第8話 ノック
朝、気がつくと、KAKERAは数彦の胸に頬を押し当てて寝ていた。
穏やかな寝顔だった。
しばらく見入っていた数彦は、自分のしている行為に気づき、気恥ずかしくなった。
起こさないように気を使いながら、ベッドから降りた。
KAKERAは、添い寝していたものがなくなったのに気づき、何事か言いながら寝返りを打ち、丸くなった。また、静かな寝息が聞こえてきた。
ラジヲをつけると、いつものバロック音楽が流れてきた。
ボリュームを絞り、かすかに聞こえる程度にした。
洗面室の床に畳まれていたKAKERAの服を、そのままスチーム管の上に置いた。
湯気を吸ってじっとりと重かったが、しばらく置いておけば、ほかほかになるはずだった。
それからキリキリと冷たい水で勢いよく顔を洗った。
頭の中で処理しきれずにいる膨大な情報が、少しだけ整理できた。
そこでやっと、自分が空腹であることに気づいた。
「食料は、もうなかったかな」
コッヘルを火にかけてから、食料棚を漁った。非常食として置いてあるカンパンの缶しかなかった。
「朝食は、これでいいか」
開封し、中身をボウルに移した。
カンパンと小粒の氷砂糖が、派手な音を立てた。KAKERAが起きたかと思いベッドを見たが、今の音ぐらいでは起きそうにもないとわかった。
レモンが切れていたため、レモンなしのレモネード(偽)を一つ作り、カンパン入りのボウルと一緒にテーブルに置いた。
椅子に腰をかけ、カンパンを一つ、口に放り込み、数彦はKAKERAの寝顔を見つめた。
シャワールームでの異常な状態は脱したらしかった。
それどころか、寝顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。
じっと見ていると、寝返りを打った。毛布がめくれた。中のバスタオルもはだけていた。
その下が素っ裸だということを思い出した数彦は、顔をしかめながら立ち上がり、毛布を直した。
椅子に戻ってレモネード(偽)を飲み、次のカンパンを口に放り込んだ。
しばらくそうしながら、飽きることなく、KAKERAの寝顔を見つめていた。
ラジヲの楽章が変わったのを機会に立ち上がると、スチーム管の上で温まったKAKERAの服を、枕元へ持っていった。
もう一度、椅子に腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
「お前は、いい子だ。何も謝ることなんて、ない」
部屋に蜂蜜だけの香りが満ちていた。
可愛い呻き声とともにKAKERAが目覚めたのは、冬の日がだいぶ高くなってからだった。
数彦は、その様子をみて、レモネード(偽)を淹れに、台所へいった。
戻ってきた時、KAKERAはベッドに横になったまま、自分がなぜそこに寝ているのか考えている風だった。
「起きたか」
数彦の声に、KAKERAは跳ね起きた。どこにいるのか気づいたらしかった。
同時に、自分がどんな格好をしているのかも気づいた。跳ね飛ばした毛布とバスタオルを必死でかき集め、身体を隠そうとした。
「何だ、幽霊とでも会ったような顔をしているぞ」
KAKERAは、上目遣いで、数彦を見た。
「僕は、どうしてこんな。僕に、何を」
声に、戸惑いと非難の響きがあった。頭の中がパニックになっているのだろうと思った。
「忘れているかもしれないが、お前は夜中に、シャワーを浴びながら寝てたんだよ」
思い出したらしく、怒ったようにも見えていたKAKERAの顔が、見る見る、泣きそうになった。
「お前の脱いだ服は、枕元に置いておいた。背中を向けていてやるから、さっさと着ろ」
数彦は、椅子を反対方向へ向け、座った。
バロック音楽と、衣擦れだけが聞こえていた。
火傷のことは、気にはなったが、聞いてはいけないような気がした。
KAKERAが繊細なのは、身体の造りだけではなく、それより遥かに砕けやすく脆い心を持っているように思えた。
「振り返ってもいいか」
「まだ、だめ」
毛布から出ずに着替えをしようとしているらしく、悪戦苦闘している様子が気配からわかった。数彦の唇に笑みが浮かんだ。
「まったく」
目を閉じた、その時。
玄関が乱暴にノックされた。
美湖ではなかった。ネイルアートに時間をかけている美湖は、爪に影響があるようなノックはしない。
心当たりがある来客は、理瑠だけだった。
数彦は肩越しに、KAKERAへ「早く着替えろ」とだけ言うと、ノックのやまない玄関へ向かった。
