第64話 ルメルキ・シャーロ

 地母神の娘ルメルキ・シャーロ。そういう意味で名付けられた。


 そういった名は別に珍しい名ではない。立派な名前、慈しみ溢れる名前は多い。特にこの孤児の女の子たちの面倒を見ているお屋敷では生まれたばかりの子供に慈悲多き娘ルルシャだとか御使いの娘クローシャだとか、そういう名前を付けることは多い。小さな子たちは肌着一枚、あるいは仕立ては良いけど薄手のリネンの上下繋ぎの一枚で過ごす。薄着のお陰か、寒さには慣れっこになる。ならないと生きていけない。


「ミルーシャ、あとはお願いね」

「はいっ、お姉さま」


 今年で十二になった私は、屋敷で自分より小さい子たちの面倒を見ている。


 小さい子たちは、冬場はすぐに体調を崩すのでよく面倒を見てあげないといけない。大人たちも面倒は見てくれるけど、小さな変化には気が付かない。乳母は赤ん坊の面倒しか見てくれない。肌着や衣服はいつも新しいものを用意してくれていたのだけはありがたかった。


 ときおり、男の人たちがやってきて私たちを眺め、成人前の子を引き取っていくことがある。


 私より上の子たちは四人。あとの女の子たちはみんな引き取られていったか、成人して南のお屋敷に行った。南のお屋敷に行ったお姉さま方は綺麗なドレスで着飾れるから、みんなが憧れていた。ただ、引き取られた子たちもそれなりのお金持ちの元に行くという話は知られていた。


 ゼリカお姉さまは四年ほど前からこの屋敷へ働きに来ている二つ上の姉さま。大人たちと違って私たちの面倒をよく見てくれる。成人後は商家の男性と一緒になるらしい。姉さまは美人だし優しいからそういう恋人がいるというのも納得だった。


 姉さまと私は特別親しかった。姉さまは私を妹のようにかわいがってくれ、嫁ぐ時は姉さまの侍女として私を引き取ってくれると約束してくれていた。綺麗なドレスよりもゼリカ姉さまと一緒に居られる方が私には嬉しかったし、安心できた。


 ――ただ、その願いは叶わなかった。


 お相手の方と姉さまは年が明けると成人した。ただ、そのお相手の方に神巫としての加護が顕れたのだ。

 今の神巫はすでに床に臥せっていると言う噂を姉さまから聞いていた。そのため、次の神巫が選ばれるだろうと言うことだったのだけど、それがまさか姉さまのお相手の方になるとは誰も予想していなかった。


 地母神様の神巫は、若い間は結婚ができない。理由は、地母神様が嫉妬するからだという。そんな理由なんかで姉さまは、少なくともあと十五年は待たなくてはいけなくなった。十五年も待つと姉さまは三十になる。普通なら相手との結婚を諦めるものだと周りは言ったけれど、姉さまは待つことを選んだ。


「ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい、ミルーシャを引き取ってあげることができなくなって……」

「大丈夫。姉さまのせいじゃないから。私は南の館に行って幸せになるから」


 姉さまを心配してそう声をかけたけれど、姉さまは嗚咽と共に私を抱きしめてきた。


「――姉さま、泣かないで。姉さまの方が辛いんだから。泣かないで」


 姉さまはその後も屋敷での仕事を続け、私たちの面倒を見てくれた。



  ◇◇◇◇◇



 十三になってしばらくした春の夜、多少は和らいだものの未だ凍てつくような寒さの中、屋敷を抜け出した。


 私はこの屋敷が、そして南の屋敷がどういう場所なのか知ってしまった。姉さまがこっそり私だけに教えてくれたのだ。下の子たちを置いていくのは忍びなかったけれど、結局、成人前の女の子ひとりにどうにかできるような問題ではなかった。


 姉さまが言うには地母神の国では体を売ること自体は罪ではない。ただ、それは本来、寡婦に与えられた仕事なのだそうだ。私たちのような孤児を、娼館で働かせるのはこの国の闇の部分なのだと。姉さまは、今まで黙っていたことを何度も謝った。



