第6話 美湖

 部屋に戻り、ラジヲをつけると、いつものスローなジャズが流れ始めた。

 スチーム管を蒸気が走り、冷え切っていた部屋が、ゆっくりと息を吹き返した。

 軽くシャワーを浴びた数彦がタオルで髪を拭いていると、携帯が鳴った。見ると、見たことのない番号だった。

 放っておいた。しかしコールが切れると、十秒も間を置かずに同じナンバーからかかってきた。

 それが七回繰り返された。

 数彦は八回目が来ないのを見計らってから、そのナンバーを受信拒否に登録した。

 理瑠が携帯ナンバーを変えてかけてきたとしか思えなかった。

 今夜はじっくりと、読書をしようと思っていた。

 しかし、夕べからのごたごた続きで、活字を目で追う気持ちは湧かなかった。

 それでは早めに横になろうと、ベッドメイキングをし、レモネードのためのお湯を沸かした。

 ガスに火をつける時、手にした「天球儀」のマッチを見て、KAKERAを思い出した。

 これを見て、あの店まで来たのだ。しかもマスターに数彦の知り合いだといって、三時間も粘って待っていたのだ。

「それで結局、俺に聞かせたかったのはパパが帰ってくるという話だけじゃないか」

 それだけのことを数彦に伝えるのに、しかも数彦が現れるかどうかもわからない店で、三時間も待ち続けるだけの重要性があるとは、とても思えなかった。

 しかも最後は、突然、店を飛び出して消えてしまったのだ。数彦の理解を超えていた。

 お湯が沸いた。いつもの手順で、レモネードを作った。

 レモンがもうじきなくなりそうだと気づいた。蜂蜜の備品はまだまだあった。

 美湖の亭主は貿易商で、質のいい蜂蜜を大量に輸入していた。それを美湖から、ただ同然で分けてもらっていた。

 単位が取れずに奨学金が停止されても、熊のように、この蜂蜜を舐めて生き延びることも出来そうだと、馬鹿な考えを浮かべ、自嘲した。

 部屋に、レモネードの香りが満ちていった。

 耳には落ち着いたジャズピアノの響き。

 しばらく、そのままの時間を過ごしたかった。今日一日だけで溜まってしまった灰汁のようなものを、綺麗さっぱりと取り除きたかった。

 しかしそれは、すぐに不可能になった。

 ドアが、リズミカルにノックされた。美湖独特のノックだった。

 数彦は、一瞬だけ躊躇してから、ドアを開けた。

 予想通り、美湖が立っていた。

 そして、もうひとつ、思いもしなかったものも、美湖と一緒に立っていた。

「KAKERA」

 美湖の着ている銀狐のコートの前に掻き込まれるようにして、顔だけが覗いていた。

「カンガルーの親子だな」

 毛皮の隙間から見えている小さな顔は、しょぼくれて、数彦を避けるように視線を落としていた。

「この子、すぐそこで会ったの。覚えてるでしょ、ネズミの子」

「覚えているどころか、少し前まで「天球儀」で一緒だった」

「そうなの。へえ。やっぱり。手が早いのね」

「そういうんじゃない」

「ここは寒いわ。入れてね」

 数彦を押し退けるようにして、美湖は部屋に入ってきた。美湖に押されるようにして、KAKERAも侵入してきた。

「あら、レモネードのいい香りがするわ。あたしたちにも淹れてくれるんでしょ」

「ああ、わかったよ。そこで待っていろよ」

 数彦は、さらに二杯分、レモネードを調合した。レモンが完全になくなった。

 出来たレモネードをテーブルに運ぶと、好奇心いっぱいの目をした美湖と、うなだれたままのKAKERAが並んでいた。

「どこでこの子と会ったんだ」

「面白いのよ。このマンションの前で、あなたの部屋の明かりを見つめて立っていたの。もう冷えてきているのに、こんな薄着で」

「おい」

 KAKERAに声をかけた。自分でもきつい声になっているとわかっていた。

 KAKERAは俯いたまま、肩を震わせた。その肩を、美湖が抱き寄せた。

「ダメよ、そんな脅かすような声を出しては。怯えてるわ」

 美湖を無視して、KAKERAに言葉をぶつけた。

