第7話 シャワー

 ベッドで熟睡しているKAKERAを追い出すわけにもいかず、数彦は予備の毛布をつかむと、ソファーに寝転がることにして、ベッドメイキングした。

 横になると、今日一日の出来事が、次々と脳裏に浮かんできたが、すべてを無視しようと決めた。

 美湖の残していったブランデーを、残りの紅茶に注ぎ、煽るように飲んだ。

 そのまま、酔いが身体を包み込むのを待った。

 気がついた時には、自分が寝ていたことに気づいた。まだ、窓の外は暗く、部屋はスチーム管の効果も虚しく、薄ら寒くなっていた。

 数彦は、まだはっきりしない頭で、来週はクリスマスだということだけがわかっていた。

 今年は雪が少なく、ホワイト・クリスマスは無理だろうというのが予報士の共通見解だった。

 しかし同時に、何人の予報士が結束しても、天が雪を降らせようと決めれば、それで勝負がつくこともわかっていた。

 次に思い浮かんだのは、自分がなぜ、ソファーに寝ているのか、という謎だった。

 それは、客がベッドに寝ているからだとわかったが、その客がすぐに誰か、思い出せなかった。

 美湖でもない、理瑠でもない、誰か。

「KAKERA」

 思い出した。

 美湖は帰り、眠ったままのKAKERAを、またも部屋に泊めることになってしまったのだと。

 その次に、なぜ、目を覚ましたのだろうかと考えた。

 普段から眠りが深い数彦が、今、目を覚ましたのは、ソファーが寝苦しかっただけではなかった。

 何かが気になったからだった。

 意識が、少しずつ、落ち着いてきた。しかし、脳の回転は不十分だった。

 何が気になったんだろう。

 そうだ、音だ。

 今も聞こえている。この音で目覚めたのだ。

 数彦はそう確信したが、まだ身体は起きていなかった。

 横になったまま、じっと、その音を聞いていた。

 シャワーの音だった。

 誰かが、シャワーを使っている。

 換気扇を回していないのか、部屋の中も、湿っぽくなってきているような気がした。

 数彦は、ぼんやりと考えていた。

 自分はシャワーを浴びていない。シャワーを浴びているのは、別の誰かだ。

 この部屋にいるのは、自分と、KAKERAだけだ。

 つまり、シャワーを浴びているのは、KAKERAだ。

「KAKERAがシャワーを浴びている。それだけだ」

 そう納得すると、意識はゆっくりと眠りに戻ろうとした。

 しかし、何かがそれを妨げていた。

 なんだろう、この感覚は。

 数彦は、しばらく考えて、それが、「不安」であることに気づいた。

 シャワーの音が続いている。

 単調な音。シャワーノズルから、水滴が勢いよく壁や床に叩きつけられ、集まり、排水溝へ流れていく音。単調な、聞きなれた音。

 単調? なぜだ?

