第4話 天球儀
身支度を整えると、行きつけの喫茶店へ向かった。
「天球儀」という名前のその店は、自宅から学校へ向かう川沿いの遊歩道に面した、お洒落な店だった。
マスターの天文趣味が昂じて、店は星座と惑星に埋め尽くされているのだ。あまりのガラクタの多さに、一見(いちげん)さんは居心地が悪くらしく長居できなかった。
しかし、一度ここの魅力にはまると、ガラクタの隙間が時間を忘れさせる癒しの空間になるのだ。
「天球儀」への道は、川霧が濃かった。手で握ったら白くて丸い珠になりそうな霧に包まれていた。
いつものこの時間なら、手すりのすぐ向こうで朝日を反射させているはずの川面もまったく見えなかった。
この濃さだと大通りの市電が運休しているだろうなと思った。
午前中の第一講義は、教師も遅刻するだろうから休講になる、だからこのままサボっても平気だ、と勝手に決めた。
しかし、川霧が出る日は、昼前には一転して見事な青空が広がることも知っていた。第二講義はあるだろう。
「それまで「天球儀」で時間を潰せばいいさ」
そう決めると、重かった気分が軽くなった。
店への途中、遊歩道を行き過ぎる人も、急に相手が霧の中から現れるので、双方が驚き、道を譲りあった。
前方に気をつけ、霧を掻き分けながら、数彦は頭の中で朝食のメニューを選択していた。
「天球儀」のマスターは手先が器用なのか、安くて美味しいのは紅茶だけでなく、料理も絶品だった。
モーニングセットはいつも二種類だけだった。
黄金色に輝くスクランブルエッグをはさんだサンドイッチとコンソメスープのセットか、厚手のベーコンが色よく焼けているベーコンエッグとトーストのセットだった。
数彦の今の気分はサンドイッチだった。紅茶はヌワラエリヤをストレートで飲もうと決めた。
顔を上げると霧の奥から「天球儀」の淡いランプの燈が浮かび上がってきたのがわかった。
ドアベルを鳴らしながら、霧を引きつれて店に入った。
いつものマスターの髭面が、天井から吊るされた天蠍宮の向こうから数彦を迎えた。
「天球儀」には、朝は決まってバロック音楽が流れている。今日は有名どころで、パッヘルベルのカノンだった。
旋律に乗って、焦げ目のついたベーコンの香ばしい匂いが鼻をくすぐり、サンドイッチセットと決めた決心が揺らぎ始めた。
すっかり常連になっている数彦のために、マスターはこの時間、窓際の二人がけのテーブルを、いつも空けてくれていた。そのテーブルには双児宮のマークが記されていた。
「サンドイッチセットをヌワラエリヤで」
「はいよ」
初心貫徹した数彦は、窓の外を見た。
一面が真っ白で、お気に入りの風景は見えなかったが、こんな日もたまには落ち着いていいな、と思った。
視線を天井に移した。そこには運行儀があった。
天動説を元に作られたカラクリで、中心にある地球の周囲を、太陽や月がゆっくりと回っていた。
遠い惑星は、途中でループを描くという不自然な軌跡を描いて移動している。
地動説で考えれば、単純な軌道ですむのに、昔の人は天動説に固執して、惑星にわざわざ難しい軌跡を描かせている。
その無駄な努力に人間の滑稽さが現れているように思えて、数彦のお気に入りでもあった。
太陽が宝瓶宮に入っていく。
この天体配置は、西暦でいうといつ頃に当たるのだろうかと思った。遠い過去なのだろうか。それとも遥か未来の星座なのだろうか。
それはマスターにしかわからないのだろう。
数彦は、敢えて聞かずにいた。知らないほうが、運行儀の神秘さが増すような気がしたからだ。
食べ終わった食器をマスターが下げ、二杯目のヌワラエリヤを口にした時、客が入ってきてドアベルが鳴った。
読みかけの本に集中していた数彦は、入ってきた人間が、まっすぐ自分の席に向かってくることに気づかなかった。
向かいの椅子が引かれ、その人物は無遠慮に腰掛けた。
