第2話 ダグラス・ルーンフォルト……某重要パーツを着脱式にされそうになる
奈落の底で、絶望の底で……まだ自分は憤怒している。
今まさに眼前に迫る生命の終焉を、この怒りが……臓腑を焼き尽くさんばかりの憎悪が許容しようとしない。
崖下のダグラス。
彼は岩場に背を預け両足を投げ出す形で座り込んでいる。
もう四肢は動かない。
落下の際に何度も岩場に叩き付けられ手足ともに関節ではない箇所から出鱈目に折れ曲がってしまっている。
崖は途中から垂直ではなく急角度の斜面になっていた。その事と突き出した灌木に何度もぶつかり勢いが削がれた為に辛うじて今まだ自分は人の形は保ってはいるが……。
砂時計の砂はもう全て落ちてしまった。
だから自分はもう骸のはずだと彼は思う。
絶望の底へと深く深く沈んでいくダグラス。
彼はもう痛みも苦しみも感じず、今はただ寒気と眠気が意識に重い蓋をしようとしているのみ。
「…………………」
目を閉じれば全ては終わるのだろう。
なのにその最後の……瞼を落とすという動作を本能が拒んでいる。
「おやおやこれは……なんとした事だろう! 紅い涙を流す絶望と悲しみの体現者よ!」
不意に夜の静寂を破って響く凛として朗々とした女性の声。
まるで歌劇の舞台の幕開けを告げるかのように力強く周囲の空気を震わせる声だ。
紅い涙とはダグラスの周囲に広がりつつある血溜まりを指しているのだろう。
「あぁ、絶望の底に咲く華の何たる美しきことか! 刮目せよ群衆よ!! 今日この時の出逢いに!!」
だが顔を持ち上げるだけの体力も残されていないダグラスは自らの眼前に立つその女性の容姿を確認することができない。
冴え冴えとする青白い月光が雲間から差しそこに立つ長身の女性を照らし出す。
輝く銀の髪が風も無いのに靡いている。睫毛の長い切れ長の瞳の色はエメラルドグリーン。
どこか人間離れした妖しい美貌の女性だ。
身に纏う装束は本人の振る舞い同様に舞台衣装のような男装であり。黒地に豪奢な銀の縁取りがなされている。
突如現れた黒衣の女。その紅を引かれた口元には冷笑が浮かんでいる。
「絶望の果てに待つものは果たして黄泉への使者であろうか? ……否、私は『聞き届けるもの』 さあ汝の心の声を聞こうではないか」
芝居がかった大仰な仕草で片手を自らの胸に当て、そしてもう片方の手をダグラスへ向けて差し出す。
「傷付き地に伏せるものよ、汝は
その声は今まさに死に瀕しているダグラスの耳に確かに届いていた。
光の消えかかった彼の目に一瞬だが揺らめく炎が宿る。
「……い…や……だ」
1文字ずつ、魂の残りかすを絞りきるようにして舌に乗せる。
現実にはその言葉はほとんど声にはなっていなかった。
それでも黒衣の女は満足そうに頷く。
「ならば……!!!」
ダグラスへ向けて差し出していた手を今度は中空に突き出す女。
天に問いかけるが如く。
「ならば汝の望みは如何なるものか!!」
─────『生きたい。』
その声無き叫びは魂の奥底からの咆哮だった。
死ねない。今はまだ死ぬわけにはいかない。
それだけは受け入れられない。
彼はそう叫んだ。
……そして項垂れてダグラスは動かなくなる。
座り込み、深く首を垂れる男は既に息をしていなかった。
そこにあるのは物言わぬ肉塊。生命の残滓。
空っぽの在りし日の幻影だ。
「いいだろう。その願い確かに聞き届けた!!」
いつの間にか取り出していた赤いバラを一輪口に咥えている黒衣の女。
「いたた……」
と思ったら顔をしかめてペッと吐き出した。
茎のトゲが舌に刺さったらしい。
月光と言うスポットライトに照らし出され黒衣の女は優雅に天を仰ぎその手を空へと上げた。
「それでは急ぐとしようか! 死神の追いつけない速度で我らは駆け抜けなければならぬ!!」
自分の顔の前に白手袋の手を下ろすとパチン、とスナップを利かせて指を鳴らす。
するとまるで目に見えないロープに吊られたかのようにガクンと揺れたダグラスの亡骸が宙に浮き上がった。
「らはひほう。はへらららほり」
懲りずに2輪目のバラを咥える黒衣の女。
そのまま喋るから何を言ってるんだかわからない。
その彼女の目が不気味に赤く輝くと足元の地面に赤紫色に輝く魔法陣が広がる。
それはここではないどこかへ繋がる門。転移の魔術によるものだ。
黒衣の女は浮遊するダグラスをその光の中へと投じ…………ない!!
