第12話 葬列
夜が明けようとしていた。
目が覚めた時、KAKERAは胎児のように丸くなり、数彦の胸に顔を押し付けるようにして、不規則でか細い寝息を立てていた。
数彦は次第に明るくなっていく窓の明かりを見ながら、KAKERAの寝息がそのまま消えてしまうのではないかと考えていた。
寝息が消え、気がつくと、KAKERAも消えている。雪が融けるように、跡形もなく。
そんなとりとめもないことを考えていた。それが現実に起こりそうな不安を抱えながら。
窓の外が輝き始めた頃、KAKERAが身じろぎした。小さく震えてから、KAKERAは目を開けた。
自分を見つめている数彦に気づくと、びくりとし、視線を外した。
もぞもぞと動くと、数彦の胸に、顔を埋めた。そして、くぐもった声で呟いた。
「もう少し、いいですか、このままで」
「ああ」
数彦は、窓の外に視線を戻した。
雪の日の朝特有の、微細な煌めきを振り撒く光が満ちていた。
スチームは通っていたが、部屋はしんと冷え込んでいた。数彦は毛布を掛け直し、KAKERAを包み込んだ。
「外は、眩しそうですね」
「晴れたからな。今頃、子供たちは、雪だるま作りで忙しいだろう」
「一面の銀世界」
「まだ、見てはいないが、そうだろう」
「夜まで、融けませんか」
「大気が冷えているから、融けないだろうな」
「こんな日は、日が沈んでから雪の女王がやって来ます」
数彦の唇に、自然と笑みが浮かんだ。
「美人なのか、女王は」
「見た人の魂が凍りつくほど綺麗です」
「一度、会ってみたいな」
「危険です。雪の女王は、命を吸い取るんですよ」
「かまうものか。それほどの美人、普通に生きていたら会うこともないだろうし、な」
KAKERAが目を細く開けた。上目遣いで、数彦を見た。しかし焦点は数彦にはなく、もっと遠くを見ているような視線だった。
「僕が雪の女王だったらいいのに」
「え」
KAKERAの表情の奥にあるはずの意図が読めず、数彦は言葉に詰まった。
数彦を見ているようで見ていない、その不思議な視線に、KAKERAの必死さが隠されているように感じた。
しかし、探り当てることが出来ないまま、KAKERAは目を閉じてしまった。
「雪の女王には、この世に未練を持っていない人がわかるんだそうです。だから、その人の命を吸いに来る」
数彦は、胸がかすかに痛んだ。自分のことを言われたような気がした。
ほんの数日前まで、自分は未練など持ってはいなかった。必要とも追わなかった。かえって、持っていると邪魔だとさえ思っていた。それは確かだった。
「雪の女王、か」
数彦の脳裏に、絵本の挿絵が浮かんだ。
生きる術(すべ)を見失った旅人の前に、吹雪とともに現れた雪の女王の白いうなじ。それはいつ読んだものだろうか。
その前に、本当にそんな絵本を見たことがあっただろうか。
それを思い起こそうとすると、かすかな眩暈さえ感じた。
「僕は、雪の女王が好きです」
しかし、KAKERAのその言葉には、好きという思いの一片すら感じられなかった。逆に、敵意すら感じた。
KAKERAは目を閉じた。そして、数彦の胸に小さく温かい息を吐きつけてから、続けた。
「だから」
言葉を切ると、KAKERAは、伏せていた睫毛を開け、数彦を見つめた。今度は、しっかりと数彦を捉えていた。透明でありながら、射抜くような視線だった。
「だから、僕は雪の女王になりたい」
数彦は、KAKERAの身体が震えているのを感じた。なりたがると同時に、恐れているのだと感じた。
「雪の女王は、孤独じゃないのか」
「雪の家来をいつも連れています」
「それは家来だ。女王が家来に、心を開くことはないんじゃないのか」
KAKERAは、再び目を伏せた。数彦は、続けた。
「家来がたくさんいても、雪の女王は、孤独なんじゃないのか」
それには答えず、KAKERAは目を開けると、手を伸ばし、数彦の頬に触れた。
「冷たい」
窓の外で音がした。軒先から、雪が道路に落ちる音だった。
KAKERAはいつまでも、数彦の頬に、手を当てていた。
椅子に深く腰を下ろして、数彦は目を閉じていた。
ラジヲの啜り泣くようなジャズと、お湯が沸騰してきたことを知らせるコッヘルの蓋の音が聞こえていた。
KAKERAは、似合わないコーデュロイと、スープのレシピと、この部屋の合鍵を持って、帰っていった。
どこへ帰っていったのかは知らなかった。雲の上の宮殿だといわれても、今は信じそうな気持ちになっていた。
いなくなったというのに、部屋にはKAKERAの気配が、濃厚に残っていた。
朝から何度も、数彦はベッドを見た。そしてそこに、誰もいないことを確認しては、自虐的な笑みを浮かべていた。
お湯が沸騰した。立ち上がり、キッチンへ行くと、火を止めた。
ゆっくりとした所作で、レモネードを調合した。今日、二杯目のレモネードだった。
部屋に、蜂蜜とレモンの香りが満ちていった。ゆったりと湯気を立てるグラスを片手に、窓辺に寄った。
窓を開けた。
目を細めずにはいられなかった。大気いっぱいに光の粒子が広がっていた。
いつもの殺風景な瓦屋根の連なりが、雲の波のようにも見えた。
真上の空は青く澄んでいたが、西の端に黒雲が見えていた。夕方から、また、雪になると察した。
レモネードを啜った。顔が湯気に包まれた。レモンの香気が鼻を抜けていった。湯気で湿った顔が、あっという間に冷たくなっていくのがわかった。
窓を閉めようとした時。
眼下の真っ白な裏通りに、黒服の行列が現れた。
十数人の列の中央に、これも黒い布をかけられた棺があった。棺の蓋には、白い花が盛られていた。
その中に、一本だけ、真っ赤な花が供えられているのに気づいた。
棺に眠っている人は、どのような人なのだろうか。真っ赤な花を供えたのは、その人とどのような関係にある人なのだろうか。どのような思いを胸に、その花を添えたのだろうか。
黒い列は、ゆっくりと裏道を進んでいった。声はなく、音も聞こえなかった。そのままゆっくりと、葬列は角を曲がり、視界から消えていった。
気がつくと、すでに空は、鈍色の垂れこめた雲に覆われ始めていた。
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