 数彦の脳が動き始めた。

 いつから、この音が続いているのだろう。

 長い時間、聞いているような気がする。不思議なことに、シャワーを浴びている人の気配がなかった。

 人がシャワーを浴びれば、水の当たり方が変わる。シャワーの音も、不規則に変わる。短調なままではない。

 数彦は跳ね起きた。

 KAKERAがシャワーの途中で、気分が悪くなって倒れている、そう思ったからだ。

 シャワーの取っ手をつかんだところで、躊躇した。KAKERAが普通にシャワーを浴びていたなら、とんでもない痴漢行為になると思いついたのだ。

 しかし、スモークの入ったドアの内部に透けて見えるはずの、人影らしきものは見えなかった。

「大丈夫か。開けるぞ」

 必要以上に大声をかけてから、ドアを開けた。

 誰もいないように見えた。

 壁フックにかけられたノズルから、お湯がほとばしり出ていた。シャワールームいっぱいに、真っ白な湯気が詰まっていた。

 反対側の壁を見た。

 そこにいた。

 KAKERAは、床に座っていた。

 膝を両手で抱え込み、顔を膝小僧に押し付けて。

 シャワーは動かないKAKERAの頭から降り注いでいた。

 数彦はシャワーを止めた。しかし、KAKERAに反応はなかった。

「大丈夫、か」

 不自然なほど白い身体と、濡れて張り付いている黒髪とのコントラストが、作りかけで放置された人形のように見えた。

 数彦は、恐る恐る、その肩に手を当てた。

 華奢な氷の骨で出来ているような、冷たい肩だった。軽く、揺すってみた。

「おい。大丈夫か」

 反応はなかった。

 何かが聞こえた。

 それがKAKERAの呟き声だとわかるまで、少しかかった。

 何を言っているのか聞こうと、耳を近づけた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 消え入りそうな声で、繰り返し、それだけを繰り返していた。

 数彦は、それがどういう意味の「ごめんなさい」なのかわからなかった。

 ただ、KAKERAが気を失っているわけではないことがわかり、ほっとした。

 ほっとすると同時に、少しずつ腹が立ってきた。

「脅かしやがって。今度は何だ」

 数彦の声に、反応はなかった。ただ、同じ言葉を繰り返すだけだった。

「まず、ここから出ろ。身体を拭けよ」

 聞こえている気配がなかった。数彦はハンドタオルを一本持ってくると、頭に乗せた。

「風邪、ひくぞ」

 ぴくりとも動かなかった。

「なんだよ。拭けって、か」

 鼻を鳴らしてから、数彦は少し乱暴気味に、KAKERAの頭をタオルで拭いた。

 しかし、何の反応もなかった。

 頭を拭くと、その反動で全身が揺れた。その揺れに堪えようとする気配すらなかった。それどころか、まるで瀬戸物で出来た置物のように、全身が硬直していることに気づいた。

「おい。本当に、大丈夫か」

 だんだん不安になってきた。何かの発作が出ているのかもしれないと思った。

「まず、そうだな、身体を拭かないと」

 膝を抱えたまま硬直しているKAKERAの髪を、肩を、背中を、数彦は壊れ物を扱う手つきで拭いた。

 その時、背中に染みのようなものがあるのに気づき、拭き取ろうとした。

 拭き取れなかった。

 それは、大理石のように白いKAKERAの皮膚に、深く刻印されていた。

 数彦は、それが何であるのか、最初はわからなかった。指で、触れてみた。それで落ちる汚れではなかった。

 ケロイドだった。

「火傷の跡、か。こんなに」

 よくみると、火傷のケロイドは、背中から脇腹にかけて、皮膚を埋め尽くすようにびっしりとあった。

 古そうなものから、新しいものまで、幾十もの小さなケロイドが、まるで白い皮膚の装飾のように、広がっていた。

 その斑点の模様を切り裂くように、鋭い傷跡もあった。

 KAKERAは、服を着ているときには見えない部分が、すべて傷ついていた。

「自分でやったのか」

 そうでないことは、手の届きそうもない部分にもついていることから、違うとわかった。

「じゃあ、誰が」

 KAKERAは硬直したまま、「ごめんなさい」を繰り返し、呟いていた。

 数彦はシャワールームを出ると、スチーム管の上で、いつもほかほかにしてあるバスタオルを取ってきた。それで、膝を抱えたままのKAKERAを包み込んだ。

 そのままタオルごと、KAKERAを抱えあげた。相変わらず、飴細工のように、脆くて軽い身体だった。

 ベッドに横たえても、KAKERAは膝を抱えた姿勢のまま硬直していた。タオルにくるまれたまま、呟きを繰り返していた。

 数彦は、横たわったKAKERAの背中から腕を回し、抱きしめた。そして、一緒に毛布をかぶった。

 数彦の腕の中で、KAKERAは呟きながら震えていた。それでも少しずつ、自分の体温が、冷たいKAKERAの中に染み込んでいくのを感じた。

 しばらくすると、KAKERAの呟きが聞こえなくなった。

 代わりに、小さな寝息が聞こえてきた。それを確認してから、数彦は眠りに落ちた。

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