ズレた!!
ダグラスは魔法陣からちょっとだけずれた地面の上にべしゃっと落ちて潰れたカエルみたいなポーズになっている。
「ありゃ?」
口からぽろりとバラが落ちた。
「……………………」
そして黒衣の女は周囲を見回した。
別に誰も見ちゃいないのだが。
「リハだよ!! 今のはリハーサルというやつだね!!」
そして誰も聞いてないのによく通る声で言い訳した!!
ダグラスが再度浮かび上がる。しかしその空中への浮かびようは明らかに先ほどより乱暴に持ち上げた感じで雑である。
「……ここか!」
ガン!!!!
今度はズレた上に頭からいった。
見てるだけで痛い気がするほどのダイビングヘッドである。
「ふふ……なんと言う事だ。我らの旅路はかくも苦難に満ち溢れたものであるのか!!」
額に手を当て俯いて首を左右に振り嘆きの仕草をする黒衣の女。
3度目は真上に浮かび上がらず背面の岩壁に叩き付けられるダグラス。
そのまま後頭部を岩壁でガリガリされながら持ち上がる。
「はい集中!! ここだ!!!」
3度目にしてようやく物言わぬダグラスは光の中へ消えた。
しばし闇の中にふーふーと黒衣の女の立てる荒い息が響く。
そしてようやくその呼吸の乱れが収まった頃……。
「執念で這い戻ってこれるかな? ……もしも、それが叶ったのなら」
月光が照らす女の地に映る長い影がこの世のものではないように不吉に揺らめいた。
「その旅の続きが幸福なものになるようにささやかながら祈らせてもらおうじゃないか」
────────────
───夢を見ている。
幸福だった頃の夢だ。
隣で笑っている彼女。自分には高嶺の花過ぎると諦めていたはずの女性。
そんな女性の夢を見ている。
宝石のような……? 詩心のない彼では彼女の素晴らしさはとても言葉で表現できるものではなかったが。
「楽しみね。私たちの事をお父様にご報告するのが!」
思い返す。屈託なく笑う姫に自分は上手く笑顔を返せていただろうか?