 私は木綿の安い生地を集めて繕い、継ぎはぎの長衣ローブを用意していた。夏場でもこの辺りの夜は冷える。伝説に伝えられる地竜が地下を穴だらけにしたのが原因だと言う。ただ、逆に冬はそこまで寒くはならない。それは神様の祝福だと言う。それでも、薄いリネンに木綿の長衣ローブだけというのは寒かった。靴は木靴しか用意できなかった。


 ゼリカ姉さまには、この広い王都で頼れそうな場所を教わっていた。



「ハァ、嫌だ嫌だ。どうしてこんなに使えないかね」


 辿り着いた先は建物の密集した王都でも珍しい閑散とした地区。大昔の戦争で城壁が破られた際に大勢の民が虐殺された場所。無縁の墓だらけで霊廟に収めるための骨も拾われず、市民からは忌み嫌われている場所らしい。そこのなかば朽ちた屋敷に住むミゴラというお婆さんの口癖がそれだった。


 ミゴラお婆さんは、あのゼリカお姉さまが紹介してくれたとはとても思えないような不愛想な人だった。子供の面倒と繕い物くらいしかできない私に火の起こし方から始まり、釜土の扱い方、或いは焚火の扱い方を教え、煮炊きをさせられた。悪臭を放つ獣の皮をなめし、靴を作らせた。獣脂から蝋燭や石鹸を作らされた。時には粗相をした罰だと言って毛皮一枚を手渡されて表で寝るように言われた。お婆さんの指示で郊外の森に向かい、木の実やキノコを採取し食べたが、最初の内は何度か腹を壊した。襤褸ぼろをまとわされて貧民の街へ買い物に行かされた。時に意味もなく縄で縛られたりしたので何とかして抜け出したり、食事を櫃に入れられて錠前を外すまで食べられなくされたりした。


 嫌だ嫌だ――何かにつけ、私に悪態をついていたミゴラお婆さんが一年ほど過ぎたある春の晩、私に家を、そして王都を出て行くようにと言った。急な話だった。いくらか大きめの長衣ローブ外套クローク、しっかりしたブーツと幾ばくかの路銀を餞別だと言って渡された。若かった私はむしろ解放された気分で王都を後にした。



  ◇◇◇◇◇



 私は王都から西へ向かった。西の方がいくらか暖かく、過ごしやすいと貧民の街での住人の話しぶりから知っていたからだ。野宿が危険だということも知っていた。夜の街道は恐ろしい。余程腕に自信が無い限りは強盗かあるいは獣の類に襲われるのがオチだとお婆さんが言っていた。ただ、町は町で歩哨の衛士が居るため宿に泊まらなければならなくなる。路銀にも限りがあるため仕事を見つけなければならない。手っ取り早いのが宿の酒場で働くことだが、お婆さんは嗤っていた。酒場で働くなら体を売ることも覚悟しておけと。


 私はもう少し大きな町に向かい、商いの手伝いを願い出た。ただ、大店では私のような身分の知れない者を雇ってなどくれなかったので、小さな店を探した。私を雇ってくれそうな店はすぐに見つかったが、どうも店主から昔に通った貧民の街の店の人間と同類の匂いがしたため、気が変わったとその店から逃げた。


 私は別の気の良さそうな夫婦のやっている店で売り子をした。金勘定くらいはできるようになっていたのが幸いした。ふた月くらいはそうやって問題なく過ごせていたが、ある日、夫婦によく働いてくれてるからとご馳走になった。初めて酒を飲んだわけではないが、いくらか気を許していた私はほとんど薄められていない酒に酔っ払い、気が付くと縄で縛られていた。縄抜けなら慣れたものだったので、素人の夫婦が縛ったこともあり簡単に抜けられた。家屋から抜け出る時、あの夫婦が客と話をするのを見かけたが、その客には見覚えがあった。私が居た屋敷の人間だった。一年以上経った今でも私を探していたのだ。



  ◇◇◇◇◇



 私は大きな町を出て、今度は南へと向かった。丘を越えた先の小さな町の傍には荘園があり、繁忙期に向けて働き手を集めていた。仕事自体は私でもできたし、問題も起きなかった。問題が起きたのは下宿先だった。


