第11話 雲の上の月
「天球儀」を出てしばらく行くと、さらに雪が激しくなった。風が収まった分だけ、遊歩道に積もっている雪の量は多くなっていた。
二人の歩いた跡が、白地に黒くはっきりと残っていた。それも次から次と降る雪で、すぐに見えなくなるだろう。
雪は数彦のスニーカーの底にも分厚くへばりつき、時々靴の先をタイルに叩きつけ、落とさなくてはならなくなっていた。
隣のKAKERAを見ると、両腕で自分を抱きしめるような格好をしていた。
「寒いか」
「ええ。でもまだ、マスターのロシアンティーが効いています」
「俺もそうだが、この冷え込みだ、そう長く続くわけじゃないだろう。まずは、俺の部屋に戻ろう。マスターの腕にはかなわないが、レモネードを作る」
「僕、あれ、大好きです」
そう言うと、KAKERAは背筋を震わせた。
「寒いんだろ。無理をするな」
数彦はコートを開いた。KAKERAの肩を引き寄せると、コートの中に包み込んだ。
数彦の胸に、KAKERAの冷え切った髪がかかった。
「温かい」
「なら、こうやって歩こう。熱でも出されて寝込まれたらかなわんからな」
「温かい」
KAKERAは、華奢な身体を数彦に預けるようにもたれてきた。細い腕を数彦の腰にまわし、しがみついているような格好になった。
数彦はそんなKAKERAを支えるようにして、ゆっくりと、歩調を合わせた。
止むことをしらない雪が、二人を包み込むように舞っていた。
コートの中で、KAKERAが何か言った。
「なんだ。聞こえなかった」
コートの中を覗くと、KAKERAが数彦の顔を見上げて言い直した。
「僕は、今夜のことを、一生、絶対に、死ぬまで、忘れません。あなたのスープの味も、マスターのロシアンティーも」
「なんだ、いきなり。これっきりで、いなくなるような台詞だな」
「いなくなる。そうかもしれません」
数彦は足を止めた。KAKERAがコートの中でつっかえたようにたたらを踏んだ。
「どういうことだ。引越しでもするのか」
KAKERAは、首を横に振った。
「来週のクリスマスまでに、パパが帰ってくるんです。そうしたらもう、夜、外に出てはいけないって言われると思うんです。だから、会えなくなると思います。それで、お別れの会をしたくて」
KAKERAは、上目遣いで数彦を見た。
今夜の会の主旨を今まで黙っていたことを、KAKERAなりに申し訳なく思っている様子だった。
「そうか。俺も、マスターが言っていた仲直りの会とかいうのには違和感を持っていたんだ。お別れの会のつもりだったのか」
KAKERAがコートの中でうなずいた。
数彦の脳裏に、KAKERAの背中に刻み込まれた烙印が浮かび、嫌な感じがした。それを振り切るように、数彦は明るい声で言った。
「よかったな。それならそうと、早く言え。それに、外国へ行くわけでもないだろう。夜はダメかもしれないが、昼間なら会える」
KAKERAは、何かを言いかけて止めた。数彦から視線を外して呟いた。
「そうですよね」
「そうだ」
しばらく二人とも無言で、白い世界を歩いた。
そのまま遊歩道が、家に着くことなく、無限に続いているような気がした。数彦は、それも悪くないかな、と思った。
果てしない道を、一人で歩くのは、とても苦痛だろう。でも二人で歩くなら、それは幸せになる。
そう思う一方で、そう感じている自分の変化を、数彦はまだ理解できずにいた。
「聞こえるんです」
KAKERAの呟きに、数彦は現実に戻ってきた。
「何が聞こえるんだ」
「雪の声です」
「風の音だろ」
「風じゃないです。雪です。雪は、いつも、僕に囁くんです」
数彦の腰に回されたKAKERAの腕に力がこもった。そうでもしないと、そこから消えてしまうとでも言うように。
「雪は、僕を誘うんです。雪の女王が誘うんです。一緒に行きましょう、楽しいところがあるのよ、って」
KAKERAの声は、コートの中から、直接、数彦の身体の芯に響いてくるような気がした。語尾がかすかに震えていた。
「でも怖いんです。だから、雪が、怖いんです。でも、雪は優しいから、好きなんです」
「そうだな。雪は優しくて、怖い」
「あなたも、そう思いますか」
「もちろんだ」
「よかった」
「でも」
KAKERAの声が沈んだ。
「あなたには、雪の声は聞こえない。きっと」
数彦は、空を見上げた。底の見えない闇の中から、無限に舞い降りてくる白い粒が見えた。世界すべてを包み込むような、果てしのない世界が見えた。