内心の不安が表に出て若干頬は引き攣っていたかもしれない。
「激怒されて、俺は追放されるかもしれないぞ」
軽口だがまったくの冗談というワケでもなかった。
何せこの姫が国王からどれだけ溺愛されているか彼はとてもよく知っている。
「心配し過ぎ! お父様はお優しい方だものきっと喜んでくださいます」
自らの幸福な将来を、肉親の愛情を、欠片も疑っていない姫の笑顔は眩しく暖かい。
「でも、もしお許しが頂けなかったら………」
そうして彼女は澄んだ空の色をした瞳にダグラスの顔を映す。
「その時はダグ、貴方…私を連れて逃げてくださる?」
……戯れだ。
もちろん、と頷いて微笑めば良いのだ。
本気の問いではないのだ。物語の幸せな恋人のようなやり取りを楽しみたいだけだ。
そうわかっていながらも不器用な彼はそれが上手くはできないのだ。
「難しいな。悲しむ人が沢山いるよ」
冗談だとわかっていながらもダグラスの脳裏には大勢の自分を支える人々の顔が過る。
両親は既にこの世にはいないが、親代わりとなってここまで育ててくれた叔父夫婦。
自分の素質を見出し傍に置いて育ててくれた師である騎士団長。
士官学校時代の多くの友人たち。
その他にも……大勢。
「んもう! 貴方のそういうところ!」
大袈裟に頬を膨らませて全然力の入ってない拳で彼の胸板を打つ姫。
そしてそのまま彼女はダグラスの腕の中に飛び込んでくる。
「……わかっています。私は貴方のそういうところを好きになったのだから」
その背にそっと手を回す。
詩心の無いダグラスではあるが……。
それでも今のこの時が永遠であったなら、と詩人のような言葉が胸の内に一瞬浮かんで、そして水泡の如く儚く消えていくのを感じるのだった。
─────────
薄すらと彼は目を開く。
見上げる天井は見知らぬものだ。
鋼色の天井。
無数に走るパイプやチューブ。
時折淡く明滅する幾何学模様。
凡そこれまでダグラスが生きて来る上で目にした事などない。この世のものとは思えない造詣の空間。
ここはどこだ、と疑問が彼の脳裏に浮かびかけ……。
「……ッッ!!!!」
それよりも先に自身が意識を失う前の光景が記憶の底から蘇ってきた。
血と痛みの記憶。思い出されるのは冷徹な殺意を宿した仲間だと思っていた者たちの視線。
跳ね起きた……つもりだった。
しかし実際には彼の四肢はまったく動かない。
というよりもそちらに視線を向ける事すらできないので確認できないが手足がまだ付いているのかそれすら定かではない。
辛うじて動かせない視界に入る範囲でダグラスにわかるのは自分が見知らぬ場所に寝かされていることと、無数のチューブのような物が身体に繋がれている事だった。
「お目覚めかな? んー……大変結構」
女の声だ。
艶やかで何故かわずかに背筋に冷たいものが走る気がするような声。
ダグラスの視界の端に黒い衣が映る。
顔まではよく見えない。
「まずはキミの人生と私の労力がご破算とならなかった事を祝おう」
「……………………」
その女性が何を言っているのかダグラスにはわからない。
最もわかろうがわかるまいが彼は今一切の反応ができる状態ではなかったのだが。
「ふふ、まだ口を動かすのは無理かな? そのうち回復していくさ」
顔は見えていないが……。
ダグラスはこの時女性が笑っているのがわかった。それも何故か向けられた側が戦慄する類の笑みであると思った。
「焦ることはない。……『時間はいくらでもある』のだから」
その台詞の意味も、この時のダグラスには何もわからないのだった。
────────────
大陸の果てに深い深い森がある。
もう何世紀も人の侵入を拒んできた大樹海。天然の大迷宮である。
その最深部に古い石造りの塔が建っている。
いつの時代のものかもわからない。どの国の記録を紐解いてみてもそんな場所にそんな塔があることが記されているものはない。
そこで彼女は暮らしている。
気の遠くなるような昔から1人で暮らしている。
塔の記録は残されていなくても『彼女』の話は聞いたことがある者は存在している。
────曰く、東の果てには魔女が住む。
『東方の魔女』と呼ばれるその女は極稀に人里に現れ人智を超えた力で様々な驚異を顕現せしむるという。
善きことも、悪しきことも、そのどちらも伝える伝説が……或いは民話が、世界の各地に残されている。
事実を確かめたものは誰もいない。
御伽噺の住人。
それが彼女である。
そんな人知を超えた魔女の気紛れにより彼は……ダグラス・ルーンフォルトは死の淵より帰還した。
否、それは蘇生と呼べるようなものであっただろうか?