「さっき、言ったはずだ。二度と係わり合いにはなりたくない。今日は、泊めたりしないぞ」

 言ってから、美湖の目の輝きに気づいた。目の奥で好奇心が舌なめずりしているのがよくわかった。こうなると、美湖を止めることは誰にも出来ない。

「今日は、ですって? あら、もう、お泊りしたのね、ここに」

 美湖に抱きかかえられながら、問われたKAKERAの小さな頭が、こくんとうなずいた。

「おうちに帰れない事情があるんでしょう。ここは、住人に同居人がいない時は、落ち着いていて、居心地のよい場所よ」

「勝手な話をするな。俺には俺の生活がある」

 美湖は数彦の言葉など気にもせず、KAKERAに囁いた。

「まずは、このレモネードを飲みなさい。温まるわ。ここの住人は、性格が悪くて、女の子に手が早いけど、レモネードを作る腕はいいのよ」

 美湖はわざと数彦を無視することで苛立たせようとしているのだと、わかっていた。

 これはいつもの手だ、乗ってはいけない、そう自分に言い聞かせながらも、数彦は苛立ってくるのを押さえられなかった。

「飲んだら、出て行けよ」

 美湖が顔を上げ、顎を突き出すようにして言った。

「あら、冷たいのね。女の子には優しい数クンが、どうしてこの子にはつれないのかしら」

「今日、あるところで、ある女性に、冷徹なダメ男だって、面と向かって言われたよ」

 美湖は、楽しそうな目でうなずいた。

「それもいつものことじゃない。数クンは、一度切った女の子には、とことん冷たいもの。あんなに優しかった人がなぜって、女の子は戸惑うのよ。だから、いつまでもあとを追いかけてくるの」

「終わったものは、もう終わりでいいじゃないか」

「だって、数クンの中だけで終わってるじゃない。相手の女の子の中で終わっていなくても」

「関係ないだろ、今は、KAKERAの話だ」

 美湖は、さらに優しくKAKERAを引き寄せた。

「あなた、カケラちゃんって言う名前なのね。変わっているけど、いい響きだわ」

 KAKERAが美湖を見た。

「そう、思いますか。僕も、響きだけは気に入っているんです。文字は、平仮名も片仮名も漢字も嫌で、ローマ字綴りにしてるんです」

「そうなの。KAKERAちゃん、なのね」

 いつの間にか、美湖の企みどおり、数彦VS美湖&KAKERA連合という構図になっていた。数彦に勝ち目はなかった。

「勝手にしろ」

 数彦は二人をテーブルに残し、自分は少し離れた勉強机の椅子に座った。

 レモネードに口をつけたが、すっかり冷めていた。

 美湖とKAKERAは、昔からの知り合いのように、話をし始めていた。

 しかも、美湖はわざと、数彦に聞こえるような声でしゃべっているのがわかった。

「外泊しても、心配してくれる人はいないの」

「誰もいないんです、家には。僕がいても、誰もいないのと同じなんです。がらんとしていて、寒くて」

「家には人が多い方が楽しいものね。ここなら、ほら、もう三人もいるわ。温かいし。レモネードも美味しいわよ」

「でも、僕は、もうここへ来ちゃいけなかった」

「どうして」

「来るなって言われた、から」

 美湖は、ちらりと数彦を見てから、優しい声でKAKERAに言った。

「強がってそう言ってるだけよ。ここの住人は、それはそれは、寂しがり屋さんなのよ」

「そうなんですか」

「そうよ。だから、女の子が好きなの。優しく、温かく、傷ついた心を包み込んでくれるから。でもね」

 数彦は降参した。これを続けられては、話がどこまで行くかわからない。

「やめろよ。もういいだろ、美湖」

 美湖が不満げに頬を膨らませた。目は、満足げに笑っていた。

「俺は今、いろいろ問題を抱えてるんだ。その一つが、KAKERAだ。だからここに来るなと言った。俺がしてやれることは、何もない。期待を持たせても失望させるだけだ。それなら、はじめから何もしてやれないと言ってやったほうが、KAKERAのためだろう」

