第5話 パパ

 第二講義はサボったが、昼からの第三講義と第四講義は真面目に受講した。

 理瑠の姿も見かけたが、女の子の集団の中にいた。そこを離れて数彦の方に来る素振りはなかった。

 夕食は購買部で調理パンを買って帰ることが多かったが、今日は買い物をする気力もわかなかった。

「天球儀」で夕食も済ませることにした。

 店には軽食しかないため、明け方に空腹で目覚めるかもしれなかったが、慣れていることだった。

 数彦のように定期的なバイトをしない貧乏学生にとっては、夕食を抜くことも珍しくはなかったからだ。

 夕日を浴びた「天球儀」のドアベルを鳴らした。

 髭面のマスターが、なんとも言いがたい顔で数彦を見た。顎で、いつもの双児宮のテーブルを指した。

「あんたのお客さんが多い日だ」

 また理瑠かと思ったが、違った。予想もしていなかった顔が待っていた。

 KAKERAが座っていた。

 数彦は、そのまま店を出ようかと思ったが、先にKAKERAに気づかれた。

「こんにちは」

 あきらめて、テーブルへ向かった。すれ違いざまに、マスターが呟いた。

「あんたの知り合いだって言って、三時間粘ってるぞ」

 数彦は思いっきり、うんざりだという表情を見せてから、マスターに特製カレーを頼んだ。

 席に行くと、きらきらした目で数彦を見上げているKAKERAに訊ねた。

「どうして、ここに俺が来るってわかったんだ」

「台所に、ここのマッチが置いてあったから」

 数彦は肩をすくめ、いつもの椅子に座った。

 厭味っぽい口調で、数彦は言った。

「なるほど、名探偵なんだな、君は。それで名探偵さん、まだ、何か用があるのか。二度と会わずにすむと思って、ほっとしていたのに」

「え」

 KAKERAは、いきなり泣きそうな顔になった。

 ここで泣かれては厄介になると思い、口調を穏やかなものに変えた。

「今から俺は食事だ。食べ終わるまでなら、話を聞いてもいい」

「そうですか。それなら」

「ただし」

 慌てて話し始めたKAKERAを遮った。

「よく聞けよ。ただし、だ。話は聞くけど、聞くだけだからな。答えも何も期待するな」

 KAKERAは不満げに、口を尖らせた。

 ちょっとのことで泣きそうになったり、怒り出したり、精神的に不安定なんだろうと数彦は思った。

 数彦は、相手がすぐに話に入ると思っていたが、KAKERAは、自分の飲んでいたカップを指差し、関係のない話をはじめた。

「お店の人に、あなたがいつも飲んでいるのと同じものをくださいって注文したんです。名前は忘れましたけど、美味しい紅茶ですね。変な匂いや癖がなくて、何杯でもお代わりできます」

「ヌワラエリヤだ」

 KAKERAに話題に入る気がないのなら、数彦には、その間にどうしても聞いておきたいことがあった。

「今朝、俺の部屋を出た後、誰かにつけられなかったか」

「つけるって、僕のあとを、ですか」

「そうだ」

「どうして、誰が、僕をつけるんですか」

 数彦は、言葉を捜しながら答えた。

「ここらには詮索好きなやつが多くてな。見慣れない人物がいると、何者だろうってあとをつけたりするのさ。ストーカー気質が強いんだろうな、きっと」

 KAKERAは不安そうな表情をした。

「気がつきませんでした。霧も濃かったから、後ろに誰かがいたなんて、ぜんぜん」

「じゃあ、これからは後ろにも注意しろ。見慣れないやつが近づいて来たら、逃げた方がいい。それが、女の子でもな」

「そうなんですか。この辺りって物騒なんですね。知らなかった」

 マスターが、カレーの香りといっしょにやって来た。

「この店の周囲は、物騒じゃないから、安心して来てくれたらいいよ」

 それからマスターは数彦を指差すと、笑った。

「物騒なのは、こいつの周囲だけだから、ね」

 そんな、言わなくてもいいことを言って去っていった。

 しかしそんな戯言など、KAKERAには気にならなかったらしく、天井を見つめて笑っていた。

「ここ、素敵なお店ですね。太陽が、動いている」

 嬉しそうな顔で、そのまま天井の運行儀を見つめ続けていた。

 瞬間瞬間が、KAKERAの喜怒哀楽を気まぐれに点滅させているように見えた。

 数彦はカレーを口に運びながら言った。

「食べ終わったら、お前をここに置いて出て行く。もう、俺の部屋には入れない。話があるなら、食べ終わるまでにしろよ」

 窓の外を赤く染めていた夕日の最後が消えた。ゆっくりと夜が店を包み始めた。

 この時間、店に流れているのは、夜想曲(ノクターン)だった。今日はショパンの第二十番「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」だった。