事実彼は今生きて横たわってはいる。
しかしもう彼は……『人間』ではないのである。
それは再誕と呼ぶべきものであったかもしれない。
まどろむ彼は未だ自身が既に人ではなく『別種の生命体』となった事を知らない。
ただ彼は夢を見る。
幸せだった頃を泥のような眠りの底で回想している。
それがもう永遠に失われてしまったのだと知る由も無く。
────────────
それから数日して再び彼は意識を取り戻した。
相変わらず四肢はまったく言う事を聞かない。
言葉を発するどころか眼球を動かすのも無理だ。
……たまらなくもどかしかった。
だが、それでも今日は『彼女』の顔を視界に納めることに成功した。
向こうからダグラスの顔を覗き込んできたからだ。
「全ては時が解決する。焦らない事だ……てるひこ」
銀色の髪の美しい女だ。
ちょっと人間離れした魔性の美貌の持ち主と言うか……。
一瞬ダグラスも今自分が置かれている状況を忘れて息を飲むほどの美貌だった。
後、とにかく名乗ってないからしょうがないのかもしれないが女はダグラスをめちゃくちゃ適当な名前で呼んでいる。正しい名を伝えたいと思う彼だがどうしようもない。
「さて私の声は聞こえているかな? まずは名乗っておくとしようか……私の名はレイスニール・アトカーシア。古い知識と技術を伝える一族の末裔さ、てるひこ」
美貌の女はレイスニールと名乗る。
また視界の端に移動されたのでダグラスには正しく把握はできないがどうやら喋る度に一々ポーズを付けているらしい。ぼんやり見えている人影がくねくね動いている。
「私とてるひこの出逢いは。……そう、あれはまるで奈落の様に深い深い谷底だった。真紅の薔薇のように地面に血の跡を広げたてるひこの姿を見た時、私は運命と芸術の女神アイリーンの囁きを耳にしたような心地になったものだ」
もうちょっと簡潔に説明して欲しいものだが状況は理解した。
あの転落した谷底で拾われたと言う事だ。
だがその時点で自分はほぼ死者だったはずなのだが……そう思うダグラス。
「てるひこの生命の灯火は今まさに尽きようとしていた。……嗚呼なんたることか! 黄泉よりの遣い黒曜石の瞳の大烏よ! 今しばらくその者の魂を持ち去るのは猶予を願えぬものか!!」
……非常に状況説明がまどろっこしい。
「斯くなる上は我が禁断の秘儀にてかの者を地上へと繋ぎ止めるより他はなし!! 喝采せよ!! 聴衆よ!! 舞台の幕開けを高らかに歌い上げよ!!!」
ガン!!
なんか痛そうな音した。
オーバーアクション過ぎて手か何かどっかにぶつけませんでした? 気になるダグラス。
「てるひこ!! 痛い!!!」
やっぱりぶつけたらしい。
ぶつけたらしい箇所にふーふーと息を吐き掛けているような音がしている。
「そう、そして私は禁忌の魔術にてキミの再生を試みたのだよ。先に詫びておこう! 人のままキミを元に戻すことはもう不可能だった。私にできる事はキミを別種の存在へと作り変える事のみ……!!」
魔女レイスニールの言葉に衝撃を受けるてるひこもといダグラス。
(……今なんと言った? 彼女は。『別種の存在』?)
「そう、そして強大な力を持つ
……
それは魔力によって強化された超古代の恐るべき戦士。
かつて人であったもの。
数名の魔人が大戦の行方を左右するとまで言われた破壊と殺戮の使者。
だが人を魔人と化す技術を持つ文明は滅びた。
今では各地に残る朽ちた遺跡からその痕跡を微かに感じられるだけだ。
全ては悠久の時の彼方、崩れて風に溶けて消え去ったはずのものだ。
当然この話を聞かされているダグラスも魔人とは何かまったくわかっていない。
「