それが、KAKERAに囁きかけているのかと思うと、恐怖すら感じた。
「お前らには、KAKERAは、渡さない」
空に向かって、数彦は呟いた。腰に回された細い腕に、また、力がこもった。
雪を払って部屋に入った数彦は、身体がそれほど冷えていないことに気づいた。
内側からはマスターのロシアンティーが、外側からはKAKERAの体温が、それぞれの温もりで数彦を包んでいたからだと思い出した。
コートにすっぽりと包まれていたKAKERAも、髪は冷えていたが、頬が赤く、元気だった。
洗面台で手を洗っているうちに、数彦は昨夜の残りのショコラをテーブルの皿に盛っておいた。戻ってきたKAKERAは、目を輝かせた。
「緑を、貰います」
「ピーマン味だぞ」
「平気です」
楽しそうに答えると、KAKERAは緑色の包み紙をはがし始めた。
数彦は、ラジヲをつけてから、キッチンへ行き、レモネードの調合をはじめた。もちろんレモンは大量に買い足してあった。
出来上がりを二つ、テーブルへ運ぶと、KAKERAは黄色の包み紙を食べていた。
「バナナか」
「パイナップル、です」
数彦はKAKERAの向かいに座り、黒い包み紙のショコラを手にとった。包み紙を開けながら、窓の外を見た。
「クリスマスは、好きですか」
KAKERAも窓の外を見ていた。白い景色が、ゆっくりと沈んでいくのが、外灯に照らし出されていた。
「昔はね」
「今は、嫌いなんですか」
「そうだな。どうでもよくなったな。クリスマスだからって、何かがあるわけじゃない」
「僕は、好きです。昔も、今も」
KAKERAはグラスを手で包み込むようにして、そう呟くと、レモネードを啜った。それから、ため息を吐くように、続けた。
「僕にも、何かがあるわけじゃないです。でも、何かが起こるかもしれない。だから、好きなんです」
「クリスマスには奇蹟が起こる、かもな。キリスト教徒じゃないが、奇蹟は、見てみたい」
「ホワイト・クリスマスが、好きです。雪のないクリスマスより、奇蹟が起こりそうな気がするから」
「今年は、雪が残りそうだな」
「ええ。だから、とっても楽しみなんです」
部屋の中でお湯を沸かしたせいか、窓は次第に曇り、外が見えなくなった。それでも、雪が降り続いている気配はしていた。
雪の囁きまで、ラジヲのスローなジャズにまぎれて聞こえてきそうな気がした。
「この建物のスチームは、クリスマスの日までと決まっているんだ」
「ほかの暖房は」
「ない。だからいつも、クリスマスが過ぎると、俺はこの街を出る」
「そうなんですか」
「次にスチームが動くのは、正月の四日からだ。それが、ここへ帰ってくる日だ」
KAKERAは何も言わなかった。音を立てずに、そっとレモネードを啜っていた。それから、曇ってしまった窓を見た。
「街を出て、どこへ行くんですか」
「田舎、かな。生まれ故郷だよ。ほかに行く当てもないからな」
「古里は、どんな街ですか」
「何もない町だ。建物も、ここみたいな高いものは少ない」
「静かですか」
「そうだな。朝の鳥がうるさいぐらいか。その代わり、サイレンもなければ、クラクションも、排気ガスもない」
「あなたのパパとママは、優しいですか」
「優しかった、かな。昔のことだ。少しずつ、忘れていく」
「忘れる、んですか」
KAKERAはグラスを持ったまま、不思議そうに数彦を見た。
「そうだ。両親の記憶は、薄れていく。祖母に育てられた。いつも笑っている祖母だった。田舎だからな、文明的なものは何もなかったが、それ以外のものはいっぱいあった」
「ごめんなさい」
「謝ることは何もない」
KAKERAはグラスをテーブルに置いた。
ラジヲがホワイトノイズになっていた。雪の夜に、時々起こる現象だった。電波塔に不都合が起こるからに違いないと考えていた。
数彦は席を立つと、ラジヲを消そうとした。
「そのまま、つけていては、ダメですか」
KAKERAは耳を澄ませていた。まるで、ホワイトノイズの奥から、何かが語りかけているかのように。
数彦は席に戻った。
「何が聞こえるんだ。雪の囁きか」
それには答えず、KAKERAは目を閉じると、耳を澄ませていた。白い顔に映える黒く長い睫毛が、かすかに揺れていた。
数彦も、目を閉じ、耳を済ませてみた。
薄明かりの空間に、ホワイトノイズが漂っている。