「そうかしら。何も出来ないとわかっても、それでも一緒に考えてあげることが大切なんだと思うわ」

「無意味だ。それが何になる」

「希望になるわ」

 数彦は肩をすくめた。

「希望が何の役に立つ」

「希望がないと、人は生きてはいけないものよ」

 美湖の視線が、数彦の目を射抜いたような気がした。笑い飛ばそうと思っていた言葉が、喉で詰まった。

 口で美湖にかなうわけがないと改めて悟り、自分に逆らうなと言い聞かせた。

「それで、その希望をKAKERAに与えるために、俺に何をしろって言うんだ」

 美湖は穏やかな目に戻ると、レモネードを飲むKAKERAを見つめた。

「一緒にいて、お話を聞いてあげるだけでもいいと思うわ。ね、KAKERAちゃん」

 KAKERAは、コップを口にしたまま、小さくうなずいた。

「わかったよ。じゃあ、「天球儀」でしていた話の続きをしようか。あの時は、いきなり飛び出していったから、途中までだった」

 KAKERAは飲み終わったコップを手の中で回すだけで、黙り込んでしまった。

 美湖は、じっと、数彦の様子を観察していた。

「どうした。あれで話は終わりだったのか」

「もう、数クン。急かさないの」

 美湖は、抱き寄せていた肩を開放し、立ち上がった。

「紅茶が飲みたくなったわ。茶葉は、あるでしょ」

「先週、美湖が持ってきたアールグレーが手付かずのままある。勝手に飲めばいい」

「つれないのね。三人分、淹れるわ。それと、ショコラ、買ってきてるの。食べましょう」

 美湖が台所へ消えると、KAKERAが顔を上げた。怒っているような、泣いているような、微妙な表情だった。

「あの人が、あなたのパートナー、ですか」

「なんだ、パートナーって。美湖はただの従姉弟だよ」

「名前で呼んでたから」

「名前で呼んだら、恋人か。短絡しすぎだ。お前、彼女、いないだろ」

 KAKERAは俯き気味になり、下唇を噛み締めてた。

「僕は」

 そう言って、言葉が詰まった。何かを言いたそうに唇は動くものの、言葉は出てこなかった。

 台所からは鼻歌が聞こえてきていた。食器の触れ合う音と、お湯の沸く音が重なった。

「俺のパートナーのことなんかより、お前のパパの話をしたかったんじゃないのか。来週、帰って来るって言ったよな。入院でもしていたのか」

 KAKERAは小さくうなずいた。

「でも、治りっこないんです。いつも、そうなんです。いつも」

「何回も、入院しているのか」

「お医者様が治ったって言ったからって、家に帰ってくるんです。いつも、はじめは、治ったように見えるんです。でも、すぐにまた、入院するんです。それの繰り返しです。ネズミは、お医者様には退治できないんです。絶対に。あいつは、お医者様を騙すのが上手いから」

「ネズミは、いつからお前の家にいるんだ」

「わかりません。でも、ママがいなくなるちょっと前から、いたような気がします。まだ、小さくてよく覚えてないけど。ママも、ネズミと戦ってたんだと思います。でも、負けちゃったんです、きっと」

