第13話 雪の女王

 第二講義の途中から授業に出たが、内容は上の空だった。

 窓の外ばかりを見ていた。ゆっくりと雪雲が街の上空に集まろうとしていた。まるで、絶対者の命令に従うかのような、整然とした動きに見えた。

 キャンパスのどこかで理瑠に出会うかと思うと、それだけで気が重くなった。食堂へ行く時間も、無意識にずらしていた。

 ところが不思議なことに、どこにも理瑠の姿はなかった。

 キャンパスもクリスマス色に染まり、食堂の華やかな飾りつけが学生の心をざわめかせていた。

 旅行の計画や、プレゼントの品定めなどという、数彦とは無縁の話題が、そこかしこで咲き誇っていた。

 第三講義も、何事もなく終了した。拍子抜けしながら、数彦は「天球儀」に向かった。

 ドアベルを聞きながら、もしかしたらここで待ち伏せをされているのでは、と思い浮かび、ドアを入りかけた体勢で、一瞬、足が止まった。

 マスターが胡散臭げに、足を止めている数彦を見た。いつもの席を顎で指した。

「安心しろ。誰もいない」

 マスターに心の底まで見透かされているような気がして、数彦は憮然とした。

 椅子に腰を下ろすと、ほんのりと温もりが残っているのに気づいた。顔を上げると、マスターが横に立っていた。数彦が訊ねようとするより先に、マスターが言った。

「その席には、朝から待ち人が二人。はじめが、理瑠とかいう名前の、あの子だ。店を開けると同時に入ってきて、そこでモーニングを食べた。第一講義が始まる時間までいたよ。次に現れたのは、あの、ちっちゃくて細くて可愛い子だ。入れ替わるみたいに、すぐにやって来た。何も注文せずに、窓から川を見ていたよ。さっきまでそこに座っていたんだが、いつの間にかいなくなった。どちらからも、伝言はない」

