こころのどこかで

@okayamakoujou-inpipo

第1話 クリスマス


 クリスマスが近づくだけで、胸がドキドキしたのは、いつの頃までだったろう。

 そんなことを考えながら、数彦はイルミネーションの隙間から夜空を見上げた。

 無理やり電球をまとわされている枯れ木の枝を鳴らして過ぎる木枯らしに、かすかに混じる雪の気配を感じ取った数彦は、今年のクリスマスはすべてが白く染まる予感がした。

 ホワイト・クリスマス。

 あの頃は、それを想像するだけで、生きていることすべてが楽しくなった。

 しかしそれが、今の数彦には何の意味も持たなくなっていた。クリスマスに雪があるというだけのことが、あの頃は、なぜあんなにも嬉しかったのだろう。

 今、イルミネーションの瞬きを白い頬に映して、数彦は雑踏の中を歩いていた。ただ、時間が過ぎていくことを願いながら。

 クリスマスを過ぎれば、大学は冬休みに入る。

 故郷に帰る予定もなく、大晦日までなにもすることがない数彦は、クリスマスの後すぐに鉛色に染まり、全てが凍りつくこの街で過ごすしかなかった。

 そのことを考えるだけで、憂鬱になった。

 隣を歩いている従姉妹の美湖(みこ)は、クリスマスが過ぎれば、さっさとこの街におさらばするはずだ。

 亭主が所有している別荘の中のどれか、おそらくいつも暖かな南国にあるコテージへでも行くのだろう。

 行く場所がある人間は幸せだ。

 数彦は、たった一人、取り残される。人が消え、色彩もなくなる街に取り残される。ゴーストタウンの片隅で、膝を丸めて過ごさなくてはいけないのだ。

 人間とはなんて不平等な生き物なのだろうか。

「また、寂しん坊の顔になってるわよ」

 美湖が笑いながら、数彦の頬をつついた。

「うるさいな。付き合ってやってるんだから、文句を言うな」

 美湖は、気まぐれだ。言い返した時にはもう、違う話題に気が移っていた。

 ショウウィンドウのネックレスを指差しながら、数彦の腕を引いた。

「あれ、プレゼントに欲しい」

「誰に言ってるんだ」

「数クンに決まってるじゃない」

「亭主に買ってもらえよ。こんな貧乏学生じゃなくて」

「あら、そんなつれないこと言うんだ。それって、嫉妬?」

 今夜の美湖は挑発的だった。その理由を三つほど思いついたが、どれが正解なのかは、数彦にはわからなかった。

 美湖の覗き込んでいるショウウィンドウは、洒落た鞄が並んでいるかと思えば、お菓子のお城へと変わり、今はペットショップだった。

「似合わないよ、美湖にペットなんて」

「あら。ペルシャ猫が似合いそうって言われたことがあるわ」

「誰にさ」

「紳士よ。そして、お金持ち」

「買ってもらえよ、そのお金持ちの紳士に。ペルシャの猫でも絨毯でも」

 美湖は、ペットショップの前で完全に足を止めていた。街行く人に悲しげな目を向けて並んでいる犬や猫を、一匹ずつ値踏みしはじめた。

 数彦はこれ見よがしに大きなため息を吐いた。しかし、美湖には効き目がなかった。

「ペルシャ絨毯は、ね、織り目の細かいものが高いのよ。それはね、表を見ると騙されるの。裏を見るとわかるのよ。ねえ、数クンは、猫と犬と、どっちが好きなの。猫や犬も、裏を見ると価値がわかればいいのに。絨毯にするわけじゃないけど。織り目もないけど」

 美湖はしゃべり始めると、とりとめもない。一言一言を真面目に聞いていてはいけないと学ぶまで、数彦は高い授業料を払わされた。

 だから、話の中の質問だけに、簡潔に答えるのがベターだとわかっていた。

「猫だよ」

「あら、犬かと思った」

「どうして犬だよ」

「どうして、犬じゃないの」

 すでに美湖の術中にはまっていることに気づいた。しかしもう遅かった。美湖はじっと、答えを待っている。

「だって犬は、いろいろとうざったいじゃないか」

「まあ、不良みたいな言葉遣いね」

「誰でも言うよ、うざい、くらい」

「邪魔ってこと、よね。そうかしら。じゃれてくる犬って、可愛いじゃない」

 美湖は満足げに笑っていた。数彦をからかうのに格好な話題を手に入れることが出来たと、目の底に書いてあった。それが数彦の疲労を倍加させた。

「理由は簡単さ。犬は二十四時間じゃれてくるんだぜ。その相手は御免だ。それに比べれば、猫は放って置いても自分で勝手にするじゃないか」

「相手してあげたらいいじゃない」

「犬の相手をしようと思ったら、気が滅入るさ。向こうはこっちの都合なんかお構いなしだからな。美湖のおしゃべりに二十四時間付き合うのとおんなじだよ」

「あら、そんなこと平気で言うのね。憎らしい口」

 美湖は空中で数彦の口をつねる仕草をして見せて、こう続けた。

「でも、二十四時間、フルに相手しなくていいじゃない。相手にしようとするから疲れるのよ。数クンだってあたしの話、十分の一くらいしか聞いてないじゃない。その要領でいけばいいのよ」

