第3話

『師匠、授業を一旦離れました。むしゃくしゃしてヘドバンをしても、あまり状況はよくならないということを発見しました。』

 メッセージのやり取りは、私の一方的な連絡が多い。急いで伝えないと自分の中でいつまでも燻ってしまうから、文字にして師匠に送る。返信を期待しないようにわざと報告っぽく送るのに、すごく気になってしまって、師匠から返信が来てないか何度もスマホの画面を更新する。

 うちの高校には週三で師匠が来る。そのほかの日、師匠はいろんな学校に行ってトイレ掃除をする。今日は師匠がいないけど、私は用具入れにあるウェットティッシュで便座を拭いて、トイレを椅子代わりにした。片耳だけイヤホンをつける。鼻から息を吸うと臭いから、口から息を吸い込んだ。

 杏沙乃が毎日やってくるのなんでだろ。嫌なことはされないけど、悲しそうにされるととてもストレス。指の第一関節……、なんか嫌い。それよりくぅちゃんみたいに遠吠えだけで会話がしたい。悪いことしてないと思うけど、傷ついたとか言われたらすごく罪悪感あるよ。あ、でもそしたら私はすごい口下手になって、黙ってなきゃいけないな。杏沙乃は友だちが百人いないと気が済まないのかな。遠吠えの会話って学校みたいなのがずっと続いてくってことでしょ? 指を切っちゃったら、私は杏沙乃のこともいい子だなって思うのかな。大丈夫かなーできるかな。

 緩やかだったが行ったり来たりを繰り返していて騒がしい。師匠がいてくれたら、もっとすっきりした答えが出たのに。ふとそんなことを思って慌てて頭を振る。もう一回だけスマホの画面を更新してみたけど、メッセージに既読すらついていなかった。頼ってばかりじゃだめだけど、自分をコントロールするのは難しい。今はまだマシになった方だけど。


 師匠と人形遊びをする前は、学校の中で突然泣きたくなることがよくあった。くしゃみみたいに生理的なものだけど、高校生にもなって泣くには理由がいる。涙が出てくる気配があると、私は急いで別棟のトイレに駆け込んだ。うちの高校はクラス棟と別棟があって、別棟は部室がずらっと並んでいるような建物だから授業中は人が来ない。蛇口を思いっきり捻って泣くとすっきりする。誰もいないだろうと思って勢いよく入ったら、師匠がいた。フライングした涙でひどい顔をしているからか、師匠はすごく気まずそうに目をそらして、個室に入っていった。

 それも含めてなんだか悔しくて、私は一人でいるみたいに大声で泣いた。地団太を踏んでもタイルの上でペチペチと軽い音しかしなかったけど、トイレで泣くと声がよく響いた。

 掃除し終えた時、師匠が話かけて来た。その頃には涙は出し切っていたので、私は鼻を啜ってゴシゴシ顔を洗った後だった。

「よく泣くんですか?」

「なんでそんなこと訊くの」

 ぶっきらぼうになっていたと思う。私は気持ちの持って行き所がさっぱり分からなかった。

「何か辛いことあるんですか?」

「何もないけど悲しいの!」

 言ってからしまったと思った。そんな言い方するつもりはなかったのに、考えるより先に言葉がついて出た。自分でも分かってないのに、他人から言われるのは我慢ならなかった。それでも師匠は気にする風でもなかったし、どんどん質問してきた。

「大声を出すというのはどうですか? 得意ですか?」

 しつこいなと思って私が後ずさると、がっしりと腕をつかまれた。師匠の三角の目が、鈍く光る。息を吸いこみすぎて、苦しくなる。大声が得意だったら、あの時思いっきり叫んでいたはずだ。

 人形遊びしてみるのはどうでしょう。うちには着ぐるみがあるので、それを着て思いっきり叫ぶんです。トカゲなんですけど、怪獣みたいな感じの気分でいけば、すごくスッキリすると思います。

「意味分からない」

 唐突に話題って出していいんだと思った。手を振りほどこうとしても、師匠の手はがっしりと私の腕をつかんでいた。

「泣いてばかりで高校生活棒に振るなんてもったいないということを分かってください。高校生でここまでエネルギーのある方は、そんなにいないと思います。だからうまく消化できていないんだと思いますよ。そういう時は泣くよりも、大声出した方がきっといいですよ。どこかで発散するのが一番です」

 発散、と繰り返した。言葉は私に馴染まずに床へ転がっていく。思いがけずに発散してしまうからトイレにいるわけで、これ以上に大声を出すのが良い案とは思えなかった。私の戸惑いを覆うように師匠の言葉が続く。

「あなたにとってもいいことだと思います。辛いと思うのは、自分の気持ちが常に許容量を越えてしまってるからだと思うんです」

「だから辛くないって言ってんじゃん」

 師匠は何も言わずに手を洗った。爪の間まで丁寧に洗い流す。私はぼんやりそれを見ながら、自分の腕をさすった。師匠がつかんでいたところが、真っ白になっている。手を拭くと、師匠が私の人差し指をつまんだ。

「この指先が良くないです」

 ピリッと電流が走って、色んな考えが体内を飛び回ってエネルギーを作り始めた。コポコポと耳の奥で水中のような音が聞こえる。ぐっと涙が溢れてきた。まだ残っていた分が、頬を伝ってワイシャツに染みを作る。自分のことのように分かってもらうのは、心臓を掴まれるよりも遥かに怖かった。

「私、指の第一関節が全部なくなったら、もっと心が楽になるような気がする」

 ずっと思っていた。指先が余計だから、私は今までずっとしんどい思いをしていた。でも、誰にも分かってもらえなかった。師匠は私の背中をそっと撫でた。

「本当はそうなんです。でも、大事な身体の一部だから、切れないんですよね」

 涙が止まると夏に校庭のど真ん中に放り出されたみたいに、汗がダラダラ流れてきた。師匠は汗まみれでも気にせずに、私の手をぎゅっと握った。素敵なことですよ、と師匠は言った。いろんなことが洪水みたいに流れて溢れてくるなんてこと、普通はありませんから。師匠は、自分が学校の清掃員だと言って、掃除の間中私の話に付き合ってくれた。

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