ドアを薄く開けて怒鳴った。
「近所迷惑だ」
ドアの隙間の向こうから、理瑠のアイラインが利いた目が睨んでいた。
「開けなさいよ」
「どういうつもりだ」
「誰と寝たの」
「君には関係ない話だな」
「中に入れて」
「理由がない」
「話がしたいの」
「必要がない」
理瑠の目の奥に、何かがちらりと動いたように見えた。炎のようでいて、冷たい光だった。
「必要かどうか、理由があるかどうか、それは私が決めるわ」
「何様のつもりだ」
「私よ。それで十分だわ」
瑠璃の目が動いた。数彦の背後で動くものを追ったように見えた。理瑠の唇が、笑みを浮かべた。
「ふぅん」
「何だ」
理瑠が一歩下がった。意味が想像できない不気味な笑みを浮かべたまま、言った。
「あなたが考えているより、私は大人よ。ここで揉める気もないわ。中に入れて。静かに話をしたいの、その子と」
理瑠が、数彦のすぐ後ろを指差した。KAKERAがそこまで出てきたと思い、数彦は振り返って叫んだ。
「奥にいろ」
しかしそこには、誰もいなかった。
騙されたと気づいた時には、理瑠がドアを押し開き、猫の身のこなしで中に滑り込んでいた。
数彦が、怒鳴ろうとするより先に、理瑠が言った。
「外で騒ぎたくないわ。あなたも、でしょ」
数彦は、開きかけた口を閉じた。理瑠の前に立ちはだかるようにして、歯の隙間から言葉を絞り出した。
「これ以上、中に入るな。俺にも、限界というものがある」
「私にだってあるわ。そんなもの」
理瑠の視線は、数彦を無視し、部屋の奥に固定されていた。それがベッドの置いてある方向だということは、振り向かなくてもわかった。
「へえ、そうなんだ。もう、そういう関係なんだ」
「勘違いするな」
「このどこを見て、勘違いなんて言えるのかしらね」
「化粧の乗りが悪いな。夕べ、熟睡していないんだろう。帰って、寝直せ」
「相変わらず、どうでもいいことにはよく気がつくのね」
「いいから今日は帰れ」
「嫌。その子に、幾つか質問したいだけよ」
理瑠はずっと、数彦の背後にいるKAKERAを視線に捉えたまま、目で追っているようだった。
その目の動きからすると、KAKERAは今、ベッドを降り、玄関に近づいてこようとしているようだった。
振り向かずに、数彦は怒鳴った。
「KAKERA、来なくていい。椅子に腰掛けていろ」
「KAKERAっていうのがその子の名前なの。変な名前ね」
数彦の背後から、声が聞こえた。
「変ですけど、僕は気に入っています」
理瑠が平然と答えた。
「変な男には変な名前の女の子がお似合いだものね」
理瑠と話をするのだけでも大変だというのに、後ろでKAKERAが火に油を注ごうとしていた。数彦は眩暈に襲われた。
理瑠は目を細めた。
「名前も変だけど、中身も変みたいね」
「僕のどこが変なんですか」
「こんな男の部屋に泊まるなんて、それだけでも十分、変だわ」
「昨日は、寝てしまったんです。きっと、あの紅茶に、何か入ってたんだ」
理瑠が噴き出した。
「あら、あなた、そんなセコイ手も使うようになったの」
「ブランデーがたくさん入りすぎていただけだ」
「何でも匙加減、よね」
「話が済んだら、帰れ」
「ずいぶんね。そんな子供の方がいいなんて、あなた、おかしいわよ。精神科の治療が必要よ」
「だから、俺とKAKERAは、そういう関係じゃない」
「上手な嘘になら、騙されてあげようと思うこともあるけど、人を小馬鹿にしたような嘘は、大嫌い!」
数彦は、これ以上の議論は不毛だと感じた。理瑠の身体ごと、玄関のドアを外へ押し開けた。
「まだ、話は、終わってないわ」
「十分だ。こんな茶番」
理瑠は抵抗したが、数彦の力に適うわけはなかった。そのまま廊下に押し出された。
その瞬間。数彦の脇を潜るようにして、影が部屋から飛び出していった。廊下を走り去る背中で、KAKERAだとやっと気づいた。
「おい、KAKERA」
数彦は、スリッパを脱ぎ捨て、靴を突っかけた。
その様子を、瑠璃が少し離れて見ていた。数彦は理瑠を無視して、KAKERAを追った。
背中に、理瑠の声が飛んできた。
「私の時は、追いかけて走ってくれたことなんて、一度もないじゃない!」
数彦はその言葉を振り切るようにして、KAKERAの消えていった廊下の奥へ向かって走った。
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