 数彦は肩をすくめた。口でかなうわけがないことはわかっていた。

「降参するんなら、はじめから素直にしてなさい。そのほうが好印象よ。マダムの心をつかめるわ」

「そういう趣味はないよ」

「あら、残念ね。数クンなら、いっぱい稼ぐことが出来そうなのに」

「だから、そんなことまでしてお金は欲しくない」

「でも、そこそこのお金は、人生を楽しくするわ。有名な映画俳優がそんなことを言っていたわよ、たしか」

「そう。わかってるさ。でも、お金が必要になったって、マダムのご機嫌伺いなんかしない。先月みたいに、荷物運びでもするさ」

「あぁあ。せっかくの才能を埋もれさせるなんて、勿体無いわ」

「そんな才能、要らない」

「どうして? その才能で、幸せになれる人がいるとしたら、素晴らしいことだと思わないの。貴重な才能をもって生まれた者の責任として、それを果たさないといけないと思うわ」

「それで、美湖は犬と猫、どっちが好きなんだ」

 数彦は強引に話題を変えた。美湖は、ショウウィンドウを指差した。

「あたしのお気に入りは、あのころころした豆柴の子供」

 指差す方向を見ると、黒い瞳でこちらを見ている茶色い子犬がいた。

「犬が好きなのか」

「犬は忠実よ。思いに応えてくれるわ。人間と違って」

「よほど辛い目にあったんだな」

「そうよ。あたしの人生なんか、裏切られてばかり。そろそろ数クンに裏切られる季節だわ。もう、覚悟してるのよ」

「何の話だ」

「ねえ、もっと近くで見たいわ。このお店に入りましょう」

「買わないんだろ。飼えないくせに」

 数彦がそう言っているうちに、美湖はドアを開けて中に入っていった。

「おい、待てよ。もう」

 美湖はお目当ての子犬に一目散だった。数彦は呆れながらあとに続いた。

 店は幼い子供連れの若い夫婦で混雑していた。

 ペット特有の匂いがほとんどしないのは、空調に強力な脱臭装置が組み込まれているからだろうと、数彦は思った。

 それが出来るということは、この店が儲かっているということだ。

「ほら、よく見て御覧なさい。こんな真っ黒な瞳を見たことがある?」

「美湖の瞳だって真っ黒じゃないか」

「あら、あたしよりも深い黒よ。絶対」

「深いかどうかはわからないけど、美湖と違って無垢な黒さだな」

 美湖は頬を膨らませた。目が本気で怒っていた。

 数彦は、言い過ぎたと気づき、慌てて付け加えた。

「子犬の純真無垢には、誰もかなわないさ」

 美湖の目が緩んだ。

「そうよ。子犬にはかなわないわ。数クンだって」

「もちろんさ」

 美湖は、もう一度子犬を見つめた。その頬に、笑みが浮かんでいた。素直に、可愛いと思える横顔だった。

「いつも、そういう顔をしていればいいのに」

「なにかしら、それって」

 美湖はまた頬を膨らませた。しかし、今度は目が笑っていた。

 数彦は、美湖に並ぶと、子犬を見た。子犬は、美湖と数彦の顔を交互に見て、戸惑っていた。

「ほら、数クンの顔が怖いって言ってるわ」

「子犬はまだ、人を見る目がないのさ」

「ねえ、数クンの部屋って、子犬は飼えないの」

「また話題が飛んだ。それに、飼えないって何度も言ってるじゃないか」

「あら、言ってたかしら。何時何分何秒に言ったの」

「なんだい、それ、子供かよ」

 呆れている数彦をよそに、美湖は子犬とのにらめっこを再開していた。

「ごめんなちゃいねぇ。このお兄ちゃんが、あなたのこと、飼えないって、イジワル言うんでちゅ」

「やめろよ、恥ずかしい」

「子犬は飼えないのに、女の子は飼うことがあるんでちゅよぉ」

「おい、やめろって」

 美湖が顔を上げ、数彦を見た。

「本当のことじゃない」

 唇の端が少しだけ吊り上がっているのがわかった。それが美湖の、戦闘態勢突入の合図だということはわかっていた。

 数彦は、美湖の気をそらすものはないかと、店内を見回した。その時。

「どうしてですか」

 甲高い抗議の声が耳に入った。そちらを見ると、細身の少年が店員に、言い寄っていた。

「どうしても必要なんです」

 数彦は、気をそらすための格好の話題を見つけたとばかり、美湖に目で合図した。

 美湖はすでに、好奇心を目に湛えて、少年と店員を見つめていた。

「その手の品物は、販売時に、親御さんの許可が要るんです」

「それじゃあ、だめなんです」

 まだ若い男の店員は、明らかに困っていた。少年に話が通じないのだろう。

 ほかの客は、ちらりと二人のやり取りは見たものの、すぐ自分たちのお目当てのペットに視線を戻していた。

 少年は必死に食い下がっていた。

 数彦は、話の内容よりも、その少年の、あまりにも白く透き通った首筋に気を取られていた。だから、美湖の行動に気づくのが遅れた。

「ねえ、どうしたの」

 気づいた時には、美湖は少年に話し掛けていた。数彦は、放っても置けず、あとに続いた。

「まったく」

 少年は、美湖を見て、助けがきたとばかり、笑みを浮かべた。透けるような白い頬が、興奮したため赤く染まっていた。

 少年は美湖に寄ってきた。

「僕を助けてください」

「どうしたら助けてあげられるのかしら」

「ネズミに、パパを乗っ取られそうなんです」

 美湖は、目の奥に好奇心を押し隠して、

「まあ、大変」

 と、呟いた。

 その横で、店員が、数彦に縋るような目を向けた。数彦は、わかったという意味で、小さくうなずいて見せた。

 美湖は、少し身を屈め、少年の視線に高さを合わせた。それくらいに、少年は背が小さかった。

「聞いてください。僕には、ネコイラズが必要なんです。ネズミを殺す薬です」

「どうして」

「ネズミに、乗っ取られるんです」

「そんなに、大発生、したの」

「数は、わかりません。でも、間違いなく、いるんです。パパを、乗っ取る気なんです。今はパパがいないからいいですけど、帰ってきたら、危ないんです。それまでに、殺さないと」