「パパのことです」

「ネズミか」

 具体的な話を聞く前からうんざりした。またあのイカレた会話をしなければならないのかと気が重くなった。

 カレーの刺激的な美味しさだけが数彦の気力を支えてくれていた。

 KAKERAは、真剣な表情で話し始めた。

「パパは、治療をしています。来週、帰ってきます」

「へえ、ネズミを退治する場所があったんだ」

「いいえ。退治は出来ません。出来るのは、パパの治療だけ。それも、完全には治らない」

「大変だな」

 馬鹿馬鹿しくなる気持ちをこらえながら、カレーを口に運んだ。

 KAKERAはまっすぐな目で数彦を見つめていた。その目を見つめ返す気力はさすがになかった。

「パパはそんな治療じゃ治らない。治ったような振りをしているように、ネズミに操られているんです。ネズミは賢いから。やつを退治しなくちゃ、パパは本当には治らない」

「それで、ネコイラズでネズミ退治か。そんな賢いネズミが、毒を食べるかな」

「ネズミの分身は、パパの中にもいるんです。ですからまず、パパの中のネズミに毒を」

 数彦は驚いて顔を上げ、口を挟んだ。

「本気で、パパにネコイラズ入りを食べさせるのか」

「ええ」

「それはダメだろ」

「ダメですか。あの時の女の方も言ってましたけど。人が死なないでネズミが死ぬ量だけ食べさせればいいんじゃないですか。ずっと、そう考えていたんですけど」

 KAKERAはきょとんとした顔で数彦を見ていた。何の混じりっ気もない純真無垢な心で本気でそう考えているのだとわかった。

 数彦は、KAKERAがとんでもないことを起こさないように、どう説明しようか考え、言葉を選んだ。

「ええと、だな。どんなに量を調整したって、毒は毒だ。身体に良いわけがない。ネズミといっしょに、パパもやられる。ネズミが死んだ時には、パパは全身に毒が回って動けなくなっているかもしれない」

「そう、ですか。そうかも、知れない」

「それに、敵は人を操るネズミなんだから、きっとしぶとい。毒はネズミだけじゃなく、パパにも効いてしまうぜ」

「パパにも」

 KAKERAはまた、泣きそうな顔になった。目の縁に、涙が溜まり始めた。

「ここで泣くなよ」

「泣いてません」

「泣くと俺も困るが、マスターだって困る」

「ええ、泣きません。でも、パパが死ぬのは」

 少しの間を置いて。

「嫌だから」

 数彦はうなずくと、諭すように言った。

「だから、毒は止めろ。違う方法を考えろ。いいな」

 返事はなく、KAKERAは真っ赤な目の下を人差し指で押さえながら、窓の外を見た。

 つられるように、数彦も外を見た。黒々と川が流れ、対岸の住宅街の明かりが煌めいて見えていた。

 数彦はKAKERAに目を移し、観察した。

 店のムーンライトに照らし出された、今朝の霧よりも白い病的な肌。赤くなった目の周り。血の色の薄い唇。細い指、折れそうな手首。

 女の子だと見ようと思えば見えるだろうか。

 視線に気がついたKAKERAが、数彦に振り返った。

 視線が絡んだ。外の闇よりも黒い瞳だった。

 それが涙をはらんで、濡れて、揺れていた。

 数彦はどぎまぎした。慌てて、視線をカレーに戻し、食べた。

「パパに、お帰り、と言ってやれよ」

「治った時に、言います」

「治ったから帰って来るんだろ」

「いいえ。ネズミが治った振りをするように、パパを操っているだけです」

「操られると、どんな症状が出るんだ」

 KAKERAの顔が歪んだ。壊れてしまいそうに見えた。

 数彦の顔から視線を外に戻した。その横顔が、いつまでも震えていた。

 やがて、頬に一筋、粒が流れた。

 数彦はカレーを食べる手を止めると、ハンカチを取り出した。

「拭けよ」

 KAKERAは素直に受け取ると、涙をぬぐった。それからハンカチを見つめた。

「洗ってから、返します」

「いいよ」

 KAKERAはハンカチを自分のポケットにしまった。

 数彦は強くは言わず、好きにさせた。

 反射的とはいえ、自分がこれから先出来れば無関係でいたかった相手にハンカチを渡してしまったことが、少しだけ悔やまれた。

「僕は、パパを、助けたい、それだけなんです」

 KAKERAは夜の川を見ながら、それを繰り返した。

 数彦には返す言葉は見つからなかった。

 どうしようも出来ない苛立ちを胸の奥に隠したまま、数彦は、カレーを食べ終わると、宣言した。

「俺は帰る。お前も自分の家に帰るんだ。パパが帰ってくるなら、そのための準備をしろ。パパの好きな食べ物でも、用意して。ただし、毒は入れるなよ」

 KAKERAは両手で、顔を覆った。泣き出したのかと思ったが、ただ覆っているだけのようだった。

 数彦には、どう対応して言いかわからなかった。女の子が泣き出した時の対応と同じように、時間の過ぎるのをじっと待つことにした。

 突然。

 KAKERAは椅子を鳴らして席を立つと、顔を両手で覆ったまま、店の外に駆け出していった。

「おい」

 数彦が声をかけた時には姿はなく、ドアベルが鳴っているだけだった。

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