第10話 ロシアン・ティー

 夕闇が迫る時間だというのに、窓の外は白く輝いて見えていた。

 窓の曇りを手で拭い、冬の陽の残照が、降り始めた雪に反射しているのだろうかと、数彦は思った。

 部屋にはスープの香りが満ち、ラジヲはスローなジャズを奏でていた。

 遠慮がちのノックの音がした。ドアを開けると、いつもの薄着のままで、KAKERAがはにかんでいた。

「時間通りだな」

「留守だったら、どうしようって、考えてました」

「やれやれ。敵前逃亡するような男に見られてるのか」

「いえ、そうじゃなくて」

「いいから、さっさと中に入れ」

 KAKERAが、冷気とともに部屋の中に入ってきた。白い頬が、外の雪で出来ているんじゃないかと思うほど透き通って見えた。

「すぐ、スープを用意する。俺の手料理だ。なかなか食べられるものじゃない」

「楽しみです」

「手を洗ったら、テーブルに座っていてくれ」

 スープを皿によそい、畏まって座っているKAKERAの前に出した。KAKERAの顔が、湯気に包まれた。

「ああ、温かい。いい香り」

「ショウガとブラックペッパーが効かせてある。身体がぽかぽかしてくるぞ」

 KAKERAは、好奇心で目を輝かせながらスープを覗き込んでいた。

「卵、キノコ、海藻……」

 スープ用の木製スプーンを皿に並べた。

「今、バターパンが焼ける。ブルーベリージャムを乗せても美味しいが、海苔も合う」

「海苔って、海の、海苔、ですか」

「そうだ。騙されたと思って、試してみろよ」

「はい。騙されます」

「なんだ、それ」

 数彦は笑みをこぼしながら、キッチンに戻った。自然と笑みがこぼれる自分が不思議だった。

「窓を開けていいですか。外が、見たいんです」

「ああ。がたついているから気をつけろよ」

 パンが焼きあがるのを確認していると、頬を冷気が触るようにして過ぎていった。

 見ると、KAKERAは窓を全開にして、空を見上げていた。

 細かな雪が、KAKERAの身体を撫でるようにしながら、部屋の中に降り込んできていた。数彦は、KAKERAの好きなようにさせておいた。

「雲が染まっていく。夜の色に」

 KAKERAのか細い声が、窓の外から聞こえてきた。

 数彦は、焼けたバターパンを皿に乗せ、テーブルに運んだ。

「窓を閉めてくれ。食事が出来た」

「はい」

 KAKERAは、名残惜しそうに窓を閉めると、テーブルに戻ってきた。そして目を丸くした。

「ご馳走だ」

「二品しかないけどな。まあ、俺にとってもご馳走だけどな」

 KAKERAは手を合わせ、数彦を見ていた。それが、食事前のお祈りを促しているように見えた。

 お祈りなどひとつも知らない数彦は、KAKERAを真似て手を合わせ、言った。

「さあ、一緒に食べよう」

「はい」

 KAKERAはスプーンを手にすると、スープをすくって、ゆっくりと啜った。

 瞬間、目まぐるしく、表情が変化した。

 それを数彦は楽しんだ。

 次第にKAKERAの頬に赤味が差し、蝋細工ではなく、生きている人間だということを数彦に訴えていた。

 皿まで舐めるくらいの勢いでスープを飲み干し、バターパンを食べたKAKERAは、目を閉じると、両手を合わせた。そして何か、唱えた。

 数彦も食べ終わると、真似をして手を合わせた。そしていい加減なお祈りを唱えた。

「むうにゃららああ」

 KAKERAが、笑みを浮かべた。つられたように笑みを浮かべようとしたその瞬間、数彦は、頬が硬直した。

 KAKERAの身体に刻まれている刻印を思い出したからだった。

 KAKERAが、不思議そうな表情で数彦を見た。誤魔化すように、無理に笑ってみせた。

「ご希望どおりにディナーを用意したが、満足したかな」

「ええ、とっても」

「ほかに、ご要望はございませんか、お客様」

 KAKERAは真剣な表情で考え始めた。どんな望みが出てくるのか恐れ始めたこと、KAKERAが顔を上げた。

「一緒に、散歩に行きたい」

「今か」

「はい」

「外、雪だろ」

「だから、一緒に歩きたいんです。雪の中を」

「本気で、か」

「はい」

 数彦は、窓の外を見た。細かな雪が、絶えることなく降り続けている。

「いや、ですか」

 視線を戻すと、KAKERAが不安げな表情で数彦を見ていた。卑怯なほど訴えてくる目をしていた。

 数彦は負けた。

「わかった、行こう。だが、その薄着じゃあ、また凍死しそうになるぞ」

 KAKERAの表情が一変し、笑みが零れ落ちた。

「大丈夫です。スープで温まりましたから」

「雪を舐めるな。あっという間に冷めちまうさ、そんな温もりは。俺の古い上着がある。それを着るんだ」

 KAKERAは素直にうなずいた。

 数彦は食器をキッチンに戻すと、クローゼットの奥から、焦茶色の上着を取り出した。