 数彦は、KAKERAの話を自分なりに解釈しようとしていた。

 ネズミといっているのは、治りにくい病気なのだろう。

 看病に疲れた母親は、倒れて死んでしまったのか、家を出て行ってしまったのか。今はKAKERAが一人で暮らしているのだろうか。

「今、幾つなんだ、お前は。中学生か」

「そうです。一年です」

「学校には行ってるのか」

 答えはなかった。

「今は、誰と暮らしてるんだ」

 これも、答えは戻って来なかった。KAKERAはさらに俯き、動かなくなった。

 そこに、紅茶とブランデーの香りがやって来た。

「あらあら。取調室みたいになってるわね。困ったこと」

 美湖はテーブルにカップを並べた。中央に皿を置き、鞄の中からショコラの箱を取り出した。

「スイスにあるお気に入りのお店のものなの。KAKERAちゃんは、ショコラは、好きかしら」

 KAKERAの顔が上がった。白磁の皿に並べられた色とりどりのショコラの包み紙に、目を奪われていた。

「まあ。もう、虜みたいね。どうぞ、遠慮しないで食べてね」

 KAKERAは、白くて細い指を伸ばし、赤い包み紙のショコラを取った。

 数彦は黒の包み紙を摘み上げた。包み紙をはがし、口に放り込んだ。ビターな味が口の中いっぱいに広がった。

 カカオ豆が違うのか、味わいの深さが、スーパーのチョコレートとは根本的に違っていた。

 KAKERAも、チョコを口に入れて、融けて広がる芳醇さに驚いたのか、目を丸くした。

「美味しい」

 KAKERAの素直な言葉に、紅茶を注ぎながら、美湖が微笑んだ。

「褒めてもらえると、買ってきた甲斐もあるわ。どこぞの朴念仁みたいに、お腹を空かせた雛鳥みたいにぱくついているだけだと、張り合いがないものね」

「悪かったな、朴念仁で。ああ、美味い美味い」

 数彦はわざとらしい口調で褒めながら、緑色の包み紙をつまんだ。頬を赤らめ、味わいながら食べているKAKERAに聞いた。

「黒はビター味だった。赤は何味だい」

 KAKERAは嬉しそうに答えた。

「ストロベリー味」

「そうか。包み紙の色で味がわかるようにしているのかな。緑はなんだろう」

 数彦が緑色のショコラを摘み上げると、美湖が黄色い包み紙を開けながら口を挟んだ。

「緑はピーマン味」

 数彦の指が、緑色のショコラを摘み上げたまま、凍りついた。

「ま、まさか。変なこと、言うなよ」

 幼い頃、数彦はピーマン嫌いで母親を困らせた。それを知っていて、美湖はわざと言っているのだ。目が、楽しくてたまらないという輝きに満ちているのが憎たらしかった。

「抹茶かな」

「あら、スイス直輸入だけど、抹茶なの」

「うるさいな。今から味わうんだ」

 数彦は包み紙を開けるとショコラを取り出した。

「見た目は普通のショコラだ。問題は中身だな」

「ピーマンだったら、面白い顔になるから、KAKERAちゃん、見てなさい」

「う、うるさい」

 数彦は、ショコラを口に放り込んだ。

 KAKERAが数彦と美湖のやり取りを興味深そうに観察していた。

 数彦は、それに気づいて、ショコラを頬張ってから、わざと顔をしかめた。KAKERAが心配そうに訊ねた。

「ピーマンだったんですか」

 数彦はKAKERAの真剣な顔に思わず吹き出した。

「そんなわけがあるわけないさ。キウイ味だ」

「よかった」

「もう、悪い人。KAKERAちゃんを心配させて」

「ちょっとからかっただけさ」

「そうやってKAKERAちゃんの関心を引こうって言うんでしょ。古い手だわ」

「何でそうなる」

 数彦たちのやり取りを、KAKERAは紅茶を啜りながら、ただ、驚いた目のまま、見ていた。

 その表情の変化を美湖が横目で楽しんでいるのだということは、数彦にもよくわかっていた。

「俺は、誰ともわずらわしいことになりたくない。特に今は。一人で静かに過ごしたいんだ」

「それをさせないのは、あなたじゃなくて」

「どういうことだよ」

「あの、女の子のこととか、よ」

「知らないな。どの女の子だ」

「先月、映画館に送っていってあげたじゃない。あの時、元気な女の子が待っていたでしょ」

「ああ」

 理瑠のことだった。

「あの子はあなたを一人静かにさせておくような子じゃないと思うわ」

「よくわかってるな」

「女は顔に出るの。それに、もっとわかってるわ。数クンは、逃げるだけでしょ。でも、あの子みたいなタイプに、逃げ、は効かないわよ」

「じゃあ、何が効くか教えてくれよ」

「数クンとあの子とでは、愛の種類が違うの」

「どう違うんだ。男と女の恋愛なんて、立場が違うだけで本質は同じだろう」