数彦が、訝しがって顔を上げると、一番会いたくない顔がそこにあった。
「いきなり、そんな顔はしないで欲しいわね」
「正直者なんだ。顔にそのまま出る」
夏目理瑠は、外の霧のように白い頬を、少しだけ上気させていた。
マスターにシナモンティーを注文すると、まっすぐ数彦を見た。そのまま、重たい沈黙が続いた。
しばらくして、理瑠が焦れたように口を開いた。
「携帯に出ないのね」
「この店で喧嘩はしないことにしている」
ティーカップを持ってきたマスターが、理瑠にウインクして、数彦の言葉に付け足すように、言った。
「そう願いたいね」
仕方がないといった風に、理瑠は怒らせていた肩から力を抜いた。シナモンスティックで水面を撫でるようにしながら、声を顰めて続けた。
「じゃあ、一人で話すから、耳だけ貸して」
数彦は無視し、本に視線を戻した。しかしその視線は、思うように文字を追えずにいた。
「夕べ、女の子を泊めたわね」
反応しそうになって、数彦は慌てて自分を押さえた。理瑠の術中にはまるからだ。
「私、朝、あなたの部屋に行こうと思ってたの。携帯、私の番号、着信拒否にしているわね、絶対そう。その理由を聞きたかったの。でも、部屋をノックする前に、女の子が出てくるのを見たわ」
数彦は、それがKAKERAのことだとわかっていた。
理瑠には、女の子に見えたのだろう。小柄で、華奢で、中性的な雰囲気がある。見方によっては、女の子と思ってもおかしくはない。
その時、美湖もKAKERAのことを女の子だと言っていたことを思い出した。
女性には女の子に見えるのだろうか。
数彦には少年としか思えなかった。部屋の外で凍えていたKAKERAを抱き上げて部屋に入れた時も、その感じは変わらなかった。
「それでわかったの。私の電話を拒否してる理由は、あの女の子だってね。あんな幼い感じの子がいいとは知らなかったわ。てっきり、熟女好みだと思い込んでた」
理瑠が今度は美湖のことを、嫌味を込めて言っているのだとわかった。
これ以上、戯言に付き合う気はなかった。無視して本に集中しようとした。しかし。
「私、あの子のあとをつけたの」
「なんだって」
思わず反応してしまった。数彦の顔を見て、理瑠が醒めた笑みを浮かべた。
「やっと、こっちに向いたわ」
仕方がないと、数彦は本をテーブルに伏せ、理瑠を睨みつけると、言った。
「これだけは言っておく」
顎を少し上げ、理瑠は待ち構えた。
「あの子とはなんでもない。あの子は勘違いして、俺の部屋までついてきただけだ。第一、あの子は男の子だ」
「もう少し、ましな嘘をつけないの」
二人はしばらく睨みあった。
理瑠は男の子だという数彦の言葉をまったく信じていなかった。言うだけ無駄だと判断し、数彦は読書に戻った。
しかしどうしても文字を追えなかった。
理瑠がどこまでKAKERAをつけていったのか、その情報が出てくるのではないかと、それを待っていた。関係ないと思いながらも、待ってしまっていた。
別に、KAKERAの住んでいる場所を知ってどうしようという思いもなかったが、なぜか気になった。
しかし理瑠は、延々と自己主張を繰り返すだけで、KAKERAの話には戻らなかった。
「とにかく、私は、納得できる話を聞きたいの」
理瑠を納得させる話がこの世に存在するとは思わなかった。
「霧が晴れてきたわ」
思わず、窓の外に目をやった。上空に、白い光が見えていた。
「第二講義はありそうね。先に行ってる」
理瑠は自分の分の伝票を数彦に伝票の上に重ねると、そのままドアベルを高らかに鳴らして出て行った。
数彦は、窓の外をぼんやりと眺めつづけた。
KAKERAが帰っていく時も、霧が濃く出ていたのだろうか。
ふと、そんな考えが脳裏に浮かんできたが、無関係なことだと振り払った。
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