「乗っ取るって、パパの何を乗っ取るの」

「パパの、心です」

 ためらいもなく言い切った少年の、紅を注したように興奮した頬を見て、数彦は深い疲れを感じた。

 しかし、美湖は、屈託のない笑顔を浮かべたまま、言った。

「そのネズミさん、そんなこと、出来るの。超能力を持ったネズミさん、なの」

「ええ、そうです。きっと」

 その言葉を聞いて、数彦はあきらめた。

 可哀想だが、少年は心の奥の何かがずれてしまっているのだ。

 店員に同情の視線を送ると、店員は、やっと仲間に出会えたというような、安堵の表情で数彦を見た。

 その視線を振り払ってその場を去ろうとした数彦だったが、美湖はまだ、無邪気な表情で、少年と話し込んだままだった。

「お薬を買ったらどうするの」

「料理に混ぜて、台所に置いておこうと思ってます」

 呆れ顔で、数彦は乱暴に割り込んだ。

「おい、もう行くぞ」

「ちょっと、黙ってなさい」

 肩にかけた数彦の手を払いのけると、美湖は少年にとびっきりの笑顔を見せた。数彦は呆れ果て、二の句が接げなかった。

「ねえ、そのネズミさん、どこにいるの」

「家の中に潜んでいるんです。多分。家にとり憑いて、それから人間を操るから。パパは抵抗していたけど、乗っ取られて、それで去年の夏からずっと」

 少年は俯いて、何かを堪えるように、出かけた言葉を噛み潰した。美湖が問いを続けた。

「ネコイラズで、本当に、退治出来るの」

「きっと、出来ます」

 美湖は、首を傾げた。

「ちゃんと調べないとダメよ。ネズミさんには、効かないかもしれないわよ、地球のお薬は」

 少年は、はっとした顔で、美湖を見上げた。美湖はさらに続けた。

「あなたやパパがお薬の毒にやられちゃって、ネズミは平気のまんま、他のところへ逃げちゃうかもしれないわ」

 少年は、俯いたまま返事が出来ずにいた。

 数彦には理解出来なかったが、少年には、美湖の言葉に説得力があったようだった。

「もう少し調べてから、お薬は選んだ方がいいと思うわ。でも、ネズミさんの専門家って、聞かないわねぇ」

 ふいに、美湖は振り向くと、数彦へ言った。

「数クン、理系だったわよね。理数科、でしょ」

 数彦は顔をしかめた。憮然とした口調で答えた。

「こっちに振るな」

 少年が、顔を上げた。紅潮した顔で、数彦を見た。

「あなたは理科が得意なんですか」

「そういう問題じゃないだろ。心を操るネズミなんて、馬鹿馬鹿しすぎる」

「僕は、理科は苦手なんです。でも、理科は素敵です。実験で作った硫酸銅の結晶は好きでした。知ってますか、あの結晶に宿った青い煌めきは、きっと」

 数彦には、少年の話についていく気がなかった。

「美湖、もういいだろ。行こう」

 無理矢理、美湖の腕をつかんで引き起こした。いつの間にか、店員は姿を消していた。少年が、数彦に縋るような目で近づいてきた。

「僕はどうしたらいいんですか」

 数彦は美湖を見た。すると、美湖は楽しそうに、動揺する数彦を眺めていた。

「そうか」

 数彦は、このすべてが、さっきの数彦の言葉と態度への意趣返しとして、美湖が企んだことだと悟った。

 気づいた数彦の表情の変化を見てとったらしく、美湖は、やっとわかったの、とでも言いたげに、ちろっと舌を出して笑った。

 数彦は、腹をくくって、少年に向き直った。美湖のように、相手に合わせて言いくるめるしかないと思った。