「だから、数クンは面倒を起こすのね。あ、ちょっと待って」

 美湖は、自分にしなだれかかっているKAKERAを指差した。

「寝ちゃったみたい」

 ほんの一瞬の間に、眠りに落ちたらしかった。

「お子様だからな。少しベッドに寝かせておくか」

「起きたら、あたしが送っていってあげる」

 数彦は、華奢なKAKERAを、そっと持ち上げた。

 この間の夜と同じ、脆い氷細工のような骨格を感じた。このまま床に落とすと、砕け散って、なくなってしまいそうに、儚げな存在に思えた。

 ベッドに横たえ、毛布をかけた。

 かすかに寝息を立てているKAKERAの顔を覗き込んだ。白蝋のような頬に、血の色が差していた。

 気がつくと、数彦の一挙手一投足を、美湖が、笑みを含んで、じっと見ていた。

 数彦はKAKERAから視線を外して、ぶっきらぼうな口調で言った。

「こいつ、熱でもあるのかな」

「お酒かしら」

「お酒って、紅茶に垂らしたブランデーか。香り程度だろ」

 美湖は、空になったティーカップを覗き込んでいた。

「これ、あたしのなのに、KAKERAちゃん、間違えて飲んじゃったのね。ブランデー、たっぷり入ってたんだけど、気がつかなかったのかしら」

「まったく、何やってんだ」

 数彦は、KAKERAの顔を近くで観察した。ないとは思うものの、急性アルコール中毒という言葉が脳裏で踊っていた。

 しかし寝顔は穏やかで、息も粗くはなかった。

「KAKERAちゃん、きっと、生まれて初めて飲んだんじゃないのかしら、ブランデー。だから、よく効いて、寝ちゃったんだわ。寝酒効果ね」

「そうなら心配ないけどな」

「いいわね、KAKERAちゃん。数クンにそんなに心配してもらえるなんて。数クン、女の子を愛しても、心配することはないじゃない」

「そういう意味じゃないだろ。それに、俺は正常な性嗜好の持ち主だ。少年愛なんて、ないからな」

「そんな言い訳、あの女の子には効かないわよ」

 脳裏に理瑠の顔が過ぎった。昼間の騒動が思い出されるだけで、数彦は気分が暗くなった。

 彼女の顔が浮かぶような話に、美湖がわざと持っていっているのもよくわかっていたが、今夜は喧嘩する気力もなかった。

「それで、愛の種類とやらはどうなった」

 美湖は、KAKERAのティーカップを手にすると、残っている紅茶にブランデーを乱暴な手つきで注ぎ込んだ。

「昔から言うでしょ、愛には、奪う愛と、与える愛があるって。でもね、あたしの分類はちょっと違うの。愛には、相手に見返りを要求する愛と、自己完結する愛があるのよ。数クンのは、自己完結型。あなたの愛が終わる時、愛そのものが終わるのね。でも、愛はあなた一人のものじゃないのよ。あの子の愛も自己完結型なら、終わったのかもしれない。でも、あの子の愛は、あなたに見返りを要求する愛よ。だから、終わらない」

「見返りって、なんだよ」

「あの子の場合は、多分、愛」

「愛って、どういうことだ」

「あの子が数クンに与えているよりも遥かに大きな愛。それが見返りよ、きっと」

「そんな都合のいいものを要求するなんて、ずいぶん迷惑な愛だな」

「愛は、迷惑なものよ。自分の育んできた価値観に、他人が土足で踏み込んでくるものが愛、だから」

 美湖が紅茶を飲み、ブランデーの吐息を吐いた。

 視線をKAKERAに向けると、小さく笑みを浮かべた。

「もう一つ、愛の種類があったわ」

 数彦もKAKERAを見た。愛の迷惑さなど知らない風に、無垢な寝顔をしていた。

「迷子の愛。どうしていいのかわからない、不器用な愛」

「KAKERAの愛がそれだって言うのか」

 美湖が数彦を見た。怒っているのかと数彦がいぶかしむほど、細く鋭く、そして冷たい視線だった。

「知らないわ。自分で聞きなさい」

「いつもの美湖らしくないな。いきなり、愛の講釈なんて」

「そういう気分の時もあるの。女の子には、ね」

 美湖は立ち上がると、ソファーの背にかけてあったコートを取り上げた。

「帰るのか。KAKERAを連れてってくれるんだろ」

「気が変わったわ」

 美湖は数彦に形だけの笑みを見せると、そのまま玄関に向かった。数彦が口を挟む暇さえ与えなかった。

 後ろ手に閉めようとした玄関の戸を、少し開けると、美湖は振り向いて、言った。

「この部屋を外から見ていた子がもう一人いたって教えておいてあげるわ。あと、どうするかは自分で考えてね」

 ドアが閉まった。

 言われたことがすぐに理解できないでいる数彦と、幸せそうに小さな寝息を立てているKAKERAだけが取り残された。

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