第9話 テールスープ

 川沿いの遊歩道まで出てみたが、すでにKAKERAの姿はどこにもなかった。

 数彦は、自分がパジャマ代わりに使ったスェットを着たままだったのに気づき、ひとまず部屋に戻った。

 廊下にも部屋にも、理瑠の姿はなかった。今からさらに理瑠と論争をしなければならないのかと思っていた数彦にとって、最悪の事態は避けられたことになった。

 部屋に入ると、そのままベッドに倒れこんだ。一眠りしたかった。

 しかし、疲れているのに目が冴えていた。興奮したからか。それとも、ベッドにかすかに残っているKAKERAの移り香が気になるのか。

 閉じた瞼には、白い腹に刻まれた無数の刻印が浮かんでいた。

 あの一つ一つを、KAKERAは記憶しているのだろうか。

 そう考えただけで、数彦の気が滅入ってきた。

 もし、自分がKAKERAだったら、そう考えずにはいられなかった。

「ネズミか」

 突拍子もないキャラクターだが、それを考えることは、KAKERAにとって、必死だったのではないだろうか。

 そう考えると、今、KAKERAがどこでどうしているのか、心配になった。

 街の路地裏で、膝を抱えて動けなくなっているのかもしれない。華奢な膝小僧と、さらに壊れやすい繊細な心を抱きしめるようにして。

 数彦はベッドから起き上がり、着替えると、KAKERAを探しに街へ出た。

 もちろん、あてなどはなかった。KAKERAがどこに住んでいるのかさえ知らないのだ。ただ、歩き回っただけになった。

 結局、見つからなかった。

 歩き疲れて、川沿いの遊歩道まで戻ってきた。

 太陽は真上に上がっていた。すでに、午前の第一講義と第二講義は欠席になっていた。午後の講義にも出る気はさらさらならなかった。

 空腹を感じ、数彦は苦笑いした。

 人は心配事を抱えると、水も喉を通らないというのに自分は、KAKERAのことを心配しながら、昼が来れば腹が減るのだ。

 そういう、男なのだ、と、自分を笑うことしか出来なかった。

 昼過ぎの「天球儀」には、スローなブギがかかっていた。午後の弱々しい日差しに、妙にマッチした曲だった。

「この時間に珍しいな」

 マスターは数彦を見て、ポケットから紙を取り出した。「天球儀」の名前が入ったメモ紙だった。

「さっき、昨日の子が来てね、お前さんにメモを渡してくれって」

「昨日の子。二人のうち、どっちですか」

「小さい子の方さ。お前さんが泣かしていた子だ」

「人聞きが悪い」

 震える指でメモを受け取った。KAKERA独特の文字で走り書きがあった。

 十八時、お部屋にお邪魔します。夕食をご馳走してください、

 とだけ、書かれてあった。

「どういう意味だ」

 首をひねる数彦を見て、マスターがメモを覗き込んだ。

「そのままの意味だろ」

「だから、どういう意味なんだろうか」

 マスターは肩をすくめた。

「わからないかな。泣かせたのはお前さんだ。お詫びに夕食くらい、安いものだろ」

 数彦はランチセットを注文して、いつもの席に座った。

 KAKERAが、どういうつもりでこのメモをここに残したのかを考えようとした。

 しかし、それよりも、KAKERAが変なことにならずにここに顔を出したということに対する安堵感だけが湧き上がっていた。

 急いで探す必要はなくなったと判断し、数彦の心が落ちついた。

 窓の外を見ると、午後の日差しを揺らしながら、川が流れていた。

 川は常にそこにあるが、見ている水は一瞬で違うものになっている。そういうことを書き表した古典を思い出していた。

「でも、川は、川だ」

 向こう岸の住宅街は、白く煙って見えていた。太陽は遮るものもなく地上を照らしていたが、東の空は鈍色(にびいろ)の雲のベールが緞帳のように垂れ込めていた。

「今夜は、雪だね」

 ランチセットの、透き通ったテールスープを持ってきたマスターは、数彦と同じ、窓の外遥か、東の空を見ていた。

「今夜、この席を予約できるかな」

 マスターは、天井を見上げ、運行儀を見た。しばらくしてから、首を振った。

「自分の不始末だ。自分で食事を作ってやるんだな。あの子もそれを望んでいるさ。その方がいいと、占いにも出ている」

「まさか、この運行儀で、占いも出来るってことか」

 マスターはカウンターの奥に戻りながら、天井を指差した。

「これは、西洋占星術の秘儀なんだよ」

 数彦も、天井を見上げた。ゆっくりと回る火星天と土星天が、ひとつに重なろうとしているように見えた。

「これが、秘儀。眉唾物だなあ」

 占星術の真偽は別として、マスターのテールスープは本物に間違いなく、スパイスの利かせ方も数彦の好みだった。

 香ばしい大麦パンで、皿に残ったスープの最後の一滴までさらいながら、数彦は夕食のメニューを考えていた。

「あれなら、出来るな」

 子供の頃好きだった、煮込み料理が頭に浮かんだ。あれなら身体が温まるし、数彦も何度か作って要領を覚えている。

「冬野菜に、ベーコン。鶏がらスープで、キノコを三種類。あとは、ええと」

 他人のために料理を作るなど、初めてのことだった。数彦は、どこかうきうきとする自分の心が不思議だった。

「天球儀」を出て、街へ向かった。百貨店の地下に寄って、食料品を買いにいこうと決めた。

 歩き始めた時、携帯が鳴った。美湖からの着信音だった。

 出るとすぐ、美湖がしゃべり始めた。

「部屋に寄ってみたけど、いなかったわ。デート中かしら」

「馬鹿を言え。それどころじゃない。あれから大変だったんだ」

「大変って、数クンは、いつも大変でしょ。人生そのものが大変じゃない。まだ慣れないの」

「慣れるとかそういう問題じゃない」

「KAKERAちゃんと代わって」

 美湖は数彦がKAKERAと一緒にいると思っていた。本当にデート中だと思っていたのかもしれなかった。

「いない。大変な騒動の途中でどこかへ飛び出していった」

「どこにいるのかわからないの」

「ああ」

「探さなくちゃ。ぼんやりと待っててはダメよ。追いかけなくちゃいけない時と、追いかけちゃいけない時があるけど、今は追いかける時だと思うわ」

 長くなりそうだと思い、遊歩道に設置された樫のベンチに腰を下ろした。川風を受けて、しっとりと冷たかった。

「探したさ。「天球儀」に伝言があった。あいつにまで、俺の行動パターンは、すっかり読まれている」

「数クン、単純だもの。面倒臭がりだからでしょ、生活パターンを変えないのも。女の子はすぐに変えるのに」

 美湖の口調は楽しそうだった。数彦は、KAKERAのことは敢えて口にしなかった。

「今夜、料理しようと思うんだ。暇なら買い物、手伝ってくれるか」

「あら、なんだかお天気がおかしくなってきたと思っていたけど、理由がわかったわ。数クンが私のためにお料理までしようなんて」

「この空は俺のせいじゃない。買い物を手伝ってくれたら、一口くらい食べていってもいい」

 美湖は受話器の向こうで、意味ありげな笑い声を上げた。

「はいはい、お買い物は手伝うわ。でも、料理は一人でしなさい。その方が、KAKERAちゃん、喜ぶから」

 美湖にはお見通しだった。

「でも、そういうんじゃないんだ」

 待ち合わせ場所を伝えると、美湖は笑ったまま受話器を切った。

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