「これ。流行遅れのコーデュロイだ。捨てようと思っていたんだ」

 KAKERAは受け取ると、物珍しそうに服を見た。生地を裏返し、頬擦りした。

「やめろ。仕舞いっ放しだったんだ。今、埃を取る」

 KAKERAに持たせて、ブラッシングした。その仕草も、好奇心溢れる目でKAKERAは見ていた。

「ちょっとお前には大きいな。我慢しろ」

 KAKERAはコーデュロイに袖を通した。予想どおり、大きすぎた。KAKERAの薄い胸板が、厚手のコーデュロイの中にすっぽり包み込まれてしまった。

「ま、いいか」

 珍妙な格好になっているのに気がつかないのか、KAKERAはコーデュロイの中で笑っていた。笑い返そうとした数彦は、また、胸の奥に痛みを感じた。

 街が白いベールに包まれていた。細かな白い粒は、ひとつひとつが見えない糸で結ばれているかのように、全体が一枚のレース編みに見えた。

 外灯に照らされ、部分的に煌めきながら、繊細なレースがゆったりと揺れていた。

 その中から零れ落ちた冷たいものが数彦とKAKERAにも降りかかってきた。

「どこまで歩く」

「あの、喫茶店まで」

「ああ、「天球儀」のことか」

「それです。素敵な、お店」

「この時間だと、どうかな。開いているかどうか」

 腕時計が夜の九時になろうとしていた。

 開店時間は十時までだが、マスターは気まぐれで、食材が切れたり、気が乗らなかったりすると、早く店を閉める。数彦は、ダメ元と考え、とりあえず行ってみることにした。

 遊歩道に出た。

 川面を滑るように、雪が舞っていた。落ちれば水に飲み込まれ、溶けてしまう、そのぎりぎりで、雪は華麗に、儚げに、踊っていた。

 その有り様に、KAKERAが重なった。

 数彦に擦り寄るようにして、KAKERAが言った。

「僕は、雪が好きなんです」

「雪合戦が好きだとか、雪だるまを作るのが好きだとか、もしかして、スキーが得意とか」

「そうじゃなくて、雪が降ってくる、この空が好きなんです」

 遊歩道は、白いベールの中を、細く長く伸びていた。ところどころに燈る外灯が、降り続く煌めきの粒を、オレンジ色に浮かび上がらせていた。

 KAKERAは空を見上げていた。その目に落ちてくる雪を、最後の一瞬まで見ようとするかのように。

「でも、怖いんです」

 KAKERAが呟いた。数彦が聞き逃しそうになるくらいに、小さな声だった。

「雪の女王は優しいけど、その腕の中に包み込んで、旅人を眠らせてしまうんです。そういうお話を、読みました。昔ですけど」

 数彦はあえて、何も口を挟まなかった。

 KAKERAは、降り続く雪を見上げながら、数彦の左の腕に、そっと、自分の腕を絡めてきた。

「でも、好きなんです。雪が、好きなんです」

 KAKERAは、繰り返し、呟いた。

「だけど、好きなんです」

 遊歩道の先に、レース編みを透かすようにして、「天球儀」が見えてきた。看板の燈が消えていた。

「残念だったな、もう閉めて……」

 そこまで言いかけて、数彦は気づいた。看板の燈は落としてあるのに、店の明かりは、まだ、点いていた。

「マスターはいるみたいだな」

 上手くすると、店はちょうど今、閉めたばかりかもしれない。だとすれば、紅茶の一杯くらい、ありつけるかもしれない。

 降りしきる雪の中をたどり着いた旅人に、情けはあるだろう。

 そう信じながら、数彦は「天球儀」に向かった。

 店が開いているのか閉まっているのか、その謎は数彦たちが近づくと解けた。

 ドアに辿り付くよりも早く、ドアベルの音を鳴らして、店の内側からドアが開かれた。現れたマスターの顔が笑っていた。

「やっと来た」

 なにが、やっと、なのかわからないまま、顔を見合わせた数彦とKAKERAに、マスターが手招きした。

「いいから、早く入れ。寒いじゃないか」

 雪混じりの風に後押しされるように、店の中に入った。アランフェス協奏曲第二楽章アダージョと、紅茶葉の香りが二人を包み込んだ。

「たまには天気予報も当たるんだな。何、突っ立っている。いつもの席にさっさと座った」

 狐につままれた面持ちのまま、数彦とKAKERAは席についた。

 マスターはアダージョにあわせて鼻歌をハミングしながら、カウンターの奥へ入っていった。

「寒かっただろう。吹雪きはじめてきたからな。風が吹くと、寒さは五倍だ。さて、取って置きのジャムがあるんだ。ロシアンティーといこうか」

「ロシアンティーって、紅茶にジャムを入れるやつか」

「それは日本式ロシアンティーだな。あちらの国では、ジャムを添えて、それを楽しみながら紅茶を飲む。どっちがいい」

 数彦は、KAKERAを見た。KAKERAは、ちょっと考えてから決めた。

「日本式が飲みたいです」

「よっしゃ。まかしとき」

