遅れてきた復讐者(リベンジャー) ~二十数年で復讐がどうでもよくなっちゃってた話~

八葉

第1話 帰ってきた亡霊

乾いた風が吹いている。荒野に黄色く砂埃が舞う。

 枯れた大地はここまでだ。この先には徐々に緑が増えやがて草原になる。


 そしてその草原の先は白い壁が続いていた。


 聳え立つ白い城壁、長大なそれの向こう側にはこの大陸でも随一といってよい大都がある。

 栄光の300万人都市イグハートン。ファーレンクーンツ王国の首都である。


 今、1人の男が城壁を一望できる丘に立っている。


 二十数年ぶりに生まれ故郷に───

 ───祖国に帰ってきた男。


 長身の彼はフードを目深に被ったマント姿だ。

 大きな長旅用のカバンを背負い腰から長剣を下げている。

 外気に触れる口元にはわずかに灰色の無精ひげ。

 だがそう歳がいっているようにも見えない。30前後といったところであろうか。


 男は城壁へと近づいていく。

 ……一歩、また一歩と。

 それは自分の足元が現実なのかを確かめるような歩みだった。


 やがて革のブーツは動きを止め僅かに土埃が上がる。

 ゆっくりと男の顎が持ち上がる。

 長めの前髪に覆われた切れ長の瞳が眩し気に細められた。

 視界を覆うのは白灰色の石の壁。

 見上げる城壁は記憶の中のそれと聊かも変わってはいない。

 瞳の奥に過去の幻影が一瞬だけ蘇り、色鮮やかに揺らめいた。


 かつて……この中で暮らしていた。


 現在の自分はといえばその頃とは何もかもが変わってしまった。

 少なくとも、この城壁の向こう側には今や自分を待つ者は1人もいないのだ。


 ……とうに死んでいるはずの男。それが今の自分。

 まるで亡霊だ。


 フードの下の口元が皮肉気に歪む。

 まさに今の自分に相応しい呼び名だ…亡霊。


 自身の『生前』の名はこの国では広く知れ渡っている。

 子供でも良く知る悲劇の伝説の主人公。

 人生の栄光の瞬間を目前にして非業の死を遂げた男。


 だがそれは偽りの物語だ。

 真実は歴史の闇の彼方へと葬り去られ人々の目に触れることはない。


 だが……自分はこの地に帰ってきた。

 長い時をかけて舞い戻ってきた。

 奴らが葬ったものを……人々が忘れ去ったものを、それをもう一度思い出させてやるために帰ってきたのだ。


 ───復讐。


 落とし前を付けるために戻ってきたのだ。

 自分のすべてを奪い歴史から消し去った者どもよ思い知るがいい。


 今こそこの『過去オレ』がお前たちを断罪する為に参上する。



 ──────────────────

 昔話をするとしよう。

 ───今を過ぎ去ること二十と余年。


 並び立つ大陸有数の2国……ファーレンクーンツ王国とラサ帝国。

