5 世界で一番美しい名前③


「記憶を消したい、てことは納得していないんでしょ? 納得するまで探したらよかったのに。本当に探すのにウンザリしたら、脳が勝手に良い記憶に上書きしてくれるよ。それに運良く探し出せても記憶が美化されていただけかもしれない。でも、それならそれでいいじゃん。そんな記憶さっさと放り出して、もっと楽しいことができる」


 記憶が美化されている、という言葉はニアの喉に魚の小骨のように残った。確かにそうかもしれない。死ぬ前は幸せだったように(今は)思えるが、はたしてあの頃の山本似愛はそう思っていただろうか。SNSでリア充報告をするのも嫌だったし、かといって毎日がキラキラ輝いていたようにも思えない。むしろ視界はどんよりと曇っていた。


「…………そうですわね。お姉さまの言う通りですわ」


 ぽつりと言葉が漏れると、やがて、夕立の始まりの一滴のように瞳からぽろりぽろりと涙が零れたのでニアは仰天してしまった。


「えっ、ええっ!? ちょ、ちょっとどうしたの!?」

「ぐすっ。お姉さまの言う通りですわっ。どうしてわたくしは自分の想いを簡単に諦めてしまったのでしょう。本当にお慕いしているのならどんな困難があっても想いを遂げたはずなのに…………すん」

「そうね。豆腐にあれだけ愛情を(無駄に)注げるのだから意外だなあと思って」


 愛情というか偏執病パラノイアというべきか。いずれにしてもヒト以外のモノを熱心に愛することができても、ヒトそのものだと意外と脆い人はいるのかもとニアは思った。


「う、うぅ、初めての恋だったんですぅ!」

「あちゃー、それはキツイ。黒歴史を頭から消したいと思うけど、実際に消しちゃうとそれはそれで微妙なのねー」

「うぅぅーっ、反面教師にしないでくださいまし! でも、お姉さまの言う通りですわ…………たとえそれがどんなに目を背けたくなるような記憶でも、、わたくしはありのままの自分を手放してしまった。わたくしという物語から頁が抜け落ちてしまっているんです…………」


 さすがにからかい過ぎた。ニアもバツが悪くなったのか、少女の銀髪をぽんぽん叩くと柄にもなく励ましの声をかけた。


「まあまあ生きていたら傷がどこかにあるものよ。黒歴史が一個思い出せないぐらい大したことないわよ」

「ぐすっ、やっぱり、黒歴史なのでしょうか…………?」

「まあそこは置いとくとして、あー、なんて言えばいいんだろう? 私なんか最近あの世から帰ってきたばかりだから、記憶なんか虫食いだらけなわけよ。もう他人のアルバムを見ている、感じ?」

「お姉さまはどこかご病気、だったんですか? ごめんなさい、わたくし…………」

「いやいや深刻そうな顔されるとこっちもしんどいから。最初は戸惑うことは多かったけど、今は今の(復讐)生活を楽しめている、かな? フルーツ味の豆腐も慣れれば結構美味しく食べられるしね」


 泣いていた烏がもう笑った。


「わたくしはアレは絶対に認めませんわ」


 少女はニアの手を取って立ち上がる。


「お姉さま、たまにはお豆腐の気持ちになるのもいいですが、身体が冷えてしまいますわ。私たちは人間ですもの」

「人間…………」

「向こうのお座敷でお豆腐を食べませんか? お風呂に入りながら食べるお豆腐もいいですが、やはりお豆腐は畳の上で食べるのが良いかと」

「そうね」

「…………お姉さま、名前を教えていただけませんか?」


 ニアたちのいた露天風呂は、日中は日光浴のためだろう、中央にぽっかりスペースが開いていた。そこには植樹の影もなく、御影石が月の光を白く照り映えている。

 そこに立ちつくした少女はニアの名前を何度も何度も噛みしめるように繰り返した。


「ねえ、あなたの名前も教えてよ」


 少女の名前をずっと知らなかったことに今更気がつく。奇妙なものだ。あのとき聞いていたら事はもっと単純だったかもしれないのに。しかし、不思議と心に空白を感じることはない。「ニア」という名前が自分自身と等しくないかのように。


「イートゥザアイパイプラスワンイコールゼロ、ですわ」


 まるで呪文のような名前。

 けれど、少女は謳うように言う。

それは世界で最も美しい言葉なのだという。山本似愛の感覚ではアルファベットすらほとんどない名前は全く馴染みがないが、不思議とこの豆腐をこよなく愛する一つ目の少女にピッタリなような気がした。


「イートゥザアイパイプラスワンイコールゼロ、ね。覚えやすくていいわ。でも、長くて呼びづらいから省略してもいい? そうなると美しさは損なわれるかも、だけど」

「大丈夫ですわ、ニアお姉さま。私を知っている人がイーと呼ぶことはその名前の持つ意味を言葉にしているのですから」


 なるほど。言葉というものは確かにそういうものなのかもしれない。


「イー」


 白い月光の中で薄桃色に染まった少女がにっこりとほほ笑む。

 その身に纏っているのは銀色の髪と重力に従って流れ落ちる雫だけ。

 自然なままの姿。

 だから、その口から発する言葉は真実だけ。


「お姉さま、わたくしの恋人になって」

 

 81年前と未来世界が脳裏で交差するよりも早く、ニアは頷いていた。


「ちゃんと言葉にしてください」

「いいよ」

「もう! お姉さまったら!」


 少し不満げな唇の味はほんの少し甘かった。「唾液で大豆の澱粉が化学変化したせいかな」とこぼすと額をゴツンと頭突きされてしまった。



「ねえ、お姉さま。お姉さまはどうしてこの『顔無しの郷』にいらっしゃったんですか? 何か消したい記憶があったんですか?」


 ニアは頭上の満月を仰ぎ見ながら考える。


「うーん。ある女の子を仮想世界で好き勝手したらバグになって収集がつかなくなってさ」

「まあ! お姉さまったらいやらしい!」

「ねえ、イーはどうしたい? 消したい? そのまま残しておきたい?」


 下卑た笑いを浮かべながらそう言うと、イーはむっつりと黙ったまま額に頭突きをくらわした。二度目の頭突きは頭が本当に割れるのではないかと思うほど痛かった。 

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