 泊っている者は女ばかりの下宿だったが、八人からの相部屋だったためか部屋は汚く、臭いも酷かった。ミゴラお婆さんのところも貧しかったが、あれで意外と清潔だったし、寒くてもたびたび水浴びさせられたり、石鹸も使っていた。


 私はひとり、夜中に井戸の傍で髪を洗ったり体を拭いたりしていたが、人の気配にふと顔を上げると目の前に男が居た。下宿は別に男が足を踏み入れてはならない場所では無かったし、大家の家族にも男は居た。私は悲鳴を上げるでもなく体を隠し、水の入った桶を構える。男は馴れ馴れしく声を掛けてきたが、やがて下宿人の女に呼ばれ、去っていった。


 下宿には、個人的な付き合いか或いは客を取っているのかはわからないが、男の出入りは珍しくなかったし、おぞましいことに彼らは相部屋で事に及んでいた。幸いなことに相部屋の他の下宿人には手を出さない決まり事がお互いに取り交わされていたようだが、こんな場所にはとても居られらなかった。



 次に下宿したのは、もう少しお金はかかるがひとり部屋の下宿だった。ただ、賃金とはあまり割に合わない。下宿代と食事に当てると手元には全く残らなかった。残された手段は朝、日も登る前の早い時間に森へ行くことだ。夏から秋にかけての森の中なら食べられるものがいくらかあったため、冬に向けての貯えを手元に残すことができた。


 そうして私はさらに五つの月を過ごした。収穫を終えた荘園では豊穣の女神に感謝するお祭りが開かれ、私たちにも賃金の他に塩と燻製肉が与えられた。お祭りでは郷士様が私たちを労って、たくさんのパンや腸詰、麦芽酒、甘いお菓子なんかを提供してくださった。女も男も、私の知り合いの女の子たちも皆、楽しそうに輪になって踊りを踊っていたけれど、私はとにかく食べられるだけの食べ物をお腹に詰め込んでいた。


「お嬢さん、よければ私と踊っていただけませんか?」


 そう言って声を掛けてきたのは郷士様に仕える戦士だった。

 まさか自分に声がかかると思っていなかった私は慌てて前掛けで油のついた手を拭う。

 彼は私に許可を得て近づくと、伸びるに任せていた前髪をそっとかき分けた。


「――やはり美しいお嬢さんだ」


 思わぬ言葉にたじろいでしまった私だったが、彼は私に踊りを教えてくれた。

 私も初めての踊りをそれなりに楽しんだ。


 やがて夜も更け、段々と人も減っていった。

 彼は――おいしいものでも摘まみながらお喋りでもしよう――と、私を連れて屋敷に向かう。ただ、屋敷の途中の物陰や納屋では男女がそこかしこに居た。が、彼は別段、気にした様子もない。私は連れていかれる先で何が行われようとしているのか、怖くなって逃げようとした。しかし彼はそれを許さなかった。腕を取ると一言二言喋り、強引に連れていこうとした。私はその手に思い切り噛みつき、逃げた。男は怒鳴りながら追ってきたが、上弦の月は既に沈んでおり、闇夜に紛れた私を捕まえることはできなかった。



 下宿へと戻って休んでいた私だったが、翌朝、その戦士の男が訪ねてきた。扉の向こうの大家の酷く怯え、媚びへつらっていた声を聞き、危険を感じた私は塩と燻製肉を含む荷物を持って窓から逃げた。


 そのまま森へと逃げた私を追ってきたのはあの男だけでは無かった。犬だ。男は犬を連れていた。そして私の匂いを追わせたのだろう、森の中を確実に追ってきていた。いずれ追い付かれると思った私は森の中で見つけた毒のあるキノコを手で触れないように潰し、燻製肉に塗りたくった。犬の激しい呼吸音が近づいてくるのを感じると、私は燻製肉を棍棒のように振り回した。犬は肉に噛みつき、私の手から奪い取ろうと激しく振り回す。やがて私の唯一の武器は奪い取られこそしたものの、その頃には犬は酩酊し始めていた。