さっきどこかぶつけた反省からか座って話すことにしたらしい。
黒衣の魔女は椅子を引いて腰を下ろし長い脚を組む。
「遠い遠い……遥かな昔の物語だ。魔力こそが至高、魔力こそが真理とされていた世界に1人の王がいた。自らも強大な魔術を使いこなし、数千の高位の魔術師たちを率いて巨大な王国を統べし支配者だった」
瞳を閉じて謡うように言葉を紡ぐレイスニール。
「しかしある時、彼の支配を良く思わない者たちが王国に対し戦いを挑んだのだ。王の戦力に対して反逆者たちはあまりに多勢に無勢だった。勝敗は誰の目にも明らか……そう、思われていたのだが」
そこで勢い良く魔女は立ち上がった。
「玉座で王は叫ぶ
『どうした!? 早く余の元へ忌々しき造反者どもの首を持って来い!!』
そこへ1人の兵士が駆け込んできたではないか……
『王よ! 大変でございます!! 我らの軍勢が壊滅状態に!!!』
『何だと!? 壊滅状態だと!? 五百の
『王よ。敵は1人です。たった1人にございます!』
『1人だと!? ただの1人に我が無敗の軍団が敗れたというのか!!』
『そうなのです! 1人でございます! ただの1人……されど
「…………………………」
なんだかなあ。熱演してもらっている所大変申し訳ないのだが、肝心の魔人の名前がノイズ過ぎて凄さが伝わってこない。
やっぱり塩でいただくのがいいのだろうか? ああほらノイズになってる。
何とも言えない気分でレイスニールの話を聞くダグラス。
とにかく彼は自分が何やらとんでもないものに改造されたらしい事はぼんやりと理解した。
正直ダグラスとしては生きているだけで万々歳の状態だ。紫蘇だか芋だかのてんぷら仮面にされた所で文句を言えたものではない。
そんな仮面で過ごせと言われたら流石に嫌がるが。
────────────
それから2ヶ月ほどが過ぎ、ダグラスはようやく喋る事はできるようになった。
まずはこの2ヶ月ずっと引っかかっていた名前の件を……自己紹介を済ませる。
「なるほど? ダグラスというのかキミは。わかったよ、てるひこ」
わかってねえ。
「ならば私も名乗らねばなるまい。我が名はレイスニール・アトカーシア! ……」
ああまた名乗り始めてしまった。もう知ってるのに。
『東方の魔女』 ……おとぎ話の存在でダグラスも聞いたことくらいはあった。最も実在の人物だとはカケラも思っていなかったが。
本物なのか騙りなのかも彼には判断のしようがない。
彼が認識できる確かな事は一つだけほぼ死人だったはずの自分が彼女のお陰で命を取り留めているという事実だけだ。
その魔女レイスニールが何故自分に力を貸す? その疑問をダグラスが口にすると……。
「根本的に誤解があるが私はキミに手を貸したわけでも味方でもないぞ、てるひこ」
黒衣の魔女が妖しく笑う。
自分はただ試したい術式があり丁度よい素材だった自分にそれを試しただけなのだと。
彼女にとっての自分は単なる実験素材。
結果として蘇生できたのは運が良かっただけだ、と言う。
「今のキミは人を大きく超える再生能力を有している。今自分で身体の損傷を修復している状態だ。言っておくが時間がかかるぞ。キミの身体は酷い有様だったからな」
そうだろうな、とダグラスは答えた。
彼のあの夜の記憶は途中からかなり曖昧だ。毒に侵され朦朧とした中での出来事だった。
だが1つ1つが致命傷にもなり得る深手を無数に負っていたはずだ。
「後頭部なんか酷いものでね。ほとんどハゲちゃってて」
「何ぃ? アイツらそんな事までしてやがったのか!」
……益々許せない。ダグラスは憤る。
彼の記憶には無いが毒で瀕死の自分に後頭部がハゲる程の攻撃を加えられていたらしい。