 隣接する両国の関係が悪化した原因は国境線の走る荒野であった。

 それまではどちらの国もほぼ放置していた不毛の土地。

 故にそれまでは荒野を横断する形で走る国境線の定義も非常に曖昧なものであった。


 ところが……だ。


 ある時、その荒野にある峡谷から銀の鉱脈が見つかった。


 その鉱脈の所有権を得たい王国と帝国はどちらも自国の領内であると主張し合い外交では決着は付かずに遂には軍事衝突へと発展してしまう。


 戦は数年に渡り両国一進一退の状況が続いた。


 そんな中、一人の若き騎士が颯爽と歴史の表舞台に躍り出る。

 国境紛争の中、加齢による衰えと負傷から勇退する事になった先代から歴代最年少にて騎士団長の座を譲り受けた男。


 ダグラス・ルーンフォルト。


 若干25歳にして王国軍の司令官、銀竜騎士団の団長になった男。

 剣術、そして用兵の天才。当代並ぶものなき英傑。

 そしてファーレンクーンツ国王ロムルス三世の愛娘、ディアドラ姫の婚約者。


 彼の存在は王国にとっての暁光となった。

 その指揮下で王国軍は破竹の快進撃を続ける。

 追い詰められた帝国軍はかつてない大戦力を差し向け一大反攻作戦を開始。


 ……そして両国最後の一戦、名高い『ウェンブローク荒野の会戦』にて両軍は激突した。

 騎士団長ダグラスはこの戦で帝国最強と言われていた剣士を一対一の対決で討ち破り、かくしてこの戦争は王国軍の勝利にて幕を下ろすこととなったのである。


 ────────────

 歴史的な大戦を勝利で飾った王国軍。


 銀竜騎士団の中枢メンバー……団長麾下の部隊長たちと本隊は一足先に王都への帰路にあった。

 堂々の凱旋帰国である。

 帰国すれば彼らは栄光と歓喜に包まれるだろう。


 一行の表情はいずれも明るく、蹄や車輪の音も心なしか弾むように響いている。


 やがて日も暮れ夜の帳が降りる。

 一行は予定通り森の中の野営地で一晩過ごす事になった。



 パチパチと焚き火が爆ぜ、それを取り囲む男達の姿を夜の闇の中に赤く浮かび上がらせている。

 一行の中心にいるのは黒髪で精悍な顔立ちの偉丈夫……騎士団長のダグラスだ。

『最強』を謡われる稀代の英雄。平民からの叩き上げで現在の地位に就いた彼は平時は威圧感もなくどこか飄々とした一面もあって民衆からの人気も高い。


「明日には王都か。2ヵ月ぶりの帰郷だな」


 一行のリーダーの顔に疲労の色はない。

 成し遂げた偉業による達成感と高揚が疲労や僅かな負傷の苦痛などかき消してしまう。


「は、問題無くば明日の陽のある内には」


 恭しくダグラスの傍らで頭を下げる初老の男。

 幾分か白いものの混じり始めた頭髪をオールバックにして口元に薄く口ひげを蓄えたこの男の名はクラウス・ハインリッヒ。騎士団の副団長でありダグラスの頼れる有能な参謀だ。