 マスターは壺のようなものを取り出すと、中を長いスプーンで混ぜた。

「寒いときには、寒い国の飲み物が一番ってことさ。ただし、イギリスに行った時には気をつけろ。ロシアンティーって頼むと、普通のレモンティーが出てくるからな」

 マスターの怪しい薀蓄を、KAKERAは真剣に聞いていた。それに気をよくしたマスターが、KAKERAに訪ねた。

「お好みでブランデーを足してもいい。未成年でも、香り付けくらいなら大丈夫だろう」

 数彦は慌てて、横から口を挟んだ。

「それはやめておいた方がいい」

 数彦はKAKERAを見た。

「極端にアルコールに弱いらしくてね。こてんと寝ちまう」

「へえ。やってみたのかい。悪いやつだねえ」

「そういうんじゃなくて。そう、偶然だよ、偶然」

 自分の話題だというのにKAKERAは、他人事のような顔で聞いていた。

 数彦は余計に気まずさを感じ、話題を変えた。

「それより、店を閉めずにいたなんて。この雪だから、あきらめてたのに」

「お前さんたちが来るだろうと思ってね。看板の燈は落として、店は開けておいたのさ」

「どうして俺たちが来るかもしれないって思ったんだ」

「そういう気がしたのさ」

 KAKERAも訊ねた。

「それだけ、なんですか」

「そうさ。昔から勘が鋭くてね」

「本当にそうなら、超能力者並みだ」

「こいつも、そう言っていたしね」

 マスターは、天井の運行儀を指差した。数彦とKAKERAは、指先を追うようにして見上げた。

 ゆっくりと木星天が動いているのが見えた。二人とも、しばらく運行儀を見つめていた。

「マスターは超能力者じゃなくて、占い師だったな。忘れていた」

 魅入られたように天体の動きを見つめていると、マスターがグラス製のカップと白磁のティーポットを持って、テーブルまでやってきていた。

「砂時計が落ちたら出来上がりだ。今日は特別に、目の前で作ってやろうか」

 声をかけられてやっと、数彦は横に立っているマスターに気づいた。KAKERAを見ると、まだ運行儀を見上げていた。

「これ、凄いですよね。昔の人も、こんな技術を持っていたんだ」

 マスターは得意げに胸を張って見せた。

「そうさ。人間というのは素晴らしい生き物さ。だけどね、残念ながら、その素晴らしさを簡単に忘れてしまうのも人間なんだ」

「へえ。今夜は言うことが哲学的だ」

 茶化す数彦に、マスターは人差し指を立てて、それを左右に振った。

「まだまだ、人間観察が出来ていないね、お前さんは」

 砂時計の砂が落ちきった。マスターは鮮やかな手つきでジャムをカップに入れて、その上から紅茶を注いだ。

「運行儀も素晴らしい技術だけど、こうした食文化も、なかなか素晴らしいものじゃないか」

 紅茶の湯気とジャムの香気が交じり合い、数彦の鼻をくすぐった。調合し終わったマスターが二人を急かした。

「さあ、早く飲んだ、飲んだ。冷めないうちに。ふーふーとしながら飲む方が美味しいんだ」

 二人は言われるままに、息を吹きかけ、少しずつ啜った。

 次の瞬間、顔を見合わせて、うなずきあった。マスターが自慢するだけあって、見事なハーモニーを奏でる紅茶だった。

 数彦も一口で気に入った。

 喉から胃へと、熱く気持ちのいい感触が広がっていった。舌には上品な甘味が残り、全身へ溶け込んでいった。冷えていた身体が、至福感に包まれていくのが心地よかった。

「その顔からして、参った、というところだろう」

 数彦はうなずいた。

「これは、染みる」

 満足げに、マスターは大きく何度もうなずいた。

「この木苺のジャムは、そこいら辺では手に入らない逸品なんだよ」 

「それを、わざわざ。すいません」

 KAKERAがお辞儀をした。

「畏まらなくてもいいさ。これはここぞという時に出すことにしているんだ。で、仲直りは出来たようだな」

 KAKERAがきょとんとした顔をした。その表情に、マスターは首を傾げた。

「今日は、仲直りの食事会をしていたんじゃないのかな」

 KAKERAは小さくうなずいた。

「そうなんです。もう、仲直りしました」

「そいつはよかったな。こいつは変に依怙地なところがあるからな」

「マスターにまで変人呼ばわりされるとは思わなかった」

 そう言いながら数彦は、今のKAKERAの反応に引っ掛かっていた。

 なぜ、一瞬、マスターの言っている言葉の意味が分からなかったような反応をしたのだろうか、と。

 数彦も、KAKERAのメモを見た時は、この店で泣かせてしまったことへのお詫びの意味のディナーだと思い込んでいた。

 しかし、KAKERAの本当の思いは、別なところにあるのかもしれなかった。

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