 犬に止めを差すことも考えたが、男が迫っている。私はそのまま森の奥へと逃げた。



  ◇◇◇◇◇



 それから私は半月近くを森の中で過ごしたが、結局、人里へ出て来ざるを得なくなった。寒さももちろんあったが、食糧の問題が大きかった。食べられる木の実は十一月も終わりに近づくにつれ猪や鹿が食べつくし、無くなっていった。せめて人里に出られれば貯えたお金で食べ物が買える。


 私は荘園からさらに離れた南の領地に入った。大きな町に辿り着くと、一度、近くの湖まで行き、水浴びをした。髪を洗い手櫛で梳かし、長衣ローブ外套クロークの裾の汚れを落として裂け目をつくろった。それから人の出入りに合わせて大橋を抜け、門から町に入ったが呼び止められることは無かった。


 町に入ると、できるだけ安い――ただしひとり部屋の――下宿を探した。ただ、問題は仕事だった。獣脂は安く手に入るから蝋燭や石鹸は作れるが、売ることは難しい。こういったものは組合ギルドが管理していることが多いから。商いの店も見て回ったが、前回のこともあって及び腰だった。結局、今の私には酒場の給仕くらいしか仕事が思い浮かばなかった。――だけどやっぱりこわい……。


 どこかに働き口が無いかと街を彷徨ったが、どこに行っても私を見る男たちの目が怖かった。髪の毛で半分隠した私の顔ではなく、みんな私の体を見ていたからだ。結局、どこへ行っても仕事につけなかった私は、徐々に貯えをすり減らしていった。


 ――春になるまでは硬くなったパンと干し肉で食い繋ごう。


 ただ、その望みも十三月の半ばに断たれてしまった。

 迂闊だった。

 長衣ローブの内側に隠し持っていたお金だったのに、いつの間にか長衣ローブを刃物で切り裂かれ、抜かれていたのだ。慣れた人間からなら分かってしまうのだろうか。それよりもこの先の問題だ。食事も問題だけれど、来月の下宿代を払うことができない。名前の無い日を前にして、働き口も減っていた。みんな、名前の無い日を家族と迎えるための準備に忙しく、町で騒ぐ人間が減るのだ。


 結局、下宿代を用意できなかった私は名前の無い日の夜に追い出された。

 食事も水と塩しか取れていなかった私は、ふらふらと門の外、大橋へと向かった。

 大橋では貧しいため町へも入れない貧民たちがたむろし、小屋を建てて住んでいた。その中には幼い子供たちも居た。汚れた服を身に着け、腹をすかし、汚れた水をすすっていた。


 ――ルルシャやクローシャたちを置いてきたばちが当たったのかな。


 そんな風にも思えた。

 私はせめてと、手持ちの塩を幼子たちに分け与えた。


 ――これで私の与えられるものはもう何もない。


 力尽きた私は両手を地面につき、祈るばかりだった。


 ――ルルシャやクローシャ、置いて来た子たち、そしてこの幼子たちに地母神ルメルカの祝福がありますことを……。


 私のことはもうよかった。だって、私が生き永らえることができなかったのは、自分が臆病だったからだもの。だけど体を差し出すことはしたくなかった。だからこれでいい。


「わぁ……」


 幼子たちの感嘆の声が漏れ聞こえてきたのはそのときだった。

 顔を上げると目の前には見るからに柔らかそうなパンの山が、そして清らかな水を湛えた水差しがあった。


 ――どうして?


 どうしてかはわからない。だけど私は期待に目を輝かせた幼子たちに、そのパンを分け与え、水を飲ませてあげることができた。幼子たちに分け与えると、パンがひとつだけ残った。私はそのパンを、地べたに座ったまま神さまに感謝しながら味わった。私はそのまま地べたで眠ったが不思議なことに、この真冬の寒空の下にも拘わらず、寒さを感じることなく眠ることができた。


 そうして夢の中、私はあの人に出会ったのだ。







--

 ミルーシャの過去のお話でした。

 後日譚、この辺までと、ミルーシャが聖女になってからのあと少し先くらいまでは考えていたのですが、残りはどうしたものか。ご要望があれば続けますが、何かご希望ございますでしょうか?


 あと6,000字超えないようにしてたのが結局超えてしまいました。分けようがなかったので……。


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