一つしか思い浮かばなかった。
「入るのを躊躇している時、この店に誰かいなかった」
「あの時間、店は混んでいたけどね。常連さんが多かったけど、お前さんとつながりのありそうな客はいなかったと思うよ」
そう言ってから、マスターは、あっ、と小さく声を上げた。
「そういえば、もっと前だけど、あの理瑠とかいう子も、店の前を行き過ぎて、向きを変えると、反対方向へ歩いていったな」
「理瑠が」
「そう、思い出してきた。間違いなくあの子だ。同じように、店の様子をうかがいながら、前を一往復、だな。なんだろうね」
「それは、何時頃です。KAKERAが来た時と、どれくらいの時間差がありました」
「どうだったかなあ。一時間くらいは離れていたような気もするけど、同じくらいだったような気もする。歳をとると思い出せなくてなあ」
マスターは首を捻った。
数彦には、理瑠がうろつく理由は、幾つか思い浮かんだ。また言いたいことが出来て、数彦を捉まえようとしているという理由が、最もありそうだった。
しかしそれは、数彦にとっては小さな事象だった。好きなだけ言いたいことを言えばいいとさえ、思っていた。それで気がすむのなら、安いものだった。
気がかりなのは、KAKERAの行動だった。その二人が鉢合わせになることを恐れた。
KAKERAが理瑠の遠慮のない言葉の攻撃にさらされるのが心配だった。
KAKERAには、精神的に脆いところがある。人を操るネズミにしろ、雪の女王にしろ、あの年齢で、真剣な表情で言う話ではなかった。
理瑠はここぞとばかり、毒のある言葉で攻撃をするに違いなかった。
KAKERAを、繊細なあの心を、これ以上、追い詰めて傷つけるような状況に置きたくはなかった。
数彦の脳裏にまた、KAKERAの白磁の肌に刻み込まれた烙印が浮かんできた。あれが、KAKERAの精神を脆くした原因だと確信していた。
部屋に戻った数彦は、ドアの隙間や郵便受けに、手紙が入っていないかと慎重に探した。しかし、何もなかった。
日が沈み、ラジヲが静かなジャズを奏ではじめても、何も起こらなかった。
窓を開け、外を見た。眼下の裏通りには、人の姿はなかった。
キッチンまで何回往復しても、玄関を空けて廊下を見てみても、何も変化はなかった。
かつて大切にしていた、誰からも邪魔されない自分の時間、それが今の数彦には堪えられなかった。
机の引出しから手紙を取り出し、すっかり覚えてしまった文面を読んだ。
引き出しに戻しながら、同じことを三回も繰り返していることに気づいた。
仕方なく、シャワーを浴び、スチーム管の上でほかほかになったバスタオルに包まった。パジャマ代わりのスェットに着替え、ベッドに転がった。
この大き目のベッドで、手足を伸ばして寝るのが好きだった。
しかし今はなぜか、自分の横がぽっかりと空白になっているような気がしてならなかった。
いつもならとっくに寝ている時間になっていた。ラジヲはジャズの時間が終わり、南米あたりの笛を使った音楽を流していた。
寝ようと思い、目を閉じた。しかし、取り留めのない思いが幾つも浮かぶだけで、眠気はやってこなかった。
うとうととしては、また目覚めた。その度に、あるわけがないと思いながら、隣の空間に、小さくて壊れそうで温かいものがないかと、手で弄った。
自分で、自分のしていることが滑稽になってきた。馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしたくなった。
しかし、出来なかった。気がつくと、指はないものを探して、空を掻いていた。
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