なんたる非道だ。憤怒と憎悪の炎が再燃するダグラス。
────────────
ダグラス・ルーンフォルトの療養生活は総じて平穏なものだったが、それでも悲劇的な出来事もある。
これはある日の話だ。
「なあ魔女様。……聞くのスゲー怖いんだけどな……」
「なにかね? てるひこ」
ダグラスは五体の触感というものがここの所徐々に戻り始めていた。
「これ、ひょっとして……俺」
どうにも尻の下が直に寝台の気がしてしょうがない。
冷たい硬い感触がある……。
その違和感が気になるダグラスだ。
「下何も履いてなくない……?」
うむ、と何でもないことのように頷く魔女。
ダグラスは目を白黒させる。
「ええぇえぇ!!?? 何で!? 上は何か着せられてんじゃん俺!! 何で下は履かせてくれないの!?」
上半身は簡素なシャツのようなものを着せられているのだ。
動揺しまくって叫ぶダグラス。
「複雑な事情があるのだよてるひこ。悲しいことだ。実は……上を着せてたら面倒になってしまってね」
複雑でもなんでもなかった。何か凄い悲壮感出して語っているが。
「ずっとこうなの俺!? ずっと下丸出しで!!??」
「そういう事になるな」
頭を掻き毟りたい衝動に駆られるダグラス。しかし彼の両手はまったく言う事を聞いてくれはしなかったが。
「あり得ねえ!!! アンタ俺が過去話とかしてた時どんな気持ちで聞いてたんだよ。こんなカッコしたやつが!!」
何とはなしにあの夜の話をした事がある。
自分が仲間たちに裏切られて襲われたあの夜のことを。
途中怒りと無念の想いが胸に蘇り、声を震わせて語っちゃった記憶がある。
「え? ……なんか、ちんちん丸出しでシリアスに語ってるなあって(笑)」
半笑いで言われた。
ふひゅぅぅぅぅぅぅ、と口笛にも悲鳴にも聞こえる変な音を出すダグラス。
あんまりだ、酷すぎる、と抗議の声を張り上げているとうんざりしたようにレイスニールは肩を竦めた。
「やれやれ、ギャーギャーうるさいねキミは。そんなに気になるのならそれ取り外しておいてやろうか? 元気になったらまた付けてやろう」
かつてないレベルのとんでもない事を言い出した。
……何? 取り外す?? 『これ』を???
「やめろおぉぉぉぉ!!! これはそんな気軽に着脱式にしていいパーツじゃねえんだよ!!!!」
全身を駆け巡る戦慄に裏返った悲鳴を上げるダグラス。
魔人だろうがてんぷら仮面だろうが受け入れても『これ』を取り外されることだけは断じて受け入れられない。
「そんな事するくらいなら何か履かせてくれりゃいいじゃん!!」
「バカを言うな。それじゃ私に何の発見も喜びもないだろう」
ちんちん着脱式にするのは何か発見と喜びがあるんだろうか。
結局話は平行線に終わり、ダグラスの某重要パーツは着脱式にはならずに済んだがパンツも履かせてもらえなかった。
────────────
また時が過ぎた。
ダグラスは徐々に体の自由を取り戻していった。
四肢に感触が戻り、やがて微かに動かせるようになり……そして元の通りに自由に身体を動かせるようになるまで……経過した時間は2年と数ヶ月。
ついこの前まで使用していた車椅子も今では無用の長物となった。
「……………………」
彼は考える。
違和感はもうどこにもない。動かしてみて不調を訴える部位もない。
完全回復……いや……。
この感覚は………。
確信があった。以前の自分とはまったく違う。今のこの身体には『力』が満ち溢れている。
全力を出した所を想像すると我が事ながら冷や汗が頬を伝う。
(俺の身体はどうなってしまったんだ……?)
