第2話 レモネード

 シンデレラが家路を急ぐ時間を過ぎてから、数彦は部屋の前まで戻ってきた。

 廊下が、ドアのノブが、すべてが、冷え切っていた。部屋に設置されている暖房用スチーム管が唯一の頼みだった。

 ドアの前に立ち、かじかんだ指で鍵の束を探っている時、背後で、靴底で砂を踏みしめる音がした。

 振り返って見ると、予想もしなかった人物がいた。

「お前」

 ネズミの少年は、店で別れた時と同じように俯いたまま、返事もなく、立っていた。

「つけてきたのか」

 返事はなかった。

「何の用だ」

 それにも、返事はなかった。

「家に帰れ」

 数彦は少年を無視して、部屋に入ろうとした。引き止めるように、少年が口を開いた。

「あなたは理科が得意なんですよね。僕には、理科の知識が必要なんです。それで、パパが助かるんです。あなたも、パパを救ってくれるはずです」

 数彦は呆れた。しかも、あんな戯言を信じて、つけてきたのかと思うと、気味が悪くなった。

 そのまま無視して部屋に入ってしまえばよかった。しかし、上目遣いでじっと見ている少年の、あまりにも馬鹿げた主張に、そのタイミングを逃してしまった。

「どういうことだ」

「ネズミは」

 言いかけて、少年はやめた。ちょっと考えてから、表現を変えた。

「僕のパパは、あなたが言うようなネズミ退治の人じゃ治らないと思います。もっと不思議な科学の知識が必要なんです」

 数彦の視線が、少年の目と合った。子犬の黒い瞳を思い出した。何の混じり気もない、純粋無垢な瞳。

 しかし、普通の人間が、少年くらいの歳の人間が、そんな瞳を持っているとは思えなかった。

 もしいるとすれば、それは天使か、もしくは。

 数彦は、開きかけて止めていたドアを開け、背を向けた。

 可哀想だが、少年は天使じゃない。後者に決まっている。そうだとしたら、数彦には何もしてやれない。かかわりを持つ気もない。

 数彦は言った。その口調が空気より冷たい響きを持っていることに、自分でも気づいていた。

「何もしてやれない」

 少年の震えるのがわかった。半歩、にじり寄ってきて、言った。

「話だけでも、聞いてください」

「だめだ。家に帰れ」

 数彦は言い捨てると、部屋に入り、後ろ手でドアを閉めた。わざと大きな音を立てて内錠もかけた。

「なんだってんだ」

 コートを脱ぎ、壁のフックへかけ、真っ直ぐ部屋の奥へ行くとスチームバルブを開いた。

 この建物は学生専用で、年中金欠の学生のために、厳冬期限定とはいうものの使用可能なセントラルヒーティングのスチーム管がついていた。

 大家も、学生に凍死されたくはないのだろう。

 部屋が暖まるのを待ちながら、喫茶店のマッチを擦って、小さなキッチンのガスに火をつけた。コッヘルに水を汲み、火にかけた。

 寝る前に、熱いレモネードを飲むのが数彦のマイブームだった。やがてコッヘルの金属製の蓋が音を立て始めた。

 やがて、部屋も暖まってきていた。

 数彦は厚手のセーターからパジャマ代わりのスウェットに着替えながら、ガスを止めた。

 お気に入りの琺瑯のマグカップを取り出すと、レモネードを調合した。レモンと蜂蜜の配分と調合方法に秘訣があった。

 部屋に、レモネードの香りが漂った。

 数彦はささやかな至福感を楽しんだ。

 一日の疲れが穏やかなものに変わり、いつものように、ゆっくりと眠りに入れるような気がしてきた。

 枕元の古びたラジヲのスイッチを入れる。この時間、数彦の好きなスローなジャズを流している局があるからだ。

 レモネードの香りとスローなジャズは、数彦の睡眠薬だった。

 ところが今夜は、ベッドに横になっても、眠気は来なかった。

 理由がなんであるかはわかっていた。

 気がつくと視線が玄関ドアに向いていた。

「最後の最後に、あんなやつに出会うなんて」

 腹立たしさは、脳を興奮させ、眠気をさらに遠ざけた。気がつけば、また視線は玄関ドアに向いていた。

「いったい何を考えてるんだ」

 それにしても、部屋の前までつけてくるとは予想もしていなかった。

 ペットショップを出た後、数彦たちが出てくるのを、道端でじっと待っていたのだろうか。

 その後も、ずっと後ろをついてきていたのだろうか。そうだとしたら、今夜の数彦の行動を、あの少年はすべて知っていることになる。

「まったく。なんてこった」

 布団をかぶり、眠ろうとしたが、それも失敗した。

 心の奥で、嫌な考えがぐるぐると回っていた。

 はじめは混沌としていた不安は、やがてひとつの形に凝結し始めた。

 玄関ドアの外が、気になった。

「まさか、な。それはないだろう」

 ないはずのその可能性が否定できなかった。

「まったく」

 数彦は立ち上がると、玄関に行った。そして、鍵を開け、ドアを少しだけ開くと、廊下を見た。