 通称『微笑ほほえみのクラウス』常に微笑んでいるように見える顔付から付いたあだ名だ。

 だが、その微笑みのまま敵を切り伏せるとも言われており『微笑』の称号は畏怖のそれでもある。


 そして団長、副団長の他にこの夜宴に加わっている7名……。


「いやあ、楽しみだなあ。恩賞はどのくらいのもんですかねえ。なんせ私たちは英雄ですからね」


 焚き火で焼いた獣肉を頬張りながら陽気に笑う男。

 眉毛が濃く丸い大きな鼻と角ばった顔立ちが特徴のこの男は第3隊長カルタス・ボーマン。

 多少空気の読めないきらいはあるが明るい性格でムードメーカーな男だ。

 牧歌的な雰囲気だが、それが一度戦場に立つと自慢の怪力を活かし愛用の戦斧で獅子奮迅の活躍を見せる猛者でもある。


「品が無いぞカルタス。今から恩賞の話などするもんじゃない」


 低い声で静かにたしなめる銀色の長髪を襟足で束ねた細い目の男。

 第5隊長イーファン・メレク。

『氷の射手』の異名をとる冷静沈着な弓の名手だ。


 その2人の背後で静かに杯を傾ける禿頭の巨漢、第2隊長シド・グリオ。

 長身のダグラスより更に頭1つ分背が高い。

 筋肉の塊でまるで巨石兵の様な男である。

 鍛え上げられた丸太のような腕から繰り出される鉄槌は死の旋風となって敵兵たちを蹴散らす。


 同じく周囲のやりとりなぞどこ吹く風と優雅にリュートを鳴らしている赤茶色の髪の優男は第4隊長ウーサー・マクシム。

 団内でも有数の剣術の達人。舞うように立ち回り神速の一撃で相手の命を断つ。


 同じく話の輪には加わらずに仏頂面で得物のナイフを磨く薄い眉で人相の悪い長身の男、第7隊長ヒルディン・ライアン。

 元は歴戦の傭兵である。あらゆる武器や戦術を器用に使いこなし難度の高い任務も涼しい顔をしてこなす男。


「ワシはあ~~。ただぁ王国のためにぃ忠義をぉぉ尽くすのみぃ」


 酒臭いだみ声を吐いている1人。すっかり出来上がってしまっているのは顔の下半分を髭で覆った中年男。

 刀、と呼ばれる東方の刀剣を腰に帯びたこの男が第8隊長フガク・エンゴウだ。

 剛剣士であり特に上段からの斬り下ろしは標的を鎧ごと断ち切ると言われている。


「お酒を楽しむのもいいけどさ。もうちょい味わって食べてよなあ」


 ぶつぶつと言いながら良い匂いのする鍋をかき混ぜている小男、第6隊長シャハム・マウム。

 小柄でスピードがあり槍の達人でもある。

 手先が器用で料理が得意な彼は野営地で食事番を勤める事が多い。


 いずれも銀竜騎士団の中枢たる幹部たちである。

 全員ダグラスが騎士団長に就任する前から交流のある気心の知れた仲間だ。


「都に戻って戦勝の祝祭が終われば、いよいよ団長と姫様の婚礼の儀ですね」


 シャハムがダグラスに杯を差し出しながら笑った。

 頷いて謝意を示すと杯を受け取る。そこにワインを注ぐシャハム。


 そうだ。帰還した後には民たちにディアドラ姫との婚約を公表し王が自らの後継者として自分を指名する事になっている。


「未来の国王陛下に乾杯ですよ」


 シャハムの音頭に周囲の騎士隊長らが杯を掲げる。

 皆、笑顔だった。


「王か……正直まったく実感はないんだがな」


 苦笑してダグラスはぐいっと杯を煽った。


「まあ王はまだまだお元気であろうし、俺は当分お前達と………」


 ───台詞が途中で途切れる。


 ダグラスの視界がぐにゃりと歪んだ。


「お……」


 その手から杯が落ち、残った酒を散らしながら地面に転がる。


「酔いが回った……か……?」


 口にしながらもダグラス自身そんな事はないとわかっている。

 酒には強い性質だし、そもそも酔いが回るほどまだ今夜は飲んでいない。


 不意に腹の底から熱を伴った強烈な不快感がこみ上げてくる。


「!!? ……グぶッ!!!」


 耐え切れず、それを吐き散らす。

 口外に溢れ出たのは赤黒い血の塊だ。

 かつて味わったことのない苦痛。内臓うちがわに深刻なダメージを負った証。


(毒を盛られた……ッッ!!!!???)


 事実を理解しながらも感情がそれを拒絶する。

 そんなはずはない。この場には……この場にいるのは………。

 倒れ伏しそうになるのを気力で耐えながら顔を上げる。


 ……そして、ダグラスは見た。


 周囲の者たちが全員自分を見ている。

 クラウスが、隊長達が……皆、自分を見ている。

 無表情に見ている。


 誰も……1人も心配して駆けつける者がいない。


 全員が感情のない瞳に吐血して苦しむ自分の姿を映している。

 こうなる事が全員わかっていたかのように。


 それが……答えだった。


「何故……だぁッッ……!!」


 呻きながらまた血を吐いた。

 そのダグラスの前に副官クラウスが進み出る。

 腰の剣を抜きながら……。


「お許し下さい。ダグラス様」


 言葉とは裏腹にいつもの穏やかな微笑を崩さぬクラウス。

 その表情かおのまま敵を討つと恐れられた顔立ちで今指揮官であるダグラスに対峙する。

 副官の手にした刃が焚き火の輝きを写して妖しく輝く。


「……全て王命にございます」

「!!???」


 脳天に鉄塊を振り下ろされたかのような衝撃を受ける。


 王……。

 王だと……?


