5 世界で一番美しい名前②
「…………ひょっとしたら何処かで会ったことがあるかもね」
ずるい言い方。
元々好きではなかった自分にまだ嫌いになれる要素があったことに驚く。
しかし、豆腐少女は顎に手を当てて何やら真剣に考えていたが、やがて、ポンと掌を叩いた。
「そうですね! 豆腐を愛する同志なら同じ空の下でお会いすることもあるかもしれませんね!」
言っていることは正直よくわからないが、満面の笑顔なのだけはよくわかる。それを見たニアは微笑む。愛想笑いか呆れ笑いなのか、それとも本当に可笑しかったのか。
「では、お姉さまも『奥多摩豆腐』を探しにいらっしゃったのですか?」
…………奥多摩豆腐? なんじゃそりゃ!?
「お姉さまともあろう方がご存知ないのですか!? 『奥多摩豆腐』は伝説のお豆腐職人、高野玉吉が奥多摩山中に4年にわたる山籠もり生活を経た後に、2024年に開店した『豆庵』にてごく少数の関係者のみに振舞われた伝説のお豆腐ですわ!」
極至近距離で熱弁する少女の勢いにニアはただただ圧倒されるばかり。唾が顔にかかるような勢いだし、実際かかっていただろうが、大豆や醤油の香りは感じなかった。
「あ、そう、なの」
「ああ、お姉さまの意図がようやくわかりましたわ! 私の見識を試していらっしゃるのですね? 意地悪なお方!」
信号機のようにコロコロ変わる表情。黙っていればとんでもない美少女なのだが、そんなことは本人にはどうでもいいことだし、少女は愛するものを愛していると世界に叫び続けている。
「それでは、お姉さまはどうしてこちらにいらっしゃったのですか?」
唐突な質問にニアは絶句する。
「えっと、それは―――」
―――
「もしかして、消したいお記憶があるのですか?」
「―――っ!?」
人の欲望を具現化したかのような肢体が小さな水風呂の中で密着している。
「どうしてお記憶を消したいんですか? 消す必要があるんですか?」
この柔らかくて温かいモノにニアは―――。
「何か悪いこと、しちゃったんですか?」
「――――――っっっ!?」
脳裏にねっとりした赤い記憶がちらつく―――深窓の令嬢を思わせる細腕に為す術もなく殴り嬲られ、蟻を潰す幼児のように少女は楽しそうに嘲笑う―――。
少女はニアの手を取った。ひんやりした掌とその奥で脈打つ血液の熱量の二律背反が否が応でもニアを現実に立ち戻す。
「うふふ、わかりますわ。だって、私も記憶をたぶん消していますもの」
「えっ? どうして……?」
「どうして、なのでしょう?」
少女はニアの手を取ったまま、うーんと考え込んだ。そして、癖なのだろう、左眼窩に手の甲をくっつけた。その際にニアの指も触れたが、頬とも額とも違う感触にちょっとときめく。確かにこれは触れるのが癖になってもおかしくない。
「うーん、思い出せませんわ。記憶を消したことはわかるのですが、それを探ろうとすると頭の中に靄がかかってしまいます…………」
「本当に、思い出せないんだ? ちなみにどれぐらいのことまでは思い出せるの?」
本当に頭の中に靄がかかっているのか、大きな一つ目が苦しそうに歪む。
「そう、ですね…………、この胸が一杯になって、かつ締め付けられるように苦しく感じるのは、おそらく”恋”の記憶ではないかと」
「コイ!? 池の魚じゃなくて?」
「はい、カープではなくてラブのほうです。たぶんわたくしは誰かに恋をしたように思います。会いたい、とても会いたい。その方のことを想うと居ても立っても居られない。夜空の流星を探すようにわたくしはその方を探したような気がするのですが、結局―――」
なんだか水風呂の水温が冷えてきたのは気のせいだろうか。追憶に耽る少女の口からは囁きのようなもの―――「会いたい」「どこにいる」「花嫁にする」「約束した」―――が漏れ、聞きたくないのに否が応でも耳に入ってくる。
「さ、さすがに身体が冷えてきたなあ。そろそろ出ようか、なっ!?」
そろりと水風呂から出ようとしたが、いつの間にか指が
「(あー、私、死んだかな)」
冷たい水に浸りながらニアは案外冷静だった。
あの仮想空間の妄想は死期のリスクを察知した脳が見せた警告だったのかもしれない。そも直観は認識が概念化するよりも先に即決できる機能だという。しかし、脳の半分は借り物だったために脳の警告メッセージをうまく受け取ることができなかった、というワケだ。
結局は―――
「ねえ、なんで諦めたの?」
「えっ?」
少女が驚いて目を瞠った。ニアはニアで自分が発した言葉に驚いている。
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