不思議と、懐かしさを感じた。この感覚は、昔、子供の頃のもの。祖母の顔が浮かんだ。いつもと変わらない笑顔だった。
窓の外の雪と、ホワイトノイズが、ゆっくりと降り積もっていく。雪は部屋の外に、ホワイトノイズは部屋の中に。
床を漂うホワイトノイズが、テーブルの下を流れていく。KAKERAの細い足首で渦を巻き、ゆったりと流れてゆく。
「雲の上には、月が出ているんでいるんです」
「上?」
KAKERAの言っていることを理解するまで、少しかかった。
「そうだな。雲の上は、いつも晴れだ」
「そうです。月の光は、雲を照らしています。だから、夜の雲の中で作られている雪の結晶には、月のエッセンスが入っているはずです」
数彦は笑みがこぼれた。
子供の夢、無垢な想像、他愛のない空想。
「雪の中には月の雫が結晶している。いいじゃないか。いいイメージだ」
「雪の女王が僕を連れて行こうとしている世界は、雲の上の、月の世界のような気がします」
「一度、見てみたいな」
数彦は、KAKERAの空想に合わせて、うなずいた。
自分がKAKERAくらいの年齢の時、どんな空想の世界を持っていたのか、思い出そうとした。しかし、何も思い浮かばなかった。
他人に負けたくない、差別されたくない、その一心で、現実にしがみついていたような気がした。
雪は、空から降ってくる邪魔者でしかなく、雲の上の月の世界など、考えたこともなかった。考える意味など感じなかった。
しかし、今は。
KAKERAの声が、耳の奥に響いてきた。
「じっと、雪を見ていると、雪の女王に会えるんです」
KAKERAが白く細い指で、曇った窓を指した。
気配だけで、実際には見えなくなっていた雪が、その瞬間、目の前で舞うのがわかった。何かを囁きながら、ただ、降り続ける雪の白い粒。
「一番たくさん降っているところに、雪の女王はいるんです」
KAKERAは席を立つと、窓辺に寄った。留め金を外し、窓を開けた。
雪混じりの風が、部屋に舞い込んできた。
その風に押されるように、部屋に漂っていたホワイトノイズも渦を巻いた。
しかしそれもすぐに収まり、外一面の雪景色が、映画のスクリーンに映し出されているように、はっきりと浮かび上がって見えた。
数彦はただ、それを見ていた。
ふっと、意識が遠くなった。頬を撫ぜて過ぎる雪混じりの風は、優しさと厳しさを併せ持っていた。
その時、雪景色の前に立つKAKERAの姿が、透き通って見えた気がした。
はっとして目を凝らすと、それは見間違いに過ぎないことがわかった。
数彦は安堵した。そのままKAKERAを、雪景色の中に吸い取られてしまうような恐れを感じていた。
「KAKERA」
思わず、声をかけていた。腕を伸ばしていた。
雪は静かに窓から入り込み、KAKERAを愛撫するようにその身体に添って舞った。雪がKAKERAの一部になっていくような気がした。
「KAKERA」
もう一度、声をかけた。KAKERAは振り向くと、数彦に、氷細工のような細い腕を伸ばした。
数彦も席を立ち、窓辺に寄って行った。KAKERAの差し出している手をつかもうとした。
ところが、まるでその手がこの世に存在していないかのように、数彦の伸ばした手は宙を掻いただけだった。
次の瞬間、KAKERAは、数彦のすぐ近くに立っていた。
KAKERAの手が、数彦の頬に触れた。冷たい五本の指が、存在を確かめるように、数彦の頬をそっと撫ぜた。
数彦は、目を閉じた。
頬に触れているKAKERAの指だけを感じた。
雪の舞う中空に浮かんでいるような錯覚を覚えた。ホワイトノイズの渦に乗って、空をどこまでも高く。
唇に何かを感じ、目を開けた。そこにはKAKERAはいなかった。
窓を閉め、留め金をかけるところだった。
KAKERAは窓の曇りを手で拭った。そこから見える外の景色は、いつもの、代わり映えのしない世界だった。
数彦は、KAKERAの後姿を、陶然と見つめていた。
濃い闇と、白い雪の舞の手前に、KAKERAの白いうなじが見えていた。振り向かずに、KAKERAが言った。
「横に寝ても、いいですか」
数彦は、答えることが出来なかった。
「お邪魔でなければ、この間のように。同じ、ベッドで」
答える代わりに、数彦は、KAKERAの艶やかな黒髪を、そっと引き寄せた。
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