「いいか。ネズミの薬は人間にだって影響がある。科学なんて万能じゃない。この世の中は大抵そんなもんだ。だから専門家が必要なんだ。ネズミ駆除の、専門家だ。残念だが、俺は違う」

 少年は、肩を落とした。しょんぼりという言葉を形にするとこうなるんだろうという姿だった。

 そしてそのまま、何かを呟きながら、数彦に背を向けて、店から出て行った。

「まったく」

 腹立ちを押さえながら美湖を見ると、いつの間にか、さっきの子犬の前に移動していた。

 わざとらしく大きくため息を吐き出し、気を取り直してから、数彦は美湖の隣に並んだ。

「買わないんだろう」

「買わないし、飼わないわ」

「飼えないから、買えないんだろ」

「面白いわね。飼わないと買わないってひらがなで書くと同じ「か・わ・な・い」なのに、ちょっとアクセントが違うだけで言い分けて聞き分けられるんだもの。日本語って、面白い」

 また美湖の、取り留めのない話が始まりそうだった。数彦は、いい加減うんざりだった。

「出よう」

 まだ子犬を見ていたそうな美湖を押し出すようにして、数彦はイルミネーションの街へ出た。そのまま、繁華街の外れまで歩いた。

「冷えるわ」

「ああ。こっちは身体だけじゃなく、財布も寒いからな」

「じゃあ、温まるところへ行きましょう。お財布は温まらないけど」

「何が温まるんだ」

「おなかと、心」

「心か。大きく出たな」

 美湖はふふんと笑ってから、歩きながら、二人の馴染みになっている店の名前を幾つか挙げた。

 数彦が、中の一つを選んだ。記憶の中ではその店で食べた牛肉が、人生ベスト、だったからだ。

 その店へ行く途中、数彦は、考えていたことをそのまま、漏らした。

「美湖を見直した。半分だけ」

「なあに、半分って」

 興味津津な美湖の表情を笑いながら、数彦は空を見上げた。街の明かりに消され、星の一つも見えなかった。

「さっきの子のことさ」

「ネズミさんね」

「そう。自分なら、あんな馬鹿げた話、正面から全否定していただろう。口喧嘩になって終わりさ。でも、美湖は、相手の世界に入り込んで、説得した。誰にでも出来ることじゃない」

「そうかしら。だって、面白そうな話だったもの」

「それに、あの子の扱いをこっちに振って困らせて楽しめたし、な」

「あら。よくわかってるのね。大人になったわね」

「だから、半分だけだ、見直したのは」

 美湖は、心から楽しそうに笑った。

「だって数クン、女の子の扱いは得意じゃない」

「女の子?」

 素っ頓狂な声になった。

「なあに、その声」

「女の子って何だよ」

「さっきのネズミさんよ」

「え」

 数彦は、少年の顔や仕草を思い返した。

「男の子、だろ」

「違うわよ」

「また、そうやって、また俺をからかって遊ぶ気だな」

「何を言ってるのかしらね。どんな格好に化けても、女には女ってことはわかるものよ」

「いや、でも」

 美湖に断言されると、数彦には強くは否定できなかった。自信がなかった。

「それでもあの子は、男の子だ。たぶん」

「気弱なガリレオね」

 美湖は数彦の腕に自分の腕をまわすと、ぶらさがるようにして歩いた。

「本っ当、楽しい夜。気分がよくなってきたわ。コース料理、奢っちゃおうかしら」

 その夜、数彦は、年に一度あるかないかというほど素晴らしい食事にありつけた。

 確かに、身体と心が温かくなった。ほんの一時とはいえ。

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