 数彦は、窓から見える範囲で、KAKERAの姿を探した。どこにもそれらしい姿がなかったので、マスターにシフォンケーキのセットを注文してから、店の外に出た。

 遊歩道を何往復か、した。KAKERAが見つかるとは思っていなかった。ただ、そうせずにはいれない気がした。

 雲はますます厚くなり、周囲が暗くなってきた。今にも雪がちらついてきそうに思えた。

 何の成果もなく店に戻ると、いつもの席に、シフォンケーキが置いてあった。座るとすぐに、マスターが来た。

「紅茶は冷めたらダメだからな。今から淹れる。待ってな」

 理由もなく、不安な気持ちに取り付かれ、数彦は窓の外を見た。

 遊歩道を行き交う人は、雲行きを気にしながら歩いていた。

 店にはシューベルトが流れていた。「エレンの歌第三」、アヴェ・マリアという名前で知られている曲だった。聖母マリアに願い続ける、罪人(つみびと)の歌に聞こえた。

 数彦は、KAKERAの姿をそれとなく探しながら、部屋に帰った。どこにもそれらしい姿はなかった。

 部屋のドアが開いていた。出るときは、間違いなく施錠したはずだった。

 慎重に、ドアを細く開けた。その隙間から、スープの香りが漏れ出てきた。あの、数彦が作れる唯一の料理、特製スープの芳香だった。

「KAKERA、か」

 キッチンに、KAKERAがいた。数彦に振り向くと、自慢そうに胸を張った。

「スープ、作っているんです。今日は、僕がご馳走します」

「ここにいたとは、な」

 合鍵を持たせていたことを忘れていた。

「え、なんですか」

「なんでもない」

 ほっとした数彦は、今後はキッチンの惨状を見て、笑みをこぼした。

「悪戦苦闘だな」

「でも、上手に出来たと思います。キノコは舞茸を細かく刻みました。ここで一度、味見をしてくれますか」

 KAKERAがスープをひと匙、小皿に取った。その味見の方法も、数彦がしていたのを見て真似しているとわかった。

 数彦は、差し出された小皿のスープを口に含んだ。舌でよく味わった。

「よく出来ているが、塩が足らない。一つまみだけ。ここに溶き卵が入ったとして、最後に黒胡椒とショウガを加えれば、及第点になるな」

「本当ですか」

 KAKERAが目を輝かせた。

「ただ、もう少しキッチンは綺麗に使う必要があるな」

「これは、次に、勉強します」

 KAKERAは横目でキッチンを見て、申し訳なさそうな声で言った。

「片付けは、食事の後で教えてやる。どれ、卵はこれだな」

 手伝おうとした数彦を、KAKERAは止めた。

「最後まで、一人でやりたいんです」

「かまわないが」

「今日で、完璧に覚えてしまいたいんです。ええと、お塩を加えました。今度はどうですか」

 数彦は味見をし、大きくうなずいて見せた。

「塩味はこれでいい。アドバイスとしては、卵は溶く前にカラザを綺麗にとっておけよ」

「はい」

 小さな身体をさらに小さくして、KAKERAは生卵と格闘していた。黄身を潰しながらも、カラザを何とか取り除いた。

「アドバイス、その二。卵は均一に成るまでよく溶くこと」

「はい」

 アドバイスを忠実にこなそうとしているKAKERAの姿を見つめていた数彦は、ふと、窓の外に目を移した。部屋全体が、薄暗くなっていることに気づいたからだ。

 窓辺に寄り、外の様子をうかがった。曇りでよくわからず、結局、窓の鍵を開け、開いた。

 空が鉛色に垂れ込めていた。空気そのものが、暗く押しつぶされている気がした。

 温度もさらに下がり、覗き込んだ顔がみるみるうちに冷えていった。

 しかし、雪は降っていなかった。まるで、雲がギリギリまで雪の放出を我慢しているかのように見えた。

 背後からKAKERAの声が聞こえた。

「最後の味見、お願いします」

 それは申し分のない味に仕上がっていた。

 数彦は、満腹の幸福感を味わいながら、ソファーに座っていた。

 スローなジャズが、かすかな眠気を誘っていた。

 KAKERAは、椅子を窓辺に移し、窓越しに空を見上げていた。飽きることもないらしく、一時間以上、見続けていた。

 数彦がうとうととし始めたとき、KAKERAが何か呟いた。はっとして目が覚めた。

「何か、今、言ったか」

 KAKERAは、空を見上げたまま、答えた。

「明日、パパが帰ってくるんです」

 数彦は、胸の奥が重く痛みを感じた。KAKERAの白い背中に刻まれた烙印を思い出した。

「そうか」

「だから、しばらく、会えなくなるかもしれません。って、同じこと、前にも言ったような気がします」

「ああ、聞いたな」

「僕は、今度こそ、パパのネズミは、退治できたような気がするんです」

 昔、どこかで見た映画の一シーンが思い浮かんだ。そのシーンで似たような台詞を言った少年はそのあと、さらに辛い現実と戦わなければならなかったことも思い出した。

 数彦は、自分がKAKERAのために、何か行動が取れるのかと、自問した。答えは浮かばなかった。

「僕は、パパに、このスープを作ってあげるんです」

 KAKERAは、窓の外を見上げたまま、呟いた。

「きっと、美味しいって言ってくれると思うんです」

 部屋の空気が重くなっていた。数彦はそれを嫌った。それに、これ以上、KAKERAの父親の話題はしたくなかった。

「外は、降り始めたかい」

 しばらく、間があった。それから、

「まだです」

 小声で、答えが返ってきた。その声が、震えていたような気がして、数彦は、KAKERAのほうへ近寄ろうとした。

 すると、それより先にKAKERAが立ち上がり、窓を全開した。

「真っ白です。世界は、雪の女王のものです」

 今度は、嬉しそうな声が聞こえた。

 外から冷え切った空気が入ってきた。それはKAKERAを包むように流れると、数彦の足元で渦を巻いた。

 数彦は、KAKERAの後ろから、その華奢な身体を包み込むようにして、身を乗り出すと、外を見た。

「見事に真っ白だな」

「ええ」

 KAKERAは目を擦っていた。

「寒い空気に当たると、涙が出るんです」

 一言も聞いていないのに、KAKERAは下手な言い訳をした。

 数彦は手を前に回して、KAKERAの両頬を包み込んだ。氷細工のように、冷たかった。

「今夜は振らないのかな」

 KAKERAは答えなかった。頬を数彦の手の平に預けるようにして、じっとしていた。

「俺は今年、田舎には帰らない。この部屋にいる」

 KAKERAは、手の平の中でうなずいた。

「いつでも、お前の好きな時に、ここに来たらいい」

 もうひとつ、うなずいた。

 その時、指に何かを感じた。それが、涙だということに、すぐに気づいた。

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