ムラサキの冒険
五十嵐有琉
ムラサキの冒険
紫犬のムラサキは小さい頃に飼い主のカナちゃんと離ればなれになった。
――カナちゃんに会いたい。
*****
彼は飼い主を捜す旅に出た。テクポコテクポコ。
あの日彼女が乗せられていった車のニオイのあとを、小さい鼻でたどりながら歩いていく。テクポコテクポコ。
家を出てから三時間、アスファルト道路のニオイをたどりにたどって、たどり着いた場所は大きな駅だった。どうやらカナちゃんはここで車を降りて電車に乗りかえたらしい。
ムラサキはニオイのあとを追って改札から駅の中に入ろうとしたが、年配の駅員さんに「しっしっ」とすげなく追い出されてしまった。
それから、来る日も来る日も、ムラサキは駅の外で待ち続けた。今日は冷たい雨まで降り出してきた。体毛にしみ込んできてとても寒い。からだもガタガタ震えてきた。
そのとき彼の頭の上からぬっと傘を差し出してくれる人がいた。あの年配の駅員さんだった。
「君はもしかして、ここで誰かを待っているのかい?」
そうだ、と答えたかったが、犬の身なので「わぅ」と短くほえるかしっぽを左右に振るぐらいしか返しようがない。
「そうかそうか」
理解しているのかいないのか、うれしそうに駅員さんが続ける。
「実はな、このご時世、これからの駅は生き残りをかけて、いろんな広報活動をしていかないといかん。君のような犬は珍しいから、きっと評判になるよ」
こうしてムラサキは、この駅の「名誉駅長」として迎えられた。ムラサキをスカウトした駅員さんはモノベさんと言い、実際には駅長さんだった。
制帽をちょこんとかぶって『お座り』をしたムラサキの姿は、ネットを通じてたちまち話題になり、彼を見るために駅を訪れる乗客も増えた。
「これだけ有名になれば、君の待ち人もきっと会いに来るさ」
モノベ駅長は毎日ムラサキをなでながら、そう語りかける。ムラサキもその言葉を信じてずっと待った。待ち続けた。
気がつくともう一年が過ぎていた。カナちゃんは現れなかった。
そんなある日、駅で小競り合いが起こった。電車を撮影しに来た大人の一人が、場所取りに立てておいた三脚を倒してしまった小学生に怒って、手を上げようとしたのだ。
ムラサキは思わずその大人の手に飛びついて、がぶっとかんでしまった。
「痛い痛い痛い、イテぇよ!なにすんだよ、このクソ犬!」
ムラサキはおなかを蹴られてぶっとんだ。
――キャキャキャキャキャゥン……
騒ぎを聞きつけ、駅員さんや駅長さん、たまたま来ていたネットメディアの人たちが集まってくる。
「おぅおぅ!どういうしつけをしてるんだ!見ろよこのひっでぇかみ傷!狂犬病になったらどうしてくれんの!?」
「大変申し訳ございませんでした。すぐ治療いたしますので駅長室のほうへ。犬にはよく言って聞かせますので……」
「だいたいさあ、犬を名誉駅長とか言ってチヤホヤすんのが頭おかしぃんじゃねえの!?ああ!?さっさとやめろやこんなの!」
この出来事はネットニュースやSNSで拡散され全国に広まってしまった。ムラサキは謹慎処分となり、制帽は取り上げられ、表舞台には顔を出せなくなった。このままではカナちゃんに居場所を知らせることもできない。
――カナちゃん、僕やっぱり、カナちゃんに会いたいよ。
ムラサキは再び旅に出ることにした。せめて親切にしてくれた駅員さんたちには別れを告げてから行きたかったが、引き止められるのはわかっている。彼はひとりで三日三晩かけてロープをかみちぎり、駅を後にした。
*****
駅を離れたムラサキは、あてどもなくひたすら歩いた。テクポコテクポコ。彼のからだは泥や雨で汚れ、もうもとの色がわからないほどだった。街を歩くムラサキの隣を、人々や自転車が無関心に過ぎ去っていく。
今までと違い、みんながあまりにも自分に構わなくなってしまった。わずらわしさはなくなったが、彼は自分が本当にここに存在しているのかさえわからなくなっていた。テクポコテクポコ。