 そこに誰もいないことを確認して、穏やかな心に戻って眠ろうと思った。

 はっとした。

 運動靴の先が見えた。

 凍てついた廊下に、誰かがうずくまっているのだ。

 ドアを突き開けるようにして、廊下に飛び出した。

 凍結したコンクリートの冷気が裸足の裏に突き刺さったが、それどころではなかった。

「この馬鹿」

 少年がいた。

 部屋のドアの脇に、膝を抱えるようにして、縮こまっていた。

「寝るな。起きろ。死ぬぞ」

 数彦は、少年の頬を叩いた。

 真っ白で、氷のような頬だった。何度か叩いても、反応がなかった。

「まったく、こんちくしょう」

 悪態を吐きながら、少年を抱き起こした。

 その冷たさと軽さに、数彦は驚いた。少年の身体は、凍りついた枯れ枝だった。

 毛布で包み、スチーム管の横に寝かせて暖めた。

「まったく、なんていう夜だ」

 ベッドに腰を降ろしては立ち上がり、キッチンへ行ってすることもなく戻ってきて、ベッドに腰を降ろした。

 少年の向きを変え、頬をこすり、呼びかけた。

 しばらくすると、やっと、少年に反応が出てきた。黒く長い睫毛が震え、色を失った唇が微かに動いた。

「おい、気がついたか。目を開けろ」

 少年は、薄く目を開けると、数彦の顔を不思議そうに見た。

「今、温かいものを作る。それを飲め」

 少年がうなずいたように見えた。

 数彦は残り湯を沸かし直し、レモネードを調合した。刺激を減らすためにレモンは少なく、体力を回復させるために蜂蜜は多めにした。

 作りながらも気になって、床に横たえた少年の様子をうかがうと、手足ももぞもぞと動き出していた。ほっと息を吐いた。

「びっくりさせやがって」

 ぬるめに作ったレモネードを入れた耐熱ガラスのコップを持って、少年のところへ戻った。

 身体が温まってきたのか、少年は自分で半身を起こしていた。

「おい、これを啜れ。ゆっくりと、飲むんだ」

 少年は、言われるままに、レモネードを口にした。唇はまだ紫色で、細かく震えていた。

 それでも、啜っているうちに、唇の色がよくなってきた。血が巡り始めたのだろう。

 ソファーに腰を下ろした数彦は、何も言わずに、少年を見つめた。

 毛布に包まったまま、両手で持ったグラスから、レモネードを啜っている、ちっぽけな少年を。

 飲み終えると、少年は数彦を見た。

 何を言いたいのか察して、数彦は少年の手からグラスを取り上げた。

 キッチンへ行き、二杯目を調合した。今度は少し熱めにした。

「今度は熱いからな」

 少年はうなずきながら、両手でグラスを受け取った。

 息を吹きかけ、冷ましながら飲み始めた。

 数彦は、少年の横顔を観察した。白蝋のような滑らかな頬に、赤みが戻ってきていた。

 もう大丈夫だろうと安心した。

 少年が二杯目を呑み干した。数彦はグラスを取ると、屈んで、少年の顔を正面から見た。

「もう一杯、要るかな」

「いえ、もう結構です。美味しかった、です。こんなに美味しいジュース、はじめて、です。蜂蜜湯、ですか。メーカーは、どこなん、ですか」

 舌の回りはよくなかったが、少年の思ったよりしっかりした口調に、数彦はほっとした。

「自家製さ。メーカー品とかいう立派なものじゃない。それにこれは、ジュースじゃなくて、レモネードだ。飲みやすいように、いつもよりレモンを利かせてない」

 少年は、躊躇ったあと、何かを言いかけた。それを数彦は強引にさえぎった。

「いいか、君は疲れている。今日は何も言わずに、大人しく寝るんだ。このソファーを貸してやる。明日の朝、家に帰って、ママに叱られろ」

 少年は俯くと、呟いた。

「ママは、ずっと、いません」

「じゃあ、帰ってパパにお尻をぶたれろ」

 その瞬間。少年は顔を上げた。切羽詰った、怒りとも驚きとも取れない奇妙な表情だった。

 その異様な迫力に、数彦も思わず息を飲んだ。

 しかし少年は、すぐに視線を外すと、今度は泣きそうな顔になった。

「そんな顔をするな。今夜は追い出さない。今、外に出たら、本当に死ぬからな。一晩だけ泊めてやる。だが、それっきりだ」

 そう宣言すると、数彦は追い立てるようにして、少年をソファーに横たえた。

「何も言うな。寝ろ」

 数彦はそれだけ言うと、さっさと寝支度をはじめた。

 ラジヲを消し、照明を落とした。

 少年は何も言わず、素直に従った。

 ベッドに横になった数彦は、真っ暗な天井を見つめていた。深い疲れと、安堵を感じていた。

 やがて、少年の規則的な寝息が聞こえてきた。それを聞いていると、やっと、数彦にも睡魔がやってきた。

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