 敬愛する主君ロムルス・ファーレンクーンツ三世陛下。

 最後にその顔を見たのは出陣の前日、ダグラスが王の御前に出立の報告をした時だ。


 ─────────


『我らが偉大なる国王陛下に栄光と勝利を。』


 剣を抜いて眼前に立てて掲げ片膝を突いて礼の姿勢を取るダグラス。

 国王ロムルス三世は玉座を立ちダグラスの元へ歩み寄る。


 思慮深き名君として名高いロムルス王はふくよかな体型の温和な表情の初老の貴人だ。

 彼は柔和な笑みを浮かべたまま自らの前で跪き首を垂れるダグラスの肩に手を置いた。


「我が頼もしき騎士団長よ。確かにそなたの言うように勝利は大事だ。我らは勝たなくてはならぬ」


 諭すように王が告げる。


「だが同じく大事な事がある。そなたが無事に帰ってくることだ」


 王の玉座の隣に座るディアドラ姫が頷く。

 大輪の華と謡われる美姫ディアドラ。心を通じ合った婚約者。今の自分は彼女が美しく心優しいだけでなく芯の強さもある女性だと知っている。


 彼女は静かに王の言葉に頷いて同意した。


「そなたは我が国の希望、未来だ。決して無理をしてはならぬぞ。この戦が終わった暁にはそなたは余の息子となるのだから」


 その言葉にはっとなってダグラスは顔を上げた。

 暖かい瞳で王が自分を見ている。

 姫が僅かに頬を染めてはにかむ。


「……御意にございます」


 そしてダグラスは再度深く頭を下げるのだった。


 ─────────

 その記憶は一瞬にして雷光のように脳裏を過ぎ去っていった。

 あの王が、自らを未来の息子と呼んだ主君が……。

 この凄惨な裏切りの首謀者だというのか。


「陛下は普段表には出さぬようにしておられますが本当は大の貴族主義者なのです」


 クラウスの言葉に目を見開くダグラス。

 この場合の貴族主義とは血統の事である。

 貴族の血に連なる者を尊び、そうではない者たちを軽視する。

 あの温厚で思慮深い、尊敬すべき主君である王が……内心にそのような強い差別思想を秘めていたと……。


 確かに自分は貴族ではない平民の出だ。

 先代騎士団長ヒギンスに見出され彼の従者から叩き上げで現在の地位に就いた。


「だが……ッ!」

「ええ、ですが陛下は普段はそれを隠し通す理性もお持ちです。あなたの騎士団長就任の件も内心思うところはあっても反対はしませんでした」


 そこでクラウスはやや俯く。


「だが、あなたはよりにもよって姫様を……」


 そこまで無感情だった言葉に初めて僅かに苦悶が滲む。

 細められた瞳に微かに何らかの感情が揺れた気がした。

 ダグラスがまたも愕然とする。


 自分が……姫と結ばれたから排除するというのか。

 確かに王が姫を溺愛しているのは自分もよく知っている。

 ディアドラは王にとって亡き王妃の忘れ形見であり唯一の家族だからだ。


「それなら………!」


 結婚は許さぬ、とそう言えばよかっただけの話ではないか。

 事実自分は王のそういう反応は十二分に予想できていた。

 この世界の王族の婚姻とはほとんどが政略結婚である。自国の騎士と結ばれたなどという話は自分だって聞いたことがなかった。

 それが余りにもあっさりと交際を快諾されたので拍子抜けしたのを覚えている。


 もしも王に結婚を、交際を反対されていれば自分はその意に背いてまで想いを貫こうとはしなかっただろう。

 苦い青春時代の失恋として記憶の奥底にしまい込んで、だがこれも仕方のない事だと何とか忘れて日々を過ごそうと努力したに違いない。


 それを何故……?


 何故この様な苛烈な仕打ちをもってして自分に当たらねばならぬのだ?


 その瞬間怒りでダグラスの血で汚れた奥歯はギリギリと鳴る。

 語られずとも察してしまった。

 自分で答えに辿り着いてしまったのだ。


「そう……か………!!!………」


 王は、あの男は……。

 姫にはあくまでも結婚に賛成していたと、味方であるという立場を維持したままこの縁談を破談にしたいのだ。

 しかも騎士団長としての自分には十二分な戦果を挙げさせた上で。

 だからこの場なのだ。


 王都に戻れば婚約は公のものとなる。

 それまでに始末できれば実情はともかく公的には自分と姫は無関係のまま。

 故に戦には勝ち、王都に辿り着く前のこの岐路こそが奴らの定めた自分の絶対の死地だったのだ。

 用済みになった猟犬を……この先厄介な存在になるとわかっている自分を始末するのにここが最良の場であったのだ。


 何という……何という身勝手な動機……!!