もう三日も何も食べていない。おなかがすいて今にも倒れそうだった。足取りも頼りなく、からだが右に左にふらふらとよれていく。
そんな彼の目の前に、すっと差し出された手があった。血色がよくて分厚く丸い。なんだかミルクのような甘い香りもしている。誰だろうこの人は。空腹から来る眠気で警戒心の薄れていたムラサキは、その人の腕に抱かれて眠りに落ちた。
目が覚めたとき、ムラサキは見覚えのないオフィスの部屋の一角に設けられた犬小屋にいた。敷かれたふかふかの毛布がからだに心地よくなじんだ。
「やあ、起きたかね?」
快活な声はあの手の主だった。手と同様にからだもかっぷくがよい。見上げると身長が二メートル近くある。ふくよかな顔には白いヒゲと丸メガネが乗っていた。メガネの奥で青い目が笑っている。
ミルクの入った犬用ボウルをムラサキの前に置くと、彼は話し始めた。
「私はここの社長のラリーだ。うちの会社には社員犬制度があってね。いろいろな広報活動をお願いしてるんだ。でも先月、残念なことに前の子が亡くなってしまってね。後任を捜していたんだよ。君なら申しぶんない。うちの子にならないかい?」
ムラサキはミルクをぺちゃぺちゃ飲みながら考える。どうして人間は犬にこんなふうにしゃべりかけるのだろう。
いいよ、と答えたかったが、犬の身では「くふぅ」と短く鼻を鳴らすぐらいしか、返しようがないではないか。
こうしてムラサキは、ソフトウェアメーカーの社員犬になった。仕事の内容は、時々来訪するIT系メディアのお出迎えをしたり、会社のSNSに小さい写真で登場したりといった感じだったので、駅長犬のときよりのんびりした生活だった。
しかしその平穏も長くは続かなかった。うす汚れていたムラサキのからだを広報さんが洗っているとき、取材に来たメディアの一人が「ああっ!」と大声を上げた。偶然にも彼は、あの駅でムラサキがかんでしまった大人の人だった。
ムラサキはからだをブルブルブルッと震わせて水を切ると、一目散に逃げ出した。またもお世話になった人たちに最後のあいさつができなかったのが心残りだった。
*****
テクポコ……テク……ポコ。
また冬が来ていた。ムラサキはまだ旅の途中だった。数日間何も口に入れていない。ゆうべは酔っ払ったサラリーマンの人に、何かの腹いせで蹴飛ばされ、前脚を踏まれた。おなかと脚がじんじんと痛む。
雪が降り出して道にうっすらつもり始めた。痛みと空腹と寒さがからだに重くのしかかり自慢の冬毛も役に立たない。ムラサキはついに、道にからだを横たえた。
――カナちゃん……僕はもうダメかもしれない。
倒れて目を閉じたムラサキの鼻先で、急にふわっといい匂いがした。おしょうゆと肉と竹串の焦げた匂い……これは、焼き鳥だ!
目の前で日焼けしたくしゃくしゃの顔のおばあさんが、ムラサキに焼き鳥を一本差し出して笑っていた。
おばあさんは夫婦で焼き鳥屋を営んでいた。しばらくノラ犬としておこぼれをいただく日々が続いた後、ムラサキは正式にご夫婦の焼き鳥屋『やきとり菊丸』で飼われることになった。
ひとなつっこいムラサキは、すぐにお客さんたちの間でも人気者になった。年配の人向けに老夫婦二人でほそぼそとやっているお店だったのが、だんだん若い世代や家族連れのお客さんも来るようになった。おじいさんの焼き鳥の腕も確かで、おばあさんも話し上手だったのでしっかりリピーターもついた。
ムラサキの人気はネット上にも飛び火して、ついにネットメディアが取材に来ることになった。けれどもムラサキには嫌な予感しかなかった。
――あの村崎駅からも、グレープバインソフトウェアからも、僕はただ逃げ出すしかなかった。きっと今度も……。
現れたネットメディアのインタビュアーの男性は、メディアの人らしくとても明るく、そしてとても軽薄に見えた。本番前からずっと老夫婦相手にたわいない軽口をたたいて笑わせている。
――本当にこんな人を信用しちゃっていいのかな?