彼が自分は既に人の領域にはいない事を朧げに自覚する。
『化け物』か……。
苦笑する。化け物大いに結構。これから自分がしようとしている事を考えれば身体能力などどれだけあってもいい。
(……そうだ。自分は帰らねばならない)
あれから数年が過ぎたが、彼の中の時計はあの夜から壊れて時を刻んでいない。
止まったままだ。
失ったものはもう恐らくほとんど戻ってはこないのだろうが……。
それでも、代償は払わせなければ。
あの卑劣極まる裏切りの……後頭部ガリガリしてハゲさせた事や下丸出しでシリアスに自分語りしてしまったりした羞恥の……償いをさせるのだ。
────────────
そして……別れの時がきた。
「ありがとう。魔女レイスニール。あんたには本当に世話になった」
改めて礼を述べるダグラスに大きな姿見の前でポーズを取っていた彼女の動きが止まる。
「……行くのかね? てるひこ」
「ああ。やらなきゃいかん事があってね」
なるべく深刻に聞こえないように気を使って発言するダグラス。
馬鹿な事をしようとしているという自覚はある。
せっかく取り戻した命を使ってわざわざ絞首台に登ろうと言うのだ。
これを愚かと言わずして他になんと言えというのだろう。
「関知はしないさ。キミのいいようにしたまえ」
その言葉はいつもより心なしか穏やかな言い方だったように彼には思えた。
「魔人化の術式に適合するのは数百人に一人だ。適合しなかった者は死か……或いは術式の暴走でこの世のものとも思えない恐ろしい姿の怪物に成り果てて生きていくことになる。私は適正有りと見込んだ者にしか施したことはないがそれでも成功率は10%に満たない」
ダグラスもそうなっていたかもしれない、という話だ。
「だから詰まるところ、キミの運が良かったという話だ」
魔人には強力な再生能力もある。
毒に侵され負傷でボロボロだったダグラスはその『魔人化』と『再生』のプロセスを同時進行する事になった。回復するまでに2年以上の月日を要したのはそういう理由だ。
そう言われてもダグラスにしてみれば死との二択なのだ。選ぶ余地などあるわけがない。
「感謝したいのなら勝手にすればいいさ。私は特にそれに対して思う事はない。嬉しいとも迷惑とも思わないよ」
「ああ勝手に感謝してるよ、魔女レイスニール。あんたは俺にとって命の恩人だ」
ここでの2年数ヶ月の生活でこの黒衣の女の偏屈さはよくわかっている。
偏屈と言うか独特の価値観で生きているのだ。気の遠くなるような昔から生きているような事を言っているし喜怒哀楽の基準が自分のような現代人とは異なるのだろう。
「術式は試せたし結果にも満足している。こちらとしてはもうキミに用はないのだが」
口ではそう言いつつも彼女は身体がまだ満足に動かないダグラスを自分の研究所から追い出そうとはしなかった。
何かお礼がしたいと思うが彼女はまったくそれを望んではいないだろうし、自分に彼女の喜ぶものが用意できるとも思えないダグラス。
……彼はここでの2年を思い返す。
戸惑いばかりの生活だったがいざこうしてそれが終焉を迎えるとなると寂しさも覚える。
体調はもう万全だ。万全どころか魔人と化した今のダグラスは生命体として以前とは比べ物にならないほど強化されているのだ。
まだその力を実際に試してはいないが彼には実感はある。
あの日、あの裏切りの夜……。
あの夜にもし自分にこの力があったのなら……。
相手を反撃で皆殺しにして自分は平然としていた事だろう。
それほどの力だ。
ニヤリと黒衣の魔女は笑う。時折彼女が見せる蠱惑的な笑み。
「復讐を望むなら今のキミなら思うがままだろ?」
「……そうだな」
内心を見透かす魔女のセリフに複雑な心境のダグラス。
そうだ、自分は復讐のために国へ帰るのだ。
あれから2年数か月……。
連中はどのように過ごしているだろうか?
馬鹿げているのは自分でもよくわかっている。
もうあんな連中のことは忘れてどこかで新しい生活を始めるべきなのだ。
折角並の人間を凌駕する能力を得たのだ。どういう生き方を選んでも上手くやれると思う。
それなのに……自分は今わざわざあの汚泥の沼へと戻ろうとしているのだ。
別れは実に淡白なものだった。
出入り口までの見送りすらない。
それが今の彼には有難い。
(……名残惜しむな。独り善がりで余計なものを彼女の中に残すなよ、ダグラス・ルーンフォルト)
それが礼儀だと彼は思った。
「てるひこ」
奥の部屋から呼ばれた気がしてダグラスが振り返る。
相変わらず彼女は姿を見せないが……。
だが次の言葉は間違いなく彼の耳に届いた。
「幸あれかし、だ」
一瞬こみ上げてくるものがあって彼は何かを言いかけたが結局どの思いも上手く言葉にはなってくれない。
なので、ただ頭を深く下げた。
ただ静かに、深く深く頭を下げて彼はしばらくの間その場を動かなかった。
……それが2人の別れだった。
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