 こちらの人格を無視し尊厳を蹂躙する悪鬼の思惑である。


 ────吠えた。


 燃え上がった憎悪と憤怒の炎のままに咆哮した。

 最も既にその雄叫びが実際に声になっていたのかはダグラスにはわからない。

 ただ、彼を取り囲んだ裏切り者たちの表情が一瞬恐怖に歪んだ事だけは見て取れた。


「……殺せぇッッッ!!!」


 誰かがそう叫ぶ。

 怒号はこの時まで自分が味方であると……身内であると信じていた誰の上げたものだったか。

 瞳に浮かんだ恐怖をより強い殺意で上書きして隊長たちが襲い掛かってくる。


「許さんぞ貴様らあぁぁぁッッ!!!!!」


 感覚を失いつつある四肢を奮い立たせ剣を構えるダグラス。

 最初に斬りかかってきたのはウーサーだった。

 彼の愛用の細身の長剣が、咄嗟に身をかわしたダグラスの肩口を浅く切り裂いていく。

 何度となく共に修練に励み研鑽を積んできたよく知る剣閃だ。

 そして返す刀のダグラスの振るう刃は赤毛の優男の脇腹を深く抉っていた。

 猛毒を盛られた人間のできる動きではなかった。怒りと憎しみが彼の中の何かの枷を取り払っていた。


「ご、ごほッ……!!!」


 すれ違う体勢になる両者。

 ウーサーが鮮血を吹く。


「団…長………。ダグラス……さ……ま…………」


 最期に何を言いかけたのだろうか。

 その答えは永遠にわからぬまま両膝を地に突いたウーサーはがっくりと項垂れそれきり動かなくなった。


「毒を盛られて尚あの動き!!?」


 頬を引き攣らせるカルタスを押しのけて禿頭の巨漢が前に出る。


「どけカルタス!!! でぇええええええぃッッッ!!!」


 シドが巨大な鉄槌を振り下ろす。

 万全ならば避けられるその一撃も今のダグラスには受け止めるより他はない。

 頭上に掲げた剣で受け止めるも殺し切れない衝撃が全身を駆け巡る。

 激痛で視界が雷光のようにフラッシュする。


「シドぉぉぉ!!!!」

「許してくれなどと虫の良い事は言わぬ!!!!」


 再度シドが鉄槌を頭上に振り上げた。


「我らを憎んで恨みながら死ね!!! 団長!!!!!」


 しかしその真上からの豪打が振り下ろされるより早くダグラスは動いていた。

 眼前の巨躯に身体ごとぶつかる。

 武器を振り上げて無防備になったシドの喉に長剣が突き立つ。

 大量の血を吐きながら巨漢は白目を剥いて大地に崩れ落ちた。


 巨体が大地に沈む低い音に鋭い風切り音が重なる。


「……ぐぁ!!」


 長剣を引き抜こうとしたダグラスの右肩に突き立つ矢。

 得意の長弓からイーファンの放った一矢である。

 更に眼前に戦斧を構えたカルタス、槍を構えるシャハム、刀の切っ先を向けてくるフガクが迫る。

 その3人から一歩下がった位置でヒルディンが極めて冷静に…冷酷に状況を見極めている。

 何があっても即座に対応できるように、常日頃戦場で彼がそうしているように。


 この開けた場所では多勢の相手は不利。

 そう判断したダグラスは身を翻して背後の木々の中へ駆け込んだ。

 愛剣は回収する余裕はなかった。

 手元にあるのは腰に下がっている予備のミドルソードが一振りだけだ。


「追うのだ。どの道もう遠くへ逃げるだけの力は残っておらぬ」


 この惨劇の司令塔であるクラウスが冷徹に告げた。


「あの先は崖だ。逃げ場はない」


 崖側からの奇襲の心配が無いので警護が半面で済む、とこの場所での野営を提案したのはクラウスだ。

 崖のない側の警備に就いている兵隊たちは事情を把握している自分の子飼いの者たちである。

 どちらへ進もうが待つのは地獄だ。


 それにしても……。


 口に含んだ瞬間に気付かれて飲む前に吐かれないように薄めてはいるもののダグラスが煽ったのは猛毒である。

