電話ボックス
新しく抱えた仕事のプレッシャーと、彼との別れ話が同時期に重なり、心と身体のテンションが今までになく落ちていた。
これまでなら気にも留めなかったような些細なストレスで、簡単に涙がこぼれるような自分になっていた。
ある日、一人でのランチを済ませた後、会計で小銭を出そうとして、ふと指の力が抜け、財布の中身をぶちまけてしまった。
チャリン、という音がそう広くない店内に響き渡る。しかし誰も拾ってくれる人はいない。
そのとき、突然耳の奥で「ピーーーーー」という高い音がはっきりと鳴った。わたしは一人、独り、ひとり……。
周りの音や声が、中耳炎のときのように、ぼわんぼわんと膜を通して歪んで聞こえてくる。気がつくと目の前の景色から色が消えていた。
人間の感覚性能に「世の中を見るための解像度」があるとするならば、それらすべてが一挙にガクンと落ちたようだった。
身の回りの空気がぶよぶよのゼリーになったみたいで動きづらい。膝にも足首にも全く力が入らず、歩いていても本当に足が地面を踏んでいるのか確信が持てなかった。
わたしは世間一般に「鬱」と呼ばれる状態になった。
五感の解像度はどんどん落ちてゆき、何を食べても味がしなくなった。あんなに好きだったポルトのエクレアも、庵月の栗羊羹も、蓬莱の肉まんも。
精神科にも通ってみたが、わたしの場合は投薬が体に合わず、飲むと仕事がうまく手につかなかった。感情は薄れてきているのに、死にたいと思う頻度だけがひどくなっていった。
このままではいけない。わたしは仕事を辞め、郷里(くに)に帰った。父も母も優しかった。
――都会はやはりお前にはあってなかったんだよ。学校を出てからは働き詰めだったのだから、長い夏休みだと思って、しばらくはゆっくりしていなさい。
あれから三ヶ月、自分の五感が捉える感覚はどんどんあいまいになり、時間の感覚はのろのろとしたままだ。
それなのに、世間の実際の時間の経過は著しく速い。
あの別れた彼は別の女性と婚約したらしいし、わたしの仕事のポジションは後輩に奪われたようだと、SNSが伝えてくる。
――気分転換に散歩でもしてきたら。
そんな母の言葉に素直に従い、少し空気がひんやりしてきた田舎の道をとぼとぼ歩く。長袖を買わなくちゃね。うすぼんやりと、そんなことを考える。
周囲を田畑に囲まれた、この道にはほとんど車は走っていない。そんな風景の中にある異物に、ふと目が止まる。
道端の1台の電話ボックス。
なんだっけ、小さい頃に聞いた、このボックスにまつわる噂があったっけ。
――もう線は繋がっていないのに時々着信のベルが鳴る。
――撤去作業者が謎の怪我をするので放置されている。などなど。
ボックスの外から、古ぼけた電話機をじっと見つめていると、ふいにその電話のベルが鳴った。
――トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル…
わたしは好奇心からボックスに入り、受話器を取ってみた。もしもし。
電話の向こうからは「ピーーーーー」という高い音が聞こえた。もう切れてるのかな。
受話器を戻そうとした時、突然子供の声で「キエタイカ?」と訊かれた。
――そうね、答えは……
答え終わると同時にわたしの体は消え、最後にチャリンという音だけが残った。
*****
Y県にある、放置された電話ボックスの電話機の中には、なぜか時々、誰が入れたか判らないコインが入っているという。
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