ムラサキの不安はどんどん高まってきた。
本番が始まった。ムラサキがここに来た経緯、ムラサキの性格や好物、菊丸ご夫婦のなれそめからお店を開くに至るまで、などなど、インタビュアーさんはいろいろな話題を手際よく引き出していく。
インタビューが真ん中あたりまで進んだとき、インタビュアーさんの声の調子が変わった。
「さてここで、どっきりスペシャルゲストの登場です!『ムラサキくんに会いたい』と遠くから一人のお子さんが来てくれてまぁす!」
――え?もしかして、もしかすると、カナちゃん!?
ムラサキはドキドキしながら店の玄関の引き戸が開くのを待った。カラカラカラ……よく手入れされたレールの上を引き戸が滑り、光が差し込んでくる。まぶしくて人影がよく見えない。
「こんにちは、今までごめんね!ムラサキぃ……」
半泣きの顔で入ってきたのは、中学生ぐらいの男の子だった。
――あれ?僕知らないや、この人……。いや、待てよ、なんかこのニオイ、嗅ぎ覚えがある……。
インタビュアーさんが続ける。
「ムラサキくんは覚えているかな?彼は五年前に、あの村崎駅で、ムラサキくんに助けてもらった男の子でぇす!」
「今までずっと本当のこと言えなくて、ごめんね、ムラサキぃ……」
「彼は当時小学3年生でした。怖くてずっと誰にも言えなかったあの日の真実を、今ここで、勇気を出して話してくださるそうです!」
悪いのはあの大人で、ムラサキは全然悪くない。当時の事実が男の子の口から語られた後は大変だった。ムラサキの名誉回復の声がネットメディアを中心に巻き起こった。
ムラサキのもとには、モノベ駅長や村崎駅の駅員さん、グレープバインソフトウェアのラリー社長や広報さんなど、たくさんの人が会いに来てくれた。ムラサキの旅の話は、ノンフィクション小説やネットドラマにまでなった。
*****
あれからずいぶんと月日がたった。ムラサキは人間で言えばかなりのおじいちゃんになっていた。看板犬はもう引退し、世間からはすっかり忘れられ、今は老夫婦の家で留守番の毎日だ。
とうとうカナちゃんには会えなかったけれど、いろんな人に愛されもしたし、とてもいい一生だったなと、ムラサキは振り返っていた。
なんだか立っているのもしんどくなってきた。ムラサキはごろんと横になり目を閉じた。
ふいに懐かしい香りがした。
「ただいま、ムラサキ」
――え、その声は本物のカナちゃん!?
ムラサキが目やにのたまった目をじんわり開けると、そこには、懐かしいカナちゃんの顔があった。
――すっかり大人びてしまったけれど、この香りは間違いなくカナちゃんだ!僕にはいっぱい話すことがある!僕!僕ね!あのね!
ムラサキはしっぽをパタパタさせたかったが、気持ちとは裏腹にその動きはもうゆっくりになっていた。
「今までごめんねムラサキ。あたしね、小さい頃に白血病になっちゃってね、動物を飼えなくなってしまったの」
――いいんだよ。それよりね!聞いて!聞いて!僕ね!僕ね!
「いっぱい泣いていっぱい怒って抵抗したんだけど、結局お父さんが、あたしが病院に検査に行っている間に、お父さんの知り合いのところに、あなたを預けてしまったの」
――そうなんだ。でもね!僕ね!僕ね!ずっとね!がんばったんだよ!
「ずーっと見てたよ。がんばっている君が、いつもあたしの心の支えだったよ。あたしもようやく来月、退院できるんだ……」
ムラサキは、安心して、ゆっくりと目を閉じた。
ひつぎには彼の体毛に合わせて、紫色のスイートピーが入れられた。
ムラサキの冒険 五十嵐有琉 @uryu_igarashi
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