 本来であればそれを飲んだ時点で終わっているはずの任務だった。

 あとは止めを刺すだけのはずだったのだ。

 これだけの抵抗ができる体力があるのは驚愕するより他はない。


「正に当代一の英傑よ。……惜しいことだ」


 微かに口の中だけで言葉にしてクラウスも隊長たちに続き追撃のために森に足を踏み入れた。



 森に逃げ込んだダグラスだが元よりこのまま逃げ切ろう等と思ってはいない。

 ここが自らの死地である事は最早明白だった。

 砂時計のように自分に残った命がさらさらと零れ落ちていくのを感じる。

 器が空になるまでもう幾何の時間もあるまい。


 だが………。


(タダでは死なんぞ……。全員道連れにしてやるッッ!!!)


 今自分を動かす感情はそれのみ。

 身体はとうに限界を迎えている。

 それなのに目を閉じる度に蘇る過去の映像が……。

 仲間たちと過ごしてきた日々の思い出が。

 その記憶が眩しく輝かしいものであればあるほど、そのまま裏切りへの憤怒に変じてこの身体を突き動かすのだ。

 砕け散るほど強く奥歯を噛み締める。


 そして耳に届く鋭い風切り音。

 背後から左足を矢が貫く。

 痛みすら既に遠い感覚になりつつあるがつんのめったダグラスが前方の木に寄り掛かる。

 これで片足も満足には動かなくなった。


 追いついてくる反逆の狩猟者たち。

 先の2人の仲間の犠牲が効いたか近接戦闘を得意とする3人は距離を詰めてこない。

 武器を構えてけん制に回る。その間にイーファンが背後から狙撃してくる。

 辛うじて動く左手に構えたミドルソードで必死に飛来する矢を打ち払ったその時、シャハムが得物の間合いを活かして突きを放ってきた。


「ッッッ!!!!!」


 身体を後ろに投げ出して僅かな差で胸元に迫った槍の穂先を回避するダグラス。

 ……だが、彼が跳んだその先には地面が無かった。

 ただ闇だけが暗く深く口を開けている。

 何かを掴もうとするかのように伸ばした左手が空しく宙を掻く。


 一瞬にして遠くなる崖の淵の光景。

 何かを叫ぼうとしたが声にはならなかった。


 そして、ダグラス・ルーンフォルトは深い奈落の闇の中へと消えていった。



「落ちたか」


 崖の上から底を覗き込んで言うクラウス。

 松明を掲げ深淵を覗き見る。

 だが当然その果ては見ることはできない。


 隊長たちは無言で項垂れている。

 全員どのような過酷な戦場の後でも見せた事のない疲労を滲ませた青ざめた表情で。


「ならばよい。人の助かる高さではない」


 クラウスが長剣を腰の鞘に納める。

 緊張の糸が切れたか、そこでシャハムが座り込んだ。


「亡骸は獣が始末するだろう。戻るぞ」


 踵を返し野営地へと向かうクラウス。


 そう彼らの「仕事」はまだ終わりではない。

 この一件を帝国軍の残党の仕業であるかのように工作しなくてはならない。

 その為の小道具は先の戦場で十二分に調達してある。襲撃者たちのものだとする亡骸も馬車に積んである。


 団長の亡骸が得られなかった事態も想定し彼と背格好の似た遺体もある。

 人相がわからぬように適度に顔を壊してから彼の装備を着せる手筈だ。

 急がねばなるまい。夜は有限だ。


 最大の難事は乗り越えたとはいえまだまだやらなければならない事も考えなければならない事も数多くある。


 だが微笑みの男はそれを冷静に……淡々とこなすだろう。

 これまでがそうであったように。

 そしてこれからもそうであるように。







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